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戦国霊武者伝  作者: 宇井崎定一
第九章 呪詛との戦いに垣根なし
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「勇猛なる英雄たち」

「本当にすまなんだ……」

「そこまでせねばならぬのですか」

「ああ。どうかこの身に力を貸してほしい」


 頭を下げない事と、自分たちの陣に呼びつけていると言う事が辛うじて威厳を保っているような秀吉の低姿勢に島津義弘は目を見開いた。


「我々は諸事情あり三千ほどの兵しか持って来られませんでしたが、それでも必要なのですか」

「無論!」

「でしたら少なくとももう二千ほど兵を集めるまで待ってくれませぬか」

「なれば黒田の兵を自由に使って構わぬ!」

 新納忠元が嫌味ったらしく絡んで行くが、秀吉は余計に低姿勢になって行く。福島正則も加藤清正もいないのをいい事に忠元の鼻っ柱をさらに伸ばさせるようなその態度は、全く天下人のそれではなかった。

「こら、これ以上関白殿下を悩ませるでない!」

「えっと…」

「こんな所まで来て物見遊山などする気もありませんでしたからな。わかりました、存分にやらせていただきます。とりあえず黒田殿にご挨拶をせねばなりませぬので」

 

 もちろん島津義弘とてそこまでされて悪い気はしなかったし、単純にこのまま置き去りと言うのも面白くなかった。

(真実は変えられぬ…か)

 ここに来るまでに知ってしまった、島津の恥。

 その恥辱を雪ぐ時があるとすればここしかない。義弘にはそんな思いもあった。








「義経公の死から百年より少し前の時代……久経公の時代、島津は何と呼ばれておったか存じておるか」

「ちょうど元寇の時代ですが、確かその元寇にも参加して勇名を持って讃えられたのではないですか」

「あんな軟弱な奴らで大丈夫なのか、と」


 島津が、軟弱。

 信じがたい話だが、当時の書には「島津は軟弱すぎてあんなので南九州は大丈夫なのか」と言う言葉が本当の本当に残っていた。誰が言ったのかはわからないが、それほどまでに元寇の際の他の武士、いや当時の武士が凄まじかったのかは想像に難くない。もちろん今から見ても軟弱なのかもしれないが、示現流と言う一刀両断二の太刀なしの剣法を是とするような島津の伝統がその時から生きていたとしたらそれこそとんでもない話である。


「なればこそ黒田殿は」

「ああ。関白殿下と同じくわしらの事を頼りにしてくれた。せいぜい、目標を守った上で暴れてやろうではないか」


 こんな城を一日で落とす事など出来ないのは、義弘の目から見ても明らかだ。決して無理をする事はなく一日で一歩ずつ進み、最終的に勝てばいい。最初からそのつもりであったし、いくら大将が源義経になってしまおうともそれは同じだった。

 義経が壇ノ浦で途方もない武名を挙げた以上北九州まではともかく、南九州にはその名はあまり響いていなかった。と言うか島津が九州に土着したの自体島津忠久の玄孫の島津忠宗ぐらいになってからであり、それまでは鎌倉の人間だった。鎌倉にいたと言う事は頼朝やら北条家やらの影響をまともに受けていたと言う事であり、おそらく源義経の評判もそういう形でしか受け取っていないだろう。ましてや義経落命の時には忠久は十一歳であったと言われており、とても真っ当な情報など受け止めるような年齢ではない。



 京の都からも離れ、鎌倉と言う新たな政庁からはもっと離れ、ましてや奥州藤原氏が地方政権を作り上げていた奥州からはもっともっと遠い九州。と言うか元々九州は平家の地盤であり、その平家が天下の逆賊となってしまった物だからもう何も言えないと言うか鎌倉幕府と言う名の源氏の政権においそれと従う訳もない。守護・地頭とか言う鎌倉幕府が定めた制度も承久の乱が鎮まるまでは西国では機能していなかったし、鎌倉幕府が行政府を九州に置いたのは鎮西探題と言う元寇後のそれであり、大宰府とか言う古めの権威が細々と残っている程度の存在であった。鎌倉幕府の統治下にあった地域ですら族滅とか言うとんでもない事態が頻発していた以上、九州については推して知るべしだった。そんな所に薩摩地頭とか言った所で鎌倉育ちの男が入って来た所でどれほどの働きが出来るのか、出来たとしても真っ当に評価されるかなどやはりお察しだったと言える。



「ちぇすとぉぉぉ!」

 

 

 尊敬する先祖が負わされてしまった、汚名。

 自分たちの代で塗り替える絶好の機会。 

 島津の兵たちは現在、過去、未来、全てのために戦って行く。


 北条勢も必死に押すが、兵たちの数が違う。そして力量も違う。いくら氏政《義経》が必死に鍛えてきたとは言え、その大半が付け焼き刃のそれであり実戦経験はない。島津軍は沖田畷どころかそれ以前から鍛えて来たような熟練兵ばかりであり、単純な兵の質なら北条勢を上回っていた。本丸にいるような精鋭であれば話は別だったかもしれないが、それでも島津には此度の戦に当たって芽生えた意欲もあった。両者とも士気がある上に正面衝突となるとどうしても戦を左右するのは兵の数と質であり、ましてやこれと言った大将のいない北条勢は指揮系統も怪しくただただ逐次投入と言う愚策を振りかざしながら突撃していく事しかできなかった。

 いや、いたとしても機能したかどうかわからない。東門では北条氏照とか言う大物が必死に兵たちを止めたにもかかわらず突撃をなかなかやめさせられなかったように、この兵たちも弱腰な将たちの目を覚まそうと動いているのかもしれない。



 そしてもう一つ、島津にはうっぷん晴らしの意味合いもあった。



(単に黒田を討てず力のなさを認めたか、それとも…!いやそんな話があってたまるか!)



