34話 入院していたのか
ついに昭和40年に突入だ。
正月も無事に過ごし、コノミの三学期も始まった。
彼女も教室で皆と勉強をしたいのだろう。
すごく頑張っている。
物覚えはかなりいいので、そのときはすぐにやって来るのではないだろうか。
ヒカルコの仕事の金も入ってきて、執筆業は順調だ。
あとで文学全集の金も入ってくるしな。
収入が増えるのは嬉しいことだが、面倒くさいことも増える。
去年は給料の他にはほぼ収入がなかったので確定申告は要らなかったが、今年はする必要があるだろう。
まぁ、原稿料などは源泉徴収されているし、他の収入はないのでしなくてもいいのだが、経費を請求すれば還付金が戻ってくる。
少しでも戻ってくるならやったほうがいいだろうが、当然俺が馬券で取った金は申告しない。
本当はしなくちゃ駄目なのよ?
するはずねぇけど。
――そして、1月末になった。
新聞には伊豆大島で大火災、そしてイギリスのチャーチルが死んだと載っていた。
この時代まで生きていたのか。
歴史の教科書にも載っているような人がまだ生きている。
そんな人たちと同じ時代を生きられるってのは、すごいのかもしれない。
ノーベル文学賞取った大先生やら、漫画の神様とだって一緒に生活しているわけだしな。
もしかしたら八重樫君も、富士山冨士夫先生みたいな歴史に残るような大先生になったりして。
前にも話が出たが――彼が漫画の道みたいな自伝を描いたら、隣に変なオッサンが住んでいて――みたいな感じで描かれるのだろうか?
それはちょっと勘弁だな。
俺は、相変わらず大衆小説の仕事をしている。
年末に出版社に送った原稿も、そのまま買い取りで採用されるようだ。
半年後には、24万円が入ってくる。
まぁ、これが少々当てにならないんだけどな。
その前に出版社が倒産したりすれば、金は入ってこなくなるわけだし。
実際に俺の過去にもそういうことが数回あった。
取らぬ狸の皮算用は、しないほうがいい。
こちとら、なんの保障もない自営業――つねに最悪のことを考えて行動しないと。
とりあえず前に出版されたものは、そこそこ好評らしい。
三枚目のオッサンが実は凄腕、悪い奴ら相手に大立ち回りをして、なぜか美女にもモテる――そういうのはいつの時代でも定番なのだ。
俺が文机で仕事をしていると、学校から帰ってきたコノミがちゃぶ台で勉強をしている。
今日はヒカルコがいない。
彼女は出版社から入った電報で呼び出されているのだ。
「シキュウ レンラク コウ」としか書いてなかったから、どうなっているのかさっぱりと解らん。
呼び出された出版社は、彼女が投稿をしていた文芸誌を出している所だ。
なにもないのに呼び出すはずがないので、彼女が書いた原稿が文芸誌に載るのではないだろうか。
個人的な感想では、載ってもおかしくないできだとは思う。
俺が逆立ちしても書けない文章だしな。
かの大先生からのお褒めのハガキをもらってたぐらいだし。
ヒカルコのことを考えていると、俺の背中にピタリと触れる感触。
見れば、コノミが背中をつけて漫画を読んでいた。
相原さんが持ってきてくれた新しい漫画だ。
この前にここに来たときも、俺たちがプレゼントしたマフラーをしてくれていた。
コノミはいつもヒカルコと一緒なので、彼女がいないと寂しいのかもしれない。
「ヒカルコがいなくて寂しいか?」
彼女の頭をなでてやる。
「フルフル」
寂しくはないみたいだがなぁ。
うちは普通の家庭みたいに、親が働きに出ている家庭じゃないし、ずっと一緒にいるからな。
もうちょっと年が進むと、「鍵っ子」なんて言葉が流行りだすと思うが。
いや、もう流行っているのか?
