2話 なんとか生活を始める
気がつくと昭和38年にいた。
マジかよ。
認めたくはないが、これが事実なのだから、まいったまいった隣の神社。
金もないし住む所もない。
その前に戸籍もない。
戸籍がなければ、保険証もないし免許も取れない。
すぐさま詰むのが目に見えている。
色々考えた末、俺が取った行動はある政党を利用すること。
一応、申し訳ないとは思っているのだが、他に手が思いつかん。
俺は○○党の職員と一緒に区役所の戸籍課にやってきた。
目の前には、事務服を着て黒縁のメガネをかけた女性が立っている。
「あの、お客様のお名前は?」
「篠原正一です」
正一は偽名である。
それっぽい名前にしたが、これは俺の祖父の名前である。
ちょうどのこの世代の人だったので、時代に即しているだろう。
「篠原様ですね。戸籍の所在が不明ということでしたが……」
「はい――生まれたのは葛飾だと思っていたのですが、なに分昔で記憶があやふやで」
「それから樺太に渡られたということでしたが」
「豊原という所で開拓の仕事をしておりましたが、引き上げの際に両親を亡くしまして。なにせ着の身着のままだったものですから、なにも持っておらず……」
「承知いたしました……」
職員が気の毒そうな顔をしている。
戦後は、こういう人が沢山いたんだろうな。
でまかせばかりで、まったくもって申し訳ねぇ。
嘘をついてでも、なんとかするしかねぇんだ。
彼女に言われるまま、書類に記載して手渡した。
「それでは、1週間ほどお時間をいただくと思いますが、よろしいですか?」
「はい、もちろんです。お手数をおかけいたします」
なんとかなりそうなんで、俺はホッとして頭を下げまくった。
「よかったですな。篠原さんでしたか――長男なんですね」
「はは、大正生まれで、長男で正一ですよ。ありがちですよね」
「まぁ、私も似た感じですし……ははは」
「ふう……これでなんとか……」
俺はため息をついた。
「苦労なさいましたね……」
「あ、いや――ありがとうございます」
この人もいい人みたいなのに、騙して申しわけねぇ。
まぁ、しばらく〇〇党に寄付して、機関誌の新聞取れば義理は果たせるだろう。
男と一緒に区役所を出た。
「ここからしばらく歩きますが、いいですか?」
「はい、大丈夫です」
くねくねした細い迷路のような路地を歩く。
見た感じだと物価は平成令和の、ざっと1/10だな。
解りやすいっちゃ解りやすい。
本当にビルが少なく、平屋~2階建ての木造建築が延々と続く。
こりゃ、火事でも起こしたら大変だ。
路地には車も少なく、子どもが多い。
道脇にはドブが流れて異臭を放っているが、浄化などしないで色々と垂れ流していた時代だ。
20分ほど歩くと、小さなアパートが見えてきた。
木造で2階建て、階段が中にあるタイプである。
有名な漫画家が集まっていたという、某ナントカ荘みたいな感じだな。
俺を連れてきた男が、頭の禿げたちょっと小太りな男となにか話している。
相手は、おそらく大家だろうと思われる。
その男が俺の所にやってきた。
「篠原さんね」
「はい、よろしくお願いします」
まぁ、想像はつく。
ここは、○○党の息がかかっているアパートだろう。
つまり、そういう訳ありの連中が沢山住んでいるわけだ。
元の時代でもそういうのが普通にあったし。
なくても公営住宅などを紹介してくれるよう、口利きをしてくれることもある。
本当にマジでやばくなったら、○○党か宗教に行けってのが定番だ。
――とはいえ、俺がその手を使うことになるとは、夢にも思ってなかったが。
俺をここまで連れてきた男がやってきた。
「篠原さん、働けますよね?」
「はい! あの、お借りした金は働いて返しますので」
現金は借りてないが、このアパートだってタダじゃない。
本当は敷金礼金などが必要なのだし。
それらを前借りしたってことになっているのだ。
「頑張ってください」
「はい、ありがとうございます!」
いかにも、やる気がありそうなところを見せておくに限る。
それに、いつまでもこんな所にいるつもりもねぇし。
あくまでも緊急回避だ。
俺が持っている未来の知識があれば、簡単にひっくり返せるのだから。
それは確実だとはいえ、まずは活動資金がいる。
なんといっても、今の俺はオケラ――マジの無一文なのだ。
とりあえず衣食住を確保しなくては。
俺を連れてきた男が挨拶をすると帰っていった。
大家に連れられて木造アパートの中に入る。
ニュースでよく出てくる木造モルタル2階建てとかいうフレーズじゃなくて、マジの全木造の建物。
令和の時代に残っていたら文化財レベルだろうが、今の時代じゃこれがあたり前○のクラッカー。
この懐かしいフレーズも、ちょうど今の時代ってことになる。
「靴箱はそこね」
扉つきの四角い靴箱に靴を入れた。
安い革靴だが、盗まれることはないだろうか?
