20話 情けは人の為ならず
さてさて、新しい仕事だ。
世界の少年少女文学全集なんて大層な仕事を引き受ける羽目になってしまった。
俺たちの仕事は、古典文学の名作を子どもにも解るように直す仕事。
監修や執筆陣にも日本文学のそうそうたるメンバーが並んでいる。
そこに俺みたいな三文作家が入って大丈夫なのか?
一緒に仕事をするヒカルコだって、雑誌の付録に載ったぐらいの駆け出しだ。
まぁ、これを決定したのは仕事を持ってきた相原さんではなくて、この全集の責任者である編集長だ。
日本文学界の重鎮たちの中に素人に毛が生えたやつを入れてもいいだろうと判断したのだし、なにかあったらすべての責任は取ってくれるのだろう。
責任者ってのは責任を取るために存在しているからな。
ちょっと皮肉っぽいことを考えてしまうが、俺たちの力を認めてくれた――ということなので、その点は素直に喜ぶべきか。
――仕事が決まった次の日。
相原さんが、両手に大きな袋を持ってやって来た。
中にはたくさんの資料が詰まっており、もちろん原稿用紙もある。
出版社によって書き方の作法みたいなものもあるので、その資料も当然ある。
なにせ紙の原稿にまともに書くのは久しぶり。
気が付いたときにはワープロを使って、プリンタで打ち出していたからな。
相原さんに漫画の原作を書いて渡したが、あれは小説ではなかったし。
「これが原作です」
彼女が差し出したのは、ドイツ文学だった。
もちろん和訳版。
原本読んで書けとか言われても無理だからな。
そこら辺は妥協してくれたらしい。
「他の先生たちは、原本を読んで書いてらっしゃるんですか?」
「そういう方もいらっしゃいますが、人が訳すか自分が訳すかの違いですし……」
そりゃそうだが。
彼女から説明を受けて、早速始める。
本当は、全集の編集者が来るんだろうが、俺が相原さん経由じゃないと仕事をしないと最初に宣言したせいもあると思う。
まぁ、知り合いが担当してくれたほうが、気兼ねなく聞けるし仕事もできる。
「さてやるかぁ! ヒカルコ、しばらく俺の所に泊まり込みだぞ」
「……わかった」
彼女が俺のところにスススと寄ってくる。
大丈夫なのか? ――と言いたいところだが、筆はかなり早いからなぁ。
悔しいが、小説の才能は俺よりかなりある――と思う。
そもそも彼女の原稿がなけりゃ、この話も巡ってこなかったわけで。
俺とヒカルコのことをじ~っと見ていた相原さんが帰った。
それじゃお仕事開始だ。
まずは、全集を読んでみることにした。
子ども向けにどういう感じで書かれているのか、把握する必要がある。
まぁ当然だが、難しい言葉や言い回しは使われておらず、かなり噛み砕いて書かれている。
漢字も少なめでルビが標準だ。
「なるほどなぁ、こういう感じか。ヒカルコは?」
「コクコク」
それと、大きめの挿絵が入っているのが特徴なのだが、絵を入れる場所もこちらが指定する必要がある。
つまりここぞとばかりに盛り上がるシーンに挿絵を入れるわけだな。
ここらへんは、平成令和のラノベじゃ当たり前だったから、別に問題はない。
そう考えると、小説というよりはラノベ翻訳版と言ったほうがいいかもしれない。
もちろん俺の独断なので、異論は認める。
全集はおおよそ450ページで、上下2段組。
一冊につき4作品入っているので、作品1つの割り振りは120ページ前後ぐらいか。
文字数にして11万5000文字~12万文字――400文字詰めの原稿用紙で約300枚。
奇しくも、ヒカルコが最初に書いた作品と同じぐらいの規模だな。
体裁としては、名作文学を文庫本1冊ぐらいにまとめた企画なのだろう。
つづいて、原作の翻訳版を読む。
話は――片田舎で自分は優秀だと思っている男が、村人をバカにしまくって街に出てみるも結局上手くいかない。
最後は田舎に帰ってきて、自分がバカにしていた村人から歓迎されたあと、事故で死んでしまう話だ。
なんか昔の文学ってこういうのが多くね?
