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戦国霊武者伝  作者: 宇井崎定一
第六章 小田原に迫る両刃
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天正十六年

 天正十六(1588)年、大坂。




 その正月は昨年と同じほどに、平和だった。




 上は秀吉から下は商家の小僧まで、誰もが浮かれ上がってごくつぶしをやっていた。

 正月とはそれが本来許される時期であり、そうでない百幾年が問題だったと言うのも事実だった。


 もっとも、それでも動かねばならない人間はいたし、むしろ動きたがる人間もいた。







「新年あけましておめでとうございます」 

「さほどめでたくもありませぬが」

「そのような」

「皆まで言わせないで下さい。また一歩、媼に近づいたと言うだけの事です」


 石田三成は、元旦もまた仕事をしていた。

 と言っても秀吉やおねに挨拶をしその後の宴に加わるだけと言うどこまでも簡単なそれでしかなかったが、三成にとってはそれもまた大事な仕事だった。

 だからいきなり不吉そうな事を言われて背筋を伸ばしてしまい、続く言葉の中に込められた哀しみを感じて視線を落としてしまう。


「ああっとこれはいけませんね、あなたにする物言いではありませんでした。夫のようにはうまく人を和ませられぬものですね」

「いえいえ!」

「市松や虎之介とあなたは違います。その事を忘れてしまうとは…アハハハハ…」

「奥方様…」

「あなたならできます。今年はこれを目標にするのはどうでしょうか」

「はい…」


 おねは口元を抑えもせずに笑ってごまかそうとする。

 元々ただの足軽の娘に過ぎない彼女には貴族階級のにわか作りのたしなみなどある訳もなく、秀吉の妻になってからも織田家と言う良くも悪くも独特の空間にいたせいで数百年続くそれが染み込むわけもない。

 一方で三成は寺の小僧上りとは言えその分だけ教育もきっちり受けており、それこそ秀吉を含む上層部のお偉いさんにきっちりと触れまくって来た。御年四十一になりすっかり染みついたおねとまだ二十九歳の石田三成では元々の下地も違えば伸びしろも違う。


「と言うかあなた、たまには笑顔にでもなったらどうですか。楽しい時はいつなのですか」

「自分でも完璧な仕事が出来た時、そして家臣や友人たちと政談を交わしたり茶会をしたりする時です」

「茶会以外の楽しみは私にはわかりませぬ、と言うか茶会さえもあまりわかりませぬ。と言うか正月だと言うのに浮かれる事も出来ぬのですか」

「未だ北条や奥州統一連合とか言う存在は服しておりませぬ。と言うよりあの霊武者が大坂や京を跋扈しているのかと思うと心休まる時はございませぬ」

「霊武者が、ですか。この大坂の何人に迷惑をかけたのです」

 そのはずなのに三成は一人だけ正月とか関係なく真冬のような顔をして笑顔を作っており、堂に入った深刻ぶりを見せ付けている。まるで少しでも笑顔を見せたら死ぬのかと言わんばかりに振る舞うその姿は、空間の温度を下げるそれだった。


 確かに、おねとて霊武者とか言う存在が恐ろしくない訳ではない。黒田勢に対して補償をすべきだと秀吉に物申したし実際秀吉はかなりの金穀を九州に領国をやった黒田家に与えているが、それはあくまでも九州の話でしかない。


 少なくとも、現状その霊武者が大坂に害をもたらした話は一つもない。


「天下統一の障害となる物は一つたりとも逃すわけには行かない、その道を整地するのがそれがしの責務です」

「花散りし こいの大地を さまよえば 青き空をば ただ見過ごして」

「えっと…」

「私だってわかりませんけどね、わからぬなりにやってみたまでです」


 おねには歌道の経験などないが、それでも半ば強引に学習もさせられた。秀吉と言う全くその方向の才覚のない存在に変わってその手の行事にも出ており、こんな貴族様の趣味にも付き合えるようになっていた。


「花と恋をかけているのですか」

「即断するでない!」


 花が散るように恋も散ったが、その悲しみを引きずりさまよっていてはきれいな青空をも見過ごしてしまう—————。


 と言う文字通りの歌意をあっさりと口にすると、おねは扇子を突き付け声を荒げる。


「そなたは目の前の事象を素直に受け止めすぎる、その上で自分で勝手に決めつけ勝手に動いてしまう。その挙句、その決め付けた答えを振りかざして勝手に進む。正直危険です。

 その奥にある物を読み取れねば我が夫とていつまでもそなたを大事にせぬ。世の中は一を聞いて十を知るような我が夫のような才人ばかりではないのです」


 同時に、花を散らすような雨が染み込んだ色の「濃い」大地をさまよいしがみついていてはその内に雲は無くなり雨の根源である雲の存在を見つけられないような青空しか残らなくなる、と言う意味も込めていた。


「よろしいですか、正月早々こんな事を二度も言うの何ですがあなたはもう少し楽に生きるべきです。さもなくばあなた自身を滅ぼします。我が夫とまでは参りませんが少しは柔らかくなるべきです」

