24話 順調に積み重ねる
変な女をまた拾う。
俺もお人好しすぎる。
ヒカルコのやつは、ちょっと後腐れがある状態になっちまったが、あいつには能力があるし。
俺がいなくなっても生きていける。
――そうだ。
ある日、未来からやって来た俺だが、もしかして――ある日、また元の時代に戻るかもしれん。
それまでに資産を貯めてどこかにかくしておけば、令和で回収できないか?
たとえば、この時代の金塊を買ってどこかに埋めておくとか。
金なら埋めても腐食もしないし。
調べてみたら、今の時代は1g600円らしい。
初任給で換算すると約1/10なので、6000円相当ってことになるが、令和とあまり変わらない――というか若干の損?
価値がさほど変わらなくても、1000万円の金塊を埋めたら、1億の金塊として令和に掘り出せるわけだ。
これは未来に送る資産としては使えるかもしれない。
その前に、このままいったらそこまでは生きられねぇんだけどな。
そんなものより、土地とか株のほうがいいだろうなぁ、やっぱり。
もしかして俺が元の時代に戻れたとして――と、考えることもあるのだが、今ここにいるのは篠原正一で、令和の俺ではない。
戸籍も違う別人だ。
篠原正一名義の土地やら株を、令和の俺が使うためには相続しなくてはならない。
本人が消えてしまっているのに、まったくの他人の俺が相続できるか?
――という問題がある。
その点、金塊なら問題なく使えるわけだが、大量の金をどうやって換金するのか?
う~む。
まぁ――かもしれない先のことをいくら考えても仕方ねぇ。
そのときがきたら、なんとかいい方法を考えるしかない。
競馬も菊花賞までなく、特許もあらかた取ってしまった俺は、趣味で三文小説を書き始めた。
商売のことはまったく考えていないので、気楽に書ける。
それをマイナーな出版社にでも持ち込んでやろうかと、神保町までやってきた。
300枚の原稿をカバンに入れてウロウロしていると――相原さんから声をかけられた。
ここは彼女のホームグラウンドだ。
いてもおかしくない。
「篠原さん!」
「ああ、相原さん」
彼女が道路を渡ってきた。
「篠原さん、どちらへ?」
「持ち込みですよ」
俺はカバンを見せた。
「ウチですか?!」
彼女が嬉しそうな顔をしているのだが、俺の三文小説を大手になんかに持ち込めるはずがないだろう。
「いやいや無理ですよ。他の所です」
「小説ですよね?!」
「そうですけど……」
「なんで最初に、私に読ませてくれないんですか!」
彼女が真剣に俺の顔を見てくる。
「ええ……? 私のは純文学とかじゃなくて、三文小説ですよ?」
「いいから読ませてください! そこに喫茶店がありますから」
彼女に引っ張られて道路を渡る。
道路には路面電車の線路が走っており、向こうから電車がやってくるのが見えた。
神保町の道路に面した所は、小さなビルが立ち並び、モルタル建てや石造りの本屋などが多い。
そして、この街にも大きな看板、小さな看板、縦横――看板だらけ。
俺のアパートがある住宅街とは偉い違いだ。
街にはたくさんの看板が連なり、ちょっと秋葉原に似ている感じ。
そういえば、神田から秋葉原は歩いて行ける距離だな。
そのまま彼女に引っ張られていくと、小さな店みたいな建物に人が沢山並んでいる。
そこから男たちが大量の本を抱えて出てくるようだ。
「相原さん、あれは?」
「ああ、あそこは出版取次です」
出版取次っていうのは、要は本の問屋だ。
昭和の終わりになると、数社の大手出版商社にほぼ牛耳られているのだが、この時代にはこういう小規模の出版取次も沢山あるらしい。
ここに東京中の書店の店主が集まってきて、自分で本を担いで帰るわけだ。
宅配便とか普及してない時代なので、これが一番早い。
ここからさらに鉄道貨物などで地方に発送される。
僻地で本を手に取れるのは、発売日から一週間遅れとかが普通だった。
「へぇ~」
俺はその景色に感心しながら、相原さんと一緒に近くの喫茶店に入った。
ツヤのある木造の作りで、天井から床まで全部が木。