 島津家の初代当主である島津忠久は源頼朝の落胤であると言う事になっているが、それにもかかわらず島津勢はかの霊武者の襲撃を受けていない。それはある意味源氏の末裔であると言う島津の存在を揺るがす話であり、惟宗氏の末裔ではないかと言う本人たちからしてみれば不本意な話に説得力を持たせてしまっている。

 二本松義継からしてみれば受けなくて良かったではないかとか言いたくなるだろうが、それはそれで面子丸潰れだと言うのも武士の性格だった。

 もし自分が本当に源氏の末裔でないのならばいっそはっきり言え、いや本当に末裔ならなぜ来なかったのか答えろ。

(どうせそんな問題に答えてはくれないだろうがな…帰ったら聞いてみるか…ま、年の差如きに脅える器でもあるまいがな)

 武蔵坊弁慶と言葉を交わしていたらしい伊達政宗に、島津について何か言っていなかった聞いてみたくもあった。だがどうせこんな事でもなければ縁のありようのない自分の話などしないとか言う現実を踏まえながらも、年の差を生かして少しばかり詰めてやろうかと思うほどには義弘も面倒くさい事を自覚していた。



 そんな気持ちが乗っかった刃を、数と質で劣る北条勢は受け止めきれない。それこそ屍を踏み越えてでもとばかりに次々とやっては来るが、後藤又兵衛らによる援護射撃のせいで足を止められる。城門の上からの射撃も当然止められ、島津軍を止める者はいなくなって行く。そして

「島津軍一番乗り!」

 城門跡を越え、ついに島津の旗を小田原城内へと持ち込んだ。すぐさま左右から兵が出て来たので後退したが、それでも他家の旗を小田原へと持ち込んだと言うのは他のどの御家も果たしていない戦果であり、島津家にとって最高級の誉れであった。


「追っては来ませんか…」

「まあ、戦果としてはここまでで十分であろう。しかしかなり手ごわい敵であったようじゃな」

「こっちの犠牲も少なくはありませんでしたがな……」



 義弘と忠元は釣り野伏を仕掛けてやろうとか言う野心を隠しながら、兵を引いた。

 城門は補修されるかもしれないが、それでもほんの一瞬とは言え侵入に成功した功績は大きく、名を挙げる事は出来た。

 それ以上欲張る必要もないと思う程度には、義弘も忠元も年を重ねていた。


 実際北条軍も島津軍や黒田軍を追いかける事はせず、その日の戦いは終わった。



 こうして終わった小田原城西門の戦いにて島津軍は百の死者と三百の負傷者、黒田軍は三十の死者と百の負傷者を生むも城門を破壊し、九百の兵を討ち五百の兵を負傷させた。

 当然ながら島津軍は後ろに下げられしばらくは死体の回収と埋葬などで動けなくはなるが、それでも戦果としては十二分だった。


「島津軍の勇名、誠にもって見事なり…」

「ありがたきお言葉にございます。それで伊達殿、島津について弁慶殿は何か」

「申し訳なき事ながら聞き漏らしてしまい申した」

「ほんの戯れであり申す。島津は伊達と違いなかなか薩摩へと根付けなかった故義経公にはその名は伝わっているはずもなく」

「こちらこそ義経公の一党を滅ぼして今の地位を得たような御家であります。それなのに今度は気まぐれで助けてくれたのです、それを討たねばならぬと思うとこちらこそ申し訳なくて仕方がなくなります」

「相手の望みを叶える事が我々の役目なのでしょう。向こうがやれと言う以上…」

「辛うございますな」


 戦いとは言え礼節を忘れてはならないとか言うのは簡単だが、その礼節そのものが違っていると言う事も忘れてはならない。奇策こそ用いども正々堂々とやり合う事を喜びとしているであろう以上、こちらも正々堂々とやらねばならない。裏切りなど、とても許されない。


「この国の中で、集められるだけの数をここに集めた……その全てを敵に回す哀しみこそあれど、それらと戦って死ねるだけの喜びが上回れば良いのじゃが……」

「そのためには犬馬の労を厭いますまい」

「言ってくれるのう、まあそれは弟君に任せておけ!」


 秀吉に釣られるように、義弘も笑った。


 五十路の男たちが未来を切り開くべく、手に手を取り合っている。


 実に美しい話だった。







 そして、北でもまた一人の男が動いていた。

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