やっぱり団地などが一般的になってからだよなぁ。
コノミと背中合わせになって仕事をしていると、階段を上ってくる音がする。
その音にコノミが反応したとき、戸が開いた。
「……ただいま」
「おう、おかえり」「……おかえりなさい……」
彼女が疲れたように座り込む、ちゃぶ台に伏せた。
コノミが心配しているのか、ヒカルコの頭をなでなでしている。
俺がいつもやっているので、それを真似しているのだろう。
「疲れているみたいだな? なにか飲むか?」
「……コーヒー」
「はいよ~」
炊事場でお湯を沸かしていると、八重樫君がやってきた。
「あれ? ヒカルコさんは?」
「出版社から帰ってきたら、疲れて伸びてる」
「なんかあったんですか?」
「多分、彼女が書いたものが文芸誌に載るとかじゃないかな?」
「凄いじゃないですか」
「まぁな。八重樫先生に続く、ヒカルコ先生のデビューってことになるな、ははは」
「先生は止めてくださいよ」
彼があとでネタの打ち合わせに来るという。
お湯が沸いたので、部屋に戻るとコーヒーを淹れる。
コノミも飲むというので、彼女の分も淹れた。
2人がいつも飲んでいるのは、粉末クリームがたっぷり砂糖がたっぷりのコーヒー。
「ふ~」
甘い飲みものを喉に流し込んだ彼女が、大きなため息をついた。
「どうだった?」
「文芸誌で連載してほしいって……」
「おお、やったじゃないか、これで小説家の仲間入りだな」
「……うん」
彼女が苦笑いしている。
嬉しいけど嬉しくない――そんな顔だ。
世の中には、それを望んでいるのに、なに者にもなれないやつらが山ほどいるってのに、なんて贅沢な。
そういうやつらに知られたら、石を投げられるだろう。
「新田川賞とか取れたりして、はは」
「フルフル」
彼女が首を振っている。
「もしかしたら、文壇とのつき合いも増えるかもしれないが、小説家の先生たちには気をつけろよ。立派な話を書いていても、中身が違う人は結構いるからな、ははは」
「コクコク」
語弊があるかもしれないが、元々クリエイターみたいな連中は変なやつが多い。
ゲーム風に言えば――キャラのステが極振りみたいな状態になっているからな。
ヒカルコと話していると、八重樫君がやって来た。
漫画の打ち合わせだ。
「人数が増えたので狭いだろう。君の所でやってもいいぞ?」
「いいえ、この部屋は暖かいですし」
「ああ、それはあるか……」
彼の所はまだストーブが買えていない。
ストーブってのは結構高いものだからな。
これで雪国なら必須なのだろうが、ここは東京だ。
暖房がなくてもなんとかなってしまう。
アパートじゃ学校みたいな石炭ストーブは無理だしな。
彼と漫画の打ち合わせをする。
ムサシが、冥王星にある敵の前線基地を攻撃する話だな。
「ここが前半部分の盛り上がり場所だ」
「そうですねぇ!」
「まず冥王星の大きさだが、地球の月より小さい」
「そうなんですか?!」
彼は知らなかったらしい。
「そのせいで、未来では惑星から外れて準惑星ってことになっている」
「へぇ~、なんか冥王星だけ仲間外れって感じですね」
「そして、ちょっと小さいが同じぐらいの大きさの月が回っている二重惑星だ」
「ええ? 本当ですか?!」
「そうなんだ……」
ヒカルコと八重樫君が驚いている。
「そういう設定だっての」
「もう、どこまで本当なのか解らなくなりますねぇ」
「フィクションを本気にしたら駄目だぞ。未来の話なんだから、今の地球から解らないことを描かないとそれっぽくないだろ?」
「そ、それもそうですねぇ」
「木星で、超破壊砲を使って敵の基地を吹き飛ばしたりしたけど、実際にはないだろ?」
「それはそうですよ」
ムサシに出てきた木星には細いリングを書いてある。
この時代にはまだ木星のリングは発見されていないが、未来には発見されていた――という設定だな。
「この基地を破壊することによって、地球に落ちてくる敵の惑星間ミサイルを防ぐことができるようになる――という話だ」
「そこでムサシを待ち受けていたのが、敵の必殺武器である反射ビーム砲ですね」
「そうだ」
もちろん、まるごとパクリだとつまらないので、色々とネタを追加してある。
冥王星に敵の帝国が連れてきた捕虜がいたり、惑星間国家の王家のお姫様がいたりとな。
女の子キャラが出てきたら、当然Hなシーンを入れる。
これ常識ね。
「格好いい戦闘シーンと、可愛い女の子のスケベなシーンで、ガキのハートを鷲掴みにする作戦だ」
「シノラー総統~バンザイ!」
八重樫君が両手を挙げた。
「ふははは! また会ったな、ムサシの諸君!」
まぁ、ふざけているのだが、マジで敵の総統はシノラーなのだ。
いつの間にかそうなってた。
八重樫君が、ふざけてそういう名前にしてしまったわけだが、元ネタの元ネタは当然ヒ○ラーなので、そんなに違和感はないが。