「盗まれたりしませんかね?」
「心配なら、持って上がったほうがいいかもしれませんよ」
「はい」
替えがないので、もって上がることにした。
もっとボロボロの靴でも買ったほうがいいかもな。
「電話はそこ。10円ね」
「はい」
昔懐かしいピンク電話だ。
この時代の電話の加入権は7~10万円ぐらいしたはず。
元の時代に換算すれば、70~100万円ぐらいの価値だ。
いや、俺が聞いた話はもっとあとの時代だったかも――さらに高い可能性もある。
簡単に引けるものではない。
そのかわり、加入権を買えばどんな僻地でも電話線を引いてくれた。
ウチの実家でも、電話を入れたのは昭和50年代なかばだったな。
2階に上がる。
階段も廊下も全部木造だ。
「そっちのほうが炊事場、ここがトイレ」
トイレを開けるとボットンだ。
まだ水洗になってない。
紙もないので、自分で持ってこないとあかん。
トイレットペーパーがいるな。
いや、四角いチリ紙か?
炊事場は共同で使って、ガス水道、電気代もまとめていくらで請求されるらしい。
「篠原さんの部屋はここね」
「ありがとうございます」
201号室。
木製の引き戸を開けると、当然なにもない――いや、布団があった。
「着の身着のままっていうから、布団は貸したげるから」
「ありがとうございます。すぐにお返しいたしますから」
「まぁ、無理をしないでね」
「はい」
大家が下に降りたので、部屋の中に入った。
広さは4畳半でなにもなく、台所もないのでタダの四角い部屋。
正面には木枠の窓。
天井にはソケットがぶら下がっているが、電球もない。
それも買わないと駄目か。
いや、マジで買わないと生活もままならないものが結構あるな。
必要経費だから仕方ねぇが……。
カバンを畳に置くと、窓を開ける――サッシではなくて窓枠も全部木製。
鍵は差し込んでクルクル捻るやつだが、こんなのをまた使う羽目になるとは……。
入り口の鍵も、釣り針みたいのを引っ掛けて止めるタイプ。
シリンダー錠すらない。
窓の外には大きな木が見え、近所の物干し竿には沢山の洗濯もの?
同じ布切れが列をなしている。
見上げれば、空にはそろそろグラデーションがかかり始めていた。
「はぁ~」
俺は、畳に寝転がった。
電球もないので、このまま真っ暗になってもやることがない。
俺はあることを思い出して、カバンを開けた。
「スマホを充電したほうがいいか」
壊れたら終了だし、いつ使えなくなるか解らないが、色々と役に立つ。
電卓にもなるしカメラにもなる。
こんなカメラがあるなんて誰も知らないから、盗撮にも使えるだろう。
ただ、待ち受けにしていても仕方ないから電源は切っておくか。
コンセントは部屋に1つ。
壁に埋め込み式じゃなくて、電線が柱を伝って畳の近くまで降りてきている。
「はぁ~」
再び、ため息をついて畳に寝転がると、どこからかチャイムが聞こえてきた。
新聞だと10月となっていたから、5時のチャイムか?
