58話 心にダムはあった
ウチのアパートに引っ越してきた矢沢さんが、連載デビューした。
俺が原作をした、変身セーラー美少女戦士だ。
未来で大ヒットした漫画ではあったが、この時代で流行るかは未知数。
まぁ、もしダメだとしても、未来の漫画ネタはまだあるので、なんとかなるだろう。
ウチに遊びにやって来たコノミの友だちに、感想を聞いてみても概ね好評である。
俺が読んでも面白いと思う。
今後の展開次第でドンドン人気が出るのではなかろうか。
矢沢さんの連載デビュー作でもあるので、なんとか成功させてあげたい。
彼女は、母子家庭で苦労したお母さんに楽をさせてあげたいと、いつも願っているいい子なのである。
可能な限り協力してあげようじゃないか――。
そう思っていると、彼女が俺の秘密基地にやって来た。
なにか頼み事がありそうなのだが……。
俺は網戸を作っている最中だったので、矢沢さんには作業が終わるまで待ってもらうことにした。
「それじゃ、お湯を沸かしましょうか?」
彼女がお茶を淹れてくれるという。
「ええ? お客さんにそんなことをさせるわけには……」
「七輪で火を起こすのは慣れているので、すぐにできますよ」
そう言うと、彼女は七輪を持ってきて台所に置く。
彼女の言うとおり、まるで熟練の手技で、手際よく炭に火を点け始めた。
「それってなにを作っているんですか?」
「これは、窓にハメる網戸だよ。蚊よけ」
「ええ? いいなぁ……」
「作ってあげようか?」
「本当ですか?!」
「ああ、大家さんの寝室にも作ってあげたし。以前は隣近所にも作ってたんだよ」
「そうなんですねぇ」
「儲かると思ったのか、本職の大工が作り始めて、お役御免になってしまったが、はは」
キリのいいところまできたので、一旦作業を中断。
お湯も沸いたし、彼女にお茶を入れてもらう。
母子家庭で、お母さんを助けて家事を全部やっていたらしく、この歳でプロの技だ。
ちゃぶ台の前に座って、お茶を飲む。
「それで――お話とは?」
「あ、あのぉ……」
彼女が、なにかもじもじしている。
「もしかして、金がなくなった?」
「い、いえ! それは大丈夫です! ずっと節約してましたし、今回の引っ越しも全然お金がかかりませんでしたから」
まぁ、敷金礼金なしだしなぁ。
おかげで、八重樫君がへそを曲げてしまったが。
「ん~? それじゃ? お仕事の件?」
「あ、あの、漫画に関することと、言えなくもないんですが……」
「ああ、まぁ、とりあえず言ってみてよ」
話の内容を聞かないことには、どう対応していいのか解らんし。
「あの――私と、キスしてください!」
彼女がとんでもないことを言い出した。
「き、キス? キースーマカウケ……」
動揺した俺は、昔に観たアニメのセリフを口に出してしまった。
自分でもなんでそれが出たのが解らん。
「はい?」
「いやいや、矢沢さん。なんでそういうことになったのよ。意味が解らないのだけど」
「私って、漫画で恋愛シーンを描いているのに、キスもしたこともないんですよ」
「あ~、つまり――漫画の研究のために、してみたいと?」
「はい」
そういえば、この子はそういう子だった。
スケッチするからと言って、工事現場の肉体労働者に声をかけちゃうぐらいだし。
「あの――もっと自分を大切にしないとイカンよ」
まるで、ソープ――昭和風に言うとト○コ風呂で一発やったあと、嬢に説教をかますオヤジみたいなセリフだ。
「もちろん、そのつもりです!」
あまりにまっすぐな瞳で見つめられてしまう。
心の汚れたオッサンは、どうしたらいいのか。
俺もなんでこんなことで動揺しているのやら……。
「俺みたいなオッサンじゃなくて、もっと若い男とか、恰好いい人とかいるじゃない?」
「ええ? ダメですかぁ……?」
「いや、ダメじゃないんだけどねぇ……八重樫先生はどう?」
「私の漫画に出てくる精霊ってお兄さんみたいな感じじゃないですか。先生はちょっと違うんですよねぇ……」
「彼には、すごいお姉さんがいるから、やっぱり弟なんだよなぁ……」
「そうなんです! ちょっと頼りないというか……」
えらい言われようだな。
本人には絶対に聞かせられない。
こんなセリフを直に聞いたら、100%落ち込むに決まっているじゃないか。
「それはいいとして、考えは変わらない? 俺みたいなオッサンとファーストキスよ?」
「いいと思いますけど……」
「俺は役柄でいえばお父さんだろ?」
「そうですけどぉ……篠原さんみたいな人がいいなぁ――と」
いや~嬉しいけど、困ったなぁ。
いや、困ることはないんだけどさぁ。
彼女は未成年だし……いやいや、別に最後までやるわけじゃねぇから、キスぐらいはいいのか?
