40話 ちょっと昔のトラブル
相原さんからお礼をもらったり、コノミの初めてのお友だち訪問があったり、イベントには事欠かない。
俺が買った秘密基地にも電気を通した。
これで作業もできるようになったわけだ。
コノミのお友だちが来たりするようになると、俺がいたんじゃ気まずいだろうし。
世間のお父さんたちが働いていて家にはいない時間に、オッサンがいるわけだしな。
――秘密基地に電気を通して数日あと。
俺はヒカルコと一緒に、国鉄の駅方面に買い物に出かけた。
彼女は寒いのか、デニムを穿いている。
さすがにスカートは無理か。
俺は、女のデニム姿も好物だから、いいが。
それはよしとして、ついでに税務署に行く。
いつもの路地を通って大通りに出ると、区役所の隣にある建物に向かう。
そこで2人で確定申告の相談をした。
まぁ、収入については源泉引かれているし経費はないしで、そのままでいいのだが、問題は俺が買った土地だ。
通常の売買なら、不動産の相場の税金が国に入るわけだから、それをちょろまかしたことになる。
土地評価額から大きく外れていなければ、そんなに問題でもないと思うのだが、少々安すぎたのだろう。
最初から、「これこれこういうわけで土地を、知人から借金して安価で購入したんですが――」と正直に申告したし、大家さんから金を借りた借用書も見せた。
結局、50万円ぐらい払うらしい。
金はあるんだし心配ないのだが、ここで50万円をポンと払ってしまうと、また金の出どころを追及される。
ちまちまと分割で払って、正式な収入が入ったらドカンと払えばいい。
やれやれ、ちょっとデカい買い物をしただけでこれだ。
表に出せない金ってのは、本当に使えねぇな。
申告が無事に終わったので、駅前の電気屋で蛍光灯と電気スタンドを買った。
これで秘密基地もパワーアップできるってわけだ。
重たいのでアパートのほうに配達してもらう。
アパートから運ぶなら俺でもできるし。
ついでに炭を買おうと探して、商店街で聞き込みをすると酒屋で売っているらしい。
なぜかは不明だ。
そういえば、俺の婆さんはガススタで米を買っていたとか言ってた。
色々な販売網が整備される黎明期だからな。
とりあえずどこでもいいから卸して売ってみたのかもしれない。
別に備長炭とかいいやつじゃなくてもいいので、一番安いやつを買った。
6kgで100円だ。
安い……かな?
元時代に換算すると、それほどでもない気がするが、もう灯油の時代だろ。
これから先の未来を見ても、炭が主流になることはもうない。
秘密基地の石油ストーブは、もうちょっと値段が下がってからでいいだろう。
もしくは、中古で出物があったら買うとかな。
6kgの炭を担いで、商店街で買い物をする。
やっぱり冷蔵庫があると違うなぁ。
今は冬場なのでそれほどじゃないが、暖かくなると便利さを実感する。
だてに三種の神器とか言われてないってわけだ。
三種の神器といえば、いずれはTVも買わないと駄目なんだろうなぁ。
俺はTVなんていまさら見る気も起きないが、コノミが見るだろうし……。
家の近くまで帰ってくると、秘密基地に炭を置いた。
「さて、大分装備が整うな~」
炭を台所に置いていると、後ろからヒカルコが抱きついてきた。
「……!」
「なんだなんだ? 寂しいのか?」
「コクコク!」
「家に帰ってからにしようぜ?」
「フルフル」
「しょうがねぇなぁ」
隣に八重樫君がいるので、気にしているらしい。
まぁ、今は締め切り間近だし、仕事の邪魔しちゃマズいしなぁ。
まだ昼か――コノミが帰ってくるまでには時間があるかぁ。
とりあえず、秘密基地でゴニョゴニョする。
そんなことをしていると、すっかりと腰回りが冷えてしまった。
「早く帰って、ストーブで暖まろうぜ?」
「……うん」
引っつく彼女を抱えながらアパートの前まで戻ってくると、変な男がウロウロしている。
デニムと黒いジャケットを着て、帽子を被った――多分若い男。
見るからに怪しい。
「あ……」
一言漏らしたヒカルコが、俺の陰に隠れた。
いったいどうした?
