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昭和38年 ~令和最新型のアラフォーが混迷の昭和にタイムスリップしたら~【なろう版】  作者: 朝倉一二三


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55話 おひっこし


 八重樫先生の漫画は順調だが、今度デビューをする矢沢さんが問題だ。

 未来にヒットしたネタを提供したからといって、絶対に売れるとは限らないのが難しいところ。

 これは人事を尽くして天命を待つしかないだろう。


 その矢沢さんだが、大家さんがリンゴを持ってきた際、引っ越しの話が出た。

 どうやら大家さんが、彼女のことを気に入ってしまったらしい。

 2階の空いている部屋を家賃だけで借りられるという。

 大家さんは家の2階を娘夫婦のために改造していたのだが、娘さんが他の場所に新居を構えてしまったのだ。

 そのために、2階が空き部屋になってしまっていた。

 元々、2階が丸ごとアパートになっており、全部で4部屋だったようだ。

 その半分を改造して、娘夫婦の新居にするつもりだったらしい。

 まぁ、娘夫婦も会社から近いほうがいいということなのだろうから、責めるわけにもいかない。


 家賃だけで借りられると、矢沢さんは大喜びで、すぐに引っ越しを決めてしまった。

 若さゆえなのか猪突猛進だ。

 羨ましくも恐ろしくもあるが、怖いもの知らずの彼女は、なにかをやりそうな予感もする。


 世の中に名前を残す連中というのは、どこかぶっ飛んでる人間が多い。

 良くも悪くも、平凡ではダメなのだ。

 本来俺も平々凡々な男なのだが、未来からやって来たというインチキを使っているだけだしな。


 敷金礼金なしで部屋を借りられるという話を聞いて、八重樫君がちょっとむくれている。

 彼は苦労して金を貯めたりしたからな。


 俺は将来有望な女流漫画家の引っ越しを手伝うために、トラックを貸してくれるという家を目指す。

 ここも大家さんから紹介してもらった所だ。


 矢沢さんを連れて路地を抜けてやって来たのは、通り沿いにある大きな小屋がある家。

 モルタルの2階建てで、トラックが数台並んでいるが、全部オート三輪だ。

 運転できると豪語してしまったが、流石にオート三輪は運転したことがない。

 まぁ、コーナーでひっくり返る心配がある以外は、普通の車と変わらないだろう。

 一応、マニュアル免許だし、若い頃に車も乗っていたしな。

 パワステなしの車も経験済みだ。


 それにしても、すげーデカいオート三輪がある。

 あの大きさだと、4tロングと変わらんかもしれん。

 そして、脇には小さなゼットミオート三輪。

 本当に小さいが、カエルみたいだ。

 令和の女の子が見たら、可愛いと言うだろう。


 元時代の軽自動車より小さいが、排気量も確か360ccだしなぁ。

 車を運転できると言ってはみたものの、このデカいオート三輪はヤバいだろ。

 ちょっと心配だ。


「篠原さん! 私がお願いするので、私がいきます!」

「ああ、任せた」

 彼女が、小屋で作業をしている青いつなぎを着ている爺さんに声をかけた。

 見た目は温和そうな爺さんである。

 こんな感じでも戦場帰りだったりするが……。

 歳は、大家さんと同じぐらいだろうか。


「あの~、こんにちは! 引っ越しでトラックを貸していただけるということで、やってきたのですけど」

「ああ、こんにちは。ハルちゃんから聞いているよ」

 返事をした彼がニコリと微笑んだ。


「ハルちゃん?!」

 聞き慣れない名前に、矢沢さんが驚いている。


「多分、大家さんの名前じゃないの?」

「ああ、そうだよ。僕と彼女は幼なじみでねぇ」

 それなら、大家さんから頼まれたらNOとはいえない感じか。


「すみません――私、運転手なんですが、どのトラックを貸していただけるんでしょうか?」

「ああ、どれでもいいよ」

「それなら矢沢さん、路地を入っていくので一番小さいのにしたいんだけど……?」

「はい」

「矢沢さんのアパートの場所は――道はどう? 広いかい?」

「いえ、狭いです」

「それじゃ、やっぱりゼットミかな……」

 俺は小屋の隅に止まっている一番小さなオート三輪を指した。


「小さくてカエルみたいで可愛いですね」