テーブルも椅子も木製で渋い。
オレンジ色の照明で、全体的に茶色の印象。
カウンターには小さなガラスウインドーがあって、白いケーキが並んでいる。
俺と八重樫君がいつも食べていたケーキだ。
あのケーキはここで買っていたものなのか。
確かに喫茶店なら、夜遅くまでやっているのだろう。
ビルの1階にあり、なにかの打ち合わせをしている人が多い。
チラ見すると、漫画の原稿らしきものを読んでいる人がいる。
周りには出版社が沢山あるので、この場所がよく利用されているのかもしれない。
俺は窓際の席に、相原さんと一緒に座る。
紺色のワンピースを着た、ウエイトレス(死語)がやって来た。
髪を後ろでまとめて、メガネをかけている中々美人のお姉さんである。
「ご注文は?」
「いつもの――篠原さんは?」
「コーヒー……」
「かしこまりました」
彼女の口ぶりからすると、やはりここの常連らしい。
「ここをいつも使っているんですね」
「はい――そんなことよりも」
彼女が、ニッコリと手を差し出してくる。
怖いんだが……。
俺は彼女の圧に逆らえず、カバンから原稿用紙を取り出した。
ちょっと能ある鷹は爪を隠す的な三枚目のオッサンが活躍して、美女とウハウハするという小説なんだけどなぁ。
エロシーンもあるし、女性に読ませていいものなのか。
彼女に原稿を渡すとペラペラと読み始めた。
ああ、マジか……。
元プロなので、人に読まれるのはどうってことはないが、相原さんに読まれるのはなぁ……。
手書きに慣れたので、字は多少マシになったが。
「篠原さん……」
「はい」
「小説家志望とか言ってましたけど、かなり書き慣れている文章ですよね?」
「まぁ、それなりには書いてましたから……」
「それらの文章は、どこにも送ってなかったのですか?」
「ああ、戦争で全部なくしてしまったので。戦後は飯食うだけで精一杯でしたし」
「そうなんですか。ヒカルコさんの書いたものも、ほとんど手直しがなかったぐらいだと聞きましたし」
「私がなん回も読み直して、助言しましたから」
「これって完成してますよね?」
彼女が原稿から目を上げてこちらを見た。
「はい、そこにあるのが全部です。原稿用紙で300枚」
「これを、私に預けていただけませんか?」
「え? よろしいですけど……あまりに畑違いなのでは?」
「他の出版社にも知り合いはおりますので」
「それは構いませんが」
原稿を他社に流したりしても大丈夫なものなのか。
まぁ、あくまでも個人的な依頼であるし……。
「それで篠原さんは、この原稿をどのようになさりたいのですか?」
「ああ、買い取りでお願いします」
「それは――文章を直したり、ラストを変えたりしても大丈夫ということでしょうか?」
「ええ、趣味で書いているので、まぁいくらかでも金になればと……」
「わかりました」
そりゃ、あちこち出版社を探し回るより、相原さんの伝を探したほうが楽ちんではある。
こんなにおんぶに抱っこでいいのか?
――という思いもあるが、俺が原作した漫画が売れれば恩返しにはなるか。
考え事をしていると、カレーのにおいが漂ってくる。
ここでカレーも出しているらしい。
そういえば、インスタントカレーのパウチの特許を取るつもりだったのを忘れてた。
チョコ型のカレーの素は売っているのを発見したが、カレーのパウチは売っていない。
「相原さん、つかぬことを伺いますが……」
「はい?」
「銀紙の袋に入ったカレーとか売ってるのを見たことがありませんか?」
「銀紙? なんですか?」
「ああ、いいんです」
相原さんも知らないようだ。
新聞を見ても、例のボンボンカレーの広告はまだ見たことがない。
――ということは、まだ発売されていないのだ。
これは特許が取れるかもしれない。
俺は彼女に原稿を預けて総武線で帰ると、いつものクラシック喫茶でコーヒーを飲んだ。
水不足も解消しつつあるので、茶店がやっているのかどうか、心配しなくてもいいのは助かる。
店の中を見たが、あの女はいないようだ。
真面目に働いているだろうか?