怪しい男の所に行く。
「なんだお前は?! なんか用か?!」
「ここらへんに寺島ヒカルコっていう女はいないか?」
「いたらなんだ?」
「ヒカルコ!」
男が、俺の影に隠れていたヒカルコに気がついたようだ。
手を伸ばして彼女の身体をつかもうとしている。
俺は慌てて、身体をひねり彼女を守った。
「おっと! ははぁ――わかったぞ? てめぇ、ヒカルコを盾にして警察から逃げたとかいうクズか?!」
「うるさい! 貴様のような愚民になにがわかる!」
男が俺に殴りかかってきた。
こんな脛齧りのお坊ちゃんにそういうことを言われちゃ、こんな寒空なのに俺の身体の中に熱いものが走ったね。
マグマが一気に頭まで駆け上がって、毛根から噴き出した。
「おっしゃおらぁぁ!」
俺は男のパンチを躱し、胸ぐらをつかむとクズの顔面に頭突きを入れた。
喧嘩はこれが効くのよ。
頭蓋ってのは質量があって、硬い箇所だからな。
「ぐあぁ!」
男が怯んだところに、追い打ちの蹴りを叩き込む。
「おらぁ!」
倒れたら、うつ伏せにして男の右腕を鉤型にして靴で踏む。
アームロックを脚でやるわけだ。
これで動けない。
背中に乗ったりすると、呼吸困難になって相手が死ぬこともあるので止めたほうがいい。
「く、くそぉ!」
「ヒカルコ! 部屋に戻っていろ」
「ヒカルコ! こんなロートルに懐柔されて恥ずかしくはないのか?」
「うるせぇぞ、ボケ!」
俺は片足で男の後頭部に蹴りを入れた。
「篠原さん!」
階段を降りてきたのは、八重樫君だ。
「悪い八重樫君、大家さんを呼んでくれ」
「は、はい!」
割りと大騒ぎになったので、隣近所の人たちが出てきてしまった。
普通の男は働きに出ているので、集まってきたのはおばさん連中だ。
「あらぁ! 篠原さん、どうしたの?!」
八重樫君と一緒に大家さんが出てきて、男を押さえつけている俺に驚いている。
「大家さん、警察に電話してくれ。こいつは活動家だ。多分、指名手配されてる」
「あら、大変!」
バタバタと大家さんが家に戻った。
「篠原さん、ほ、本当ですか?」
突然のトラブルに八重樫君がビビっている。
「ああ」
それよりも、俺が踏んづけている男に聞くことがある。
「おい、どうやってこの住所を嗅ぎつけた」
「……ぶ、文芸誌に載っている住所を辿ってきた」
俺の頭突きを食らって、男が鼻血を出している。
あちゃー、八重樫君のときにもファンがやってきたが、この時代は作家の住所が晒されていたので、それを利用されたか。
「それで、お前らが捨て駒にした女に匿ってもらおうとでもしたのか? 本当にお前らってクズだよな」
「なにを言うのか! 資本家に搾取されているだけの存在のお前らが!」
「やかましいわ! 犯罪者は黙っとれ!」
俺はもう一発ケリを入れた。
近所からワイワイと人が集まってくると騒然となってしまった。
暇な連中ばかりだ。
しばらく男がなにやら叫んでいたのだが、全部無視。
どうせ大したことは言ってないし、ここから60年たってもこういう連中には国民の誰も賛同していない。
集まってきた近所のBBAたちも、押さえつけられて喚いている男を白い目で見ている。
そこにパトカーがやって来た。
「はい、どいたどいた!」
パトカーから降りてきた警官たちが野次馬を蹴散らす。
昭和の警察は結構乱暴である。
「ご苦労さまです」
「こちらが、電話があった男か?」
「はい」
「なぜ、活動家だと?」
「おい! お前、活動家だよな?」
「……」
男は下を向いて黙っている。
「おい! なに黙ってるんだよ! 革命戦士様は、権力の前じゃだんまりか?」
「くそ! 黙れ、愚民がぁ!」
「お前ら、労働者の権利がどうのとか言ってるくせに、俺は労働者様だよ?」
こういう奴らは、口では綺麗事を並べているが、頭の中では「愚民は俺たちエリートに支配されるべき」とか本気で思ってるからな。
取り押さえるのを警察に代わってもらう。
「は、離せ! この権力の犬どもがぁ!」
警官に後ろ腕を押さえられて男がジタバタしている。
俺は警官の1人を呼んでひそひそ話をした。
「俺の女が、昔そういう活動をしてたんですが、パクられて足を洗ったんですよ。その女に匿ってもらおうとやってきたみたいでして」
「なるほど」
「お前、名前は?!」
警官が男に名前を聞いた。
「……黙秘だ!」
また格好つけて。
「ちょっと待っててください、名前を聞いてくるんで」
俺が階段を上がると、ヒカルコがドアから首を出していた。
「あいつの名前はなんて言うんだ」
「……田上勝」