膜をぶっちぎるわけじゃねぇし。
「う~ん、それじゃ――とりあえず抱き合ってみよう」
「はい!」
手を伸ばすと、彼女が俺の胸に飛び込んできた。
俺に抱っこされているコノミを見て、「いいな」とか漏らしていた彼女だ。
こういう願望があったのかもしれないが。
「どう?」
「すご~い! 暖かい……」
「最近は暑いから、これが冬だったらもっといいんだけどなぁ」
「そうですねぇ……」
彼女が俺の身体をクンカクンカしている。
「普通の男は、タバコくさかったりするんだが。俺はタバコを吸わないからな」
「ああ、篠原さんは、そうですねぇ……そこも普通の男の人とちょっと変わっているかなぁ……」
そんな言葉を漏らしつつ、彼女は俺の身体の暖かみを味わっているようだ。
俺としても、女の子の柔らかい身体を堪能できるのだから、今日はいい日のハズなのだが……。
どうにも後ろめたい気持ちがついてまわる。
これが見ず知らずの女の子だってならまだしも、知り合いだからなぁ。
しかも苦労して頑張っている女の子。
手を出すのは、人として間違っているよな。
相原さんにバレたら本格的にヤバいし。
そう思うのだが、作家ってのはスケベな人間が多いのも事実。
過去の大作家などもスキャンダルを起こしまくっている。
そういう人たちは――ゲームに例えるならば、ステ振りが極端な状態なので、素行などに問題がある場合が多いのではあるまいか。
まぁ、女を捕まえてヤリまくっている俺が、人のことは言えねぇが……。
はてさて、このあとはどうしたらいいものか。
悩むなぁ……とか思いつつ、俺の指は弾力のある若い肌をなで回していた。
作品にかける情熱、それは理解できるのだが、もうちょっと自分というものを大事にしたほうがいいのではなかろうか。
俺が言っても説得力がゼロだな。
「矢沢さん、暑いだろ?」
「扇風機があるから大丈夫です」
彼女の所には扇風機はなかったな。
多分、そういう金も全部節約して貯金してあるか、お母さんに仕送りをしているものと思われる。
繰り返しになるが、なんとかしてあげたいと思う――のだが。
抱きついてクンカクンカされても、幸い風呂には入っているし、ヒカルコが洗濯もしてくれている。
タバコは吸わないし、酒も飲まない。
元時代にいた知り合いのソープ嬢の話では、客のにおいで病気が解るらしい。
酒とタバコをやっているやつは、内臓をやられている確率が高く、そのにおいで解ると言っていた。
年がら年中、客のにおいを嗅いでいる彼女たちが、達人になってもおかしくはない。
においのことを考えていると、彼女が離れた。
「もう、お終いかい?」
「いえ、今度は背中に抱きついてもいいですか?」
「はは、いいよ」
俺がそういうと、彼女が背中に抱きついた。
「すごい、大きい……」
「そうかな? 俺は小さいほうだと思うが……」
俺が大きいというのなら、あの小山のような岩山君はどうなる。
彼と一緒にいる丸顔の彼女の安心感は半端ないだろうな。
俺の背中をなで回しながら、クンカクンカしていた矢沢さんが離れた。
これで満足したのだろうか? ――なんて思っていると、彼女が正面にやってきた。
「やっぱりするの?」
「はい!」
メガネの中のキラキラお目々は真剣だ。
まぁこれも経験だし、仕事のためでもあるのだろうが、やらなけりゃ描けないというわけでもない。
こういうのはイマジネーションで、妄想の産物だからなぁ。
仕事仲間のエロ小説家いわく――風俗などで発散させるやつは、ロクなエロが書けない。
――と言っていた。
内部に溜め込んで溜め込んで、溜め込んだものを、妄想という形にして出力するのだと。
キスなんていつも普通にしているのに、なんかオッサンが言い訳ばかりしているな。
矢沢さんは引き下がる気配はないし、覚悟を決めて彼女と口づけすることにした。
いや、別に覚悟はいらねぇと思うのだが。
「ん」
目をつむる彼女を抱き寄せて、軽く口づけをする。
いつものように舌を入れたりはしない。
少女漫画のキスなら、こんな感じなんじゃなかろうか。
「はは、どんな感じ?」
「……ん~? あまりドキドキとかはしませんね……」
「やっぱり好きな人とするのが重要なんじゃないの?」
「……私、篠原さんのことを好きですけど……」
「その好きは、恋人とかじゃなくて、お父さん的なものを好きとか、そういう感じなんじゃ……」