俺は起き上がると、スマホの時計を5時1分に合わせた。
ついでに日付も直しておこうと考えたのだが、自動で修正するのがデフォで、手動だと巻き戻すのがすげー面倒――諦めた。
暗くなってくるとマジでやることがない。
寒くなってきたので、布団を敷いて服を着たままもぐり込んだ。
カビくさいにおいが鼻をつくが、文句は言えん。
「そうだ」
確か、スマホの中にダウンロードしたWEB小説が山ほどあったはず。
どこかのサイトにあったのを、まとめてダウンロードしたのだ。
違法かどうかは解らんが、こんな時代じゃどうでもいい。
この世界でスマホを使っているやつは、多分俺一人なのだ。
日が落ると、マジで真っ暗。
辺りはシンとしている。
おそらく周りに、ラジオ、TV、ステレオを持っているやつがいないのだろう。
それだけで、こんなに静かになるのか。
たまに、あちこちから夫婦喧嘩か、赤ん坊の泣き声らしきものが聞こえてくる。
60年前の日本はこんな感じだったのか。
「あ」
俺は外で見た、白い布切れの列を思い出した。
あれは赤ん坊のおむつ布だったのだ。
「なるほど、おむつか……それより腹減った……」
なにか食いたいが金がない。
とりあえず住む場所を確保できただけで、よしとしなければ。
スマホの小説を読みながら、ふと思った。
この時代にも、俺の両親がいるんだよなぁ。
でも、昭和38年じゃ結婚もしてねぇぞ。
爺さん婆さんもいるが、変な男が突然押しかけて「未来から来た孫です! 助けてください!」とか言っても信じてもらえねぇだろうしなぁ。
俺は真っ暗な中、スマホの明かりで小説を読み、空きっ腹を抱えながらいつしか眠りについた。
------◇◇◇------
――昭和38年にやって来た、次の日。
寝て起きたら、夢から覚めていると思ったのだが、そんなことはなかったぜ。
ナンタルチアサンタルチア――そういうギャグが昔あったのだ。
カビくさい布団を畳んでいると、ドアがノックされた。
「誰だ? は~い」
ドアを開けると、髪の短い18歳ぐらいの少年が立っていた。
紺のズボンと白いシャツ。
丸顔で、お世辞にもいい男とは言い難い。
「篠原さんですか?」
「はい、どなた?」
「僕は八重樫と言います。あなたを連れてくるように言われました」
ああ、なるほど。
連れていかれるのはタコ部屋か、はたまた――。
働いたら日銭をくれるのだろうか?
昨日から何も食っていないので腹が減っているが、日銭をくれるなら1日頑張ればなんとかなる。
「行けますが――荷物をどうしたらいいですかねぇ」
内側からは鍵がかけられるが、外側に鍵がない――というか金具はあるが、鍵がない。
「それじゃ僕の部屋に置いていきますか?」
「いいのですか? それじゃお願いします」
彼の部屋は隣だったので、荷物を置かせてもらった。
彼が南京錠をかけるのを見て、俺はため息をつく。
「はぁ、鍵も買わないとだめかよ」
「本当になにもないんですね」
「もうすっからかんの本当のオケラですよ。まぁ、わけは聞かんでください」
「大丈夫ですよ。ここにいる人たちは訳ありの人たちばかりですから」
まぁ、やっぱりな。
ここは、そういう連中が集まっているってことだ。
1階に下りようとして気がついたのだが、部屋の前に新聞が置いてあった。
政党の機関誌である。
「新聞って、月いくらですかね?」
「450円ですよ」
「ありがとうございます」
そういう金も、後々引かれるってことだ。
新聞を部屋に放り込み、靴を持って彼と一緒に下に行くと玄関から出る。
舗装されていない道を、彼について歩き始めた。
「どのぐらい歩きます?」
「10分ぐらいです」
途中に店が見えてきた。
昔ながらのよろず屋って感じ。
この時代には、まだコンビニもドラッグストアもない。
いや、コンビニはもしかしてあるのか?
