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19話 土下座


 競馬で稼いだ金で特許の申請を始めた俺だが、7月に入って東京の渇水がひどくなってきた。

 さすがに洒落にならないレベル。

 水道が出ないので銭湯も休業だし、風呂にも入れん。

 大家さんが持っているガチャポンプを使わせてもらって、身体を拭くぐらいしかできない。

 当然、ヒカルコも風呂に入れないので、一緒に身体を拭いている。


 そんな生活を続けていたのだが――。

 ある日の昼過ぎ、さすがにヒカルコが我慢できなくなったらしく、風呂に入りたいという。


「風呂に入りたいってどうするんだよ? 銭湯も休みだぞ?」

「向こうの商店街にある銭湯は、地下から水を汲み上げてるって!」

「それはいいが、そこしかなかったら、みんなが入りたがって大混雑すると思うがな」

「わかってる!」

 なんだか、フンスと気合を入れている。


「ああ、解った解った、行ってこいよ。俺は面倒だからパス」

 とりあえず身体が拭けていれば、俺はいいや。

 風呂に入らんでも死ぬわけじゃねぇし。

 頭もガチャポンプの水で洗えるしな。

 ただ、地下水なのでめっちゃ冷たいが。


 公害が酷いこの時代でも、秩父とか奥多摩とかまで行けば水は綺麗だろうから、川を探して水浴びをするという手もあるな。

 いやその前に、温泉という手もあるか。

 秩父とか、めちゃ温泉とかなかったか。


 温泉には惹かれるが、原稿で大変な思いをしている八重樫君を置いて温泉に行ったりしたら恨まれるだろうなぁ――ははは。


 そんなわけで、ヒカルコは自分の部屋に戻ると銭湯に出かけた。

 俺は少々におっても気にしないのだが、やつは気にするみたいだな。

 隣の八重樫君は、資料集めに図書館に行っていて留守。

 俺は1人で、次に申請する特許について考えていた。


 3時頃、買ってきた電子工作系の雑誌を見つつ、新聞を広げて爪を切る。

 雑誌にはカセットテープの記事が出ていた。

 ちょうどカセットテープのデビュー前らしい。


「そうかぁ、それじゃカセットテープの特許はだめだな……」

 でも、同じ磁性体でも、フロッピーみたいに円盤ディスクタイプはまだ特許が取られてないだろう。

 それでも狙ってみるか。

 カセットテープはシーケンシャルな読み書きしかできないが、ディスクタイプにすればランダムアクセスもできるし。

 その辺も特許の説明に折り込めば認められないか?


 爪切りでパチンと切ると、爪が飛び散る。


「そうだ!」

 切った爪が飛び散らないようにする、爪切りにつけるカバーも特許だったはず。

 これは申請が通るかもしれん。

 出たネタは、すかさずメモをする。


 そんなことをやっていると、ドアがノックされた。


「篠原さん」

 この声は相原さんだ。


「は~い」

 新聞紙をうっちゃると、ドアを開ける。

 そこには、汗をかいた相原さんが立っていた。


「こ、こんにちは~」

「八重樫先生は図書館に行ってますから、しばらく帰らないですよ」

「先生もそうなのですが、篠原さんに用事がありまして……」

 そう言う彼女は、荷物に大きな袋を持っている。

 なんだろう。

 また仕事の話だろうか?