まぁ、俺には関係ねぇけどな。
自分のアパートに帰ると、ヒカルコと一緒に昼飯を食った。
丸1日帰らないつもりだったので、彼女にもそう言っていたのだが、急遽自宅で飯になってしまった。
2人で握り飯を食べたあと、俺はパウチの特許を取るために図説を書き始める。
パウチの利点としては、缶詰より軽い。
それに缶詰より簡単に温めができることだろう。
この点を説明に盛り込んでおく。
ウチのオカンは、サンマの缶詰を初めて買い、そのままコンロにかけて爆発させたと言ってたからな。
缶詰でもそういうことが普通にあったのだ。
――相原さんに俺の原稿を預けた数日あと。
俺は公衆電話から特許事務所に電話をすると、所長の爺さんがいるのを確かめてから出発した。
事務所に到着した俺は、パウチの説明をして申請をしてもらう。
相手をしてくれた所長もパウチの有用性についてピンとこなかったみたいだが、こいつが登録できれば、後に大ヒットになる。
そうすれば、金になること間違いなしだ。
アパートに帰ってきても、さほどやることがない。
競馬の菊花賞は11月だし。
ちゃぶ台でヒカルコと一緒に小説を書く。
売れ線を考えなくてもよく、なにを書いてもいいから気楽だ。
今度の彼女の作品は、自分で考えたネタを使って書いている。
夕方近くになり、ヒカルコが飯の準備をしようと立ち上がると、外から車の音がした。
網戸からチラ見をするとタクシーだが――相原さんではない。
紺のスーツを着た若い男だ。
八重樫先生の所に、別の出版社からお誘いだろうか?
いよいよ売れっ子か? ――なんて思うのだが、彼のペースだと、これ以上の連載は無理じゃないかなぁ。
先生も引き受けないと思うが。
階段を上がってくる音がしたあと、予想外に俺の部屋の戸がノックされた。
八重樫君の所と間違ったんじゃないのか?
「は~い?」
「ここは、篠原さんのお宅で間違いないでしょうか?」
「はいはい、どちら様?」
やっぱり俺の所に来たのか?
「私、こういう者でございます」
彼が差し出したのは、出版社の名前が書いてある名刺。
俺の知らない所だ。
「う~ん? 出版社さんとのおつき合いは……」
「相原女史からの原稿の件で……」
「ああ、あれ! お~い、ヒカルコ! 悪いけど、なにか冷たい飲み物を2つ」
彼女が炊事場から顔を出した。
「はい」
「どうぞ中に――散らかってますが」
「お邪魔いたします」
彼に座布団を渡した。
紺のスーツを着た若い編集者と打ち合わせ。
話していると、ヒカルコがコップに入ったコーヒーを持ってきた。
粉末クリームと砂糖が入っているやつだ。
ブラックコーヒーと両方作って、冷蔵庫に入れてある。
「インスタントコーヒーですが……」
「ありがとうございます」
彼が一口飲んだ。
「あ、冷えてますね。冷蔵庫をお買いなったんですか?」
「はは、実は競馬で当てましてね」
「もしかして、シンシンザンですか?」
「そう、それです。あの馬は三冠馬になりますよ~。菊花賞も買いますから」
「そううまくいくでしょうか」
「まぁ、走ってからのお楽しみってやつで、はは」
話し合いの結果、原稿は買い取りで1ページ2000円。
文庫で120ページぐらいになるらしいので、24万円。
発売してから半年先〆の翌月払い。
なんか24万円に縁があるな。
副業としてはまぁまぁだろう。
「可能であれば、シリーズ化していただきたいのですが」
「これをですか?」
「この手の話は需要があるんですよね」
「旅行での待合室とか、列車に乗って暇なときとか、そういうときに読むんでしょう?」
「そのとおりです。そういうのに、あまり堅苦しいものは受けませんし」
「う~ん――私の場合、小説は副業なので不定期ってことになりますが、それでよろしければ……」
「それで構いません」
原稿が完成したら、彼宛に送るということになった。
ペンネームはどうでもいいのだが、篠原某と適当につけてもらうことに。
編集が帰ったあと飯にする。
今日はヒカルコが刺し身を買ってきてくれたのだが、魚屋でさばいてもらったらしい。
そういえば、昔はそういうことしてたなぁ。
「お仕事の話?」
「ああ、この前書いてたのが売れた。似たような話を書けば買ってくれるそうだ」
「よかった」
2ヶ月に1本書いて、本当に買ってくれるなら、1年で144万円。
結構な稼ぎになるよな。
本職を小説家と名乗ってもいいぐらいだ。
――その夜、再びのお客様。
今度は相原さんだった。