敵の帝国は、パクった原作よりドイツ風味が強くなっている。
制服は黒くて、なぜかドイツ語を使ってたりするし。
平成令和ならアウトかもしれないが、この時代なら問題ない。
「冥王星の月の名前はどうしましょう?」
「カロンでいいんじゃないか?」
「なにか意味があるんですか?」
「カロンってのは冥王星、つまり冥府への渡し守りのことだ。ギリシア神話だかローマ神話に出てくる」
「へぇ~」
彼が俺の話をメモしている。
打ち合わせが完了した八重樫君は、自分の部屋に戻ると早速ネームに入った。
ムサシの人気は落ちていないようだし、しばらくは問題ないだろう。
ただ、太陽系を出てからどうなるかなぁ。
まったく仮想の空間に出ることになるわけだし。
まぁ、駄目だったら他の話をまた考えるしかないな。
――そして1月が終わり2月が始まる頃。
外に1台のバイクが止まった。
どこにやって来たのかと思ったら、階段を上がってくる音がする。
俺の所か。
なんだろうと思っていると、戸がノックされた。
「はいはい」
戸を開けると、背広にコートを着たサラリーマン風の男。
弁護士の先生じゃないか。
どうしたんだろ?
「どうしたんですか? 先生」
「おはようございます篠原さん。当然、お仕事の話ですよ」
「仕事ですか? とりあえず、お上がりください」
最近、なにか弁護士の世話になるようなことはあったか?
「失礼いたします」
午前なので、コノミは学校に行っている。
ヒカルコは、お湯を沸かすために炊事場に向かった。
彼はコートを脱ぐと右側に置いた。
「今、お茶を淹れますので」
「お構いなく……」
ちゃぶ台を挟んで弁護士と向き合う。
「それで、ご要件というのは……」
「長良トメさんの件です」
「はぁ? トメ――だれだろう……」
まったく思い当たる節がない。
「夏の渇水のときに、助けていただいたと言ってましたが」
「ああ、もしかして! そこをずっと行った所に住んでいる婆さんか? 白くて立派な家の隣の……」
「はい、そうです」
まさか、あの婆さんが弁護士を雇うなんて思わなかったな。
「そういえば名前とか聞いてなかったからなぁ。ずっと婆さんとしか言ってなかったし、はは」
それはいいのだが、あの婆さんがどうしたのだろうか?
弁護士をよこすなんて、ただごとではないはずだが……。
「長良さんは、只今入院しております」
「え?! そうなのか!」
「はい」
俺が驚いているところに、ヒカルコがお茶を持ってきた。
「ヒカルコ、渇水のときに助けた婆さんが入院しているらしいぞ」
「!」
彼女も驚いたようだ。
コノミの件とかで忙しすぎて、婆さんのことはすっかりと忘れていたなぁ。
「それで、容態はどうなんでしょう?」
「あまりよろしくはありません」
「そうかぁ、いっぺん見舞いにいかないと駄目だなぁ……」
「コクコク」
平成令和ならなんとかなる病気でも、今の時代じゃ助からないことも多いだろうし。
「婆さんの容態が悪いのは解りましたが、それが私となんの関係が? まさか見舞いの件だけで弁護士の先生が来るはずもねぇし」
「もちろんです。長良さんには身寄りがないので、土地と建物を篠原さんにお譲りしたいと申しております」
「ええ? 譲るってあの家をか?」
「はい」
「それって、遺産相続ってことになるんでしょうか?」
「まぁ、はい……」
どうも弁護士の歯切れが悪い。
「身寄りがないって、ちゃんと調べていただけましたか?」
「ええ、とりあえず追える範囲では調べましたが、戦争で亡くなった方が多いらしくて……」
「赤の他人が相続すると揉めそうだな。相続税もあるし……」
「そこで問題が1つありまして――」
「問題? 1つどころか沢山ありそうな気がするが……」
「今いる病院の入院代が嵩んでおりまして、長良さんは現金の持ち合わせがほとんどないらしいのです」
「そりゃ、遺族年金で暮らしているって言ってたからなぁ……」
「はい」
まぁ、福祉を受けるって手もあるが、土地などの財産を持っていれば当然福祉は受けられない。
財産を持っているなら売れって言われる。
この時代の福祉がどうなっているのかは解らんが。
「それじゃ、あそこを売るしかないのでは?」
「そこで篠原さんの所にお伺いしたわけでして」
「ああ、なるほど、相続じゃなくて俺に買ってくれということなのね」
「そのとおりです」
「しかしなぁ、あの上モノはタダ同然として、土地の代金だけでも結構な金額に――婆さんの入院代はどのぐらいになりそうなんですかねぇ?」
「ざっと15万円といったところでしょうか」
「それじゃ、弁護士の先生の取り分を入れて、20万円ぐらいでしょうか?」
それでも、相場よりはかなり安いような気がする。
バラックが建っているあそこは20坪ぐらいか?
