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14話 隣も引っ越し


 俺は新しいアパートに引っ越した。

 そのうち八重樫君もやってくるだろう。

 ヒカルコという女にまとわりつかれたが、前のアパートで俺がよく盗撮していた女だ。

 すぐやれる女というのはいいが、押しかけは困る。

 仕事をしている最中は、1人になりたいのだ。


 話を聞けば、失業してやることもないし、先行きも見えないので不安だったとのこと。

 やることがないなら――というわけで、俺が手ほどきをして小説を書かせることにした。

 大学文学部中退なら、それなりの頭もあるだろう。

 ネタも俺が提供する。

 未来の知識で、いくらでもあるからな。

 書かせてみればそれなりに書けるし、彼女も楽しいらしい。


 やることがあると、彼女の不安も和らぐようだ。

 それならしばらく書かせてみせるのもいいだろう。

 警察の世話になってるんじゃ就職も難しそうだしな。


 俺が持たせたネタ帳と原稿用紙を持って、彼女は自分の部屋で小説を書くようになったのだが、たまに遊びに来るようになった。


 ――5月も中旬になったある日、八重樫君がやって来た。

 漫画の進行状況を見せにきたのだ。


「篠原さん、色々と増えましたね~」

 彼が部屋の中を見回している。

 ちゃぶ台もあるし、食器棚も増えた。

 文机はどうしようか。

 ちゃぶ台で仕事がやりづらかったら買えばいいか。


「まぁな。あそこからすぐに脱出するつもりだったので、買うのを控えていたからな」

「どうせ引っ越しするなら、ものを運ぶのが大変になるだけですからねぇ」

「コーヒーとお茶、どっちを飲む」

「コーヒーあるんですか?」

「インスタントだが……」

 国鉄側の大きな商店街で探していたら、売っていた。

 味は――あまり美味くない。

 ないよりマシって感じ。

 一緒に粉クリームも売っていたのだが、インスタントクリームという名前だった。


「それじゃコーヒーで」

 炊事場でお湯を沸かすのだが、彼もついてくる。

 鍋に水を入れてコンロにかけた。


「あの~、あの人って、篠原さんの所にやって来ているんですか?」

「あの人って誰だ? 女か?」

「はい」

「あいつは失業してて就職もできねぇって話だから、俺が教えて小説を書かせてる」

「え? 小説ですか?」

「ああ、あれでも大学中退みたいだからな」

「それじゃ、僕と一緒ですね」

 彼も大学中退なんだろうか?


