鈍い刃
「……!」
何も口から言葉は出ないが、それでも本気だけは伝わってくる。
それこそ地を滑るような速さで、部隊を組んでいた直政の下へと突っ込んで来る。
「来たか!」
直政は自慢の得物を振り、敵の刃に立ち向かう。
凄まじいまでの速さであったが、正確に攻撃を受け止める。
直政も負けじと振り上げ、相手の得物を弾き上げようとする。
「井伊殿に味方せよ!」
彦左衛門も当然の如く戦いに加わろうとする。自らの得物を振るい、敵へと立ち向かう。
だが、その彦左衛門の前にまた別の刃が襲い掛かる。
しかも——————————。
「何だ!人がいない!?」
なんと彦左衛門の攻撃を受け止めたのは、一本の刀。
しかも、宙に浮いている。
まるで誰かが操っているかのように刀が浮き、彦左衛門の攻撃を阻んでいる。
「そうか!どうしても一騎打ちがしたいのか!彦左衛門殿、皆!控えていてくれ!」
「ですが!」
「ならその刃がせめてそれがしに向かわぬように守って下され!」
「はっ………………!」
それでも直政はすぐにその意をくみ取り、動揺を最小限に抑えようとするぐらいには頭の回る存在だった。
「ウ……」
初めて、直政が聞いた一文字。
不意を突かれたのかどうかはわからないが明らかに不本意な時の声。
それでも刃は振られる。直政は一騎討ち上等とばかりに振り返す。
何とも古式ゆかしい一騎討ちと言う行事を前にして、大久保彦左衛門以下徳川軍の将兵も見とれてしまう。
霊武者らしき存在も、直政も持てる力をぶつけあっている。そこに余人の干渉する余地はない。
いや、ない訳ではなかった。
「今の内……」
敵前逃亡と言う訳ではなく、荒らされた穴山の墓を戻そうとする兵士たち。その際に副葬品を奪った賊を討伐する。
それもまたきちんとした出兵の目的であり、臆病とか卑怯とかではなく単純に役目を果たそうとしただけである。
————しかし。
「ああ!」
「まったく!そなたらの気持ちはわかるが!」
彼らの下にも、彦左衛門と同じように刃が飛ぶ。
しかも、一本ではなく三本、四本、いや、何十本単位で。
「おのれぇ!死者を冒とくするかぁ!」
「…!」
主催者が吠え掛かると、直政への刃はそのままに霊武者は刃を振るう。
何が何でもとばかり切り返すと、刃は宙へと舞い空から兵たちの頭を目指して降り注ごうとする。
「くっ…!」
歯噛みをし、涙を流しながらよろけて避けた兵たちに対し、刃の追撃はない。
「ウアアア…!」
「答えてくれとは言わぬが、なぜだ。なぜそこまで武田を恨む」
「アアアアアアアア……!」
恨みなのか、悲しみなのか、憤りなのか、何が何なのかわからない声。
武田に恨みを抱いているのは間違いないが、一体その始まりは何か。その答えを聞き出す事ははなはだ困難かもしれないが、それでもやらねばならない。
せっかくこうして刃を交えているのだから。
「かつて、戦で敗れたのか」
「…!」
直政は戦での無念を問うてみたが、無言のまま刃を押し込まれただけ。それで否と見なした直政はすぐさま刃を叩きつけ、じっと相手の刃をにらみ付け、必死に弾き返す。決して気合で負けたりせず、しかしそれでいて騒ぐ事もしない。ただひたすらに、次の答えを待つ。
「では問う。武田の同盟者であったのか、その武田の背信があったのか」
「………………」
少しだけ、刃が鈍った。
もっともそれを感じられたのは直政一人だったが、それでも自分の二撃目が命中したと言う感触だけは得られた。その勢いに乗り次々と攻めかかるが、敵の刃も鈍らない。
「井伊殿…」
「彦左衛門殿!」
「落ち着け。今井伊殿は戦っておられる。必死に話そうとしていらっしゃる」
救援にも出向けず、他の事も出来ずにいる兵士たち。
許されている事と言えば黙って見ている事か、あるいは逃げる事だけ。もっとも逃げる兵など一人もおらず、じっと目の前の一騎討ちを見ている。と言うか見させられている。
「ああもう!」
少しでもその決まりを破ろうものなら、すぐさま刀剣が飛んで来る。逃げるのはともかく、誰かを救おうとする事は許さないと言う武士にとって最も残酷なそれ。
「拙者はあの時まで、我先にと刃を振りかざして出て行く事が男の甲斐性だと、侍の為すべき事だと思っておった。だがあまりにも大きな存在を前にして、初めてくじけた気分になった。思えば三方ヶ原の時まだ十三だった小僧にはわからなかった事だったな」
三方ヶ原からは信康の死や伊賀越えこそあったものの、基本的に徳川の命運は右肩上がりである。そんな中で育った彦左衛門は基本的に楽観的であり、忠世や酒井忠次ほど悲観的ではなかった。また秀吉との戦いとなった小牧長久手の戦でも勝利した事もあり、徳川の発展は停滞する事はあっても加工する事はないと思っていた。
そんな中でぶつかった、上田城での敗戦以上の衝撃。その衝撃は、頑固さと真面目さだけが取り柄である事を自負していた男を確かに変えた。
「我々にできる事は祈る事のみである。井伊殿の勝利を、心をつかむ事を!