「荷物は俺の部屋と同じぐらいなんだよね? これに載りそう?」

 ゼットミの荷台は本当に小さい。

 洗濯機や冷蔵庫を載せたら、それでいっぱいになってしまうという感じ。


「う~ん、多分2回分ぐらい?」

「大きな家電とかないんだよね?」

「ありませんよ。布団と本棚、あとは机とちゃぶ台ぐらいかな……」

 荷台を見ると、シートやロープも載っている。

 山積みにしてシートを被せれば、1回でいけるかもしれない。


「それじゃ、このオート三輪を借りてよろしいですか?」

「はい、どうぞ」

 こころよく貸していただけた。


「問題は――俺、オート三輪初めてなんだよね、はは」

「ああ、普通の4輪と変わらんよ。ただ、曲がるときには気をつけてな」

 まぁ、ひっくり返るのはよく見ているし、速度を十分に落とせばそれは防げるだろう。

 元々、そんなにスピードなんて出ないし。


 ドアを開ける――逆開きだ。

 つまり前から後ろに向かって開く。

 窓などついておらず、透明なビニルが貼ってあるだけ。

 まさに実用車。


 中に入って腰掛けると、足元は普通の車と同じでアクセル、ブレーキ、クラッチの並びだが、足を置くスペースがない。

 狭すぎて、思わず笑いそうになってしまう。

 一応2人乗れるのだが、ギチギチだろう。

 シートも動かないので、自分で動いて調節するしかない。

 ハンドルはプラ製、鉄板もペラペラなので、衝突したら間違いなくあの世行き。


 左手にはフロアシフトのHゲートがあるのだが、ポジションが書いてない。

 俺は外にいる爺さんに尋ねてみた。


「すみません、これってバックはどこですか?」

「左上がバックで、引いて1速だよ」

「それじゃ、3速ですね」

「そうそう」

「え~と、ハンドルの下にあるのが、チョークか……これがウインカーか」

「あまりスピード出ないから気をつけてな」

 ダッシュボードの真ん中にキーはついているので、チョークを引いてエンジンをかけてみる。

 元時代のエンジンは電子制御のオートチョークだからな。

 チョークを知っている人はオッサンより上だ。


 ギアをニュートラルに入れると、ブレーキとクラッチを踏んでエンジンをかける。

 けたたましい音を立ててエンジンが目覚める。

 車体がブルブルと震え、ボディの鉄板が色々な音を奏で始めた。

 空冷の2スト単気筒エンジンで、要は昔の原付スクーターと一緒。


 キーの隣に意味不明なボタンがある。

 押してみると――眼の前でギッコンバッタン。

 ワイパーだった。


 どうやら、運転席と助手席の間に大きなトンネルがあるのだが、そこにエンジンが入っているらしい。

 まぁ、フロント部分にはバイクのようなタイヤがあるから、そこにエンジンが入るはずがないってわけだ。

 扉を閉じると、ギアをバックに入れて後退させてみた。

 乗った感じは普通のマニュアル車と変わらんな。


「よっしゃ! わかったぜ! 矢沢さん乗ってくれ」

「はい!」

 彼女が助手席のドアを開けて乗り込んだ。

 案の定、2人乗ったらギチギチだ。

 暑いので、窓についている透明なシートを、下にペロリと落とした。

 これが窓開けだ。

 俺の真似をして矢沢さんも、窓を開ける。


「スンマセン! それでは、お借りいたします!」

「ああ、気をつけてね」

 ギアを1速に入れて、クラッチをつなぐと、敷地から通りまで出る。

 左右を確認して、ハンドルを左に切る。

 ゆっくりと左折――このぐらいのスピードなら大丈夫。

 直進すると、ギアを2速に。

 ギアにシンクロはないようだが、普通につながる。

 入らなければ、一旦ニュートラルに入れてからつなげばいい。


 シートポジションが地面スレスレなので、まるでゴーカートだ。

 両脇に街並みが流れていく。

 時速40kmぐらいしか出てないのだが、すごく速く感じる。

 若くて可愛い女の子と、昭和の街並みをドライブだ。

 これが高級車だったら、もっとオツだったのにな。

 コノミがいたら、彼女も乗りたがったかもしれない。


 一言でボロい――そう思ってみたのだが、これはこれで運転する楽しさがある。

 余計な電子制御などが一切なく、エアコンもパワステもなし。

 まさに純粋な車というもの。

 これを軽快に操れば、平成令和には失われてしまった、なにかを感じることができる――気がする。


