56話 偏見
八重樫君と同様に、漫画家を目指している矢沢さんという女の子。
そろそろ、彼女が描いた漫画が載る雑誌が新創刊になる。
プロデビューだ。
そんなおり、俺たちに部屋を貸してくれてる大家さんが、2階で余っている部屋を矢沢さんに貸してくれることになった。
喜んだ彼女は即OKを出して、数日のうちに引っ越しの準備をしてしまった。
大家さんからトラックを貸してくれる所を紹介してもらうと、早速借りて、矢沢さんのアパートに向かう。
アパートの住民たちや、近所の人たちにも手伝ってもらい、荷物の積み込みはすぐに終わった。
まぁ、それからが少々長かったのだが、やっと荷物を満載したオート三輪は出発した。
俺の隣に座っている矢沢さんは、別れを惜しんでいる感じではない。
むしろ、新しい住処でプロデビューできる期待のほうが上回っているのではないだろうか。
「矢沢さん、随分とアパートの人たちと仲がよかったんだね」
「はい、皆さんにはとてもよくしていただきました」
「俺は、仕事が忙しくなると人づき合いができなくなるから、最初からしないことが多いんだけどねぇ」
「……」
彼女が黙っている。
「ん? どうかした?」
「あの、いえ――アパートの人たちには大変よくしていただいたのですけど、仕事の締切があると時間が取られてしまって困ることが多くて……」
「ははは――まぁ、プロはそうだよねぇ……」
なんのことはない。
仕事が入ってくるようになると、人づき合いが少々疎ましくなったわけだな。
創作にはノリが必要だ。
ノッているときに、人間関係を持ち込まれたらテンションが下がる。
暇なときにはよかったかもしれないが、連載が始まれば常に多忙――人間関係をリセットしたくなったわけだ。
解るなぁ。
俺の場合は、昭和に飛んでくるという奇天烈な現象で、強制的にリセットされてしまったが。
「それじゃ、急な引っ越しに乗り気だったのは、仕事に集中できる環境がほしかったせいもあるの?」
「そうなんです」
「そうだよねぇ。矢沢さんには、お母さんに早く楽をさせてあげたいという大きな目標があるしねぇ」
「はい!」
通りに出るために、スピードを落としてゆっくりと曲がった。
倒したら大変なので、より慎重に走る。
そもそもブレーキは効かないし、トロトロ走行も仕方ない。
荷物を積んだオート三輪は鈍亀――道行く車もそれを解っているから、ドンドン追い越していく。
引っ越しはこの1回で終わるのだから、なにも焦る必要はない。
来るときには30分かかったが、1時間でもかけてゆっくりと向かえばいい。
なによりも安全第一だ。
矢沢さんの荷物も積んでいるし、若い女の子が助手席にいる。
事故って怪我でもさせたら大変だ。
身体の傷も大変だが、漫画に使う商売道具が使えなくなったりしたら、俺は一生後悔するかもしれん。
車のボディはペラペラだし、交通法規はあるようでないような昭和だ。
十分に気をつけてハンドルを握る。
「あの~」
「なんだい?」
真剣にハンドルを握っている俺が、ずっと無口だったので、矢沢さんが話しかけてきた。
「篠原さんもお忙しいところ、ごめんなさい」
「ああ、それは構わんよ。矢沢さんの仕事に俺も関係しているわけだし」
「ありがとうございます」
「はは……」
しばらく、また無言が続いたのだが……。
「あの~相原さんから聞いたのですけど……」
「え? なにを聞いたんだい?」
「篠原さんって――『女のくせに!』なんて言わない人だと、聞きました」
相原さんも、なにを話しているんだか。
「ああ、言わないねぇ。俺は実力主義者だから、歳や性別は関係ないし」
「そうなんですね」
「歳食っただけで偉そうにしているやつを見ると、なんだかなぁ――と思うよ」
「これも相原さんから、聞いたのですが――」
女性漫画家が自分の稼ぎで家を建てたら、「女のくせに家なんて建てやがって、生意気だ!」とか言われたらしい。
まったく、ひどい話だ。
