「上田の別れ」
「何ですかあの男は!」
唐沢玄播が吠えて見せるが、誰も反応しない。
これもまた定型句である事を、誰もがわかっていたからだ。
「玄播落ち着け、わしとて少しばかり業腹ではあった。だがわしは確かに腰抜けでもある」
「丸い卵も切りようで四角でございます」
「確かに、あのままで行けばわしは北信を手に入れるぐらいの事は出来た。だがな、わしにはその勇気がなかった。と言うか、変な自尊心があったのがいけなかった」
自分の物ではない力によって浮かれ上がるなど言語道断である。あくまでも自分たちの力によって、自分たちにふさわしいそれを手に入れるべきだ。そんな地に足のついた考えをしただけのはずだったのに、腰抜けの烙印を押される。それもまた現実なのだ。
「双六の上手と言いし人曰く、勝たんと打つな負けまいと打つべしと言うが…」
「そういう事でしょう」
「そんな真理だけで物事が動くならあんな霊武者は存在せん」
全ての道理を吹っ飛ばすようなあまりにもあり得ぬ存在を前にして、真田昌幸は師匠に従い、理に従った。そんな有り得ない存在を関知しておきながらだ。
不条理に理で立ち向かうなど、本来ならば馬鹿のやる事のはずだ。不条理とは理にそぐわないから不条理なのであり、道理が通ってしまっていたらそれが不条理ではない。と言うかそれもまた道理なのだから、それこそ自分自身のそれで何とかするしかないのかもしれない。その際に昌幸は武田信玄の教えに従い、決して軽挙妄動をしないように心掛けたのだ。
「父上。信繁はかなり関白殿下に好かれておるらしいです」
「信之…?」
そんな慎重居士の昌幸に対し、次席に座っていた長男の信之が挙手しながら口を開いた。
次男の信繁と比べ真面目で父にも武士道にも忠実な男であったが、その時の顔と声はいつもの信之と少し違っていた。
「北条はもはや奥州統一連合と相容れること難しき立場。そして豊臣家の次なる敵は北条。要するに北条はもはや孤立無援であると考えられます」
「甘いな。北条が窮鼠と化して奥州統一連合と手を組まぬと思うのか」
「思いません。北条は下総に続き下野まで失いそうな情勢でありそうなれば豊臣家以前に奥州統一連合によって滅ぼされる可能性があります。そんな状況で奥州統一連合と手を組むとか言い出せばそれは服属と言う形になります、と言うか矢面に立たされる事になります。越後など上杉に任せればそれで良しなのです」
いつも通り甘いと言うつもりだったが、信之は冷静だった。
確かに奥州統一連合と手を組めば豊臣家とて北条を攻める事は難しくなろうが、本腰で来られた際に真っ先に盾となるのは小田原であって武蔵や上野である。無論越後から羽州奥州へと言うのもあるが、東海道と信濃越後では移動の手間が違う。ましてや日本海側は水軍も非常に使いにくく、どうしても戦術の幅は縮まってしまう。もちろんそちら側にも兵を割かない訳でもないだろうが、それこそ動かなければ良し程度の数合わせぐらいしか回って来ない公算が高いと言うのだ。
「なるほど。しかし逆に北条が豊臣に服属せぬとは思わぬのか」
「北条は豊臣の家臣である佐竹に喧嘩を売ったのです。許しを得るためにそれこそ主君自ら救援を願うとかでないと首を縦に振ってくれますまい。関白殿下が寛容であっても世がそれを許すかは別の話です」
「わしが北条の当主なら身一つで徳川、いや松平殿に会いに行くがな。あ、蘆名殿か?」
「行ったとして助かると思うのですか」
「思うが」
「私なら助けません」
昌幸も半ば意地になって揚げ足を取りにかかる。自分と氏政の立場の違いを理解しながらもなお必死に息子に向かって食ってかかり、手綱を強引に引き締めようとする。
松平家康は厳格ではあるが救いを求めて来た存在を無下に扱えば北条が最後の一兵まで向かって来る事がわかっているから丁重に扱うだろうし、蘆名政道も話を聞く限りでは温厚篤実だと言う印象しかない。無論伊達政宗たちが何を言い聞かせているかわからないと言う不安はあるが、政宗がそれを理解しないほどの痴れ者であればここまでうまく行っているはずもない。
それなら生き残るためにいくらでも靴をなめてやると言わんばかりに昌幸は突っ込むが、信之の言葉は実に冷静だった。
「お前…」
「蘆名殿と言うか奥州統一連合の狙いはおそらく下野。越後に手を出せばそれこそ奥州統一連合は泥沼に落ちますが一度喧嘩を売った北条がいる以上下野ならばさほど問題は大きくありません。佐竹や里見を取り込んだとなると両者への領国などの報酬を割かねばならず下野を奪わねばならないとも言えます。