自称天才が犯罪起こして、あれこれ小細工をしてみるが、結局は警察に捕まるとか――。
金持ち家族が落ちぶれて流刑地送りになり、蔑んでいた下男と異母兄弟だったとか。
たまたま読んだ話が、そうだったのかもしれねぇが。
もちろん、田舎から出てきた貧乏青年が、大立ち回りして大活躍――美人の人妻寝取って大出世する話もある。
まぁ、人が妄想したり憧れたりするものってのは、時代が変わってもそんなに変わってねぇということだろうな。
作品を読んでいるうちに、昼になったのでヒカルコが昼飯を作るという。
本を読みながら飯ができるのを待っていると、八重樫君がやってきた。
「先生、進捗状況はどうだい?」
「先生はやめてくださいよ。順調ですよ」
「1話の評判はいいみたいだから、これで人気作家の仲間入りかもな」
「まだまだ解りませんよ。このあと急転直下するかもしれませんし」
「確かに油断は禁物だな」
「はい」
彼も腹が減っているらしいので、ヒカルコに3人前を頼む。
2人分も3人分もさほど変わらんが、俺の所で飯を食うときは、彼が食費を払うことになっている。
まぁ、彼もいつも食べているので、気にしているのだろう。
確かに毎回こちらから持ち出しとなると結構キツイので、ありがたくもらっておく。
「これが篠原さんが言っていた、子どもむけの文学全集ですね」
彼が、飯を食いながら全集を手に取る。
「まぁな。本当に作っているとは思っていなかったし、まさかその仕事を受けるとは思わなかったが……」
「もしかして、この仕事を受けるんですか?」
すでに原稿用紙も山積みになっているし、察したのだろう。
「ああ、相原さんから頼まれてな。ヒカルコのやつと二人三脚だけど。おっと、守秘義務があるから、このことは他言無用でな」
俺も、八重樫君の漫画の内容について漏らしたことはない。
「もちろんですよ……う~ん」
彼が少し考え込んでいる。
「この仕事があるんで――悪いが、君の原稿は手伝えそうにないぞ?」
「そうですよねぇ」
「ヤバいと思ったら、早めに相原さんにヘルプを出してな」
ベタ塗りぐらいなら、アシができるやつは沢山いるだろう。
「はい」
彼がパラパラと本をめくっている。
「どうした?」
「これなら僕にも読めそうですねぇ。読んでみようかなぁ……」
「とっつきとしてはいいんじゃないか? それで気になる話があったら、正式なものを読んでみればいい」
「そうですね」
「通っている図書館に入るか聞いてみればいい。なくても頼めば入れてくれることがあるぞ」
「へぇ、そうなんですね。今度、聞いてみますよ」
この手の本は子どもの教育向けってことで、蔵書に入っていることが多いと思うが。
食事ができたので3人で飯を食っていると、ドアがノックされた。
「篠原さ~ん」
この声は大家さんだ。
「はいはい」
慌てて出る。
「あの~、お忙しいのに申し訳ないのだけど……また給水車が来ているらしいのよ。お願いできないかしら?」
問題といえば、この渇水もある。
水道もチョロチョロとしか出ないし、まったく解決していないのだ。
仕事もあるけど、こっちもマジで困るんだけど。
水がないと人間は生きていけないからなぁ。
「はいはい、行って来ますよ。ウチもないと困るんで」
「本当? いつもごめんなさいねぇ」
「僕も行くっす」
「よっしゃ、とりあえず飯を食っちまおうぜ」
飯を食ったら、またバケツをもって神社まで水を汲みに行く。
前と違って今日は自衛隊の給水車がやって来ていた。
ボンネットトラックの後ろにリアカーみたいなタンク車を牽引している。
なんだ、自衛隊も装備持ってるじゃん。