「タノウエマサルな、解った。怖かったな、もうちょっと待ってろ」
「うん」
俺は彼女の頭をなでてから下に降りると、警官に男の名前を告げた。
「お巡りさん、そいつの名前はタノウエマサルっていうらしいですよ」
「く、くそぉ! 裏切り者がぁ!」
「よく言うぜ! 最初に裏切って置き去りにしたのは、お前らだろうが」
警官の1人がパトカーに戻ると、無線で確認を取っている。
戻ってくると、俺に敬礼をした。
「どうやら指名手配犯のようです! ご協力ありがとうございました!」
指名手配犯だと解ったので、手錠がかけられた。
これが平成令和なら、俺のほうが傷害とか過剰防衛とかでパクられるところなんだろうが、さすが昭和。
特にお咎めはないらしい。
「「「ざわざわ」」」
近所の人たちがざわめいている。
「いえいえ、ご苦労さまでした」
「来い!」
「くそ! 放せぇ! 権力の犬どもがぁ!」
男がパトカーに押し込まれると、バックで路地を戻っていった。
「ふう……」
「篠原さん! 凄いっすね!」
「別に凄かねぇよ」
「ちょいとあんたぁ! とんだ災難だったねぇ」
近所の割烹着を着たおばさんが話しかけてきた。
「まぁ、あちこちのアパートに警察が入ったりしてますから、逃げ回っていたんでしょうねぇ」
「それで、なんでまたここに?」
「ウチのやつが、同じ大学だったみたいで……」
俺は自分の部屋を指した。
「ああ~そうなの! 親御さんもねぇ、ああいうことをさせるために、高い金を払って大学に入れたわけないのにねぇ」
ああいうことってのは学生運動だ。
実際、ヒカルコもそれで実家から縁を切られているし。
「そうよねぇ」「まったくよねぇ」「○○さんの所も、せっかく大学に入ったのに、ロクに授業が受けられないって言ってましたよ」
「「「はぁ~」」」
おばさんたちから、ため息が漏れる。
高い授業料が無駄になったという、ため息だろう。
まぁ、ここで捕まってよかったかもしれん。
生き残った奴らは、山の中で日本中がドン引きするぐらいの凄惨な事件を引き起こすのだから。
それにあの男が関わるかどうかは解らんけどな。
「ねぇねぇ、お兄さんの家って、新聞に載ったんでしょ?」
コノミのことが新聞にも載ったし、学校にも新聞屋の取材が来た。
我が家は、ここらへんでは有名になっているらしい。
俺も近所に網戸を作ってやったり、大家さんのガチャポンプで水を配ったりしたし。
「ああ、はは……知り合いの新聞記者に頼まれましてねぇ」
「女の子も大変ねぇ~」「女の子のお母さんは見つかったの?」
「行方不明のままなんですよ」
「いくら生活が苦しくても、子どもを置いていなくなるのはねぇ……」「そうよねぇ……」
コノミの母親の捜索など最初からやっていないのだが、バカ正直に言う必要もないし。
コノミが受け取った寄付などを学校の生徒に配ったことも、ちゃんと知られていた。
そう、こういうのが大事なのよ。
やっかみやら嫉妬というのは、本当に面倒だからな。
俺は、奥様連中の井戸端会議から抜け出すと、階段の下にいた八重樫君に声をかけた。
「先生、忙しいのに騒がして悪かったな」
「いいえ!」
「はぁ……」
俺はため息をついて階段を上ると、矢沢さんがいた。
そろそろ締め切りだろうから先生の所にアシに来ているのだ。
「なにがあったんですか?!」
「篠原さんが、活動家を捕まえたんだよ」
「す、すごーい! 篠原さんって、喧嘩も強いんですか?」
や、ヤバいな。若い子のヨイショは効くなぁ。
嘘だと解っていても、飲み屋ではしゃいじゃうお父さんたちの気持ちが解りそうだぜ……。
「はは、そんなに強くねぇよ」
俺は苦笑いしながら、部屋のドアを開けた。
「ヒカルコ、なんか食おうか」
そろそろ昼飯の時間だ。
部屋に入ると、彼女が抱きついてきた。
「よしよし、怖かったな」
「うん」
まさか、雑誌を読んだだけでこんな所まで来るとはな。
「よし、俺が作ってやる。ラーメンでいいか」
「コクコク」
よっしゃ、それじゃ作るか。
俺は1人で炊事場に行くと、昼飯を作り始めた。
この時代のインスタントラーメンは、ほとんどがチ○ンラーメン方式。
丼に麺を入れてお湯をドバーってタイプ。
たぶん、このほうが工場で作りやすいんだろうな。
たまに安売りしているので、そのときにまとめて買ってくる。
炊事場に置いてあるので、八重樫君もたまに作って食べているようだ。
缶が置いてあり、彼が食べたときはそこにお金を20円入れるシステムになっている。
買ったときは1個15円なのだが、まぁ駄賃だ。
ラーメンだけじゃ寂しいので、冷蔵庫を開けると卵があった。
