【49話】聖域の試運転
始発の電車に揺られながら、俺は窓の外を流れる早朝の景色をぼんやりと眺めていた。 車内はまだ人が少なく、ガタンゴトンという規則的なリズムだけが響いている。アドレナリンが引いていくにつれ、全身を鉛のような疲労感が襲ってきた。だが、その重みすら心地よい。
俺は座席に深く体を沈めた。 安堵のため息が漏れる。死のカウントダウンがリセットされた解放感は、何度味わっても慣れるものではない。だが今回は、それ以上の収穫があった。
俺は自分の掌を見つめる。 そこには、目には見えないが確かな力が宿っていた。
家に着くと、泥のように眠った。 目が覚めたのは日曜の昼過ぎだった。身体の節々は痛むが、【再生】のおかげで酷いダメージは残っていない。 簡単な食事を済ませると、俺はすぐに自分の部屋に籠もり、新たな力の検証を始めた。
「さて……『不動』と呼ばれた男の鉄壁、どれほどのものか」
俺は机の上にあったカッターナイフを手に取った。 刃を出し、切っ先を自分の左手の甲に向ける。普通なら狂気の沙汰だが、今の俺には確信があった。
「【絶対領域】」
意識した瞬間、皮膚の表面からわずか数ミリの空間に、薄い膜のような感覚が生じる。 俺は躊躇なく、カッターを振り下ろした。
カツンッ!
乾いた音が響き、刃が空中で止まった。 皮膚には傷ひとつついていない。触れている感覚すらない。まるで、俺と刃の間に見えないガラス板が存在しているようだ。
「すげぇ……」
俺は力を込め、さらに刃を押し込んだ。 グググ、と空間が軋むような抵抗を感じるが、刃は決して俺の皮膚に届かない。 意識を集中させると、障壁の強度が上がるのが分かる。その代わり、精神力がじわじわと削られていく感覚もあった。
『無敵だと思うなよ』
グリムが忠告する。
『物理攻撃には滅法強いが、精神力とスタミナを消費する。ずっと展開し続ければ、いずれガス欠になるぞ。それに、毒ガスや極度の高熱、酸欠なんかは防げないかもしれん』
「なるほどな。万能じゃないが、使いどころを見極めれば最強の盾になる」
俺はカッターを置き、ニヤリと笑った。 これで、不意打ちや遠距離攻撃への恐怖が劇的に減った。リミットの【スピードリミット】のような特殊な領域系にはまだ警戒が必要だが、少なくとも純粋な物理戦闘においては、俺は圧倒的なアドバンテージを得たことになる。
月曜日。 学校へ行くと、教室の空気はいつも通りだったが、少しだけざわついていた。
「横浜の港で大規模な抗争があったらしいぜ」
「爆発もあったんだろ? テロじゃね?」
クラスメートたちがスマホを見ながら話している。ニュースでは「暴力団同士の抗争による爆発事故」として報じられていた。内心焦っていたが、俺が使った閃光茸や煙幕苔の痕跡は、爆発事故という便利な言葉で処理されたようだ。
「よう」
教室の入り口から、明るい声が掛かる。 顔を上げると、隣のクラスの颯人が遊びに来ていた。
「なんか顔色ええな、風雅。いいことでもあったんか?」
「え? まあ、生きてるっていいなーって」
「げ、ダンジョン行き過ぎて脳みそ焼かれとるわ」
颯人は呆れたように笑うと、予鈴が鳴ったのを合図に手を振って自分の教室へ戻っていった。 他愛のない会話だが、今の俺にはこの日常が心地よかった。
放課後。 俺は逸る気持ちを抑えきれず、新宿ダンジョンへと向かった。 対人戦での性能は確認したが、モンスター相手の実戦データが欲しい。
三階層、オーガのエリア。 以前なら慎重に隠密行動をとっていた場所だが、今の俺は堂々と通路の真ん中を歩いていた。
「グオオオオッ!」
曲がり角からオーガが一体、棍棒を振り上げて突進してくる。 俺は避けない。防御の構えすらとらない。ただ、真っ直ぐに歩き続ける。
オーガの豪腕が唸りを上げ、俺の頭上へと振り下ろされた。
ガァンッ!!