あっても黎明期だし、場所は限られているだろうなぁ。
「あとで、色々とものを揃えにゃ」
店の場所は覚えた。
「解らないことがあったら聞いてください」
「ありがとうございます」
「敬語とか要らないですよ。僕は年下ですし」
「いや、アパートと職場の先輩ですからね」
こんな所でイキっても、なんのプラスにもならねぇ。
頭を下げて丸く収まるなら、下げればいいのだ。
下げて金を取られるわけじゃねぇし。
彼について到着したのは黒塗りで木造の工場らしき場所。
中に入ると天井が高く、大きな機械が沢山並ぶ――紙が山のように置いてあるので印刷工場だろう。
〇〇党の機関誌を刷っている所か。
作業に入る前に、皆が集められて自己紹介をさせられる。
「篠原です。本日よりよろしくお願いします」
なぜか拍手が湧く。
昔の日本はこういうノリだったか?
壮行会のあと、電車の乗り場で万歳三唱しちゃう感じか。
工場というと制服がありそうなイメージだが、そんなものはない。
皆が雑多な格好をしている。
仕事は紙の束を持ったり、セットしたり――ガッチャンガッチャンとけたたましい音を出す機械の間を走り回る。
結構な力仕事。
大変だが、別に考えることもないので慣れれば問題ないだろう。
明日は間違いなく筋肉痛だけどな。
まぁ、慣れだ慣れ。
いいこともある。
10時に中休みがあって、お茶とかりんとうやせんべいなどのお菓子が出た。
腹減りの俺には、これはありがたい。
とりあえずカロリーが欲しいので、俺はかりんとうばかり食っていた。
昼になったが、金のない俺は当然飯抜き。
ひもじい。
普通ならこんな状態になったら一発逆転なんて無理な話なのだが、奥の手を利用するためにも、まずは生活基盤を安定させないとな。
工場の隅に座ってぐったりとしている俺の所に、八重樫というあの少年がやって来た。
「篠原さん、お昼はどうします?」
「金がないんでパス」
「パスなんてイカす言葉を使いますね。奢りますよ、ラーメンでも食いませんか?」
「年下に奢ってもらうとか、格好悪くてやってらんねぇ」
「そういう強がりは損ですよ。金が入ったら、篠原さんが僕に奢ってくれればいいんですから」
彼の言う通りだ。
とりあえず腹になにか入れんと倒れるかも――背に腹は代えられん。
「……そうだな。それじゃゴチになるか……」
「そうしましょ」
いいやつだな。
間違いなくいいやつなのだが、こういう人間が割を食う場面が多い。
貧乏くじを引くってやつだ。
工場から数分の所に食堂があった。
近くで勤めている人たちを目当てに営業しているのだろう。
元の時代でも、建設現場を巡っている移動弁当屋なんかがいたしな。
中に入ると、人でいっぱいだった。
工場で見た顔もいたので、軽く会釈をする。
別にこいつらと付き合うつもりはねぇし。
少年と一緒にテーブルについた。
「篠原さん、なにを頼みます?」
「ラーメン、ライスつけていいかい?」
「もちろん。僕もそれでいきます」
注文を取りにきた女の子を見る――前掛けをしてオーバーオールを着ている。
多分、高校生ぐらいだろうなぁ。
昔は、中卒で働くことも普通だったし。
それにしても、令和には絶滅してそうな純朴そうな女の子だ。
中々いい。
女の子を見て、少年が赤くなっている。
「なんだ、ああいうのが好みなのかい?」
「……可愛いですよね」
「八重樫――君でいいかい?」
「はい」
「言葉遣いもしっかりしているし礼儀作法も身についているみたいだし。君は、いいところのお坊ちゃんなんじゃないの?」