「ヒカルコ、麦茶を持ってきてくれ」
「うん」
もう暗くなったし、コーヒーはカフェインが入っているしマズいだろう。
「お構いなく……」
「相原さん、ありがとうございます。今日、私の原稿を買ってくれるという編集者が来てくれましたよ」
「来ましたか? 彼は大学の同期なんですよ」
「ああ、なるほど~」
やっぱり商売はコネだなぁ。
「今日は、これを――」
彼女が手持ちの紙袋から、ベージュの模様が入った表紙の本を取り出した。
ちゃぶ台に積まれた、薄くて小さな本は5冊ほど。
そこにヒカルコが麦茶を持って戻ってきた。
本を取って読んでみる――これはヒカルコが一番最初に書いた小説だ。
確か、雑誌の付録として4回に分けて載るという。
「ヒカルコ、裏山に行く話の献本だぞ」
「……!」
麦茶を置いた彼女も、本を取って読み始めた。
「本誌の学年誌も持ってこようかと思ったのですが――」
「いや、子どもの雑誌をもらっても仕方ないですし」
「そうですよねぇ」
「やっぱり、活字になると違いますなぁ」
「私もそう思います……」
相づちを打つ彼女だが、ちょっと様子が変だ。
部屋の中をジロジロ見ている。
「どうしました?」
「あ、あの荷物が増えてませんか?」
「ああ、ヒカルコに私物を持ち込まれてしまって……」
本を読んだままの彼女が、スススと俺のほうに寄ってくる。
「……むう」
相原さんがヒカルコを睨んでいるのだが、スッと立ち上がった。
「それでは、私は八重樫先生のところにまいりますので」
「色々とありがとうございました」
「これ、おふたりで食べてください」
彼女が紙袋から白い箱を取り出した。
あの喫茶店のケーキだ。
2人でってことは、八重樫君とアシの女の子の分は別にあるのだろう。
ありがたくいただく。
――9月中旬になると、東京モノレールが開通したというニュースが新聞に載った。
浜松町駅から羽田空港まで行くのに、なん回もお世話になったが、この年にデビューしたのか。
新幹線もそうだし、みんな東京オリンピックに合わせて作ったから、デビューが重なっているわけだな。
戦後が終わって、日本が変わり始めているってのを肌で感じる。
なんちゅうか本中華、国全体がエネルギーに包まれているような……。
爺婆が昭和のこの時代辺りがよかったと言う気持ちが解る気がする。
ここから高度成長期が始まってインフレが加速すると、一気に大変になるんだけどな。
働いても働いても豊かになれない、そんな時代がやってくる。
――そして10月1日、新幹線が開通した。
最高速時速210kmという、夢の超特急の誕生である。
最初のひかり号が誕生したわけで、盛大なお祝いの写真が新聞に載っている。
くす玉を割って、盛大に日の丸振って万歳三唱。
今なら、軍靴の足音が~とか騒ぐやつらが出るだろう。
そのぐらい盛り上がっている。
そのまま10月10日。
元の時代ではスポーツの日として残っているが、いよいよ東京オリンピックの開幕である。
このために白黒TVを買ったという家庭も多く、皆が流れてくる映像にかじりついていることだろう。
そんな中でも俺は普段と変わりない生活。
オリンピックの結果は知っているし、今更見ても仕方ない。
この当時は国を上げての祭りとか、国威発揚という意味合いも濃かったが、令和にやったオリンピックはただの利権の塊。
あれを知ってしまうと、なんだか白けてしまう。
ヒカルコは多少興味があるらしく、大家さんの所に行ってTVを一緒に見て応援している。
まぁ、これが普通なんだろうな。
隣の八重樫君は漫画の追い込みで、それどころではない。
アシの女の子とヒーヒー言っていて可哀想なので、食事の準備のついでに2人の分も作ってやる。
――といっても、ヒカルコもTVを見るのが忙しいのでオニギリだが。
汁物は大家さんが、オリンピック観戦の合間を縫って豚汁を作ってくれた。
俺はのんびりと三文小説をまた書いていたが、料理ができたので八重樫君に差し入れた。
「八重樫君、矢沢さんも飯ができたぞ~、食え~」
「ありがとうございます~」「ありがとうございます」
下から、大家さんが叫ぶ声が聞こえる。
多分TVを観て応援しているのだろう――元気だなぁ。
いつものお上品な感じからは想像もつかん。
やっぱり、ああいう人を怒らせると怖いんだよなぁ。
「漫画は順調?」
「はい、大丈夫っすよ」
「身体には気をつけてな。漫画家さんって短命な印象しかないし」
「編集の人から週刊にも書いてくれって言われてるんですよねぇ」
