謎の男、豊臣軍を襲わず
大坂城の城下町・大坂。
位人臣を極めんとしている主人のそれに釣られるかのように、町全体が輝いている。
京の都とはまた違う魅力を放つ、この国で一番先を行く町。
「今年もあとわずかでんなー」
「せやな、来年もまたよろしゅう頼んますわ!」
それでも今はもうそろそろ年替わり間近でと言う事でか商売納めになる所も多く、普段から比べればまだ静かだった。
今町を歩いているのは年始に向けて最後の買い物をしているような女房たちや住み込みの使用人、それから警護の役目を担う武士たちだった。
信長の跡目である秀吉の指導を受けた彼らは実に礼儀正しく、その上に秀吉の薫陶を受けたか堅苦しさが少ない。もちろん乱暴狼藉などせず、たまに通りがかった所で和やかに声をかけるだけ。
「しかしなあ、切支丹でしたっけか。新年の祝いの前に随分とかしこまった事をして」
「それはそれこれはこれって事なんじゃろうけど…まああるいはその切支丹様のために商売するのも悪くないかもしれんしのう」
そしてここ数年切支丹、いわゆる耶蘇教徒が増えているのも事実だった。彼らは新年の数日前、つまり十二月の末に独自の集まりを行い、その日に生まれた神様について祈りを捧げると言う。商人たちには全く異世界の風習であるが少なくとも商売の邪魔ではないし、何ならそれが商売になるならいいとさえ思っている。その程度には商人と言うのはしたたかであり、おおらかでもあった。
農民上がりの指導者に対する侮りもなく、皆親しみやすい指導者の治める時代を楽しんでいた。
その平穏の中に一人ぐらい少しばかり違った存在がいても、さほど気になる事はない。元々秀吉と言う異質な指導者がいる以上、少しばかりの違いなど気にしても始まらないのだ。
—————確かに武士ではあるが、少しばかり古めかしい装束をした男がいても。
もし詳しい者がいれば、すぐさまツッコミが入ったかもしれない。
天正十三年と言う、戦乱の時代が円熟を越えて過熟、いや爛熟にまで至らんとしている兵器の発展が進んだ時代から見ると、何とも不釣り合いなほどにいかめしい甲冑。
そして路地裏に隠れたかと思うと甲冑を脱いで背負ったのだが、その下の羽織袴もやはり十六世紀のそれからすると古めかしく、物が良いのはわかるがどこか非現実的だった。
そんなもし戦の真っ只中にいたらすぐさま不埒者として捕らえられそうな男は全く誰にもツッコミを受けないまま、町を離れて行く。
行先は、大坂城。
豪華絢爛を極めたような城。
あまりにも大きく、深そうな堀。それこそ鳥でもなければ攻められそうにないほどの要塞。
あっという間にたどり着いた男は無言で城を見つめ、なぜか鼻を鳴らす。もしその存在を探知している者がいればお前の方が臭いだろとか言われるのを棚上げしながら。
臭い。確かに、その通りだった。
先にも述べたとおり紀州平定にも成功し平和を極めたこの町でいかにも戦が起こらんばかりに肩をいからして歩くなど、単純に不審だしそれ以上に血生「臭い」。
もしここが薩摩とか小田原城とかだったら即座に斬られていたかもしれないだろう存在。
実際に相当な数の人間を屠って来た彼はそのくせちっとも血生臭くない刀剣を鞘にしまいながら、じっと嘗め回すように見ている。
人知の為せる業とは言え、一体如何様にして落とせばいいのかわからぬ城。
城内に人をかき集め兵糧攻めを企んだとしても、この中にどれだけの食糧を詰め込めるかわからぬ以上包囲している側が先に折れてしまいそうなほどに広大で、かつ単純に一手一手攻めるとしても天守閣にたどり着くまでの何ヶ月の月日と何十万人の城兵と何十万本の刀剣が要るのかわかりはしない。
「……………………ハァ」
男は口を動かす。
ため息らしき音は出たが、声は出なかった。まるでそれさえも惜しいと言わんばかりであり、中にいる存在の全てを見極めんとしているかのように目だけが輝く。
近衛秀吉と言う、庶民も庶民だった存在。
源頼朝とか足利尊氏とか言う清和源氏の末裔や、北条義時や織田信長のように桓武平氏の末裔とか言う事は一切ない。近衛とか言う藤原北家の末裔足る事を示す苗字もまるっきりの借り物、文字通りの道具でしか使おうとしていない存在。
そしてそこに見える、兵。
年末とは言え監視役の兵ぐらいは置かれており、寒さに震えながらも男の方を見ている。
だが何か騒ぐ様子もなく、欠伸をしながら背伸びをしていた。
一見怠慢に思えるが、実は男が大坂城を見ていたのは十町(約1.1キロ)も離れた所からだった。
男は六尺近くある美青年だが、十町先から六尺の存在を見つけるのはかなり目が良くないと難しい。しかも建物の間からだったので、相当に目を凝らしても、と言うか見ようとしないと見えるかわからない。
そして男は、そんな環境に油断などしない。
