北条氏照、氏政に返り討ちにされる
「既に三の丸でも戦が始まっておるのか……!」
「はい、しかも兵の質がご承知の通りであり二の丸へと入られるのも時間の問題かと……!」
もはや寸刻の猶予もないとばかりに小田原城を走る男。
本来の役目である二の丸の守備の役目を放棄し、本丸に向けて走る男。
その名は、北条氏照。
「本当にやるのですな」
「ああ、遅きに失したのは否めぬ。されど現状を見ればおわかりいただけると思いたい!」
圧倒的な数を誇る豊臣軍だけでなく、奥州統一連合にすら突き破られている。
何より、籠城戦の基本が全くできていない。
防備を生かそうとすれば二言目には弱腰と言われ、将の名を振りかざしても言う事を聞かないで飛び出して行く。いやそれどころか自分たちの将はいつからこんなに情けなくなってしまったのか泣き出され、自ら腹を斬って諫めようとする人間まで出る始末だった。
自分の兵の把握を怠っていたつもりはない。だがこの小田原城に入ってからと言うもの、兵たちは変わってしまった。
修練と言う当たり前の事をしているだけのはずなのに、だんだんと目が輝いて行く。根っからの兵だけでなくこの戦のために駆り出されたような百姓たちも楽しそうに武器を振り、わら人形を突いたり斬ったりしていた。
そして戦況が悪くなればなるだけ、むしろ人が増えて行く。領国を失うのだから動員人数も減るし戦意も落ちるはずなのに、いくらそこから逃げてきた兵が小田原に集結しているとしても数が増えすぎていた。中には小田原城内の廊下で雑魚寝する兵たちまでおり、小田原の環境そのものも乱れていた。
と言うか、単純に武器防具が足りなさ過ぎた。一応他の城からかき集めたり急ごしらえで作らせたりしたが、一人一本の刀剣が供給できるかぎりぎりだった。
と言うか刀剣は消耗品であり、当たり前だが一定以上の身分の人間は槍や薙刀を持った上に腰に刀を差しているのだから一人二本であり、中には武器を持てない兵すらいた。それらのために棍棒やら木刀やらを作ったりする姿は勇ましいと言うより痛々しく、鉄砲隊から刀を引っぺがして与える有様と来たらもう見るに堪えなかった。
と言うか鉄砲隊そのものがどうもうまく運用されていないと言うか本丸に押し込められているような状態で、東西北門の迎撃にさえもさほどの数の銃弾は飛ばせていない。無論敵はこれでもかと連射して来るせいで次々と犠牲者が産まれる。
まさかと思うが鉄砲をなめているのかと叱責した所少なくとも口ではそんな様子はなかったが、それ以上に自ら命を張る事を美徳としているような兵の数が膨れ上がっており、その手の「自らの手を汚さずに戦う」人間たちはどんどん肩身が狭くなって行った。
「いざとなれば兄上を斬ってでもやらねばならぬ!」
氏照はもう腹を決めていた。
この前風魔小太郎と話し合い、小太郎は死を選び自分もまた死を選んだ。
いや、死ぬわけではない。生きるために氏政を説得し、いざとなれば相手を討つ覚悟でやらねばならない。売国奴と言われようが知った事かと言う覚悟を込め、わずかに残った部下と共に本丸へと進む。
三つ鱗の旗がわずかに威張る中を帯刀したまま早足で駆け、本丸のふすまを開ける。
「どうしたのだ」
既に鎧を身にまとい、槍を側に置く氏政と横に置いているのが薙刀である事以外全く変わらない氏直。
そして同じように殺気を纏った兵たち。
他にも抜き身の刀が並び、物々しいと言うより禍々しい雰囲気だった。
そんな中氏照は氏政にひざまずき、吠える事はしなかった。
「あの、その、この、どの…えーっと……」
急に奥歯に物が挟まったかのように口ごもり、氏政の目が困惑に満ちて行く間もずっと頭を横に振っていた。
「何が言いたいのだ、早くしろ」
「それが…降伏してください」