ただ待っているのも時間の無駄なので、俺とヒカルコは、しゃがみ込んで仕事の小説を読み込んでいる。
まずは、こいつを読まないことには始まらないし。
それから、夕方になるまで列に並んでやっとバケツに5つ、水をゲットした。
前のときからバケツを1つ買い足しているのだが、それは八重樫君が持っている。
ウチの台所は彼の食事も作っているので、協力してもらう。
それはいいのだが――見れば、路地にバケツを置いて腰の曲がった婆さんが道路にへたり込んでいる。
藍色の着物を着て、白髪頭をかんざしでまとめている。
こういう年寄も、元の時代じゃ特別天然記念物だ。
「おい婆さん、大丈夫か?」
「す、すみません、疲れてしまって……」
「ここで休んでな。俺たちのバケツを置いたら、手伝ってやるからよ」
「申し訳ございません……」
「いいってことよ。ヒカルコ、ちょっと婆さんを見ててあげな」
「わかった」
これは、ちょっと急がなくてはならない。
「八重樫君! 最大戦速だ!」
「ヨーソロー!」
俺は彼と一緒に走り出した――といっても、全力疾走すると水がこぼれてしまうので、なるべくバケツを上下させないよう忍者走りである。
「これって、なんかの修行みたいですね」
「まったくなぁ、こんなのいつまで続くのかね?」
「なんだかこのまま8月に突入しそうですよ」
「参った参った隣の神社だ」
アパートに到着すると、バケツを八重樫君に預けた。
「これを大家さんに頼む」
「任せてください」
急いで婆さんとヒカルコの所に戻る。
「待たせたな。さぁ行こうぜ。それとも、おんぶしたほうがいいか?」
「だ、大丈夫です」
さすがにおんぶされるのは恥ずかしいらしい。
「恥ずかしがる必要はねぇぞ?」
「ありがとうございます」
「ヒカルコ、先に帰っててもいいぞ?」
「……一緒に行く」
地面に置いてあったバケツを持つと、ヒカルコと一緒に、婆さんの家を目指す。
「参ったなぁ、こんな水不足がいつまで続くんだろうなぁ。完全に東京都の責任だろ」
「偉い先生たちも、お天道様には敵わないということだと思いますよ」
まぁ、そのとおりだな。
これが平成令和だったら、連日都議会がぶっ叩かれただろうな。
10分ほど歩いた先にあったのは、木材とトタンでできたバラックのような婆さんの家。
多分、戦後のなにもない所に材料だけ集めて建てたのだろう。
あちこちに、こういう家が結構ある。
婆さんの家はボロなのだが、隣は立派な庭付きの白い家。
いかにも金持ちそう……。
庭に女性がいたのだが、髪を後ろでまとめた上品そうな美人。
この格差が凄い。
婆さんちの建付けの悪い引き戸を開けると、土間が出迎えてくれる。
靴を脱いで框を上がると、天井が低い薄暗い部屋。
天井にはおそらく灯油ランプが1つ。
電球がないということは、電気を引いてないのだろうか?
部屋を見回すも電気製品らしきものはまったくない。
その奥にあった、細かいタイルが貼られた流しにバケツを置いてやった。
「婆さん、旦那は?」
「戦死してしまってねぇ」
「あちゃ、すまねぇ。ここにも戦争未亡人か」
「20年も前のことですから」
旦那の遺族年金で暮らしているらしい。
大変だな。
「お兄さんは、随分とお若いお嫁さんをもらったんですねぇ」
彼女が、一緒についてきたヒカルコを見ている。
「ええ? こいつは違うんだがなぁ。なんだと言われれば――弟子かな?」
俺の話を聞いた婆さんが笑っている。
大家さんといい、婆さんというのは、こういう勘違いをするようだ。
それはいいのだが、婆さんはよほど疲れたのか、その場で寝込んでしまった。
大丈夫だろうな?
