九州征伐の完了
あけましておめでとうございます(もう四日だろ!)。
本年もよろしくお願いいたします。
天正十五(1587)年七月。
豊臣秀吉は、一年近い戦いを終えてようやく大坂城に戻っていた。
「もう一歩…と呼ぶにはのう…」
「島津もこれで何とかなりましたか…」
「そうじゃな。されどまだ決まった訳ではない、百里を行く者は九十里を半ばとすと言うからのう」
既に五十一となっていた秀吉は肩を回し、文字通り疲労困憊と言う風情であった。
側にいた石田三成もまた秀吉に同調するかのように深くため息を吐き、じっと畳を眺めている。
昨年九月に始まった九州征伐、と言うか対島津遠征は島津軍の強さもあって長引きに長引き、長宗我部の長男の信親を失うなど戦としては敗戦であった。結局圧倒的な国力の差を持って押し潰しただけと言うに過ぎず、天下人の威を保てたとは言えない。元よりその気もなかったとは言え島津を潰しきれず、はっきり言って服従させたと言うより和睦しただけとも言える。
「それと、大友も龍造寺も正直…」
「島津の方がよしと考える領民を増やさぬようにとは思いますが正直苦しいと」
「じゃな。龍造寺には良き男がいるから良いとしても、大友は…」
「だったらなぜあのような」
「残念ながら大友は先代から既に怪しかったらしいからのう、それに龍造寺の当主と違って大友の当主は元気いっぱいじゃ、残念ながら……」
それに九州三国時代とも言うべき勢力を持っていた龍造寺氏と大友氏にも問題がある。
龍造寺は彼一人で三国時代を築いた隆信が沖田畷で亡くなって急速に勢いが落ちており、その子の政家は病弱で戦には堪えない。その結果隆信の従兄弟である鍋島直茂が事実上政権を執っており、彼の統治を信頼に値すると見た秀吉は龍造寺については安心していた。
問題は大友だ。大友は先代の宗麟こと義鎮は偉大ではあったが傲慢な所もあり、しかも晩年は耶蘇教信仰に傾倒し内政を蔑ろにしていたとも言う。宗麟とか言う僧名を名乗っておきながらずいぶんな話だが、その子の義統がさらに問題だった。
自分の家臣団が島津との戦いで奮闘しているのに自分は尻尾を巻いて逃げ出してしまうような将として失格と言わざるを得ない存在であり、しかも戻ったら戻ったでそんな主君を仕方なく見捨てた家臣たちを次々と粛清するような真似をしている。どう見ても一国の当主の器ではない。立花統虎と言う傑物はいたが龍造寺政家と違い義統は健康であり、ましてや統虎は大友の一族でも何でもない。
「だからわしは大友と立花を切り離したのじゃ…」
「それに対し大友殿は何もおっしゃらなかったのですか」
「言わなかった。わしの機嫌取りかもしれぬが、わざわざ重臣を一人奪い取ったようなものなのにのう…立花家の功績を何だと思っているのかっちゅう話じゃ…」
あるいは今もなお立花は大友の配下と思っているかもしれないが、対外的にはそうは思われない。鍋島直茂も島津義弘も新たに九州に送り込んだ秀吉の家臣たちも、もはや大友家と立花家は別個の家として扱っているだろう。
晩年の龍造寺隆信と鍋島直茂がそうだったように義統も立花の事をうざったく思っていたとか言う噂があり、しかも隆信が沖田畷で討ち死にしてある意味それ見た事かとなったのに対し義統は健在の上まだ今年三十である。本来ならば全力ですがり付くべきだった存在を切り捨てたような人間に、一体誰が付いて行くのか。今はまだそれ以上の失政がないから留めておいているが、場合に因っては領国を召し上げる事も考えておかねばならぬと釘を刺すべきかもしれない。
「でしたら黒田様を」
「あのな三成、わしはそれほどまでに偉い訳でもない。わしや前田殿の事を昔から知っておる奴から見ればわしはまだ前田殿と同じ織田の同僚でしかない。わしの家臣をあまり盛り立てればそれこそ身びいきと言われる。前田殿を引き立てるのさえ苦労しているのじゃぞ」
その大友が治めている豊後を引き継ぐのに、黒田官兵衛と言う人選は悪くない。自身も耶蘇教徒である官兵衛は宗麟が興した耶蘇教の国を引き継ぐには絶好であり、官兵衛の功績を考えれば豊後一国、いや肥後一国を与えても安くはない。しかし実際に官兵衛に与えたのは十二万石に過ぎず、大友の三分の一だ。そして今肥後に入っているのは佐々成政である。表向きにはただの転封だが、その本来の意が左遷であり、それ以上に能登の前田利家の強化である事は誰の目にも明らかだった。
