恩を仇で返すなかれ!
「この戦いは、失われた誇りを取り戻すための戦いである」
西門での戦の先鋒であり副将である、松平家康による演説。
「松平軍」総大将の演説に、将兵たちは皆一言一句漏らすまいと全力を傾ける。
「榊原式部は、源氏の誇りを背負って死んだ。わしはそれが出来なかった。いや、その恐ろしさを示すために死んだ。
それゆえわしは、源氏を名乗る事をやめた。誇り高きはずの血を覆い隠さねばならなくなった。だがそれは元より今川家の人質に過ぎず、たまたま時流に乗り現在の地位を得た我が身からしてみればそれほど問題はないと思っておった。
だが、今となって思えばそれは忍耐ではなく卑屈であった。実際に霊武者、いや義経公に襲われたのもまたその卑屈を叱りに来たのであろう。いやまだその時は徳川であったが、その時に脅えた姿を見せてしまったゆえに義経公は我々を責めようとさえしなくなった」
家康は右手を振り下ろしながら言葉を振るう。もう四十七になる狸親父とか言った所で自分が所詮は侍の子であり大名家の跡継ぎ様であった事を示すに十分な話は現在進行形でいくらでもあったし、いくら忍耐を是としているからと言ってもただそれだけではなく時に勇猛な面を見せる主君を家康の部下たちは好いていた。
「義経公にとって源氏は無念を晴らすべき存在であると共に誇り高くあるべき存在でもあった。式部はその罪をこのわしに教えるために討たれたにもかかわらずその死に脅え縮こまり、我が身を守る事にのみ腐心した。同じ源氏の末裔であるはずの黒田官兵衛殿が正々堂々と受け止めたのと比べあまりにも器の小さき話である。
今義経公は我々と対峙している、いやしてくれている。この機を逃せばもう二度と義経公に許しを願う事など出来ぬ。わしのためにとは言わぬ。式部のため、各々のため、どうか義経公に我々の武勇を見せ付けて欲しい。無論わしも共に戦う。願わくば義経公と刃を交え、わしらの心意気がいかほどの物か見極めていただく!」
義経が本当はどれほどの思いを込めていたかなど、家康は知らない。自分の都合の良いように解釈している事は百も承知であり、その自分勝手な解釈を責められても構わないと割り切っていた。
松平軍の将兵は一斉に拍手喝采を浴びせ、士気も向上して行く。
本多忠勝も井伊直政も大久保忠隣も、家康のために死のうと改めて心を決めた。
「父上、いや松平様、頼みますぞ!」
「承った、いざ参る!」
大将である実子、豊臣秀康の命を受けて松平軍は飛び出す。福島正則と加藤清正が戻って来た両軍もまた援護射撃を放ち、松平軍の援護に回る。
北条軍も負けじと迎え撃ちに行く。
援護射撃により負傷したり体勢を崩したりする兵もいるが足が止まる訳ではなく、目の前の敵をすべて倒せばそれが勝利だと言わんばかりに足を動かす。
「主のために!敵を討つ!」
「主のために!敵を討つ!」
両側から同じ言葉が叫ばれ、兵たちはぶつかり合う。
北条軍の大将は、大道寺駿河守政繫。老将と言って差し支えない年だがその武勇は鋭く、先頭にこそ立たないがいざとなれば自らが最高戦力である事を示してやると言わんばかりに目を輝かせている。
(武蔵坊弁慶か、さもなくとも……)
それが大道寺政繫などでない事は、家康以下全員分かっている。
松平家康は、石田三成などではない。
筋の通らぬ事であろうと、そこにあるがままを受け入れその上で動けるほどには頭の柔い人間だった。
その上で、服部半蔵から得た情報もある。
源義経が北条氏政へと入り込み、息子や家臣たちをも招いた経緯も知っていたし飲み込めていた。
「覚悟せよ!」
「そちらこそぉ!」
小細工は要らない。とにかく真正面からぶつかり合うまで。
小田原城へと突入する役は豊臣秀康本隊に任せ、あくまでも目の前の敵を叩く事に専念する。福島正則は秀康の、加藤清正は家康の支援に回り、目的を果たそうとしている。
今日の目的はあくまでも小田原城に侵入する事。小田原城内に陣を張ればそれでよし。上杉軍単独の北門は難しいとしても西と東、両方に穴を開ければ小田原城の信用も低下する。日和見や脱走までは難しいにせよ今まで以上に兵を分散させる事も出来るし、士気を上下させる事ぐらいは出来る。
「小田原城へと一番乗りせし者には厚賞を与えるぞ!」
秀吉がそう定型句を言ったように、難攻不落として知られる小田原城に入ればそれだけで名は売れるし小田原城を信奉していた北条の兵の士気もくじける。攻城戦における常套手段であり、一歩一歩本城を侵食して行く事により勝利に近づくと言う寸法だ。もちろん手間も暇も金もかかるが、秀吉と言うか天下人なればこそ許される戦法でもある。自分が総大将になったらしてみたいけどする気の起きない戦法でもあり、改めて秀吉の力の強大さを知るには十分であった。