「婆さん、大丈夫か? 医者を呼ばなくても平気か?」
この時代、往診をやってくれる医者が多かったと思う。
俺もガキの頃、医者が来てくれた記憶がうっすらとある。
「大丈夫ですよ、ありがとうございました」
彼女のデコに手を当ててみる――熱はないようだ。
熱射病などなら熱が出ているだろうし、顔色も問題なしに見える。
ただの疲れだろうと思う。
婆さんに別れを告げると、ヒカルコが持っていたバケツを持ってアパートに帰ってきた。
まったく、この渇水はいつまで続くんだろうなぁ。
昭和39年にはこんなできごとがあったんだな。
帰ってきたはいいが――飯の用意をどうしようかとヒカルコと話していると、ドアがノックされた。
「篠原さ~ん」
この声は大家さんだ。
またなにかトラブルだろうか?
「は~い」
ドアを開けると、大きな皿に載ったおにぎりと鍋が突き出された。
「このぐらいしかお礼ができないのだけど……」
鍋はどうやら豚汁らしい。
飯をどうしようかと話していたので、こいつはありがたい。
「ありがとうございます」
大家さんは、八重樫君の所にも持っていったようだ。
「あ、そういえば大家さん」
「なぁに?」
「2階に娘婿夫婦が住むとか聞きましたが、まったく会わないんですけど……」
「それがねぇ~」
彼女ががっかりした表情でつぶやく。
どうやら、婿の会社の近くに新居を構えてしまったらしい。
大家さんは他にもアパートを持っているから、金銭的にはまったく痛くないらしいが。
「せっかくここを改築したのにですか?」
「まぁ、若い人はハイカラな所がいいんでしょうねぇ」
ほんで婆さんが死んだら遺産だけゲットか。
それでいいのかねぇ。
まぁ、それはそれ――他所様の家庭に口出しできる身分じゃねぇし。
早速、いただいた飯を食う。
「ンマーイ!」
「……美味しい」
「あ……そういえば、さっきの婆さん飯食えてるかな?」
ちゃぶ台に載るオニギリと豚汁を見つめる。
「……」
俺の言葉にヒカルコの動きも止まった。
俺はおにぎりを1つ皿に乗せると、残った豚汁を俺の小さな鍋に移した。
「ちょっこら、でかけてくるぜ」
「うん」
俺は階段を降りると、さっきの婆さんのところに向かった。
辺りはすっかりと夕焼けで、あちこちから夕げのいいにおいが漂ってくる。
俺のガキの頃にはカレーが多かったのだが、この時代にまだカレーはメジャーじゃなかったのか?
レトルトのカレーができるのももう少しあとだしな。
「あ、そうだ! カレーといえば、パウチの特許のことを忘れてたなぁ。それと、荷物を運ぶタイヤ付きのキャリーは使えそうだよなぁ」
今日のようなできごとがあったときに便利だろう。
リアカーじゃちょっとでかすぎるんだよな。
婆さんの家に到着すると明かりがついていた。
どうやら起きたらしい。
「お~い婆さん! さっきの男だけど」
少し戸を開けると、鍵はかかってない。
不用心だが、昔はこういう家も多かった。
それに、この婆さんの家じゃ盗るものもないだろうという判断だろうか?