令和だったら、SNSで炎上しまくりだが、男尊女卑しまくり――これが昭和。
「それは、ただの僻みってやつだろ。それじゃ、男のくせに家も建てられないお前はなんなんだ――って話になる」
「そうですよね……」
「でもまぁ、悪口も人気のウチだからな。売れてない漫画家がそんなことを言われることもないし」
「はい」
「矢沢さんも大ヒット飛ばして、豪邸にお母さんを住まわせてあげないと、はは」
「頑張ります!」
俺は、年寄りが「最近の若いやつは――」と言うのが嫌いだが、若いやつの「老害」という言葉も嫌いだ。
だいたい、「老害」とか言っているやつが、真っ先に「老害」になるからな。
大通りをトロトロと走ってきて、左折して路地に入る。
ここからは細い路地だが、小さいオート三輪のおかげで楽勝だ。
秘密基地の荷物を整理したときに、デカいトラックが路地に入ってきたから、なせばなると思うのだが、あいにく俺にそんなテクはない。
俺の秘密基地の前を通る。
「ここが、俺の仕事部屋なんだよ」
俺は、オート三輪の横にあるバラックを指した。
「え? ここがですか?」
「ああ、コノミの友だちとか遊びにくると、俺が邪魔だろ?」
「私の仕事場も、ここでよかったかも……」
「え? ここは、倉庫代わりに使っているだけだからなぁ。人が住めるような状態じゃないぞ」
まぁ、ここに住んでいた婆さんには悪いが。
「けど、私の実家もこんな感じですよ」
「そ、そうなのか……苦労してたんだなぁ……」
「そうでもないですけど」
住めば都っていうけどなぁ。
「儲けて、お隣ぐらいの家を買いたいところだな」
「うわぁ、すごい家ですねぇ」
「貿易会社の社長さんらしいぞ」
「そうなんですねぇ」
話している間に左折して、バックでアパートの前まで進んでいく。
オート三輪には、バックギアがついてなくてエンジンを逆転させるタイプもあったらしいが、こいつはそれじゃない。
荷物を満載したオート三輪は、アパート前に無事に到着した。
「はい、到着~」
「ありがとうございました」
「まだまだ、トラックを返すまでが引っ越しです」
「はい!」
車から降りて、ロープを解くとシートを外す。
「おかえりなさい」
ヒカルコがやって来た。
コノミも階段を降りてきて、俺に抱きつく。
「帰ってきてたのか。それじゃ、あのお姉さんの引っ越しだから、手伝ってな」
「うん!」
「でも、階段の所は危ないから、2階で手伝いな」
「わかった」
コノミが階段を上がっていったのを確認して、ヒカルコにも手伝わせる。
「ヒカルコ、持てるものだけでいいから手伝ってくれ。そんなに量はないからな」
「うん」
ヒカルコが本の束を持つと、八重樫君が階段を降りてきた。
「手伝いますよ」
「引っ越しは反対じゃなかったのか?」
「別に反対はしてないですけど……」
俺の嫌味に、ちょっと拗ねた顔をしている。
「篠原さ~ん、昼食は私が作ってもよろしい?」
家の中から大家さんの声が聞こえる。
「は~い! お願いしま~す!」
女性陣には軽いものを、俺と八重樫君は重いものを運ぶ。
タンスは中身が出してあるので、ドンガラだけで重くはない。
2人で運んでいると、隣近所の親父たちが出てきた。
今日は休みなので、ここでも暇を持て余しているのだろう。
ズボンにランニングとか、ステテコ姿とか、いかにもオッサンだ。
「おお、引っ越しかい!」
「はい、矢沢です。よろしくお願いしま~す」
矢沢さんが、オヤジたちにモテモテだ。
可愛い子が頑張っていると、まるで誘蛾灯に集まる虫のようにオッサンたちが集まってくる。
彼女は、実はオヤジキラーなのかもしれない。
暇なオッサンたちの集まりでも、人数が揃えば早い。
元々荷物も多くないし、あっという間に終わりそうだ。
やれやれと思っていると、オッサンたちが矢沢さんを口説き始めた。
「ウチに歳頃の息子がいるんだが、どうだろう?」