「う~ん、解りません……あはは」
無邪気に笑う彼女に、俺の悪いクセが出た。
いや、大人の意地悪というべきか。
「それじゃ、つぎは大人のキスでもしてみる?」
「え?! 大人のですか?!」
彼女の目が再び輝いた。
俺とのファーストキスは、自分の思ったものと違ったのだろう。
そりゃ外国なら、親兄弟とも軽いキスはするわけだし。
これは、あれと変わらん。
「興味ある?」
「はい、どんな風に違うんですか?」
「まぁ、やってみれば解ると思うが……」
「はい!」
彼女が目をつむった。
「本当にするの?」
「もちろんです!」
彼女の言葉に、俺は軽く後悔をした。
いや、後悔することはないと思うのだが……とっととやればいいのだ。
「ふぅ」
俺は、彼女とキスをすると、離れて深呼吸した。
「篠原さん……」
「はいはい、これ以上はダメよ」
「……は、はい、あの――身体に電気が走ったみたいに……」
彼女が恥ずかしそうに、下を向いた。
「はは、さすがにこれを漫画に書いちゃだめだぞ。子どもが読むものだからな」
「これは無理だと思います」
「普通に口をくっつけるぐらいで終了だなぁ」
「はい」
「ああ、そうそう――相原さんには内緒な。こんなこと漫画家にしたとかバレたら、激怒されてしまう」
「そうですね」
「それから――作家ってやつらは、スケベな奴らが多いから要注意な。信用しちゃアカンよ。自分のことは棚に上げるけど」
「ふふっ……」
彼女がクスクスと笑っている。
だいぶ落ち着いたようだ。
そう考えると、彼女のオーバーオールが防波堤になったかもしれん。
簡単にスカートの中に手を入れるようにはいかんし。
「あ、そうだ!」
俺はいいことを思いついた。
「な、なんですか?」
「ちょっと、待ってな」
俺はふすまを開けて隣の部屋に入った。
「そっちってなんですか?」
「ああ、こっちはダメダメ! 写真の部屋で、写真やフィルムが沢山あるから」
俺が現像したエロい写真とかがあるし。
人には当然見せられない。
相手が男ならいいが、彼女は女の子だし。
「ふぁ、すごいですね……」
矢沢さんが、部屋の中にぶら下げられている写真に驚いている。
部屋の中に紐を引っ張り、そこに沢山の写真とフィルムがぶら下がっているのだ。
「さて……」
俺は部屋の奥にある物置から、長い棒を持ってきた。
「それってなんですか?」
俺の奇行に、彼女が丸い眼鏡の中で目を丸くしている。
「いやぁ、これを使って刀のアクションシーンのスケッチをしたらどうかと思ってね」
それなら、ここに住んでいた婆さんから引き継いだ、軍刀が置いてあるからそれを使えばいいと思うのだが――。
秘密というのはどこから漏れるか解らん。
「人に言わないでな」「内密に」「内緒で」
本当に知られたくないなら、人には話さないことだ。
そうすれば、こんなバラックの天井裏に軍刀や拳銃があるなんて、誰も知らないのだから。
「お願いできますか?!」
彼女は快く俺の提案に乗ってくれた。
それに、なにかモデルを頼みたくて、スケッチブックを持ってきたのだろうし。
「ああ、もちろん」
自分としてもナイスアイディアだと思った。
このまま、彼女とキックオフごっこをしていたら、やばいことになったかもしれない。
彼女の母親はもちろん、相原さんにも顔向けできない状態になった可能性大。
女史が見つけてきた金の卵を、危うくメッキの玩具にしてしまったかも。
――考えるだに恐ろしい。
俺は自分の理性に感謝をした。
「やっぱり、上半身脱いだほうがいいかね?」
「お願いします!」
別に鍛えている身体じゃねぇから、こういうときは恥ずかしいな。
オッサンになってきて腹も出ているし。
俺は、棒を持って構えた。
「昔、ちょっとだけ剣道をやったことがあるからな」
「そうなんですか」
「構えるときには、右手が前で左手が後ろ、そして右足が前」
摺足をしてみせる。
「決まっているんですか?」
「ああ、この握りで左足を出すと、自分の足を切っちゃう可能性があるから」
棒を振ってみせると、彼女がスケッチをしている。
「わかりました!」
「でも、左手で突くときには、左足が前だし」
左手だけで棒の底を持って突いてみせる。
「恰好いい!」
「そうかなぁ……」
甚だ疑問であるが、素振りのデモンストレーションをする。