凄まじい衝撃音が響き、足元の石畳が砕けた。 だが、俺は無傷で立っていた。 オーガが驚愕に目を見開く。自分の渾身の一撃が、何もない空間に阻まれたのだから無理もない。
「……重いな。だが、耐えられる」
衝撃はゼロではない。障壁を通して圧力がかかる感覚はある。だが、ダメージはない。 俺の周囲半径50センチ。そこは俺だけの聖域とでも呼ぼうかな。
「ハハッ……これなら、もっと深くへ行ける」
俺は自分の手のひらを握りしめた。 強くなった実感。それが俺をさらに奥へと駆り立てる。
『調子に乗るなよ。お前の悪い癖だ』
グリムが釘を刺すが、今の俺には心地よいBGM程度にしか聞こえなかった。
「分かってるよ。でも、今は少しだけこの全能感に浸らせてくれ」
「じゃあ、次はこっちの番だ」
俺は驚きで硬直しているオーガに向け、無言で右腕を引く。 同時に、足元から伸ばした【影】をオーガの胴体に巻き付け、強引にこちらへ引き寄せた。
前のめりになり、たたらを踏んで突っ込んでくる巨体。 そこに、【身体強化】で限界まで踏み込んだ右拳を、カウンターで合わせる。
「……ふっ」
ドゴォォォンッ!!
引き寄せられるオーガの運動エネルギーと、俺の拳の破壊力。二つの力が正面衝突し、逃げ場を失った衝撃波がオーガの体内で炸裂した。 巨体がくの字に折れ曲がり、砲弾のように吹き飛んで壁にめり込む。 戦いと呼ぶにはあまりに蹂躙。これが、今の俺の力だ。
俺は魔石を回収すると、足取り軽く四階層へと続く階段へ向かった。 Dランクに昇格し、新たな装備と最強の盾を手に入れた。 今の俺を止められるモンスターなど、この浅い階層にはいないだろう。
そう思っていた。 四階層の森に足を踏み入れるまでは。
「……なんだ、この静けさは」
いつもならウルフの遠吠えや、木々が擦れる音が聞こえるはずの森が、死んだように静まり返っていた。 風すら吹いていない。 ただ、濃密な血の匂いだけが、湿った空気と共に漂ってくる。
俺は【絶対領域】を展開し、警戒を最大レベルに引き上げた。 何かがいる。 オーガやロードウルフとは質の違う、異質な何かが。
森の奥、一本の大木の下。 そこに、それはいた。
全身を漆黒の甲冑で覆い、身の丈ほどもある大剣を背負った人型の騎士。 だが、その兜の奥に顔はなく、ただ青白い炎が揺らめいている。
「……デュラハン?」
図鑑で見たことがある。だが、ここは四階層だ。出現するはずのない、五階層以降のレアモンスター。 騎士は俺の気配に気づくと、ゆっくりと立ち上がった。 その瞬間、俺の肌が粟立った。
【絶対領域】越しでも伝わってくる、強烈な死のプレッシャー。 騎士が音もなく大剣を抜く。
「……来るぞ!』
グリムの警告と同時に、騎士の姿が掻き消えた。 速い――!?
キィンッ!!!
反応する間もなく、俺の目の前で火花が散った。 【絶対領域】が悲鳴を上げ、俺の体が後方へと弾き飛ばされる。 防御していなければ、今の一撃で両断されていた。
「ぐっ……!?」
俺は体勢を立て直し、冷や汗を拭う。 無敵だと思っていた盾が、一撃で揺らいだ。 やはりダンジョンは甘くない。
「上等だ……試運転には丁度いい相手だろ!」
俺は恐怖をねじ伏せ、黒い騎士に向かって構えをとった。 新たな力と、未知の強敵。 さて、試運転といこう。