「何を!」
身内からの降伏勧告に驚いた氏政が首を動かすと、五十人ほどの兵が氏政を取り囲んでいた。
氏政の家来は氏直を含めても二十名ほどであり、数で押し切るには十分な差だった。
「もはやこの戦の帰趨は明らか!今からでも謝すれば命ぐらいは守られるはず!」
「馬鹿を言え」
「馬鹿ではありませぬ!既に松田は亡く、三の丸の戦も目下不利!このままではこの本丸に来るのも時間の問題です!」
氏照が声を張り上げるが、氏政は氏直に目線をやるだけでそれ以上動かない。
氏照は腰の刀に手を当て、いざとなればを辞さぬとばかりに強談判に走るが氏政はなおも動かない。
「わしは悲しいぞ、そなたがそんなに臆病であったとは」
「臆病で構いませぬ!兄上、どう見てもこれ以上の戦に利あらず!今すぐ降伏すれば兄上とご当主様のお命だけは救われます!いや、それがしが救わせます!」
「そんな甘い話はない」
「いいえ!」
ようやく口から出た言葉は兵たちのそれと変わらず、むしろより強硬にさえ思える。事ここに至ってなおまるで矛を収める様子がないその姿勢は、氏照をなおさら失望させた。
氏政の顔は温かく、そして冷たい。
「どうしても戦って欲しくないと申すのか」
「はい、これ以上命を無駄にしてはなりませぬ!どうか!」
「……」
氏照は兄の考えを変えるべく、刃を抜くと言う最後の合図を繰り出そうとしなかった。
兵たちが自分の刃を右目で見ながら、左目で氏政軍の動きを追っている。それが出来るほどの強者たちが、戦の終わりを願っている。
だと言うのに氏政は、悲し気に氏照の背を眺めるだけ。はいともいいえとも言わないで、ただただ座っていた。
そして十秒ほどの時が経ち、氏政の体が前に揺れ、次の瞬間、氏照の背中に痛みが走った。
そして氏直も倒れ、そのまま次々と氏照軍の兵たちが斬られて行く。
「な、な…!」
それでも立ち上がった氏照軍の兵たちはもはやこれまでとばかりに氏政らに斬りかかるが氏政の体には全く届かず、さらに氏照を突き刺した刃たち——あらかじめ転がっていた抜き身の刀——が宙を舞い氏照軍を切り刻む。
「氏照、乱心…」
ほんの一分ほどでいつの間にか起き上がっていた氏直共々五十個の亡骸及び瀕死体を作った氏政は、その瀕死体の一つである氏照を蹴り上げた。
氏政軍の犠牲者は、誰もいない。
「やはり、兄上、いや…源、義経……!」
「もういい。わしは出る。そなたはわしが死ねば喜ぶのであろう」
「そのよう、な…………!ただ、これ以上の犠牲は、要らぬ、と……!」
「ならこれ以上腑抜けた事を言うな。わしらの勝利を祈ってくれればそれでいい。なぜそれも出来なかったのだ」
「この、野ば……!」
野蛮人と言う言葉を言い切る前に、氏直の刃は叔父の首を切り離した。まるで頼朝が範頼らをそうしたかのように無感情であり、無表情だった。
「八郎…」
「わかっております父上、共に戦いましょう!」
八郎と呼ばれた「赤子」は、父譲りの清々しい声を上げる。
ついさっき、佐竹義重らを殺したように叔父と言う事になっていた存在を殺し、自分の魂の宿りし肉体を血に染めたと言うのに。
「しかし八郎…本当に良い名前です!」
「わしより優れていると思ったからだ。残念ながらそれ以上の物は与える事が出来んがな……」
「結構です!さあ、共に参りましょう!」
「霊武者」と「童神様」のまったく清々しい声が本丸を覆い、全ての血を掻き消して行く。
もちろん物理的にと言う事は出来ないが、これから二度目の死出の旅へと向かわんとするとは思えぬほどに美しいその声を前にして、非難する者は誰もいない。
する事が出来たであろう氏照と風魔小太郎はもういない以上、この小田原と北条家は完全に源義経親子が占拠した。
紛れもない簒奪が、完全に成功した瞬間だった。