「君も大学中退なのか?」

「いいえ、大学を受けると言って東京に出てきたのですが、受けませんでした」

「なんだそりゃ、そら親も怒るよ」

「はぁ」

 当然仕送りを打ち切られたわけだ。

 同郷の同級生が東京の大学に入学していたので、その先輩経由であそこを紹介してもらったらしい。


「君も中々の波乱万丈やね」

「そうですか?」

「有名になったら、自伝を漫画で描けばいいよ」

「そのときは、篠原さんも出てきますよ?」

「ははは、こんな怪しいオッサンがいたってか」

「そんなことはありませんよ、僕を導いてくれた偉大な先輩がいたと……」

「うわぁ、止めてくれ――あ、お湯が沸いたわ」

 鍋を持って部屋に戻った。

 コーヒーカップがないので、湯呑でコーヒーを淹れる。

 まぁ飲めりゃいいんだ。


「粉クリームも砂糖も好きなだけ使ってくれ」

「ありがとうございます」

 彼は結構ドバドバ入れていた。

 もう少し年月がたてば、クリーム入りの缶コーヒーも発売されるはずだ。

 八重樫君は喜んで飲むかもしれない。

 俺はちょっと甘すぎて、苦手なんだが。


 彼と今後の予定を話す。

 予定どおりに5月末であの工場を辞めて、アパートも出るらしい。


「5月末となると31日か。31日は俺の競馬の日だぞ。悪いけど手伝えねぇ」

「工場でも話題になってましたよ。ダービーって大きなレースがあるんですね」

「そうなんだよ」

 競馬があるから引っ越しを手伝えねぇとか、随分と薄情に聞こえるかもしれないが、俺の場合は今後の生活がかかっているからな。


「それじゃ24日にほとんどの荷物は運び出しますんで、そのときならいいですか?」

「ああ、それならOKだ。不動産屋の爺さんの所にいってリアカーを借りてこようぜ」

「はい」

「まぁ、あのアパートなら早く出ても問題はねぇか。ここから工場に通えばいいんだしな。君はもう、ここの家賃を払っているわけだし」

 一ヶ月分の家賃が無駄になるが、この部屋を押さえるために金を払っている。

 ここを逃すと、次の物件がいつ出てくるか解らんし。


「そうなんです。僕もそう思いました」

「ここに引っ越してきたら、カレーをごちそうするからな」

 俺は買ってきた白いカレー粉の缶を、彼に見せた。


「篠原さん、カレーが作れるんですか?」

「肉と野菜を煮込んで、カレー粉入れるだけだぞ。簡単だ」

「そうなんですか?」

「まぁ、とろみをつけるために、小麦粉いれたりもするが」

 小麦粉は入れる前にきつね色になるまで炒める、昔ながらのカレーを作ろうかと思っている。

 あ、そうだ。

 ピーラーの特許はどうだろうか。

 使えそうな特許はメモに残しておく。


「八重樫君、相原さんに連絡するときに、ついでに俺のことも言ってくれた?」

「はい、引っ越しの案内のハガキを出しました」

「おお、ありがとう」

「そのうち、挨拶に来るんじゃないですかね」

「俺からもハガキを出したほうがいいのかな……」

 そういえば名刺をもらっていたしな。


 ------◇◇◇------


 ――アパートに八重樫君がやって来た次の日の朝。

 いやぁ、仕事に行かなくてもいいってのはいいもんだ。

 ゴロゴロしていては確実に運動不足になる。

 運動なら散歩をすればいいが、冷蔵庫がないので毎日の買い物は嫌でもしなくてはならない。

 商店街の肉屋にコロッケやメンチが売っているので、それを買ってパンに挟んで食うことを覚えた。

 これなら食事を作らないでも済む。

 炭水化物+炭水化物なので、これもあまり健康にはよろしくない。

 まぁ、そういうのはどうでもよく、とりあえず腹いっぱいに食う――ってのがこの時代だったわけだが。

 なんでも塩辛く味付けをしたおかずで、白米をバクバク食べる。

 やっぱり高血圧と糖尿がはかどるよなぁ……。

 ヒカルコが作ってくれる料理も味付けが濃いので、少々薄味にしてくれるように頼むか。


 そのヒカルコが原稿用紙を抱えてやってきたのだが、すでに100枚ほど書いたらしい。

 目標である300枚の1/3で、かなり筆も早い。

 彼女が昼飯を作ってくれる間に読ませてもらう――。


 俺は打ちひしがれて――orz――こうなった。

 彼女の文には、女性らしい繊細な心理描写と若々しさに溢れていたのだ。

 オッサンの俺なんかにゃ、どうやっても書けっこねぇ……。

 もう、才能の差ってやつを見せつけられた格好だ。

 逆にいえば、これだけ書けるなら仕事としてやっていけるかもしれん。


 昼飯を食いながら話す。

 彼女が作ってくれたのは、オニギリだった。


「これだけ書けるなら、すぐに仕事が来ると思うぞ。なんなら、なにかの賞に応募してもいいかもしれん」

「……」

 彼女が返事もなくオニギリを食べている。


「それじゃ、ここにやってくる編集の人に読ませてみるか……彼女は漫画担当だけど、文学にも詳しそうだし、小中学館で出している本のどこかで使ってもらえるかもしれん」

