伊達輝宗、救われる
天正十三(1585)年、十月、陸奥の国。
そんな字面を踏みにじる程度には、空も大地も青かった。
いや、日常さえも踏みにじるほどに。
将軍継嗣を巡る応仁の乱が終わってから一〇八年。
治まるはずだった戦乱はちっともやまず、殺し合いはこの陸奥の国のみならず全てにおいて日常となっていた。
「やれやれ……」
そんな中でも、彼だけは戦など忘れたかのように安堵のため息を吐いていた。
その男、伊達輝宗は四十二歳。まだまだそんな風に安穏とした時間を過ごせるような年齢でもない働き盛りのはずだが、それでも彼はずいぶんと悠長だった。
数名の従者と共に馬上の人としてゆっくりと南へと向かう姿と来たら、まるで遠乗りと言う名のお散歩だった。
「若様は最近…」
「誰だそれは」
「おとぼけにならないで下さい」
「まったく、その調子ではあいつは七十を越えようとも若様だな。と言うかワシの言葉をきれいさっぱり忘れたのか?」
「まさか!」
そうやってついて来た人間をからかうその様は、正しくご隠居様だった。
伊達輝宗が家督を息子の政宗に譲ったのは、わずか一年前の事である。政宗はまだと言うべきかもうと言うべきか、その時数えで十八。
その素質は、自分が誰よりもよくわかっているつもりだった。
別に血筋だけで大きくなったつもりもない。藤原北家と言う藤原氏の中でも摂関家につながる名族の末裔であるが、嫡子・政宗が生まれてなお家中の権力闘争をやめられなかった。それでも家中の争いを鎮め、西は上杉家へ干渉し北は妻の実家である最上家とも折り合いを付け東の相馬とも戦うその姿はとても弱々しいそれではない。
ただ問題があるとすれば南の蘆名の当主として我が次男の小次郎政道を送り込むのに失敗した事であり、そしてその後当主となった政宗の方針転換である。
政宗は幼少期に疱瘡にかかり、命こそ守ったがその代わり片目の光を失った。その結果すっかり引っ込み思案になり、義姫も次男の政道に家を継がせようとしたほどだった。その後家臣たちの必死の行いにより光をなくした目を除去し政宗はようやく武士として目覚める事が出来たが、その反動からか政宗はかなり武闘派になっていた。
(陸の奥と書いて陸奥と読む…ここはやはり辺境なのだろうな。始まるのも遅ければ、終わるのも遅いのかもしれぬ……)
室町幕府十五代目征夷大将軍・足利義昭が京を追われて十二年。
その義昭を追放した織田信長が本能寺で散って三年。
今はその信長の後継となった羽柴秀吉が天下統一を進めている。
噂の段階だが四国ももはや陥落寸前であり、中国の毛利はとうに服属済み。そうなれば残るは九州と関東と、この東北だけ。
それこそそれらを除く全部の力を手に入れた存在と対峙するなど、常人ではとても不可能だ。確かにこのままいけば、政宗は陸奥を統一できるかもしれない。だがその前に秀吉がやって来て、政宗の小さな偉業を悪意なく踏み潰す。
かつて九州まで逃げ延びた足利尊氏は結局天下を取ったが、この地まで逃げ延びて再び咲いた花があるのだろうか。九州と陸奥では京への距離が違い過ぎる。鎌倉が武士の都であった時代ならまだともかく、室町幕府に安土城、秀吉が築く大坂城が中心となっている時代に陸奥の地は辺境も辺境でしかない。
そんな中、鉄砲隊を含む軍隊を自分よりずっとうまく使いこなす才覚を持った存在。あるいは上杉謙信と言う、軍神と言われた存在に惚れてしまったのかもしれない存在。
その政宗は良くも悪くもと言う枕詞付きながら自分が築いて来たつもりだった東北の秩序を崩し、この地にそれこそ覇を唱えようとしている。もしこの世界に東北如かなければ全く正しい判断でありなればこそ隠居もしてみせた、間違いであったとか言う気もない。
大内定綱とか言う裏切りとまでは行かないにせよ定まらぬ存在を政宗が襲い、小手森城を攻めたのは仕方がない。その定綱をかばった畠山義継も攻撃され、ほとんどの領国を政宗に持って行かれたのもまた仕方がない。年下の叔父の伊達成実らの必死の説得で多少は緩和されたが、それでもまだ若い政宗からしてみれば定綱の叛服常なき有様と、それをかばう義継が許せなかったのだろう。だがそれは、あまりにも青臭い。
善悪で行けば悪ではないかもしれない。だが善を貫き通していた上杉謙信がどうなったか、その事がわからぬはずでもないだろう。今の上杉の当主景勝は新発田重家を鎮めきれないほどの人物であり、謙信を望むのは酷だ。それでも聞こえる話そのものはどれも謙信の後継者としてふさわしいそれであったが、だからと言って勝ち残れるかどうかは別問題だ。
「来るのだろう」
「ええ。ほどなく宮森に参り、そこで若殿…いや殿への許しを乞うと」
「そうだな。わしはわしなりにできる事をしようではないか」
政宗が一人前になるまでは、せいぜい自分なりに何とかしてやらねばならない。
飴と鞭と言う物があるとすれば、それでいいではないか。
遠乗りから戻った輝宗は、客人を迎える準備を整えていた。
※※※※※※