この時代、卵1個でインスタントラーメン1個とほぼ同じ――高級品だ。
「ゆで卵にするか」
鍋でお湯を沸かし、包丁でつついて穴を開けた卵を放り込む。
元々はコンロが1つだけだったのだが、俺が見つけてきたコンロを追加して2つになっている。
やっぱり2つないと、料理をするときには不便だ。
鍋をもう1つだしてスープを作ることにした。
正直、このインスタントラーメンはあまり美味くないんだよなぁ。
鍋に削った鰹節、冷蔵庫にあった肉を少々刻んで入れた。
このスープをラーメンにかければ、多少は違うはずだ。
「あれ? 篠原さんが作っているんですか?」
「ああ、ヒカルコのやつが、ちょっとショックを受けているようでな」
「そうなんですねぇ」
そこに矢沢さんもやってきた。
「篠原さん、料理もできるんですか?」
「ははは、俺は一人暮らしのプロだったからな」
「本当に、篠原さんプロ並みだよ」
「よせよせ、褒めてもお前らの分は作らんからな」
「大家さんの電話を借りて、店屋物を頼みますよ」
話しているうちにラーメンはできた。
最後に半熟茹で玉子を2つに切って、ラーメンに入れる。
「どれ、スープの味は……?」
一口すすってみたが、やっぱりデフォルトより数倍美味い。
ご飯も残っているので、ラーメンライスにするか。
俺は盆に丼と茶碗を載せて部屋に戻った。
「!」
ヒカルコが手を叩いて喜んでいる。
「卵を入れたから、ちょっと高くついてしまったが、美味いからいいだろ?」
2人しかいない部屋にラーメンのすする音が響く。
これまたリアル神田川っぽいが、俺が2周りぐらい若かったら格好もつくんだがなぁ。
そんなことを考えながら、俺は卵にかぶりついた。
半熟玉子もいい感じだ。
「どうだ? 口に合うか?」
「美味しい」
「よかった」
ラーメンを食い終わったら後片付けをして、俺が食器も洗う。
後ろの扉が開いた。
「あら、洗い物をしているから、ヒカルコさんかと思ったら」
顔を出したのは大家さんだ。
「ちょっと調子が悪いみたいなので、代行をしてます、はは」
「あらぁ、ヒカルコさん大丈夫?」
「さっきの騒ぎでちょっとショックを受けたみたいで」
「大変ねぇ」
「まぁ、飯は食ったし食欲もあるようなので大丈夫かと」
「そう、篠原さん優しいのねぇ。ウチのお父さんなんかと比べられないわ」
「はは……」
昭和の頑固おやじか。
地震雷火事親父っていうぐらいだしな。
後片付けが終わったので、俺は文机で仕事をすることにした。
ヒカルコは黙ってちゃぶ台に突っ伏している。
文章を書くってのは、メンタルに引きずられるから、書けないときにはどうしようもない。
すげー悲しいときに、楽しい話を書けと言われても難しいものがある。
そう考えると、ギャグ漫画なんて大変だと思う。
不幸のどん底でも、「チンヒョロスポーン!」とか描かないといかんしな。
まぁ、文芸誌に連載が載っているといっても、完成原稿を小分けにして載せてるだけだし。
書けないときに無理をして書くこともない。
仕事をしていると、コノミが帰ってきた。
彼女から連絡帳を見せてもらう。
昼間にあった騒ぎのことは、彼女には言わない。
よい子には関係のないことだし。
「なになに――2年の勉強に進みます。九九を暗記させてください」
あ~、ついに来たかぁ。
小学校最大の難関ともいえる九九の登場だ。
俺も結構苦労した記憶があるとはいえ、もうこれは暗記するしかねぇだろ。
「おっしゃ!」
俺が気合を入れると、コノミがビクっとなっている。
「ヒカルコ、ちょっと買い物に行ってくるぞ。なにか買うものはあるか?」
「コクコク」
彼女はチラシの裏に買うものを書き出している。
「私も行く!」
コノミが立ち上がった。
「そうか、一緒に行くか」
コノミと出かける準備をしていると、ヒカルコも立ち上がる。
「私も行く!」
「なんだよ、それじゃメモとか要らねぇじゃん」
まぁ、変なやつに絡まれて落ち込んでいるかと思ったら、そうでもねぇのか。
結局、3人で買い物に出ることになった。
階段を降りていくと、下で大家さんと会う。
「あらぁ、3人でお出かけ?」
「はい、コノミが九九の勉強を始めるんで、その準備に」
「まぁ、頑張ってねぇ。もう、コレばっかりは手伝ってあげられないからぁ」
大家さんの言うとおり。
暗記だけは、本人に頑張ってもらわんとどうしようもない。
俺たちにできるのは、少々のコツを教えるぐらいのもんだ。
3人で路地を歩いて、商店街を目指す。
「コノミのお友だちはどうだ?」
「う~ん?」
質問が抽象的すぎたか?