一歩、また一歩、足音も立てずに近付く。その間も視線を逸らす事はなく、さらに奥を見通してやろうとばかりにわずかに身を乗り出す。
豪奢ではあるが、傲慢ではない。
何十単位で城を落として来た人間だからこそ作れるような、精巧な城。
為政のための場所ではなくあくまでも防衛施設なのだろうが、いざとなれば天皇や貴族を抱え込んで守る事もできる。無論そうするには政治的問題が大きすぎるだろうが、見境なく京へと攻め込んで来た不逞の輩がいたならそれを守り切れる環境があると言うのはあまりにも大きい。
わずか三年で焼失した安土城を知らぬ人々は単純にもてはやし、知っている人間は安土城に比べ荘厳さはないが誰が見ても天下人らしいと言っている事を、男は知らない。
「あーらまあ…」
どちらが似合うかと言えば明らかに安土城のそれが似合う男の体を震えさせたのは、決して足元を走ったネズミではない。
「ねえカッコいいお兄さん、ちょっと遊んでいかない?」
実際に美形である男に向かって猫なで声を放つ、派手派手しい服を着た女。
本来大坂城から遥か離れた所にある色町から客引きにでも来たのかそれとも文字通りふら付いているだけの自由業的な素人女なのか、いずれにせよその手の商売としか思えない口調で誘って来る存在。
「ツマヲ、サガシテイル…」
「ああそうなのー、でもさあたし知ってるから、お代はまけるからさ、ちょっとでいいからー」
「イラヌ…」
「もう、ケチな事言わないでー、ねえ」
振り向きもしないまま既婚者だと言ってもなおすがって来た女は強引に男にしなだれかかりながら袖を引こうとするが、いきなりあおむけに倒れてしまった。
「何よぉ、本当にお堅いのね…でもさ、ちょっとでいいから、ほんのちょっとでもいいからぁ」
「モシヤ…!」
それでも操を立てる事に腐心する石部金吉野郎を落としにかからんと女が躍起になると、男はもしやと言う言葉と共に全力で振り向き、刀を抜いた。
「ああもうわかったわよ!その奥様ってのがそんなに大事なのねハイハイすいま…!」
この時、彼女に男の顔を見る余裕があったならこんな不貞腐れた態度は取れなかっただろう。
男は普段の美麗衆目な面相を捨て去り、文字通りの修羅の顔になっていた。
その修羅にとってその女は敵でしかなく、誠意のない謝り言葉を口にしきる前にその額に刀をぶち込まれていた。
男は敵を討つと同時に砂煙も立てずにどこかへと走り出し、一刻も早く姿を消さんとした。
だが、血まみれの刀にぬぐいをかける事もなく走り回った結果、血の跡が大坂の地に刻み込まれた。
「何やあれは!」
そしてその事に気付いた男は誰何の声に反応するように刀を投げ捨て、これまでよりもさらに速度を上げて走り出した。
「何や、どないなっとんねん!」
「殺しか!」
「追えや!」
「どうやってや!それより誰が死んだか確かめようやないけ!」
血まみれの刀を投げ捨てた下手人に対し町民は追いかけようとするが、すぐに速度が違い過ぎる事に気が付いて匙を投げ、被害者探しに回る事とした。
そしてその過程で、被害者の遊女・お玉を発見した。
「うわ何やこらひどいわ…」
「よりにもよって頭に刀をぶち込みおって…」
「しかしさ、こいつはそれこそ誰にでもしなを作るような女やからな」
「なんやあんた」
「いやそのくせ昔からお堅い男をひっかけて骨抜きにしたるとか志だけは変な方向に高くてのう…」
「そらそうやけどな…」
「でそれからあの男、あいつが下手人やろな」
「確かにな…」
さほど悼まれている様子のない彼女を取り囲みながら、町衆が好き勝手な事を言っている。
「その下手人とは」
「ああすいませんお武家様!」
そこにやって来た大坂城の侍により、下手人の犯人像が出来上がって行く。
三十路。
眉目秀麗。
古めかしい格好。
口数は少ない。
そして
「むっちゃ足が速くてな、馬でも追いつけそうにあらへんくて」
「それで間違いなく人を殺したはずなのにちっとも返り血を浴びてへんで」
と言う、とても人間のそれには思えない特徴。
取り締まりの侍も信じられないと言わんばかりに口をへの字にするが、それでも町衆の証言があまりにも多すぎる。
「…一応、上には上げておく」
その情報を上の上の上が既に共有している事など知らないまま、大坂城の侍は城へと戻って行った。
(バカバカしい!そんな存在がいる訳ないだろうが……!)
下らない虚報を自分の所で握り潰して、お玉とか言う遊女に恨みを抱いていた存在を探しいずれ捕えてやろうと思いながら。
実際彼は、年明けから半年の後にお玉に見請けを約束して裏切られた牢人を逮捕し、本人が無罪を訴えなかったのをいい事に処刑した。
そしてその翌日、お玉殺しの真犯人により八つ裂きにされたのである。
嘘は吐いておりませんよ?