「すご~い! 速~い! 篠原さん、本当に運転できるんですね」

「ははは、あたり前田のクラ○カーよ!」

 だって、本当は免許持ってるんだから。

 それが未来の免許で、今は使えないってだけだからな。


 しばらく直進して右折――大通りに出た。

 遅いといってもぎりぎり時速60kmぐらいは出る。

 事故ったらヤバいので慎重にいかねば。

 それにここは無法地帯――交通法規ってなにそれって昭和だしな。

 つねにヒヤリハットを意識しないと、俺たちに明日がなくなる。


 今日は日曜日なので、交通量は少なく順調に流れていく。

 彼女もそれを考えて今日やって来たのだろうが、中々に段取りがいい。

 学校には行ってないが、頭もいいに違いない。

 漫画家になるという一点突破はいいとしても、高校ぐらいは出ておいたほうが――と思うのは、俺がオッサンだからだろうか。


 大通りが交差する地点にやってきた――左折する。


「矢沢さん、後ろにバイクとか自転車は来てないか?」

「え?! 大丈夫です!」

 彼女が後ろを向いた。

 サイドミラーはついているが、死角もあるし確認してもらったほうが確実だ。


「よっしゃ左折~!」

 とにかくゆっくりと回る。

 このまままっすぐ進めば、国鉄のガード下を通る。


 軽快にエンジンを響かせて国鉄を通過、そのまま道なりに直進。

 自転車やリアカーを追い越して、そのうち神田川を越えた。

 残念ながらこのオート三輪は、バイクより遅いな。


「矢沢さん、曲がる所は早めに教えてくれよ」

 もう20分ほど走っている。

 この区は南北に長いから、やっぱり結構な距離があるぜ。

 リアカーなどで引っ越しはやばかったな、はは。


「そろそろ、右で~す」

「はいよ~」

 後ろを確認して右に寄った。

 助手席にいる彼女の合図で右折――路地の中に入る。

 そのまま両脇に木造の家が立ち並ぶ細い道を走っていく。


「次の角を右です」

「よっしゃ! 矢沢さん、通りまで出てからタクシーとか拾っているの?」

「はい! 捕まらないときには、駅まで歩いたり」

 まぁ確かに、その場で待っている時間で駅まで行けるからな。

 ちょうどバスが来たときには、バスで駅前まで行くこともあるらしい。

 彼女なりに気を使って、経費を節約しているようだ。

 やっぱりいい子だなぁ。


 話している間に目的地に到着。

 ちょっと行き過ぎて、方向転換して戻ってきた。

 俺を出迎えたのは石の塀に囲まれた木造2階建てのアパート。

 これまた、正面玄関があって廊下があり、中に階段があるタイプだ。

 オート三輪を玄関の前に止めて、早速これから引っ越しの荷物運びだぜ――と思っていたのだが、様子が違う。

 玄関の前にすでに人がいて、荷物が運び出されていたのだ。


「あ、大家さん!」

「エミちゃん! 荷物を出しておいたよ!」

 エミちゃんってのは、矢沢さんのことらしい。

 彼女をそう呼んだのは――白い割烹着を着て、グレーの髪の毛を上でまとめている婆さん。

 いじわるばあさんみたいな恰好だが、性格は悪くなさそう。

 矢沢さんは彼女を大家さんと呼んだから、多分そうなのだろう。

 ウチの大家さんより、若干若いような気がする。


 それはさておき、大家さんが荷物を運び出してくれたらしい。

 そのお婆さんの他にも荷物の前に人がいた。

 中年で小太りの女性、ランニングを着た太った男性、少々お歳を召した痩せた男性――全部で3人。


「エミちゃん! 荷物出し、俺たちも手伝ったんだぜ!」

 太った男性が声を上げた。


「皆さん、ありがとうございます~!」

 どうやら、彼らはこのアパートの住民たちらしい。

 彼女の引っ越しを手伝ってくれたようだ。


「はぁ~、エミちゃんがいなくなるなんて、またここが陰気くさいアパートに逆戻りかぁ……」

「陰気くさくて悪かったわね! 嫌なら出ていってもいいんだよ!」

 太った男性のつぶやきに、大家さんらしき女性がつっこみを入れた。


「ちょっと待ってよ、冗談じゃない……」

「言ったら悪い冗談もあるだろ!」

 中年の女性が婆さんに同調した。

 随分と騒がしいアパートのようである。


「皆さん急な引っ越しでごめんなさい! でも、漫画の仕事をするために、どうしても必要だったんです」

「まぁ、ここはちょっと不便だしねぇ。仕方ないよ」