 とりあえず上がってもらうと、彼女に向けて扇風機を当ててあげる。

 俺は、残っている水でお湯を沸かすことにした。

 白い湯気が出ているヤカンを見つめる。


「相原さん、なんの用事だろうか……」

 暑いからお茶じゃなくて、カルピスでも入れてあげたいが――溜め置きしている水なので沸かさないと飲めない。

 こうなるとやっぱり冷蔵庫が欲しいよな……。

 麦茶などを作り置きしても、暑さですぐに傷むし、水あたりはヤバい。

 水道の塩素というのは偉大だと思う。


「すみません、水がなくてお茶ぐらいしか」

「ああ、水不足で酷いですよねぇ。編集部も困ってますよ」

 彼女が涼しそうに扇風機の風に当たっていたのだが、話を切り出した。


「まずはこれを……」

 彼女が差し出したのは、献本だ。

 八重樫君が連載を始めた最新号だな。

 2冊あるから、俺ももらえるらしい。


「私もいただいていいんですか?」

「はい」

 なんと、一番最初のページに宇宙戦艦ムサシが載っていた。

 冒頭の数ページはカラーである。

 いつの間に、彼はカラー原稿とか描いてたんだ。

 相変わらず絵は達者だよなぁ。

 これは他の漫画家にも引けはとらないと思う。


「なんと、巻頭カラーですか?」

「はい。編集長もこれは売れると、推しておりますので」

「宇宙戦艦同士の艦隊戦や、荒廃している地球――今までにないストーリー展開ですからねぇ」

「そのとおりです」

 ページをパラパラとめくると、怪我した女性士官が裸に包帯を巻かれて苦しそうな顔をしている。

 これで少年の股間は鷲掴みだろう。


「この献本を先生に渡せばいいのですか?」

「はい……それで……あの……」

「どうしました?」

「これからが本題なのですが……」

「はい、どうぞ。相原さんからの特別なお礼があれば、たいていのことはお聞きしますので」

 俺の言葉を聞いた彼女が、袋から白くて分厚い本を取り出した。

 本というか、事典の大きさだが――世界の少年少女文学全集と書いてある。

 いつぞや、話題に出た本だな。

 もう出版されていたのか。

 監修に、でかでかと田端康成大先生の名前が書いてある。

 まだノーベル文学賞は取ってないが、間違いなく日本文学の重鎮だ。


「この本がなにか……」

「弊社は、この全集を定期的に刊行しているのですが、執筆なさっている先生のおひとりが急病になってしまいまして……」

 ああ、なるほど一気に出したんじゃなくて、今月は1巻来月は2巻――みたいな感じで刊行していたわけね。

 いやいや、そんなことより――俺は彼女の話を聞いて嫌な予感しかしなかった。


「ま、まさか……」

「はい、この本の執筆を引き受けてくださいませんか?」

 執筆といっても、もちろん新作とかそういうのではない。

 古典文学の名作を児童書に手直しする仕事だ。


「ええ~?! 本気ですか? ――というか、私じゃなくてヒカルコに来た話ですよね?」

「はい、きっかけはヒカルコさんの原稿なのですが、篠原さんの力なくして、あの話は書けなかったと思いますし」

「な、なんでこんなことに……」

 ――って決まっている。

 俺がネタ出ししてヒカルコが書いた原稿を、相原さんが文芸やらあちこちに持ち込んだからだ。

 それが文学全集作っている編集部の目に止まったんだろう。


「お願いいたします」

 彼女が頭を下げた。


「いやいや、これ執筆している方々って錚々(そうそう)たる人たちなのでは? 俺たちみたいな素人がやっていい仕事じゃありませんよ」

「いいえ、あの原稿を見て編集長も大丈夫だろうと、太鼓判を押していましたし」

「ええ~、し、しかし」

 全集をチラ見すると、監修で光る大先生の名前。

 俺みたいな3流のやっていい仕事じゃねぇ。

 でもまぁ、文章を晒すのはヒカルコのやつか……。

 そう考えると、ちょっと気が楽になった気がする。

 あくまで、そんな気がするだけだが。


「でも相原さん。実際に文章を書くのはヒカルコですよ」

「はい、彼女の柔らかく繊細な文章が、子どもたちが読む文章にピッタリではないかと」

「あ~ま~確かに、そう言われればそうですが……ヒカルコのやつがなんて言うか……」

「そこは篠原さんから説得していただければ!」

 彼女がちゃぶ台から離れて土下座した。


「ええ~? 土下座してもらっても困るんですけど……」

「……!」

 なにを思ったか、彼女が立ち上がると突然服を脱ぎ始めた。

 あっけに取られる俺を後目に、丁寧に脱いだ服を畳み、素っ裸になった相原さんが再び土下座した。

 昭和か! 昭和だわ。


「お願いいたします!」

「あ~もう、相原さんはずるいなぁ――」

 そういう頼まれ方したら、断るものも断れんやろが~い。


 そんなわけで――暑い中、合体してしまった。

 2人してぐったり


 先に復活して、次の特許のネタ出しをしていると、相原さんが起きた。


「……」

「起きました?」

「……いやっ……」

 彼女が顔を隠している。どうやら恥ずかしいらしい。


「今更恥ずかしがられても」

「……もう、篠原さんの意地悪……」

 彼女が顔を真っ赤にしている。


「はは」

「あの……」

「なんでしょう?」

「いつもこういうことをしているわけじゃないですから……」