お決まりの嫁勧誘だが、他にも孫の嫁に――みたいな爺もいる。
「ごめんなさい。私は仕事がありますので~」
「仕事はなにをしてるんだい?」
「あの……」
彼女が答えにくそうなので、助け舟を出してやる。
前のアパートの住民たちは、漫画家の彼女に好意的だったが、漫画イコールくだらない――という固定観念の持ち主は結構いる。
「彼女は出版関係の仕事をしているんですよ」
「それでも、いずれは嫁に行くんだろう?」
これだ。
昭和の連中ってのは、女イコール結婚して家庭に入るのが当たり前だとか思っている。
「あなた方は頭が古いなぁ。これからの時代は、女性の社会進出の時代だぜ? 女なら結婚して家庭に入るなんて考えは改めたほうがいい」
「女は家庭に入るもんだろう?」
「それが古いって言っているんだよ。近いうちに女性の会社社長も当たり前になるし、女性の国会議員や総理大臣だって生まれる」
まぁ、女性総理は令和にも実現してなかったけどな。
「女が総理になったりしたら、日本も終わりだな」「ははは」
俺は、オッサンたちの言葉にカチンときた。
「お前ら! 荷物をその場に置きやがれ! お前らみたいのに、矢沢さんの引っ越しを手伝ってもらったら、ツキが落ちるわ!」
「なんだとぉ!」「言わせておけば」
男たちが、腕まくりをし始めた。
「だいたいだな! 彼女は――女手1つで育ててくれたお母さんに楽をさせてあげたくて、一生懸命に働いているってのに、そんな彼女を笑えるだけ、お前らは立派な人間なのか?!」
「う! べ、別に笑ってはいねぇじゃねぇか……」
ヒカルコも、オッサンたちを睨みつけている。
そこに、家の中で話を聞いていたらしい、大家さんが突っ込んできた。
「うちに入る女の子にひどいことを言うなんて! 皆さんとは、ご近所づき合いも考えさせてもらわないといけませんねぇ!」
「か、片桐さんまで……」「うう……」
やっぱり、いつも温和な大家さんだが、怒ると怖い。
彼女の迫力に負けて、オッサンたちがたじろいている。
「ウチの大家さんだって、アパートを沢山持って経営している――いわば女社長さんだからな。女がトップになったら組織が終わるとか言われたら、そりゃ怒るに決まっている」
「篠原さんの言う通りよ! こんなに悔しいことがありますか?!」
大家さんがブチギレている。
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃ……」「そう……」
「今になぁ、この矢沢さんが稼いで家を建てたら、お前ら全員並べて土下座させてやるからな」
「「「……」」」
男たちがしどろもどろになっていると、近所の家から男たちの奥さんらしき中年女性が出てきた。
頭にカールを巻いて、エプロンをしている。
「あんたぁ! 家でゴロゴロしていると思ったら、なにをご近所と揉めてるのさ!」
「いやいや、揉めてねぇから!」
どうやら、一番俺に絡んでいたオッサンの奥さんらしい。
「片桐さん、ウチのアホ亭主が、申しわけございません!」
彼女が大家さんに頭を下げた。
「旦那さんは、女性が働くことに関して随分と偏見を持たれているようですね」
「申しわけございません!」
「私がアパート経営をしている件でも、陰でなにか仰っているのではないですか?」
「いいえ、決してそんなことは!」
女性がペコペコと頭を下げまくっている。
ウチの大家さん、ここらへんの有力者で大地主でもあるし、町内のまとめ役でもある。
べつに、奥さんが悪いわけでもないし、隣近所と争いたいわけではない。
引っ越しの手伝いは、ここで終了ということにしてもらった。
矢沢さんも、女の悪口を言う人に手伝ってもらいたくはねぇだろうし。
「ごめんなさいねぇ、矢沢さん。引っ越し早々に嫌な思いをさせてしまって」
「え、大丈夫です」
「いや、すまねぇ。俺が突っかからなきゃよかったんだ……」
「いいえぇ! 篠原さんの言うことは間違っていませんでしたよ!」