 女性がそうつぶやいたのだが、住民たちもそう思っているようだ。


「おうさ! エミちゃんが有名になれば。俺の隣に住んでいたんだぜ! って酒の肴になるってもんだ」

「爺さん! あることないこと吹くんじゃないぜ?」

 太った男性が、爺さんと言い合いを始めた。


「多少はいいだろ?」

「爺さんの多少が信じられん。終いには、『ワシが育てた!』とか言い出すだろ?」

「そのぐらい、いいじゃねぇか」

「エミちゃんが有名人になったらなぁ、彼女の足を引っ張ろうとゴミみたいな連中が集まってきて、おもしろおかしくあることないこと吹いて回るんだぜ?」

「確かに……そうだな……」


 いい加減、話が終わらないので割って入る。


「矢沢さん、名残惜しいとは思うけど引っ越しをしないと」

「あ、そうです! 皆さんごめんなさい! トラックを借りたりしているので、早く済ませてしまわないといけないんです!」

「エミちゃん、まさか……その人が旦那さんじゃないよね?」

 大家さんがとんでもないことを言い出す。

 どこからそういう発想が出たんだ。

 トンチンカンな言葉に矢沢さんも驚いている。


「えっ!?」

「言っちゃなんだけど、もっと若い人のほうが」

「ち、違います、違います!」

「私は知り合いのおっさんで、今日の運転手として雇われたんで」

「あ、そうなの。驚いた……男は顔じゃないけどさぁ」

 うるせぇな、このBBA。

 てめぇだって、人のことを言えた面かよ。

 まぁ、大人なんで、そんなことは思ってても口に出さないが。


「でも、篠原さん、すごい人なんですよ! 新聞にも載ったんですから!」

「新聞?」

「そういえば、どこかで見たような……」

 大家さんと、太った男性が俺のほうを見ている。

 嘘だろ? 新聞に載ったときにも、黒い目線が入ってたし。


「可哀想な女の子を助けて、学校に通わせてあげてるって、前に話したじゃないですか」

「ええ? 矢沢さん、コノミのことを皆さんに話してしまったのかい?」

「はい、いけなかったですか?」

 別に悪いことじゃないし、口止めもしてなかったけどさぁ。

 悪気もないよなぁ……。


「ああ、あの人!」「そういえば、同じ区だったよねぇ」

 女性と大家さんも新聞を見たらしい。


「俺、区立の小学校にノート送ったぜ」

 男性は、寄付までしてくれたようだ。


「ありがとうございます。ウチの子どもが使い切らない分は、文房具を買えない家庭に配らせていただきました」

「まぁ、困ったときには、お互い様だよねぇ」

「はい!」

 困ったときにはお互いさま――このフレーズが昭和には多かった。

 やはり戦後の焼け野原から復興するために、国民が一丸となっていたところが大きい。

 敗戦によりルール無用の生き馬の目を抜くような世界になってしまったが、その陰でかくいえば社会主義的な助け合いも行われていた。

 たとえば村全体で貯金をして、持ち回りで生活改善のための家屋のリフォームをする――みたいなことも。

 ネットでそんな動画を見ると、一見して社会主義国家かと見間違う。

 外国からも、日本は唯一成功した社会主義国家だとか冗談みたいに言われることもあるしな。

 それがいいか悪いか解らん。

 悪い方面では、その社会主義的なものが、先の大戦に走らせてしまったとも言えるし。


「いやいや、矢沢さん、引っ越しだよ、引っ越し」

「あ、そうでした!」

 世間話が始まると、だらだらとそのまま流されてしまう。

 このままじゃ進まないので、黙って荷物を運び始めてしまった。

 それにつられて、他の住民も荷物を運び始める。


「よう! 引っ越しかい?」

「はい!」

 引っ越しが始まると、隣近所の爺やおっさんたちも集まってきて、荷物を運び始めてしまった。

 要は暇なのだ。

 それに今日は日曜日だしな。

 引っ越しも町内会の催しものも、みんな娯楽。

 他にやることがなくて、暇だからやっていたようなもんだ。


 そういえば俺も、ガキの頃には、盆踊りや祭りなどに参加していたのだが、いつのまにか遠ざかってしまった。

 もともと、そういうのが好きではなかったが、同調圧力みたいなものもあったのだろう。

 つまりみんながやっているから、そういうものだ――という固定観念。


 昭和が末期になって、そういうものが薄まった結果、元々好きではなかった者が参加しなくなっていったのではないか?