これは剣道ではなくて、居合の振り方だ。
手に持った棒は短いが、切っ先が天井に当たるので注意する。
柄の下から手を入れて左に斜めに振り上げてから、切っ先を地面スレスレまで振り下ろす。
これが左バージョン。
右バージョンは――左手で柄を押すように右に振り上げて振り下ろす。
「とても参考になります!」
描いている絵をちょっと見せてもらうと、本当に上手い。
いわゆる少女漫画風の細いキャラの絵じゃなくて、美術のような絵なのだ。
美大などにいって、そっちの道に進んだら、あるいは……。
でも、芸術は金にならねぇからなぁ。
儲けてお母さんに楽をさせてあげたいっていうなら、やっぱり漫画だろう。
それに漫画なら一発ヒットを出せば、再販やリメイク、リバイバルなどでずっと金を産む可能性がある。
上半身裸のまま、恰好よさ気なポーズを決める。
要は、忘却の彼方に埋もれていた中二病を全開にすればいいのだ。
そうすれば、この時代には中二病もないから、そういうのも受けるかもしれないな。
魔法陣を描いて長ったらしい呪文とか、超必殺技とか。
その分野のパイオニアになれる。
「ありがとうございました~!」
「使えそう?」
「はい!」
さっきまでの怪しい雰囲気はなくなったようで、一安心。
「相原さんには言わないでくれよ~」
「大丈夫ですよ」
心配だ。
そんなに心配するなら、最初から手を出すなって話なのだが。
まぁねぇ、彼女から頼まれたことでもあるし。
実際、作品の糧にはできるのではないだろうか。
濃厚な恋愛シーンなら、ヒカルコに書かせるという手もある。
いくらなんでも、少女漫画にヒカルコのシナリオは重すぎるような気がするし。
「あ、そうそう。ウチに来たコノミの友だちに、矢沢さんの漫画を読んでもらったんだけど――」
「どうでした?!」
彼女の顔が、俺に目の前に迫ってきた。
「皆が面白いって言ってたよ」
「本当ですか?!」
「ああ、俺もそう思うし。ヒカルコも面白いと言っていた」
「ありがとうございます~!」
「あとは、口コミでどれだけ読者が増えるかだよねぇ」
「そうですねぇ」
創刊したばかりの雑誌で、読者もまだ少ない。
それに、編集としても売りたいのは、大御所が描いた漫画だろうし。
彼女のためにも、なんとか軌道に乗ってもらいたいところだがなぁ……。
スケッチブックを抱えて矢沢さんが帰ったので、俺は網戸の続きを作ることにした。
――そして迎えた6月最後の日曜日。
今日は競馬で宝塚記念という大レースがある。
そこにシンシンザンが出ているのだが、新聞によればオッズは多分1倍台……。
これはやっぱり買えない。
勝つのは間違いないんだけどなぁ……。
梅雨なので降ったり止んだりだが、今日は雨は降っていない。
曇っているが、クソ暑い。
これ、絶対に30℃超えてるだろう。
湿気もあるので最悪だ。
それでも夕方になると涼しくなり、夜でも30℃以下にならない――みたいなことはないのが救いだ。
飯を食った俺は出かけることにした。
「どこに行くの?」
「ちょっと知り合いの所に行ってくる。すぐにもどってくるぞ。なにか買うものはあるか?」
「ある」
パンツとキャミソール姿のヒカルコに、買い物リストを書いてもらった。
いつもなら一緒に行くとか騒ぐところだが、今日は暑いので言わない。
学校が休みのコノミも、下着姿のままで扇風機の前から離れない。
普通なら咎めたほうがいいのかもしれないが、ヒカルコが似たような恰好でいるから、注意もできん。
まぁ、俺のステテコ姿も似たようなものだし、巷のお父さんたちも、今日みたいな日はパンツとランニングで寝転がっているだろう。
「コノミ、今日はお友達は来るのか?」
「解らない」
「今日は暑いからなぁ」
「コクコク」
人の家にやってきて、コノミみたいな恰好もできないだろうし。
クーラーがあればいいけどねぇ。
家庭用が売り出されるのはもうちょっと先だろうし。
発売になってもめちゃ高くて、電気もバカ食い。
それに、アパートじゃちょっと無理だろうしなぁ。
その前に、家を買わなきゃな。
部屋の外に出ると、矢沢さんが顔を出した。
ランニングにショートパンツ姿で、健康的な太腿が眩しい。
どうやら古いズボンを切ってショートパンツに加工したもののようだ。
彼女は炊事場にいたらしい。