「うん!」
大家さんの言葉に、ヒカルコもうなずいている。
「あの、私は大丈夫ですから。よく、こういうことはあるんですよ」
「さすが、苦労人だから、たくましいなぁ……」
「そんなことはないんですけど……」
まぁ、騒ぎになる前に、大きな荷物はあらかた運び終わっていたので、すぐに引っ越しは終了した。
あとは、オート三輪を返しに行けばOKだ。
「スマン! オート三輪を返してくるからさ!」
「あ! 私も行きます!」
矢沢さんも一緒に行くようだ。
今回の借り手は彼女だしな。
彼女が荷物の中から、リボンがついた紙の箱を持ってきた。
トラックを貸してもらったお礼だろう。
ちゃんと用意していたのか。
やっぱり、そつがないな。
2人でオート三輪に乗り込んだ。
「いくらか包んだかい?」
「はい!」
それなら大丈夫だな。
「あ、あの……篠原さん、ありがとうございます」
「ああ、さっきのか? スマンなぁ、揉めちゃって……」
「いいえ、ありがとうございます!」
彼女の顔を見たが、ダメージを受けているようには見えない。
今までの苦労からすれば、このぐらいは平気なのだろうか。
めちゃくちゃメンタル強いなぁ……。
出発するとスタンドに寄り、ガソリンを入れると、オート三輪を貸してくれた家に到着した。
俺がトラックを止めて外で待っていると、出てきたランニング姿の爺さんに矢沢さんがお礼を手渡している。
彼は遠慮しているようだが、もらうものをもらってくれないと、次に頼むときに困るからと、強引に押しつけた。
「ガソリンも満タンにしましたから」
「別にいいのに……」
爺さんが苦笑いをしている。
「そうはいきませんよ、ははは」
来た早々にトラブルは少々あったが、引っ越しは終わった。
あとの片付けは、女性陣に任せよう。
男たちにゃ、見せたくないものもあるだろうし。
――しばらくして、昼食の用意ができたらしいから、皆で食べることにした。
食事は大家さんが作ってくれたので、感謝することにしよう。
新しい矢沢さんの部屋に、大きなテーブルを持ち込んで皆で食う。
部屋の中は、すでに配置が終わっており、あとは細かな整理だけだろう。
俺たちが引っ越したときには蕎麦を食べたが、大家さんが昼食を作ってくれたということは、この料理が引っ越し蕎麦代わりなのだろう。
メニューは、豚汁とおにぎり、甘い卵焼き、そしてタクアン。
タクアンは多分自家製――昔は普通に家で漬物を漬けていたし、それが女性の仕事だった。
なんか定番の食事って感じだが、だからこそ令和でも生き残っている。
これにプラスすることの、ウインナーがほしいところだが、年寄りの大家さんにはちょっと馴染みがないのかもしれない。
この時代でも、肉屋ではウインナーは売っているし、魚肉ソーセージもある。
俺の左隣にはヒカルコ、右にはコノミがいたのだが、おにぎりを持った女の子は俺の膝の上に乗って食べはじめた。
「まったく、失礼しちゃうわ!」
大家さんがまだ憤慨しているのだが、さっきの女性蔑視のことだろう。
「矢沢さん、大家さんも君のお母さんと同じように、女手1つで娘さんを育てられたんだよ」
「そうなんですね~」
「女だったら結婚するのは当然。仕事も辞めて子どもを産んで家庭を守る――という、固定観念を払拭するのには、かなり時間がかかるだろうなぁ」
「けど、男の考えって普通はそうなんじゃないですかねぇ」
八重樫君が豚汁を啜っているが、彼から女性蔑視の言葉は聞いたことがないので、平成令和に近い考えの持ち主のようだ。
彼から浮いた話を聞いたことがないが、当面は漫画家として安定させることを考えているのだろう。
それゆえ女のことは後回しなのかもしれないが――彼のお姉さんを見ても、普通に家庭に入ってみたいな感じではないように思える。
やはり、そういう家庭で育ったせいだろうか。
「そんな世の中の考えを、変えていかないとな」