 隣近所の人々が集まってきてしまったので、荷物の積み込みはあっという間に終わった。

 たくさんあったように見えた荷物だが、上手く積み重ねた結果、1回で積み込むことができてしまった。

 かなりマウンテンな感じになってしまったが。

 シートをかぶせて、崩れないようにする。


 俺は固定用のロープを矢沢さんに放り投げた。


「矢沢さん、そっちに引っかけてくれ」

「はい」

「ああ、俺がやってやるよ」

 荷物を運んでくれた近所の男性が手伝ってくれた。

 交互にロープを投げて、シートを縛り付ける。

 かなり手慣れているので、そういう商売をしている人なのかもしれない。

 最後は、俺が南京結びをしてガッチリと固定する。


「矢沢さん、OKだぞ! 1回で積めたな」

「はい! 皆さん、ありがとうございました!」

「エミちゃん! いつでも遊びにきていいからね!」

「はい、皆さんもお元気で!」

 住民たちが彼女の周りに集まってきて、矢沢さんが感極まって泣いている。

 そんなに仲がよかったのか。

 アパートの引っ越しで泣くことなんてないよなぁ。

 少なくとも、俺はない。


 なんなら引っ越しの挨拶もしないし、元時代のアパートなんて10年ぐらい住んでいて、隣にどんなやつが住んでいるのかすら知らない。

 いや、一応知っているけどな。

 たまに顔を合わせたら挨拶はするし。

 ただ、それだけの関係だ。


 昭和の時代だと、近所の挨拶をしたほうがいいのかと思ってしてはいるが――本来ならそういうことをあまりしない人間だ。

 それがいいのか悪いのか。

 隣近所と関係が薄く、しがらみがないというのは、気楽でいいし。

 特に、クリエイティブな仕事というのは、メンタル面での影響が大きい。

 隣近所の無粋に時間を取られたりするというのは、本当困る。


 今は、小説家を本業にしてないから気軽なんだろうな。

 気軽だからこそ、人付き合いもそれなりにできている。

 これで金がなかったら、とてもじゃないが、人のことなんて考えていられない。


 そんなことを考えながら、矢沢さんの別れの光景を眺めているのだが――終わらない。

 いやいや勘弁してくれよ。

 まぁ――ここでツッコミを入れるのは、少々無粋だと思うから言わないが。

 俺はため息をついて、オート三輪に乗り込んだ。

 座席に座ってしばし待つ。


 やっと、住民たちとの別れが終わったのか、矢沢さんがドアに手をかけた。


「ふう……」

 思わず、ため息が漏れてしまった。

 彼女が助手席に座ってドアを閉めると、また住民たちが集まってきて、別れの挨拶をしている。

 勘弁してくれや。

 いや、篠原ショウイチ、無粋なことを言うんじゃない。


 そういえば、俺の名前はショウイチじゃねぇのに、すっかりと馴染んでしまってるなぁ。

 こういうことでも慣れるものなんだな。

 いい加減終わらないので、俺は声をかけた。


「矢沢さん、いいかい?」

「はい、それでは皆さんお元気で!」

「いつでも遊びに来ていいからねぇ」

 また、そこに戻るんかい! ――思わずツッコミを入れそうになってしまい、我慢をしてエンジンをかけた。

 ブルルンと車体が震える。

 皆が話しているが、俺は構わず1速に入れてクラッチを繋いだ。

 荷物が満載なので、さすがに車体が重い。

 ゆっくりと車が走り出すと、矢沢さんが窓から顔を出した。


「さようなら!」

「「「エミちゃん、元気でねぇ!」」」

 延々と長かった別れの会話は、それで最後になった。

 名残惜しいだろうが、彼女はお母さんのためにも、次に進まなくてはならない。


 才能がある彼女には未来があるのだ。


  

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