で、松平殿とてそこまで人が良くありますまい。先に述べたように佐竹に手を出した時点で北条は豊臣と敵対する理由が出来ております。そして松平殿とて戦の終わりが近き事をわかっております」
「すると松平家は伊豆や相模を狙っておると」
「ええ。この信州にはもう多くは望めませぬ、北条との戦が最後になるかもしれぬのです。少しでも戦果を挙げれば関白殿下が領国を割くかもしれぬと考えても無理はございません。と言うか、降伏させた場合北条は伊豆相模二か国ぐらいは安堵されると思います。武蔵や下野はその場合誰が入るのでしょうか」
松平家康と言う男に弱点があるとすれば、領土欲の多さだった。貧乏と言う訳でもないが大名の子として生まれたにもかかわらず十四年間も人質と言う名の部屋住み暮らしをやっていた家康からしてみれば領土を大きくする事が生き甲斐と言うか生きる糧であり、信濃へ伸ばせない以上もう狙いは伊豆相模方面しかなかった。そして蘆名政道がどんなに人がいいとしても佐竹や里見のためにも下総だけでなく下野にも手を出さねばならない。
「じゃが…」
「父上は何がしたいのです。これを逃せば真田を膨らませる機会はもうなくなりますぞ」
「だからそれが若いと」
「臆病者と後ろ指をさされる事がお望みなのですか」
「わしの下には民がおる。戦、いや博打に勝って真田が膨れても民の腹が膨れるのか」
「真田は豊臣の間者にも伊達の間者にもなれますぞ!」
それでもなお渋る昌幸であったが、信之に吠えられて背筋を伸ばす。
これ以上どっちつかずを続けるなら、奥州統一連合はおろか豊臣からも見放されてしまいかねないと言うのだ。確かにもし奥州統一連合が豊臣とやる気ならば真田は利用しがいがある絶好の立ち位置だし、豊臣とて奥州統一連合が誘いをかけて来そうな位置にいる真田を利用しようとも限らない。そうなれば最悪、北条がどっちかの側について真田を本気で殴りに来る可能性もある。
「わしに博打打ちになれと申すのか」
「賤ヶ岳にて日和見に過ぎなかった前田様が活躍しておられるのは関白殿下がそういう人間だと言う事でございます。元からの友好もさる事ながら万一の場合でも元手がある以上」
「わかったわかった、ちょっと待ってくれ」
昌幸が少しばかり座を外して持って来たのは、一枚の紙と筆と、一つの賽だった。
「この賽に運命をかける」
「賽……」
「もしこの賽が博打を打てと言うのならば打ってやる。打つまいと言うのならばおとなしくする」
妥協の調子はない。
全てを見極めた上で理とは違う存在をもって立ち向かおうとしていた。
その事を示すように賽子を床に置くと紙に筆を押し付け、筆を刀のように振り回して字を記す。
—————曰く、一・三・五であれば割り切れぬ定めとして豊臣家に忠を尽くし、二・四・六であれば運命と割り切るより他なしと奥州統一連合に付く。
「殿…」
「信之、玄播、何度振って試してもよいぞ」
「何をいまさら」
「そうか…」
これほどまで用意しながら未練がましく賽子に仕込んでいると思われるほどにみっともなく思われていたのも仕方がないと思いながら、昌幸は誓紙とでも言うべき紙を床に置き、賽を握って投げ付ける。
賽が、宙を舞った。
—————そして賽子は、人間と同じ数の目を、天井に向けて止まった。
「玄播。信繫に伝えておけ、関白殿下をもう一人の父と思えと。
信之。そなたは兵を備え攻撃に備えよ」
運命が決まった事を理解した昌幸の指示は早かった。息子と重臣に次々と命を出し、自分なりに賭けに臨む事にした。
「父上…」
「ああ。どうもそなたが正しいらしい。ならばわしはせいぜいその正しい流れに乗っからせてもらうとするまでよ。
いや、実はまだ引き返せるんだがな」
「ちょっと!」
「冗談よ、冗談。だがそう思われている事もまた都合が良いのだ。わかるであろう?」
「あの…」
「何、わしのやる事は実際、まだ引き返そうと思えば引き返せる事だ。と言うか他に思い付かなかったとも言うがな」
「って言うか最初から!」
「信之、わしは何だ?お前の父親だぞ?そなたか信繫、少なくとも片方、いや両方とも生き残らせるためならば何でもする。何ならわしだけ北条に走ってもいいと思っているぐらいだ、まあ冗談だけどな」
それでもまだ、日和見と言う可能性に未練がなかった訳でもない。
感情だけで突っ走らず、全ての可能性を考えねばならない。
その全ての先にいるであろう彼に負けないためにも、自分自身目一杯の事をするしかない。
自分の弱さに呆れ笑いしながらも、昌幸は策を繰り出していた。