その話は初めてだが、やっぱりという印象しかない。
相原さんから八重樫君が聞いた話では――宇宙戦艦ムサシの連載が始まってから雑誌の売り上げが1.5倍になったらしい。
そりゃ出版社からしてみれば、売れる作家を捕まえたんだから、どんどん書かせたいというのも解る。
「やっぱりか……」
「でも、ちょっと無理ですよねぇ」
「八重樫君が、自分でも無理だと思うなら止めたほうがいいぞ? それこそ、原稿を落としたらとんでもないことになるし」
「そうですよねぇ」
「短期間で儲けても税金で取られるだけだし、細く長く続けるほうが大事だと思うが」
「僕もそう思います。身体を壊したりしたら、結果的には描けなくなってしまいますし……」
「そのとおり。なんの保障もないしな。それに先生、自営になったんだから、年が明けたら申告しないと駄目だぞ?」
彼が不思議そうな顔をしている。
作家の原稿料は源泉徴収が引かれているから、まぁしなくてもいいのだが、経費があればその分が還付金として戻ってくる。
少しでも戻ってくるなら、やったほうがお得だ。
やらなけりゃ黙って取られるだけだし。
「それってどうやるんですか?」
「領収書とか取ってある?」
「あの、相原さんから言われて、本とか買ったときにはもらってます」
「編集が面倒みてくれるなら、相原さんに聞いたほうがいいかもしれないな」
「はい」
「出版社で税理士を紹介してくれたりするのかもしれないし。どんなものが経費として申告できるのかも聞いたほうがいいぞ」
俺も確定申告していたから知ってはいるのだが、今の税制と違うかもしれん。
「わかりました」
俺もオニギリを食う。
中から梅干しが出てきたのだが、この梅は大家さんが漬けたものらしい。
昔はこういう漬物とかも、自分の家で漬けてたよなぁ。
「八重樫君の実家じゃ、漬物なんて漬けてなかっただろ?」
「そんなのしたことなかったですよ」
「まぁ、お金持ちだしなぁ、ははは」
「え?! 先生のご実家ってお金持ちなんですか?!」
矢沢少女の目が輝く。
「君のお母さんと違って、先生のご両親は漫画に理解がなくてな、実家を飛び出してしまったから勘当されているんだよ」
「もう親が死んでも2度と戻りませんけどね」
「そういうわけで玉の輿は無理だぞ、ははは」
「そうなんですねぇ」
彼女が残念そうだが、本気で玉の輿を考えているわけではあるまい。
「それでも、お姉さんが来てくれているじゃないか」
「部屋を借りる際の保証人だけはどうしても必要なのでお願いしましたけど、正直会いたくはありませんよ」
「すごい美人なのになぁ……」
「人間は中身ですよ」
あまり作業の邪魔をしちゃ悪いので、俺の部屋に戻った。
ヒカルコもいないし、俺は小説を書くことにするか……。
オリンピックが開催されている途中で、日付は10月17日になった。
昭和にやってきて、ちょうど1年たったことになる。
金もできたし仕事もやり始めた。
順調に成り上がっている気がする。
------◇◇◇------
――オリンピックから一ヶ月あと、11月15日になった。
すでに季節は秋、落ち葉が舞い始めて、かなり気温も下がってきている。
そろそろストーブが欲しくなる。
ポータブルの石油ストーブぐらいは買える金は持っているしな。
手がかじかむ中で仕事をするのもつらいので、ストーブを買うか。
シンシンザンが走る日であり、戦後初めての三冠馬が誕生する菊花賞の日。
俺は朝から競馬場に出かける準備をした。
普通の関西のレースは関東じゃ買えないが、菊花賞みたいなデカい重賞は買える。
無論、関西でも関東のレースは普通は買えないが、皐月賞やダービーの馬券は買えるわけだ。
準備をしている俺を見ながら、ヒカルコもなにやらめかしこんでいる。
シャツにデニムにコート――なんかこういう「みゆき族」ってやつが、新聞に出ていたぞ。
これが流行りなんだろう。
「おい、なんだ? どこかに行くのか?」
「……」
そう言うと、彼女が俺のシャツを掴んできた。
「まてまて、俺は競馬場に行くんだぞ?」
「コクコク」
「賭場なんて女の行く場所じゃないぞ?」
平成令和なら競馬場も綺麗になって、立派なレジャー施設になったが、この時代はまさに鉄火場。
「フルフル」
彼女が首を振っている。
「お前なぁ――オッサンたちに揉まれて後悔してもしらんぞ?」
「コクコク」
仕方なく、うなずく彼女を府中に連れていくことにした。
まったく、なにが楽しくて……。