「前にも言ったけど、私も再婚しろ再婚しろ再婚しろ――と耳にタコができるぐらい言われたから!」
大家さんが、昔のことを思い出したようで目を吊り上げている。
「それも、女性がアパート経営をしている、男のやっかみですよね」
「もう――今考えると、本当にそうなのよねぇ」
大家さんが、おにぎりにかぶりついた。
「いつもここに来ている女性編集者の方がいらっしゃるじゃないですか」
「ええ、綺麗ですごく賢そうな方よね」
大家さんから見てもそう見えるのか。
「あの人も仕事がすごくできるから、男性社員から嫌がらせをよく受けるそうですよ」
「まぁ本当に?! 許せないわぁ!」
「私も相原さんから聞きました」
矢沢さんもうなずいている。
「矢沢さんが、彼女から聞いたらしいのですが――」
女性漫画家が家を買ったら、「女のくせに!」とか言われた話をした。
「まぁ! 本当に?!」
話を聞いた大家さんがまた激怒しているのだが、一緒になってヒカルコも怒っている。
「ショウイチ、あーん!」
俺の膝の上にいたコノミが、箸に刺した赤いものを差し出してきた。
「コノミ、人参が嫌いだから、俺に食べさせようとしているな?」
「……」
俺に企みがバレて彼女が困った顔をしている。
バレないと思ったのだろうか。
「いい子だから、1つだけ食べような。そうしたら、残りは俺が食べてあげるから」
とりあえず、彼女が差し出した人参を食う。
令和の人参は甘いのが多かったが、この時代の人参は、モロ人参くさい。
これじゃ嫌いな子どもが多くても仕方ないって感じはする。
俺が食ってもあまり美味くねぇし。
まぁ、食糧難とかの時代なら、そんなことも言ってられねぇとは思うのだが。
「コク」
うなずいた彼女が、意を決して小さい人参を口に入れた。
なんかすごい顔をしているのだが、あまり噛まずにそのまま飲み込んだように見える。
なかなか見られないコノミの顔を見たような気がするが、可愛いのでこれはこれでよしとした。
「よしよし、いい子」
コノミの頭をなでてやると、彼女のお椀から人参を食べてあげた。
「……いいなぁ……」
ポツリとつぶやく声が聞こえたのだが、そちらを見ると矢沢さんだった。
「なにがいいんだ? 矢沢さん」
「ひょ!?」
彼女が面白い顔になっている。
もしかして、無意識でつぶやいたのだろうか。
「嫌いなものを食べてもらえるのがいいのか。それとも、膝の上に乗せてもらえるのがいいのか」
「ち、ち、違います!」
「え~? 恥ずかしがる必要ないじゃん」
「……」
彼女が顔を真っ赤にしている。
「そういえば、俺ぐらいの歳なら、矢沢さんみたいな娘がいてもおかしくはないんだなぁ」
「それもそうですね」
俺の言葉に先生が反応した。
「八重樫君みたいな息子がいてもおかしくはないし――もしかして、君のお父さんと同じぐらいの歳か?」
「いいえ、父はもう少し上ですよ」
「ああ、お姉さんがいるしなぁ」
「先生ってお姉さんがいるんですか?」
矢沢さんは、彼のお姉さんに興味があるらしい。
「ものすごい美人だぞ? 街の中を歩いたら、10人中10人が振り向くような……」
「私もお会いしたけど、びっくりしてしまったわねぇ」
大家さんから見てもそう思うらしい。
「八重樫君と全然似てないしなぁ、ははは」
「もう、勘弁してくださいよ……」
「へぇ~そうなんですねぇ」
話をウヤムヤにしようとしている矢沢さんにツッコミを入れてみた。
「さっきの話なんだけど、なにがいいの? 矢沢さん」
「え?!」
「もしかして、お父さんがほしかったとか?」
「え?! あ、あの……」
彼女が、顔を赤くしてしどろもどろになっているので、まぁ――そんなところなのだろう。
「でもなぁ、いるか? 親父って――」
「いらないですね」
八重樫君は即答した。
「俺もなぁ――やつと顔を合わせたときには、『こんちくしょう! 死ねぇ!』の取っ組み合いにしかならなかったし……」
「僕も、もう父が死んでも田舎に帰ることもないでしょうし」