「はい」
返事が聞こえたので、引き戸を開けると婆さんが布団の上に座っていた。
「婆さん、飯食ったか?」
「ちょっと食欲がなくてねぇ」
「握り飯と豚汁がある。食欲が出たら食わないか?」
「ありがとうございます……」
なんだか、彼女が泣き始めてしまった。
参ったなぁ……。
「なんだなんだ、泣くこたぁねぇじゃねぇか」
「すみません……」
「味はとりあえず問題ないと思うぜ。それじゃな」
「あ……」
彼女がなにか言いたそうだったのだが、婆さんの家をあとにした。
やれやれ、身内もいなそうだし大変だな……。
――というか、この時代で天涯孤独の俺も、ああなるかもしれん。
ちょっと気合を入れて、金を稼がないと。
金さえあれば、たいていのことはどうとでもなるし。
歳でヘロヘロになっても、立派な老人ホームに入れるわけだしな。
部屋に帰ってきた俺は、ヒカルコと一緒に仕事の原作読み。
寝る時間になったので、一緒に布団に入ったのだが、今日はやたらとくっついてくる。
「おい、暑いからくっつくな」
「……うん」
――返事はするのだが、くっついてくる。
こいつも暑いと思うのだが……。
------◇◇◇------
――全集の仕事を始めた次の日。
一応、原作を最後まで読み終わる。別に長編でもないし。
最初と終わりは決まっているので、冒頭の構成をヒカルコとやって、彼女には書き始めてもらう。
量的には約半分に圧縮だが、単純に1/2にすればいいというものでもないだろう。
作者的に、これは書きたいという部分があるはずだ。
それを踏まえつつ構成していく。
仕事をしながら軽く昼飯を食う。
さて、午後の仕事も頑張るか――と考えていると、下から声がした。
「篠原さ~ん」
これは大家さんの声だな。
「は~い?」
外から声がしたので、戸を開けて階段の所から下を覗き込むと、彼女がいた。
「お客様みたいよ」
大家さんの塀の戸を開けると、昨日の婆さんが入ってきた。
「ああ、昨日の婆さんか。よくここが解ったな」
名前もなにも言ってなかったのに。
慌てて階段を降りた。
「近所のあちこちに、若いお嫁さん連れて歩いている人を誰かと尋ねたら、『網戸を作ってくれた人』だと教えていただきまして」
「女房じゃねぇって言ってるのに……」
婆さんが階段に向かってペコリと頭を下げたので、そちらを見るとヒカルコが顔を出していた。
「それで婆さん。身体は大丈夫かい?」
「はい、お陰様で……あのこれを」
彼女が差し出したのは、網に入った小さなスイカ。
多分、大きなものは高いし、彼女が持てなかったのでは……。
「お礼かい? 別にそんなのは要らねぇのに」
「いえ、助けていただきましたから」
「それじゃ、せっかくだからゴチになるぜ」
彼女からスイカをもらった。
こういうときは、さくっともらう。
向こうも感謝してくれているのだから、こっちも気持ちよくもらってやらないとな。
「ありがとうございました」
「いいってことよ」
婆さんに別れの挨拶をして、早速スイカを食う。
それでなくても水分不足なのだから、水菓子はありがたい。
「4人だから、ちょうど4等分すればいいな」
「あら? 私もご相伴あずかっていいのかしら」
「スイカが嫌いでなければ」
「うふふ……」
喜んでいるということは食べるのだろう。
網に入ったままのスイカをヒカルコに渡して、4等分してもらう。
「お~い、八重樫君~。スイカ食わんか?」
「はい! 食べます食べます!」
彼が勢いよく出てきた。
皆で集まって、俺の部屋で食う。
なぜならば――俺の部屋には扇風機があるから。
一口食う。
ジューシーで口の中が水分でたっぷりなのだが――やっぱり、この時代のスイカは全然甘くねぇな。
俺は戸棚から塩を取り出して、赤い果肉にふりかけた。
「僕、それ嫌いなんですよねぇ」
彼が俺の塩を見て、眉をひそめている。
珍しく意見が食い違う。
「別に真似しろとは言わんよ」
「私にもいただけるかしら?」
「ほいさ」