「仲良くしているか?」
「してる」
「彼女の家に遊びに行くことはありそうか?」
「う~ん……家に遊ぶものがないって言ってたし……」
漫画もなければ、玩具もない家か。
抑圧された女の子の欲求の反動が、デカくなければいいが……。
「そうか――まぁ、聞く限り厳しい家庭みたいだしなぁ。それなら遊ぶんじゃなくて、一緒に勉強をするってのもありだぞ?」
「そうか!」
まぁ、一緒に勉強しますって言って、「駄目!」っていう親はいないしな。
コノミと話している間に商店街に到着。
俺は文房具屋で、デカい模造紙と赤と黒のマジックペン、長い定規を買った。
「ショウイチ、それで九九表を作るの?」
ヒカルコは俺の企みが解ったようだ。
小学生なら誰でもそれなりに苦労しているのが九九だしな。
「そうだ。俺は自分で作って便所に貼ったりしたぞ」
「なんで、トイレ?」
「踏ん張っているときに、見て覚えられるだろう?」
「……!」
ヒカルコが、下を向いて震えている。
笑っているらしい。
そんなにおかしいか? 小学生ならやったと思うがなぁ。
机の横の壁に貼るとかな。
ついでに晩飯の買い物をして、アパートに帰ってきた。
戻ってきた頃には、ヒカルコもすっかり元気になって、今までと変わらない。
彼女の中でも、やつのことはもう片付いてしまったようだ。
まぁ、あんなクズのことは忘れて、前に進まんとな。
あいつらと違って、せっかく人が羨むような才能もあるんだし。
ヒカルコが晩飯の仕込みを始めたので、俺はコノミと算数の勉強をすることにした。
算数だよ算数。数学じゃないんだよなぁ。
「りんごが3つ乗った皿が、テーブルに4つあると――3×4と書く」
「うん」
「3×4は12だな。りんごが4つ乗った皿が、3つあっても答えは12個」
「いちに~さんよん――」
コノミがりんごの数を数えている。
「本当に12個ある」
「これをな――全部覚えないと駄目なんだ」
「う~ん……」
コノミがピンときていないので、実際に見せたほうが早いだろう。
買ってきた模造紙を10分割して、そこに九九を書き込んでいく。
数字の上には赤マジックペンで、読みを書く。
九九に必要なのは音読だ。
声に出して目と耳とリズムで覚える。
外国人が九九が苦手なのは、これができないかららしい。
俺の作業を、となりでコノミがじ~っと見ている。
まぁ書くのは簡単だ、すぐにできる。
「コノミ、これが九九だ」
「……いっぱいある……」
なんか彼女が絶望しているように見えるのだが、大丈夫だ。
彼女の頭ならなんとかなる。
俺だって覚えられたし、みんな覚えている。
彼女の頭が並以下なんてことはありえんし。
「覚えるときには、声に出して言うんだ。にいちがに! ににんがし! にさんがろく!」
「にいちがに! ににんがし! にさんがろく!」
コノミが俺の真似をしている。
「たくさんあるように見えるが、1の段は簡単だ」
「うん、いちにーさんしー」
「5の段も簡単。5ずつ増えるだけだからな」
「ごーじゅうーじゅうごーにじゅう――」
「そして、実は9の段も簡単」
「……?」
彼女が首を傾げている。
「ほら、十の位は、いちにーさんしーだが、一の位は――」
「あ! きゅうはちななろく――」
「そうそう、順番に並んでいるだろ?」
「うん!」
俺も九九を覚えるとき、そう覚えた。
ヤバいのは、6の段と7の段と8の段だな。
ここらへんが混乱する。
まぁ、彼女の頭なら大丈夫だと思うんだ。
献本でもらった文学全集には漢字にルビが振ってあるのだが、それを読んで覚えてしまっているぐらいだし。