「だめよぉ八重樫さん、そういうこと言っちゃ……」
まぁ、大家さんはそう言うのだが……。
「そう言う大家さんだって、『とっとと死ねよ、このクソオヤジ!』みたいな人がいるでしょ?」
「……そ、そりゃいましたけどぉ……」
俺の言葉に大家さんが口を濁す。
彼女のその顔を見て、俺はピンときた。
「その人って、大家さんに『再婚しろ再婚しろ』って言ってた人ですよね?」
「え?! どうして解るのぉ?」
「いやぁ、小説とか書いていると、ゲスい人間とか、面白人間とかに敏感になっちゃって、はは」
「ショウイチ、すごい」
黙って話を聞いていたヒカルコが、変な感心をしている。
「別にすごかねぇよ。なんでも物語に置き換えちゃうから、ゲスの勘ぐりがはかどるしな。あんまりいい趣味じゃねぇし」
「でも、物語を作るときには役に立ちそうですよねぇ」
「八重樫先生も、ずっとプロでやってればそうなるよ、はは」
大家さんに再婚をしつこく勧めていたのは、叔父さんだったらしい。
「ゲスの勘ぐりついでに推測すると――その叔父さんの息のかかった男と大家さんをくっつけて、財産ねらってたんじゃないですかねぇ」
「あ~、やっぱりそう思う?」
――彼女がそう言うということは、大家さんも気づいていたのだろう。
「まぁ、多分ですけど。結婚すれば、財産の半分は旦那のものになるでしょうし」
「そういう感じはしてたのよねぇ……」
「うへぇ――なんかドロドロしてますねぇ」
「そうは言うが八重樫君。君の実家だって金持ちなんだから、そういう話がきていると思うぞ。政略結婚なんて、だいたいそんなもんだし」
「僕は飛び出しちゃいましたけど、姉の所にはきているかもしれません」
「けど、あの人が半端な所に嫁ぐイメージができないがなぁ……。」
どこかの名家とか、国会議員の二世の嫁とかそういう感じの所を狙っているんじゃなかろうか。
「弟の僕が言うのもなんですけど……めちゃくちゃプライド高い人ですからね」
「やっぱり、そうだよなぁ」
「でも、八重樫さんのことは、心配していたようよ?」
「ただの世間体を保つためですよ」
大家さんの言葉にも彼は顔色を変えず、相変わらず姉に関しては辛辣だ。
「まぁなんだ、矢沢さん。君は父親に憧れみたいなものがあるのかもしれないけど、実際にいたら、『死ねぇ! クソ親父!』『こんちくしょう!』になるからさ、はは」
「そうでしょうか?」
「実際、年頃の女性と父親って仲が悪いことが多いよ。なぁ、ヒカルコ」
「うん」
こいつも、間髪入れず答えた。
「一種の巣立ち反応みたいなものなんだろう。生物学的には普通なんじゃない?」
「反抗期とかもそうですかね?」
八重樫君の言葉どおりだろう。
「でも……篠原さんみたいなお父さんがほしかったです」
「私もねぇ、前にも言ったけど、旦那が篠原さんみたいな人だったら、苦労しなかったのに……」
「大家さんまで。そんな大したやつじゃないんですけどねぇ。タダのろくでなしだし、はは」
いや、マジでな。
盗撮するし、女とヤリまくって捨てるし、博打で金は稼ぐし。
「篠原さんがいてくれて、僕も本当に助かりました」
「八重樫君と矢沢さんは、ほら――俺も金儲けのために、お互い様って感じだしさ」
「けど、あんまり篠原さんに利点がないような……」
「そんなことはないぞ。単行本や商品化なんてことになれば、俺にも大金が転がり込んでくるし。実際に、ムサシの単行本の話がきてるんだろ?」
「はい」
毎号巻頭になるぐらいの人気らしいし、それは当然だろう。
令和じゃどんな本でも単行本になっていたが、この時代は人気作品じゃないと単行本にはならない。
雑誌で連載していたが、単行本化もされず埋もれてしまった作品が沢山ある。
それが読みたければ、高い金を出して当時の雑誌を手に入れるしかない。
俺は探したことがないのだが、国会図書館でもそういう昔の雑誌を読めたりするのだろうか?