「……よく解りますね」
「年の功ってやつだ」
話しているとラーメンとライスがやって来た。
これまた、黒いスープに黄色の麺が浮かんでいる純朴な醤油ラーメン。
スープをすする――醤油と味醂と化学調味料の味。
まぁこの時代なら、こんなもんだろ。
食えるだけでありがたい。
「篠原さんは、それが素ですか?」
「まぁな。あそこに入っちまったら、こっちのもんだ。お客様タイムは終了。マジで困ってたからな」
「篠原さんも訳ありだって言ってましたよね?」
「まぁ、それは聞かないでくれ」
聞かれても答えられねぇし。
「それは大丈夫です。おっしゃるとおり、私の父は地方で建設会社の社長をやってます」
「なんだ、あとを継げば前途洋々じゃねぇか。ハフハフ……」
俺はラーメンをすすった。
「僕は、僕のやりたいことがあったので、あとを継がないと言ったら勘当されました」
彼も麺をすすりはじめた。
「それで仕送りとか切られて、こういう所にいるのか」
「まぁ、そんなところです」
話を聞きながら、俺はラーメンを頬張っていた。
空腹にまさる調味料なしとは、よく言ったものだ。
まじで美味い。
ご飯の糖分が身体に回るような気がするぜ。
「建設会社なら、オリンピック特需で儲かってるんじゃないのか?」
「今はそうですが、先のことなんて誰にも解りませんし」
「まぁな」
今の俺以外の普通の人間はな。
「実際、来年はオリンピックだというのに、景気が悪いみたいですよ」
オリンピックのための設備投資が一巡したかららしいのだが。
祭りをして盛り上がったあと、経済が傾く国もマジであるぐらいだしな。
「勘当とはいえ、本当にバッサリ切るとは、親父さん中々だな」
「まぁ、姉の話では相当怒っているらしいですし……」
親がそんなに怒る商売ってのはいったいなんだろうか?
まさか、水商売とかタレントになるとか、そういうのじゃねぇだろうし。
俺は、彼に顔を近づけると小声で話した。
「まさか、この世界に革命を起こして、腐った資本家どもに正義の鉄槌を――とかそういうのじゃねぇだろうな?」
「ち、違いますよ。学生運動とかそういうのには、まったく興味がありません」
「それは、よござんした」
こういう所にいるから、そういう崩れの可能性があるから注意しないとな。
TVで生中継した、鉄球&カップラーメンのナントカ山荘事件まで、連綿と続いていくわけだし。
「それじゃなんだ? 役者とかタレントとかか? そりゃカタギの商売じゃねぇな」
「違います……漫画家なんですけど」
俺の質問に、彼がすごく申し訳なさそうに答えた。
「へぇ~、いいじゃないか。当たれば儲かるしな」
「篠原さん、年配の方なのに漫画なんてくだらないって言わないんですね」
「くだらなくはないだろう。職業に貴賎なし。俺だって漫画好きだしな」
「どんな漫画が好きですか?」
彼が身を乗り出した。
「やっぱり王道の帝塚か、富士山冨士夫とか知ってる?」
「知ってます。随分と渋いところを知ってますね」
――とはいえ、この時代の作品はあまり知らない。
帝塚の敏腕アトム辺りはこの時代か。
富士山の有名な作品、オバ9とか、青い猫型ロボットが大ヒットするのはもうちょっとあとだ。
「あと、忍者漫画書いている白海三平とか」
「へぇ~、本当に好きなんですね」
彼は本当に感心しているようだ。
この時代に大人で漫画を読むやつは、あまりいなかったのだろうか?