「柔らかくなるために何をすべきでしょうか」

「字ばかり追うのをやめるべきです。書を読む事は大事ですが書に読まれてはなりません。我が夫の事を忘れているのですか?」


 秀吉は、漢字が書けない。まともな教育など受けて来なかったからしょうがないが、信長が生きていた頃から秀吉の文章を口述筆記していた三成からしてみれば既知の話であり、それほど物珍しくもない。だがその上でおねがその話をして来た事の意味を、三成はすぐわかってしまった。


 





「おいこら、落ち着いて吞めぬのか」

「いえ、皆様の膳が切れているかもしれぬと思うと」

「それはお主のする所ではないわ!」

「わかった、落ち着くとしよう」


 やがて始まった秀吉による正月の宴席にて誰よりも忙しく動こうとする三成を叱責する福島正則に対し、三成は極力落ち着かねばとばかりに仏頂面を作り上げじっと酒を口に運ぶ。

 もちろん宴席において浮いてしまうそれであり、場が温まる事はない。酒を飲みながらも目線を必死に動かすまいとするその姿はかなり痛々しく、正直見るに堪えなかった。

「これこれ市松、佐吉はそなたらがきちんと楽しく宴席を過ごせるように配慮しておるのじゃ」

「ですか殿下、事ここに至った以上それは今更佐吉がする事ではないと思いますが」

「そうじゃ佐吉、今日ぐらいは肩の力を抜け。その調子ではわしより先にと言う事になるぞ」

「はっ……えっと、応ぜぬは、二人の心…君がため…………」

「共に歩みてきょうは過去へと」

 

 秀吉に言われて必死に場を明るくしようと正月の歌を詠もうとするが、詰まった挙句大谷吉継に支えられてしまう。


 普段よりあまり折り合いの良くない三成と正則もどちらも主君のために動いており、その上で共に歩んで行けば「今日」のもめ事も「凶」運も過去になるのだと言うきれいな歌であり、実にこの場にふさわしいそれだった。

 さすがだと言わんばかりの拍手が起こり、場も明るくなる。同じ知性派でも三成に出来ず、吉継には出来ていた。

 三成の顔が赤くなり、酒量を増やさせる。



 この時、三成の頭の中にあった下の句は「細き山より 吹く風も止む」であった。


 その前の「応ぜぬは二人の心」と言うのは「応じる」に「二人」、つまり「仁」で「応仁の乱」であり、さらに「細き山」とは「細川勝元」と「山名宗全」と言う応仁の乱の首謀者である。その後に「吹く風も止む」と言うから一応は秀吉へのよいしょではあったつもりだったが、どうにも血生臭く真面目臭く、それ以上に古臭い。

 同じよいしょでも吉継のそれはかなり明るく、現在進行形のそれでじめじめしていない。


 そんな事が出来てしまう吉継を称賛したくなった以上に、それが出来ない自分が正月早々情けなくなってしまったのだ。



「済まなかったな佐吉、お前の悦楽を見誤っておったわ」

「いや済まぬ、私は、関白殿下より先に、死にたくは…」

「馬鹿野郎!俺より酒が弱いのかお前は!」

 

 ザルと評判のくせに酒が弱いとか言い出す正則に秀吉は笑っていたが、三成はそれから一週間一滴の水も口にしなかったかのように酒を口に注ぎ、そのまま高いびきを搔いてしまった。


「大変申し訳ございませんでした!佐吉の本分を奪ってしまうとは!」

「佐吉には後で伝えておくわ、その方にもそんな愛嬌があったとな!」


 秀吉が大笑した事もあり場は温まり、三成は自分の家臣に抱えられて宴席を去った。いつもすまし顔の男があんなに酒を呑んで酔い潰れた姿は見た事もなく、大谷吉継でさえも笑っていた。





 だがその宴席の隅で秀吉を猶子としていた近衛前久はいったん小用を訴え席を外すと、秘かに短冊に歌を書いていた。



「よき人の よしとよく見て あしと言い 門松さえも かると欲する」



 最初の十二文字は天武天皇の歌の本歌取りであり、そこから離る(かる)と枯れるの掛詞を混ぜている。

 

 曰く、昔の良き人こと君子、いやこの場合は秀吉がよく見た上で浮かれ上がるのが良いと判断しているのにそれを素直に受け止めきれず酒に逃げると言うなど、門松さえも枯れ果てて去って行くかもしれない悪行ではないか—————と。


(石田三成…確かに能吏ではある。されど、頼りすぎるには危険な男じゃのう……)


 関白ではあったが自分なりに乱世を泳いで来た前久からしても危険に見えてしまうほどには、石田三成は危うかった。

 その危うい存在が霊武者とか言う存在を抱え込んでしまっているのは気の毒ではあったが、前久にはこれ以上どうにもできなかったのもまた事実だった。


 前久は短冊を持たせると宴席に戻り、酔い潰れた三成の席に目を向けぬようにして正月の宴席を楽しむ事としたのである。

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