「え~?! 単行本ですか?! すごいですね!」
「矢沢さんも引っ越したし、仕事にガンガン打ち込める環境になってよかったじゃないか」
「はい!」
「それに、近くに仕事に詳しい人がいて、相談できるってのは大きいからな」
「そうなんですよねぇ……1人で悩んだりしても、いいのか悪いのか解らないことが多くて……」
矢沢さんは、漫画でも苦労をしているようだ。
「僕もそうだったから、解るよ」
「そういう場合は、八重樫先生でも俺でも相談すればいい」
「そうですよね! よ~し、私も頑張るぞぉ!」
「なんか、ここに漫画家が沢山集まって、第2のト○ワ荘みたいになるかもしれないなぁ」
「ト○ワ荘って、帝塚先生もいらした、漫画家が集まっているアパートですよね?」
八重樫君もト○ワ荘のことは知っていたようだ。
「昭和が終わったら、ここのアパートがN○Kのドラマや映画になったりするかもしれないぞ」
「そうなったら、絶対に篠原さんも出てきますよね」
「コクコク!」
ヒカルコもうなずいているが、そりゃ困る。
「え~? そりゃ、なんていうか困るなぁ。有名になったりしたら、俺の悪事が色々と根掘り葉掘り……」
「……篠原さん、どうやってお金を稼いでいるのか解りませんでしたが、そういうことをしていたんですか?」
「ははは、詳しくは言えんが――八重樫先生には迷惑はかからんと思うよ」
基本的には、俺は表に出てないからな。
実際、ムサシの作者欄にも八重樫君の名前しかないし。
俺がなにかやらかしたとしても、害が及ぶことはないはず。
「あやしい……ですね……」
矢沢さんもそんなことを言っている。
「原作の手伝いをしているけど、俺は名前を出してないだろ? なにかあっても大丈夫だよ」
「そんなに悪いことしてるんですか?」
「いやいや、違う違う、ははは。本業は小説家と発明家だし」
「でも、篠原さんの発明とか見たことがないし……」
「そろそろ、第一弾が発売されるかもしれないぞ」
「なにが売りに出されるんですか?」
矢沢さんが、興味があるのか身を乗り出してきた。
「八重樫君には以前見せたと思うが、爪切りのカバーだ」
「ああ、あれですか?! あれは便利ですよねぇ」
「そう! 発売されれば絶対に売れると思うんだ。そうすれば、金がたんまりと入ってくる」
「それで――悪いことというのは?」
「矢沢さん、勘弁してくれ。別に非合法なことをしているわけじゃないぞ。人には秘密だけどな」
「あやしい……」
「人には言えないこととか、知られたくないこととかあるだろう」
「……」
まぁ、納得はしてないようだが、納得してくれたようだ。
さっきのドラマの話みたいなものが作られたら、謎のオッサンとして語られることになるんだろうな。
八重樫君と矢沢さんは、俺の正体が気になるようだが、ヒカルコは黙々と食事をしている。
俺のことはあまり気にしていないらしい。
いや、気にはなっているのかもしれないが、あえて聞かないようにしているのだろう。
頭はいいのだから、そのぐらいの空気は読めるってことだ。
あまりしつこいと、俺も追い出すからな。
もう1人で暮らせるぐらいの金を稼いでいるわけだし。
つまらんトラブルもあったが、矢沢さんの引っ越しは無事に終わった――その夜。
相原さんがやって来た。