(あるいは関白殿下なりの、今の時代なりの誠意の見せ方なのかもしれない)
正々堂々とか銘打った所でその言葉の意味も変わって行く。秀吉からしてみれば奇策を取らずに兵と兵でぶつかり合うのが正々堂々であり、詭道に詭道を重ねて来た自分のある種の挑戦状なのかもしれない。
それを踏まえた上で、家康は自らぶつかりに行く。家康なりの誠意を、果たしに行こうとする。
「我こそは本多平八郎なり!我こそはと思わん者は挑め!」
本多忠勝は自慢の蜻蛉切を振り回し、北条軍へ突っ込んで行く。北条の兵たちもやってやろうじゃないかとばかりに忠勝に取り付き、次々と刃を合わせにかかる。だが三分の二が届く前に弾き返され、三割が刃ごと斬られるか首を飛ばされる。残ったわずかな存在もまた、ただ天を突いただけになってしまう。
そんな敵軍一の豪傑に向け、当然の如く最高戦力たる存在は戦いを挑む。
「大道寺駿河守か!」
「参る!」
大道寺政繫は忠勝に向けて槍を突き出す。速度こそ遅いが狙いは正確であり、少しずれても打撃を与えられる急所を正確に狙いに来る。もちろん忠勝は負けじと政繫の槍を捌き自らの蜻蛉斬を突き出すが、政繫も上手に避ける。
元々猛将でもない政繫であったが槍捌きは正確であり、年齢差と体力差を技の差で補っている。忠勝も力押しを行いつつも冷静に長期戦を覚悟し、一発一発正確に打ち込む。
文字通りの一騎打ちだ。
やがて他の将は彼らに構う事なく北条軍へと攻撃をかける。こうなると数の差もあって流れは松平軍へと動き、北条軍は戦死者こそ少ないにせよ後退を余儀なくされる。
その隙に秀康本隊は小田原城の城門へ向けて走り出し、城内へと侵入する。当然ながら控えていた兵が次々と秀康軍へと襲い掛かるが、先刻承知であった秀康軍には奇襲の意味はなくただの戦となってしまう。もちろん北条軍の意欲はすさまじかったが秀康軍の練度も装備も優秀であり、しかも両側から襲い掛かられたにも拘わらず対応するだけの兵力が入ってしまっていた。
「このままでは逃げる事も出来なくなります!」
「しかし西門になど!」
「北か南に回りましょう!」
「わかった、本多平八郎殿、勝負は預けた!」
形勢不利を悟った政繫はためらわずに距離を離し、北門へと向かう。逃げ遅れた兵は松平軍に狩られるも逃げきった兵は少なくなく、これから上杉軍と衝突するか否かはともかくまたいくらでも戦うつもりでいるだろう。
「ライチョウ、か……」
ライチョウ。
おそらくは、頼朝に対する精一杯の気持ちを込めた義経の思い。尊敬している兄だからこそ呼び捨てになどしたくないが、それでも直にその名前を呼ぶ事など出来ないと言う悲しい意地。
戦いぶりは勇猛であるが決して粗暴ではない。いやあるいはもっと粗暴なのかもしれないが、それでも生まれながらの貴公子様である事を見せ付けるかのように締めるべき所はしっかりと締まっている。
昔の戦は、それこそ今のようなしっかりとした作法がある訳でもない文字通りの殴り合い。そんな中で義経の存在は弁慶を始めとした外れ者たちからしてみればただただ強いだけでなく王者の貫禄を持ったカリスマだった。その義経のためならば何でもする、逃げろと言われれば平気で逃げる。
おそらく大道寺政繫もまた、北条氏政《源義経》から駄目ならば逃げろと言われていたに違いない。北門へと向かった理由まではわからないが、それでもそれほど疲労していないはずの加藤清正軍でも追いつけないほどの速さで進む北条軍を前にし、家康は改めて義経のカリスマに感心する事しか出来なくなった。
そしてそのカリスマに人々は魅了され、同時に脅え、不協和音を起こしてしまった。
わずか、三十四年。
幕府が出来上がってから、源氏の手から離れるまでたったそれだけ。
頼朝の死後と言うか二代目征夷大将軍の頼家の将軍即位から見ると、わずか十七年。
源氏と幕府には存在意義はあっても頼家や実朝、それどころか頼朝にすら価値を認めないようなあっけない終わり。
北条義時・泰時親子と言う有能な宰相の下将軍などどうでもよくて有能な統治者だけいればいいと言う環境が完成し、政権が源氏に戻るのに百年後の室町幕府創立までかかってしまった。
だが、義経が源氏から天下を簒奪したも同然の北条に怨恨を抱いていると言う話を、少なくとも家康は聞いていないし武蔵坊弁慶と接触したらしい伊達政宗も聞いていない。政宗の代わりに人質になった片倉小十郎とか言う男もその事について語ろうとしない。
それだけで義経の望みがどの程度のそれか、わかったつもりにもなった。
そしてその望みをはき違えた存在とはき違えさせた存在を、家康は恨みたくもなった。