「それはもちろんでしょうけど、偉い人から身体でもなんでも使って原稿取ってこい! とか言われたりしません?」

「……言われます」

 まぁ、やっぱりなぁ。

 俺だって最初は、彼女が八重樫君のたらし込み要員だと思っていたし。


「そんなことをせずとも仕事をこなせば、男どもはなにも言わなくなりますよ。いや、かえって言うかな? 女が優れていると認めたくなくて」

「要は、私の立場が上になればいいんですよね」

「そういうことになりますかねぇ」

 彼女が起き上がって、服を着始めた。

 まだフラフラしているが大丈夫そうだ。


「篠原さんは、女が仕事していることについてなにも言わないですよね?」

「え? 新宿駅でもいいましたが、女性はもっと社会進出すべきだと思いますよ。女だからといって家庭に入るのがすべてではないわけでしょ?」

「はい……そのとおりだと思います」

「私も微力ながら協力させていただきますから」

 こんな素晴らしいお礼をもらっては、協力せざるを得まい。


「本当ですか?」

「もちろんですよ」

 服を着た彼女は、袋を持って八重樫君の所に向かった。

 大丈夫だろうか? ――と見ていると、普段と同じように挨拶して仕事をこなしていた。

 すごいねぇ。

 もしかして、根性の塊みたいな人なのでは? ――と思ってしまう。

 俺みたいな軟弱者とは、根本が違うんだろうな、はは。


 先生の所での話が終わって、階段の所にやってきた彼女に声をかけた。


「先程の件は、ヒカルコのやつをなんとか説得いたしますので、任せてください」

「よろしくお願いいたします」

 ペコリとお辞儀をして、階段を降り始めた彼女だったが、転けそうになっていた。

 思わず飛び出して抱きかかえる。


「あ、あの、大丈夫です」

「本当ですか?」

「ええ……あ、あの身体を触られると……あっ」

「おっとヤバい、ははは」

 なんだかフラフラしているので、オレンジ色になりつつある空の下、彼女を送って通りまで歩くことにした。


「さっきも言いましたが、ヒカルコは説得しますから」

「はい、よろしくお願いいたします」

「決まったら、編集部に電話を入れたほうがいいですかね?」

「はい、その場合はすぐに資料を用意して、お持ちいたしますので」

「わかりました」

 通りまでやって来た彼女は、タクシーを止めるとそれに乗り込んだ。

 車の中からペコリとお辞儀する彼女を見送った。


「さて、ヒカルコのやつはどこまで行ったんだ? 商店街の銭湯って言ってたのに……」

 アパートに帰ってくると、八重樫君が部屋にやって来た。


「相原さん、篠原さんの所に用事だったんですか?」

「ああ、この分厚い本の仕事をやってほしいんだと」

 彼女が置いていった、武器にしたら殴り殺せそうな本を彼に手渡した。


「これって――前に話していた、子ども向けの名作全集ですよね?」

「まぁな。こんな偉い人に混じって仕事とか――どう考えてもヤベー」

「篠原さんなら大丈夫だと思いますが」

「実際に文章書くのはヒカルコのやつだけどな」

「そうなんですね」

「あ~!」

 いまさら後悔してもあとのカーニバル。

 女の色香に迷ってしまったとはいえ、受けちまったらやるしかねぇ。


「日本文学の重鎮たちに仕事ぶりをチェックされるわけか。なんちゅう罰ゲームだ」

「そんなことないと思いますけど……」

「それはまぁよしとして、先生の漫画が載っていたな」

「先生は止めてくださいよ」

「これは名作になる予感だよ。こんな漫画今までになかったし」

「僕もそう思いますけど、それを決めるのは読者ですからねぇ」

 あくまで客観的に見れるのが、彼の強みだな。


 八重樫君が戻り、空が赤くなり始めた頃――ヒカルコが帰ってきた。


「随分と遅かったな? 風呂には入れたか?」

「コクコク」

 彼女がうなずく。

 話によると、結局商店街の風呂には入れず、かなり遠くまで風呂を探しに行ったらしい。

 そりゃそうだ。

 そこしかなかったら、みんな集中するんだから、ご苦労なこった。

 風呂道具を持って電車に乗っているやつが他にもいたらしいので、同じようなことをやっているわけだ。


「それよりヒカルコ! 仕事だ! 今度のはデカいぞ!」

 彼女に大きな全集を見せて説明をする。


「わかった」

「やるのか?」

「ショウイチと一緒ならやる」

「もちろん、俺もやるし」

 話は決まったので、早速大家さんの所に行って電話を借りた。

 相原さんがいる編集部に電話をかけるためである。


「もしもし、相原さん? いつもお世話になっております」

『こちらこそ、いつもお世話になっております。それで――どうなりましたか?』

「ええ――ヒカルコのやつもやると言ってますので。お引き受けいたします。よろしくお願いいたします」

『本当ですか?! ありがとうございます! 早速資料を集めて、明日お持ちいたしますので』

「はい、それではお待ちしております」


 やれやれ、そう言ってはみたものの――日本文学界の重鎮たちと一緒に仕事かぁ。

 大丈夫なのかしらん。


 女の色香に迷ってしまったとはいえ、少々早まったかもしれん。



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