バブルの頃になれば、1坪300~400万円ぐらいにはなるはず。
――ということは6000~8000万円だ。
弁護士の話では、普通に買うと坪10万円ぐらいらしいから、20坪で200万円か。
以前に不動産めぐりをしたときに、ボロボロの家が200万円ぐらいで売りに出てたから、そんなもんなんだろうな。
まだ土地価格が上昇する前だし……婆さんには悪いが買得だろう。
それにしても、こういう身寄りのない年寄りの土地とか強引に乗っ取ったやつらとか沢山いるんだろうなぁ。
さすが昭和のどさくさ。
眼の前にいるのが悪徳弁護士なら、適当なことを言って年寄りから金を巻き上げることも可能だろう。
あるあるすぎてな、ため息が出るぜ。
前の仕事っぷりからみてもこの先生は違うだろうが、話を聞くと婆さんの後見人になっているようだ。
もうベッドから動けない状態なので、金の支払いなどをこの弁護士が代理をしているらしい。
「はぁ、まぁ――そんなところでして……」
この先生、そんな話をしてみたものの、こんなおっさんが大金なんて持っているはずがねぇと踏んでいたのだろう。
前に売れない小説家だって話していたしな。
見るからにそんな顔だ。
「う~ん……」
「長良さんは、どこの誰かも解らない人に買われるぐらいなら、格安でもいいので篠原さんに譲りたいということでして……」
「ショウイチ、私のお金を使っていいよ!」
珍しくヒカルコが大きな声を出した。
そんなことを言われなくても、別に金なら持っているのだ。
「そんな、女の金を使わなくても大丈夫だ。郵便貯金に入っているし――20万円だな。すぐに用意しますよ」
「ありがとうございます!」
弁護士も、俺が金を持っているとは思ってなかったみたいだな。
「土地の個人売買って、不動産屋を通さなくても大丈夫なんですかね?」
「1件だけなら問題ありませんよ」
「名義変更とか、そちらに頼んでも?」
「もちろん大丈夫です」
明日、婆さんの見舞いをしつつ、病院で会うことになった。
彼女が入院しているのは、駅前の総合病院らしい。
そういえば、駅前の商店街の横に飲み屋街があったが、そこに大きめの病院があったな。
あそこか。
弁護士が帰るのを見送った。
「婆さんは入院してたのか。コノミのバタバタがあって、婆さんの所にはしばらく行ってなかったからなぁ」
「うん」
「明日、早速病院に行って、婆さんの顔を拝んでくるか」
「コクコク」
ヒカルコも行くらしい。
それじゃ昼は外食だな。
------◇◇◇------
――婆さんの話を聞いた次の日。
俺とヒカルコは、コノミを学校に送り出すと、婆さんが入院しているという総合病院に向かうことにした。
場所は駅前の商店街の近くだ。
まずは郵便局から20万円下ろしていく。
商店街に向かういつもの道を進み、途中でくだものなどを買った。
大通りに当たったら、脇道に入っていく。
ここからでも、鉄筋コンクリ2階建ての大きな病院が見える。
昨日の弁護士とは、この病院で待ち合わせをしている。
俺たちは1階のエントランスホールに入って、受付に向かった。
薄青色の制服に、藍色のカーディガンを着ている女性が2人座っている。
「長良トメって婆さんが入院してるって聞いたんだけど」
「少々、お待ち下さい」
受付から201号室だと教えてもらった。
俺が元いた時代は、感染症が蔓延していてとんでもないことになっていたからな。
こんな手軽に面会などはできなくなっていたし。
たとえば、中学校や高校でも3年間マスクをしていたら、クラスメイトの本当の顔を知らずに過ごしてしまうのではないだろうか?