されど、これだけは言わせてもらう!もし井伊殿敗れし時は、この大久保彦左衛門が次の相手をすると!」
その上で言う。決して戦いを投げた訳ではない事を。井伊直政が一人ではない事を。
直政も霊武者も反応しないが、構わず舌を震わせる。
「初めて主家に仕えてより七代目、我が祖父大久保忠俊が大久保となり、ずっと戦って来た。その間に幾たびも血を浴びて来た。いや、元々の大元たる宇都宮の時からずっと!」
「ウツノミ…ヤ…?」
益体もない口上のはずだったが、そこで一気に空気が変わった。
急に霊武者の刃が鈍り、直政の一撃が霊武者の刃を大きく下へと叩き落したのだ。
「ここだ!」
直政も好機とばかりにさらに下に叩き付けるが、それでも刃を必死に動かして迫って来る。
まるで手足など関係なくあり得ない角度から刃を振り上げて来るが、直政は一向に気にする事はない。むしろ得たりとばかりに刃を叩きつけ、徹底的に相手の得物の無効化を図る。
「どうした!宇都宮に何かあるのか!」
「ム……」
直政は大久保の祖先が宇都宮氏の末裔である事、彦左衛門及び忠世の祖父の代から「大久保」を名乗った事も家康から寝所で聞いていた。それはもともと小姓であった直政の特権であったが、それでも血筋が通っている事の優位性は直政自身幼少期その血筋だけで生き長らえて来た以上納得も出来た。
家康だって新田源氏の末裔だし、酒井忠次もその徳川の分家。榊原康政も、足利一族の仁木氏の末裔である。本多氏も藤原顕光の末裔だ。
そして井伊は
「この井伊万千代、藤原利世以来の武名を持ってお前を負かす!」
藤原利世とは人民として初めて摂政になった藤原良房の甥であり兄の高藤は太政大臣を贈された事もあると言う名家である。
その後裔こそ井伊氏初代の井伊共保であり、南北朝時代に活躍した井伊行直であり、自分だ。
秀吉が君臨する今では虚名かもしれないが、それでもこの状況ならばこの刃にも意味があるかもしれない。役目が終わっていたかもしれない弓矢を蔵から取り出し、空高く舞う鳥に向かって放った。
「ヌ…!」
無茶な角度から振り下ろした刃が、宙を高く舞った。
だがこれまでのように、自由に操っている訳ではない。
明らかに、叩き上げられて力に負けてつかめなくなってしまったと言うのが正解だった。
「勝負は付いたであろう」
「ムウ…」
「教えてもらいたい。なぜ、なぜ武田を憎む」
「グ…」
「どうか、頼む。頼む…!」
馬上から頭を下げんばかりに低姿勢になった直政を前に、霊武者は怯む。まるで後ずさりをするかのようにゆっくりと小さくなって行く。
「ウラギル、ナッ……!」
裏切るな、と言う言葉と共に、霊武者は去って行った。
速さこそこれまで通りであるが、これまでのような無遠慮ぶりはない。
どちらかというと、敗北者のそれだった。
「…井伊殿は勝ったのだ!」
「そうだ、霊武者に勝ったのだ!」
紛れもない決着と直政の勝利を確信した彦左衛門たちは、歓声を上げる。
万歳三唱が始まり、抱き合う兵たちも出る。
直政の武名を称える声も鳴り響き、その場だけ盆と正月がいっぺんに来たようになった。
「みな、よく言い付けを守ってくれた。
この館に入るも、直すも、その他も全て明日にしよう。
これから食事を摂り、今日はもう休みとする」
直政はそれだけ言って馬から降り、そのまま野営の準備を始めようとした。
あれほどの一騎討ちをしていたのに、自らやろうとし始めた。
「そんな!」
「お前たち…いやこっちだって館に入れるはずなのを邪魔しているんだぞ」
「そのような!井伊様はお休みください!」
その主の厚情に部下は黙ってなどおれず、次々と動き出した。
で、結局躑躅ヶ崎館からはやや離れた地に天幕を張り、次々と兵たちの寝所を整えて行く。直政がわしがやるからと言えば
「疲れているのは井伊殿でしょう」
と彦左衛門までもが言い出し、次々と陣を完成させて行く。
「彦左衛門殿…」
「何、あれほどの戦果を挙げられたのです。本日は疾くお休みくださいませ。我々は見ていただけですから」
直政は申し訳なく思いながらも、先ほど共に戦ってくれた愛馬に草を与えた。
——————————裏切るな。
その言葉は額面通りに受け取って構わないのだろうが、一体誰から裏切られたのか。
武田か。
いやそれならあの刃の鈍り方は何だ。図星だと言うなら、むしろああそうだと乗っかって憤懣をぶちまけてしかるべきはずなのにだ。同盟者だったとしても、またしかるべきはずだ。
では、背信があったのか。
背信とは、何か。
成果に対して報酬が少なすぎると、誰もが思わざるを得ないような事態になってしまったのか。いや、恩を仇で返されたと言うのか。
(……いったい何者が彼を裏切ったのか……その答えを聞くのは、まだもう少し後かもな……)
勝利に沸き立つ中、主役だけが冷静であった。
北を向きながら甲州の風を感じ、ただ過ぎ去った存在の言葉を反芻していた。