八重樫君はウチの冷蔵庫を使っているが、彼女は大家さんの冷蔵庫を使わせてもらっているという。
もうすっかりと家族だ。
「あ、篠原さん、どこに行くんですか?」
「ちょっと知り合いの所にな」
「へ~」
俺の頭に、スケッチをする彼女の姿が浮かぶ。
「矢沢さん、会いに行くやつは空手をやっているんだよ。彼にたのめば、恰好いい空手のポーズとかスケッチをさせてくれるかも」
俺が向かう先は――サントクに就職した岩山君の所だ。
会社がどうなっているのか、聞いてみないとな。
あの社長さんから連絡はないので、順調にいっていると思うのだが……。
もしかして倒産して、夜逃げしてたりして。
そうなると、俺が投資した大金もパー!
――ってことになる。
マジでそうなったら大損だ。
クソ暑いのに、冷や汗が出てくるぜ。
「本当ですか?! 行きます! 行きます!」
矢沢さんが、慌てて自分の部屋に戻って準備をするようだ。
さすがに、ショートパンツで外には出られないだろう。
外でもショートパンツが流行るのは、もうちょっとあとじゃなかろうか。
彼女を待っていると、隣のドアが開いた。
「篠原さん! 酷いじゃないですか!」
顔を出したのは八重樫君だ。
ランニングにパンツ一丁。
「はぁ? なにが?」
「僕も、連れていってくださいよ」
「ええ? いいけど……相手がOKするかは解らんぞ?」
「それは解ってます」
よくは解らんが、八重樫君も行くようだ。
休日の朝っぱらから、岩山君の所に遊びに行く。
嫌な顔をされたら、サントクの情報だけゲットしてすぐに帰ってこよう。
せっかくの休日を邪魔しちゃ悪いしな。
あの丸顔の彼女とニャンニャン(死語)するかもしれんし。
着替えた若い子を2人連れて、俺はアパートを出た。
「その方ってどこに住んでいるんですか?」
「私鉄の線路の向こうだな。そんなに遠くないぞ」
「どういう人なんですか?」
八重樫君はともかく、矢沢さんは興味津々だ。
「競馬場で知り合ってな。空手をやってて、身体が山のようにデカい」
「へぇ~、怖そうな人ですねぇ」
「いやいや、めちゃ優しい人よ」
会社の上司をぶん殴ってクビになったことは、言わないでおこう。
武士の情けだ。
2人を連れて、私鉄の線路沿いを歩く。
におってくるドブのにおいと、ちょっとしたスペースにもバラックが建っていて人が住んでいる、このカオス。
香港に九龍城砦という場所があったが、あそこまで大規模でないにしろ、それに近いものがある。
日本人はあそこをクーロンと呼んでいたが、地元では通じないらしい。
そういえば、今香港に行けば九龍城が見られるんだよなぁ。
見てみてぇなぁ……などと考えていると、岩山君のアパートに到着した。
「ここですか?」
八重樫君がアパートを見上げている。
「ああ、ちょっと見てくる」
「「はい」」
階段を上り、ドアをノックした。
「岩山君~あっそっびっまっしょう~」
「「ぶぶ~っ!」」
俺の声に、下で2人が噴き出している。
失礼な。男の子を誘うときの正式な挨拶だろうが。
アパートの中からバタバタと音がして、ドアが開いた。
「おはようございまっす!」
玄関一杯に大きな男が挟まっている。
「はい、おはよう! ちょっと時間取れる? 30分ぐらい」
「うす!」
ズボンにランニング姿の岩山君と一緒に、下に降りた。
アパートの玄関からは、いつものように大きなブカブカのシャツを着た彼女が覗いている。
下についた俺は、岩山君に連れてきた2人を紹介した。
「こちらは、俺の知り合いの漫画家さんだ」
「うす! 漫画家っすか?!」
「そうそう。最近売出中の新進気鋭だぞ」
「「おはようございます~」」
「それで、30分1000円でバイトしない?」
「うす!」
どうやら、やってくれるようだ。
バイトの説明をする。
「漫画で使うアクションシーンの参考でさ、空手の技を見せてあげてほしいんだよね」
「うす!」
やってくれるようだ。
気合を入れて、彼がランニングを脱ぐと、三戦の構えをした。
「すごいですね! 本当に格闘家って感じです!」
八重樫君の言うとおり、ボディビルなどではなく、技によって鍛えられた身体だ。
「ひゃ~!」
矢沢さんが目を丸くしている。
岩山君に空手の型をしてもらい、それを漫画家2人がスケッチ――いやクロッキーか?