未来のできごとを考えつつ通路を進むが、病院の中ってのは窓がないから薄暗い。
中は新しいので、建ったばかりなのだろう。
その証拠に明かりも蛍光灯なのだが、いかんせん数が少ない。
まぁ、まだ高価なものだしなぁ……。
階段を上がると建物の一番端を目指した。
入院患者の名前が書いてある所に、長良トメと書いてある。
そういえば、婆さんに俺の名前って教えたっけ?
もしかして大家さんから聞いたのかもしれない。
ドアが開いているので、俺たちは病室の中に入った。
ぐるりと見回すと、寝ている年寄ばかり。
まぁ若いやつは健康だからな。
婆さんは右側の一番手前にいた。
「婆さん、大丈夫かい?」
「あ――ありがとうございます……」
彼女は寝たきりだったが、俺の顔を見てホッとした表情を見せた。
誰も知り合いがいなくて心細かったのだろう。
一応町内会もあるのだが、この時代はどこの家も厳しい。
病院までつき合ってくれるようなやつらはいないと思われる。
やせ細った身体とコケた顔。
ベッドから出た腕には管がつながっており、鉄のスタンドにぶら下がっている黄色い液体が注入されている。
「お見舞いを持ってきたが――ちょっと食べるのは難しそうだな」
「……」
彼女が黙ってうなずいた。
花を持ってくるわけにはいかないしなぁ。
俺はベッドの近くにあった丸い木の椅子に座って、婆さんに顔を近づけた。
「お見舞いはともかく――婆さん、家の話は本気なのかい?」
「ええ」
「解った! それじゃなにも心配するな。まだ早いみたいだが、骨は拾ってやる」
「!」
ヒカルコが俺の肩を掴んで、ガクガクやっている。
「葬式も出してやるし、婆さん――墓はあるのかい?」
「……」
彼女が黙って首を振った。
「それじゃ、俺たちの墓に一緒に入ればいい」
「……ありがとうございます……ありがとうございます……」
彼女は寝たまま言葉を詰まらせ、大粒の涙をボロボロと流し始めた。
俺もそれなりの歳になったので、彼女が心配していることはなんとなく解る。
婆さんに「また来る」と告げて、俺たちは病室を出た。
「若いお前には解らんだろうが――年寄りってのは、自分が死んだあとに誰かの迷惑にならないだろうか? 後始末はどうなるんだろう? とか、そういうことばかり考えているんだよ」
「……コクコク」
「その不安がなくなって、婆さんが喜んでいただろ?」
「……」
彼女が黙ってうなずいた。
病院のロビーで弁護士の先生と会う。
「婆さんには、土地を買うと告げたから」
「ありがとうございます。これが売買契約書になります」
彼が大きな茶封筒を手渡してきた。
契約書を封筒から出してチラ見したのだが、あることを思い出した。
「あ~、土地の売買となると、実印が必要だな?」
「そうです」
「実印は持ってねぇから作らんとだめだわ」
「お願いします」
「あと、印鑑証明とか……」
「印鑑証明ですか……?」
俺の言葉を聞いた弁護士が不思議そうな顔をしている。
どうやらそういうものは存在していないらしい。
印鑑証明ってのは、もっとあとの時代にできた制度のようだ。
「あ、いやいや、私の勘違いでしたわ。じっくりと読んでからハンコを捺して、先生の事務所に持っていきますよ」
「はい、お待ちしております」
「ハンコ作るのに2~3日はかかると思うけど、そのぐらいなら婆さんは大丈夫でしょ?」
「まぁ、おそらくは……」
契約書だけもらって病院をあとにした。
そのまま、私鉄の駅前にあるハンコ屋に行くことにした。
前に俺のハンコを作ってくれた店だ。
中々印章のデザインがよかったので、また頼もうと思う。
国鉄の駅前から私鉄の駅前まで、かなり距離があるのが大変だけどな。
こんなことでタクシーを使うのに慣れてしまうといかんし。
あとが大変になるからな。
金を多少持ってても贅沢はアカンよ。
まぁ起業すれば、交通費で落ちるのだが。