「八重樫君は、どんな漫画を描いてんの?」
「そうですね、SFが好きなんですけど」
「どこかに投稿とか、持ち込んだりしたかい?」
「いいえ、それがまだ……」
「どんなのを描いているのか、あとで見せてよ」
「ええ? 恥ずかしいですし……」
彼が顔を赤くしている。
「恥ずかしがってても、漫画家になったら印刷されて日本全国にばらまかれるんだぜ?」
「そ、そうですよねぇ」
こういう作家志望は結構いる。
承認欲求が強いのに、人に見せるのが嫌とか言うのだ。
わけがわからん。
どうだろう……八重樫なんて漫画家は聞いたことがないので、多分芽が出なくて、そのうち筆を折ってしまったんだろうな。
時代に埋もれてしまった漫画家か。
いや、本名じゃ載らないか。
普通はペンネームだよな。
まぁ、その前に箸にも棒にもかからなかった可能性があるが。
アパートに帰ったら、彼の作品を見せてもらう約束をした。
午後の作業がなんとか終わり、帰り際に日当をもらう。
オケラなのを知っているので、給料を日割りにしてくれたようだ。
ありがたい。
金額は、一日働いて500円札が一枚。
俺が使ったことがない、昔の500円札――裏は富士山なのは同じか。
ちょっと図柄が違うような気がするが。
元の時代だと5000円相当ってことになる。
少ないが、アパート代やら機関誌分が差っ引かれれば、このぐらいになっても致し方ない。
本当は部屋を借りるために、敷金礼金の他に保証人も必要なのだ。
それを用意しなくても部屋が借りられた。
とりあえず現金をゲットできたのはデカイ。
これでやっと普通の生活を軌道に乗せることができる。
ホッと一安心しながら道を歩いていると、アパートに帰る道端に露店が出ていた。
雑多なものが積まれ、全部がどこから持ってきたのか解らないような中古ばかりである。
昔は、こういう商売もありだったんだろうなぁ。
「八重樫君、俺は色々と買い物して行くんで、お先にどうぞ」
「荷物を持つのが大変でしょう? 手伝いますよ」
それじゃ、お言葉に甘えて。
着の身着のままなので、替えの服も必要だ。
このままじゃ洗濯もできない。
服の山の中から、テキトーに選んで購入。
この際サイズが多少違ってても構わんし。
ボコボコの鍋や、錆びている包丁なども買った。
コンビニ袋などない時代だからな。
全部手で持たないとアカン。
金は節約せねばならないが、生活必需品はどうしても必要だ。
帰る途中の店に寄ると、色々と買い込んだ。
ノート、鉛筆、電球、タオル、トイレットペーパー、そして南京錠。
南京錠が200円で一番高かったが、これも必要だ。
普通に使われているだろうチリ紙に比べて、トイレットペーパーはかなり割高なのだが、こちらを買ってしまった。
やっぱり使い慣れているからな。
1円でも節約するために、チリ紙にすべきなのだろうが……。
悩んだすえ、結局トイレットペーパーにした。
晩飯はアンパン一個と瓶の牛乳で35円。
即席の袋麺も売っているが、1つ35円もする。
値段は同じだが栄養価を見ても、アンパンと牛乳の勝ち。
リーマンのお父さんたちは、毎朝駅の売店で買うアンパンと牛乳で朝食を済ませて、高度成長期を乗り切ったのだ。
それに敬意を払って、俺もそれにならおうじゃないか。
牛乳瓶は持って帰れないので、その場で買ったばかりの鍋に開けた。
今日もらった500円だが、残りは150円ほどになってしまった。
仕方ない。
部屋に帰って、買ってきた電球をねじ込む。
「おお、やったぜ」
懐かしいオレンジ色の光で部屋が染まった。
嬉しいのだが、この裸電球ってすぐに切れるんだよなぁ。
買ってきたアンパンを食べて、鍋に入れた牛乳を飲むと、八重樫少年の所を訪れることにした。
どうせやることもないしな。
彼の漫画とやらを見せてもらおうかと思う。