伊達政宗が隻眼で捉えたそれは、この世界で最も残酷な光景だった。
いっそ生首の方が、まだ諦めも付いた。
「どういうつもりだ!」
「どうもこうもあるか、お前が悪い、お前が……」
畠山義継が、馬上から人間を横にしている。
その人間の首元に刃を突き付け、笑っている。
そう、伊達輝宗を。
「これが見えていないのか!」
「見えているに決まっているだろうが……」
この時、政宗は数百の人材と共に狩りに出ていた。平たく言えば余興の時間であり、悪く言えば気が抜けていた。
そこに飛び込んだあまりにも意味の分からぬ報告に愕然とする間もなく、駒を飛ばして駆け付けた上で見せられた、報告通りの現実。
「政宗…!わしが甘かった…!」
首元に刃を突き付けられながらも、輝宗は武士であった。もう少し早く武士であればとか言う繰り言を述べる事もなく、武士をやっていた。
宮森に入った畠山義継の答えは、降伏でもなければ嘆願でもなかった。
—————徹底抗戦。と言うか、最終手段。
隠居人とは言えまだ四十路の人間の命を盾に、取り得る限りの答えを引き出そうと言う計画。
その計画、と言うか自暴自棄を読み切れなかった輝宗はあっという間に拉致され、このような結果になってしまった。
だが、この場にいる「畠山軍」は五十あまり、「伊達軍」は五百以上。結果は火を見るより明らかだった。
「政宗……」
「何がしたい!このままでは貴様は死ぬぞ!」
「そんな訳はあるまい、フフフフ……」
畠山義継は、笑っていた。おそらく、畠山家の人間のうち誰も見た事がないような顔をして、笑っていた。
「そんなに難しい事を要求する気などない。ただ、領国を寄越せと言いたいだけだ……」
「耳を貸すな!」
「静かにしろ……まったく、これだから捨て鉢になった奴は性質が悪い……クククククク……ハハハハハハハ……」
自分が何を言っているのか、もうわかっていないと言うか自分でもわかりたくないのだろう。自分を棚上げにするにもほどがある言動であり、完全に御家の当主ではなくなっている。
盗賊と言うか、それこそただのチンピラ。
誘拐犯とか言う御大層な犯罪者ではなく、文字通りの犯罪者。
だが大人物ばかりが世を動かす訳ではないのが現実であり、そんな存在が十幾代続いた伊達家の当主の命を左右しているのもまた事実だった。
「さあ、早く得物を捨てろ。そして米沢城を」
「真面目に物を言え!」
「冗談だ、冗談……得物を捨てんでいいからはいつくばって許しを乞え……さすれば元の領国だけを返すだけで許してやる……」
誘拐犯は自分ではものすごく寛容な風を装いながら、自分の言葉に酔っぱらっている。
もしこの時、彼の耳に言葉を入れられる人間がいたらそのものはその技量一つで天下でも取れるだろう。それこそ今の彼にとって自分のそれより心地よい言葉はどこにもなく、その次に良いのは伊達政宗の泣き声だった。後は全て雑音であり、自分の自尊心を汚すそれだった。
「あ」
「何があだ、そんな……」
だから政宗の間抜けな声も、義継にとっては快楽を呼ぶそれであった。
そして、義継にとってもっとも幸せな結末が、そこにあった。
「進めぇ!!」
政宗は叫ぶ。
自分の兵たちに向かって、義継の兵たちに向かって、叫ぶ。
「うわあああああああああああ!!」
政宗が感情をむき出しにしながら叫び、畠山軍の兵たちを殺そうとする。
だが残念なことに、その感情の行き場は案外と簡単に踏みにじられた。
「誰だ!?」
と誰が叫んだのかはわからないが、とにかく誰だかわからない存在が、義継の郎党を斬り殺していた。
五十人だったはずの畠山軍は、政宗が叫んだ時には半数以下になっていた。
「ああ…」
「なんだこのが」
義継の首が宙に舞った瞬間、地に落ちた伊達輝宗の首を狙い襲い掛かる郎党たち。だがその彼らも明らかに動くのが遅い伊達軍がたどり着く前に、次々と主人の下へと向かって行く。
首を斬り落とされたのは義継だけだが、多くの物が腰を斬られ、ひどいのになると上半身と下半身が分断された者もいる。それでも主君同様死ぬか生きないかしかない人間たちは必死に最後の切り札とでも言うべき輝宗を殺そうとするが、その前に殺され、そして伊達軍の到着が間に合ってしまった。
「父上!」
「ああ……まさか、我が命運未だ尽きずとは……」
政宗がようやく輝宗の安全を確保していると、二人の目に一人の童子が映った。
「このガキ!」
刀を持った一人の少年—————およそ三歳ほどと思われるその彼の一撃により、義継郎党の最後の一人が散った。
「見たか……」
「ええ、見ました……そうだな……」
「はい……」
留守政景や伊達成実をしてなお、認めるしかなかった。
伊達輝宗の命を確かに長らえさせた、謎の童子の存在を。
だが、父親の命を失いかかった政宗と寸での所で生き延びた輝宗親子、そして政宗の家臣たちに、それが何者かを考える余裕はなかった。
ただ、そのやけに古めかしく、それでいて大きすぎない羽織袴を身にまとった童子だけが頭に残っていた。