大家さんは塩をかける派らしい。
ヒカルコはそのまま食べている。
「あ~冷えていればもっと美味いんだがなぁ。やっぱり無理して冷蔵庫買っちまうか?」
「それって大丈夫なんですか?」
「まぁ、デカい仕事も入ったし、なんとかなるだろ」
文章を書くのはヒカルコなので、ほとんど彼女に渡すつもりではある。
そこから冷蔵庫代だけもらおう。
「篠原さん、発明家だとおっしゃってたけど、小説もお書きになるの?」
大家さんが、山積みになっている原稿用紙の束を見ている。
まぁどう見てもバレバレだ。
「それを書くのは、そちらのヒカルコ先生な」
「……ぶんぶん」
彼女が首を振っている。
「まさか、止めるとか言わないだろうな。勘弁してくれよ」
「書くけど……」
それじゃ、早速明日になったら秋葉原にでも行って、冷蔵庫買ってくるか。
すぐに帰ってくれば、2時間ぐらいだろ。
仕事に影響もない。
影響があるなら、水不足のほうがよほど深刻だ。
大手町やらのデカい企業はどうしているんだろうなぁ。
――そのまま夕方になり、ヒカルコと仕事をしていると、外に車が止まったようだ。
ここは結構路地が狭いので、入ってくるのは大変だと思うが――。
網戸から外をチラ見すると、タクシーだった。
降りてきたのは2人。
相原さんと、ベレー帽を被った中年の男性。
「誰だ?」
こんなところまでタクシーで来るなんて、どこかのお偉いさんだろうか?
ベレー帽をかぶっているってことは、漫画家だろうか?
2つの足音が階段を上ってくると、八重樫君の所をノックした。
彼が出て対応している。
「ええ~っ! 八重樫一です! 初めまして!」
なんだか、大声が聞こえてくる。
「篠原さん! 篠原さん!」
彼が俺のところの戸をどんどんと叩いてくる。
「なんだなんだ?」
慌てて外に出ると、彼が血相を変えていた。
「なんだどうした? 世界の終わりが来たか?」
「帝塚先生ですよ!」
彼が指す方向――薄暗い廊下に漫画の神様が立っていた。
俺が見たことがあるのは、TVでクイズ番組のゲストとして出ていたときぐらいのもんだ。
それが目の前に、生神様である。
しかも俺より若い。
そりゃ、この時代ならそうだろう。
「こりゃどうも初めまして。先生の隣に住んでる篠原と申します」
「僕の漫画の原作をやってもらっている方なんです」
八重樫君の説明に、神様がニコリと笑った。
「帝塚です。原作の方がいらっしゃるとは思いませんでした」
「まぁ原作というか、ちょっとネタだしさせてもらっているだけなんですけどね」
「そんなことないですよ。篠原さんがいないと、今の話は描けませんし」
「大先生が、今日はなんでこんな場末まで? もしかして、有望な若手が出てきたんで、叩きつぶしにやって来たとか?」
「「篠原さん!」」
八重樫君と相原さんの声がハモった。
「ははは、有望な若手が気になったというのは確かですよ。一番最初の作品から読ませてもらってますから」
「ありがとうございます!」
八重樫君が最敬礼をした。
「すごい若手が出てくれば、私たちベテランとしてもうかうかしていられませんからねぇ」
神が俺と話しながら目を細めている。
「大先生からライバル認定されるってことは、八重樫先生の実力も本物ってことかぁ」
「それは僕も保証しますよ。たいしたものだと思います」
神さまも認めてくれた八重樫君の才能を、俺が活かせるだろうか。
「ありがとうございます!」
八重樫君が、再び頭を下げた。
まぁ、大先生を目の前にして言わないが――褒めるってことはどうでもいいから褒めるんだよな。
完全にやられたと思ったら、内心打ちひしがれ絶望し沈黙するだけだと思うんだ。
ヒカルコの文章を読んだ、俺のときのように。
実際、まだ八重樫君も駆け出しだし、海の物とも山の物ともつかない。
最初よくても、すぐに潰れる新人も多いだろうし。
八重樫君は感激して色々と話していたようだが、俺は漫画の神様に会えただけでいいや。
勝負する土俵がまったく違うわけだし。