そのついでに、サントクの状況を聞く。
「岩山君が休日にゆっくりしているということは、サントクは大丈夫そうなんだろ?」
「うす!」
「カバーつき爪切りの生産はなんとかなった?」
「明日には、荷物が入ってくると話をしてたっす!」
「おお~、上手くいっているようだなぁ。君に紹介した所が、いきなり潰れたりしなくてよかったよ」
いや、マジでそれが心配だったのよ。
それなら最初から紹介するなって話なのだが、彼も仕事がなくて難儀していたし。
優秀な人を他の企業に取られたくないじゃん。
「うす!」
そういえば、こういうシーンを撮るために、カメラを持ってくればよかったか。
でも、手巻きのカメラで、モータードライブではない。
連写はできないから、こういうアクションシーンじゃ役に立たないような……。
ハイキックなど、本当に頭の上まで脚が上がる。
ゴツさに似合わないぐらいに身体が柔軟だし、脚1本でも静止ができるバランス。
「すごい……」
八重樫君がそう漏らすぐらいに、すごい。
「後ろ回し蹴りってできる?」
「うす!」
彼が後ろを向くと、そこからくるりと回転し、空気を切り裂く蹴りが繰り出された。
「恰好いい!」
矢沢さんも大喜びだ。
「格闘シーンに使えるな」
「はい!」
暑い中、皆で汗だくになっていると、岩山君の彼女がトレイに麦茶を持ってきた。
「あざーす!」
「「ありがとうございます」」
「お? 冷えてる? 冷蔵庫買ったの?」
「うす!」
競馬の金があるところに、就職もしたしな。
サントクもなんとか大丈夫そうだと解ったので、財布の紐が緩んだのだろう。
こう暑いと、たしかに冷蔵庫は欲しくなる。
食材も傷みやすくなるしな。
「あの……なにをなさっているんですか?」
岩山君の彼女は、俺たちのやっていることが不思議なのだろう。
それに1人は女の子だしな。
「漫画家さん?」
「そう、描いたのを見せてあげなよ」
「いいですよ」「どうぞ」
八重樫君と矢沢さんがスケッチブックを2人に見せた。
絵柄は違うのだが、2人ともやはり上手い。
「すごいですねぇ!」
「うす!」
「もしかして、漫画にこのポーズが採用されるかもしれないぞ」
「なんていう漫画なんですか?」
「宇宙戦艦ムサシだ」
「それ、知ってるっす!」
どうやら、岩山君はムサシを知っているらしい。
「漫画を買っているとか?」
「いいえ、床屋の待合室で読んだっす」
「今、すごい人気が出てきたところなんだ。なぁ、先生」
「はぁ、まぁ」
彼は、そう言われて恥ずかしそうである。
ムサシは知っていたが、さすがに矢沢さんの漫画は知らないようだ。
そりゃ創刊されたばかりだしな。
「あの……」
俺の所に、岩山君の彼女がやって来て、頭を下げた。
「お? どうしたの?」
「あの、彼の就職のこととか……色々とありがとうございました」
「うす……」
岩山君も頭を下げてきた。
「ああ、いいっていいって――彼には色々とお世話になったから、おあいこだよ、ははは」
急遽きまったスケッチ会であったが、先生2人には有意義だったようだ。
よかった。
サントクの様子も聞けたしな。
明日にも、サントクに行って様子を見てこようかと思う。
なにせ、あそこが成功しないと俺の金にならないし。
お土産にアイスを買って帰ると、コノミがすごく喜んだ。
今日は暑いので、やっぱり友だちは遊びに来ないらしい。