三成の前だから前田殿とか言う他人行儀極まる言い方をしているが秀吉と利家は親友であり、政治的にもどうしても引き立てたい家だった。しかし元々能登一国二十万石前後に過ぎない利家をいきなり何百万石にする事なんぞ出来ず、能登の隣国である越中を利家に与えるために佐々を動かすしかなかったとも言える。
現状豊臣家に次ぐ有力な御家は毛利と家康だが、元から六分の一衆とも言えなくはないほどに領土の広大だった毛利と三河・遠江・駿河に加え甲斐・信濃まで抑えていた家康と言う独立勢力と、身内同然の前田や当主が秀吉の猶子であったためやはり身内である宇喜多家をそれらと同じ以上の扱いにする事などできない。ましてや秀吉直属の家臣などに力を与えれば、それこそ諸勢力の不満を招く。
島津だって力を削りはしたがまだ六十万石はあり、これは加賀に加え越中まで与えた前田家とそんなに変わらない。秀吉が天下統一うんぬんを唱えた所で、まだまだ圧倒的と言う訳でもないのだ。
「しかし東国はかなり荒れておるとの事。いや、まとまっていると言うべきか…」
「これ三成、私見を入れるでない。お主は実に良い男であるが、物事を平たんに判断せねばならぬ。お主はその上で自分ならどうするかの結論を勝手に組み立ててしまう悪癖がある。それを直さねば命取りとなるぞ」
「はあ…それで…東国は…」
「構わぬ、ありのままを申せ」
「はい…」
一年近く九州にてこずっていた秀吉が断片的にしか聞いていなかった東国の情勢が、どの程度秀吉の予測を上回る物だったかは本人以外分からない。
だが少なくとも、三成の説明を聞く秀吉がずっと真顔だった事は間違いなかった。
「うむ…わしもにわかには信じがたいが……」
「徳川様からも似たような話が上がっております。無論正式にではないですか」
「その童子が何をしたいのか、伊達の味方ではなければいったい何なのか……。とにかく、東北はほぼ統一状態であると」
「伊達が中核となり旧南部領の大半を取り込み、南部の一族であった大浦が残る旧南部領を得てさらに蘆名は当主であった亀王丸を追い出し伊達の次男を当主とし、さらに伊達の当主の母の実家である最上も北出羽に兵を伸ばしておりほぼ統一間近との事です。
ああそれと、蘆名の当主であった亀王丸は既に鬼籍であり、蘆名の家臣団もほぼ討たれているか降っているか北条に亡命しているかとの事です」
「四つの家は一体となっておると言う訳か」
「まだそこまではわかりませんが……」
「証文の出し惜しみか…まったく、わしとした事が少し老いたかもしれんな……」
秀吉はようやく笑顔を浮かべたが、明らかに自嘲の笑みだった。
一昨年九州に向けて出した惣無事令を全国一斉に出せば伊達は動けなかったかもしれないし、動いたとしてもそれを盾に干渉する事は出来た。ただもし仮に出していたとしても干渉しようがない状況で出した所で意味はなかった以上、今まで伸ばし伸ばしになってしまったのは仕方がなかった。
それもこれも、伊達を含む東北の急激な戦況の変化を読み切れなかったからだ。
そして、その最大の要因を。
「それにしても、亡霊武者、か……」
「東北の地に現れた幼子の武者、佐竹殿から奪いし愛馬と一組の母子を従え戦場を駆け回りしかの者には、矢玉が全く利かぬとも言われております」
「どうやって与せよと言うのか……それにもう一人」
「ええ。上田城に出たと言う男です。そちらは三十路ぐらいだとか言う評判ですが……」
「それが第二の存在であって、第三の存在はないと思うか」
「ええ。鍋島殿や立花殿も見ておりましたようですが…………しかし…………」
「ああ。黒田勢があそこまで本領を発揮できなかったのは仕方がないと言わざるを得んかもしれんな……全く、官兵衛もなぜ恨みを買ったのか……そして、わしはあくまでも出て行けと言っただけのつもりじゃったが……」
亡霊武者。
東北に現れた幼子のそれは佐竹義重以下伊達に仇なす存在を次々と斬り、さらに東北の伝統ある南部家をも伊達と戦っていないのにほぼ一人で滅ぼした。その混乱を納めるためと言う名目で南部の一族であった大浦為信が伊達と手を組み、さらに最上や蘆名をも取り込んで東北をほぼ統一したと言う。
さらに、もう一人。
上田城に現れ、徳川軍の榊原康政を斬った三十路ぐらいの男。
それが九州にも表れ、今度は黒田官兵衛の陣を激しく攻撃した。
幸い官兵衛が必死に防衛していたので犠牲者はいなかったが、その亡霊武者の対応で疲弊してしまった官兵衛は本領を発揮しきれず、その事もあり九州征伐は長引いたのだ。
秀吉の敵なのか。
いや、それなら、彼は—————まだ確認は取れていないししようもないが彼が—————なぜそれをやったのか。