「……」

「乗り気じゃなくてもなぁ、こいつを飯の種に換えないと腹が膨れないんだぞ」

 俺は原稿用紙を指した。


「……」

「ヒカルコ……俺みたいなオッサンと、つき合いたいとか思ってるのか?」

「……コク」

 彼女がうなずいた。


「俺のどこがいいのか知らんが、だったら手に職をつけろ。俺はただぶら下がっている女なんかに興味はねぇし。つき合うなら対等な立場でないとな」

「……コクコク」

 やっと納得したようだ。


 飯を食ったら自分の部屋に戻るのかと思いきや、そのままちゃぶ台の上で続きを書き始めた。

 まぁ、俺の所には辞書もあるからいいのだが……さっき言ったこと解ってるんだろうな。

 まずは原稿を完成させないと話は始まらんのだが。


 夕方になると飯の支度をするために、ヒカルコが買い物に行くという。

 それならコロッケが食いたいので、肉屋で買ってきてもらうか。

 ついでに味噌汁の味付けやら、薄めにしてくれるように頼む。


 彼女が買い物から帰ってきて、炊事場で夕飯を作り始めると、ドアがノックされた。


「は~い」

 出ると相原さんだった。


「こんばんは、篠原さん」

「おっと相原さん、わざわざ申し訳ございません」

「いいえ、篠原さんにはお世話になっておりますので」

 彼女から手土産をもらった。

 ケーキだろう。


 炊事場にいるヒカルコに客が来たことを告げて、お湯を沸かしてもらう。

 ポットがないので不便だな。

 昔は魔法瓶とかいっていたが、この頃は発売になっているのだろうか?

 俺が子どものころにはすでにあったからなぁ。


「あ、あの炊事場には誰が? 八重樫先生ですか?」

「いえ、違います。知り合いの女性ですが……」

「……え?!」

 彼女が驚いた顔をしている。


「そんなに意外ですかね……」

「い、いえ、失礼いたしました」

「実は、前のアパートの知り合いなんですよ」

「ああ、あそこに住んでいた人なんですか?」

「そうなんですよ。失業してやることないし――話を聞けば大学中退だって言うじゃありませんか。それなら、私が教えて小説を書かせてみるかと――」

「小説ですか?」

 彼女が興味がありそうな顔をしている。


「中々のものですよ。はっきりいって、私みたいなオッサンよりはるかに才能があるように思えました」

「それを読ませていただくことには……」

 よし! いい具合に食いついてくれた。


「ちょうど、ここに1/3ほどありますから読んでみますか?」

「はい」

 彼女が原稿を読み始めると、ヒカルコがお湯を持ってきた。


「おお、サンキュー」

「……」

 ヒカルコがもじもじしている。

 原稿を人に読まれているので恥ずかしいようだ。

 それは避けて通れない道だから諦めろ。

 俺は自分の原稿を読まれても平気な人間なのだが、恥ずかしいという人が多い。

 特に声に出して読まれると悶絶するらしい。

 それをいったら、アニメ化や映画化したらどうなるのだろう。


「相原さん、お茶とコーヒーどちらがいいですか?」

「……コーヒーで」

「はい」

 湯呑にコーヒーを入れて、粉末ミルクと砂糖を出したのだが――彼女は黙ったまま、それを飲み始めた。

 黙々と読む、読む、読む。

 すごい集中力だ。

 俺もオッサンになったら、まったく集中力が続かなくなってしまった。

 すぐに他のことをやってしまう。

 彼女が動かなくなってしまったので、ヒカルコは炊事場に戻って食事の準備を続けるようだ。


 しばらくすると彼女が顔を上げたので、話しかけた。


「中々いいですよね? どこかの賞に応募してもいいぐらいに」

「はい、あの――この原稿をお預かりすることは……?」

「それは原稿が完成してからのほうがよくないですか?」

 いくら傑作でも、完成しない原稿に価値はない。

 この作品が、なにかに中途で掲載されても、ヒカルコが途中で放り出してしまったら?

 彼女に才能があることは解ったが、まだ海の物とも山の物ともつかない状態だ。


「そ、そうですよね……当社の内部に紹介したいので、どうか他社には……」

「そりゃもちろん。相原さんには、お世話になっていますし」

「ありがとうございます」

 相原さんと話していると、お盆の上に料理を載せたヒカルコがやってきた。

 料理をちゃぶ台の上に載せ終わると、なぜか彼女が俺の隣にスススと寄ってくる。


 相原さんは、そんなヒカルコをじ~っと見ていたのだが――腰を上げた。


「本日は、わざわざありがとうございました」

「いいえ、篠原さんは大切なお取引先なので、当然ですよ」

「相原さんは、これから八重樫君の所へ」

「はい」

「近々、彼も隣に引っ越してくるので、相原さんの仕事も一回で済むようになりますよ」

「先生の所を周るのは、編集の仕事ですから……」

「しかし、八重樫君も引っ越して来たら、本格的にプロとして始動ですか」

「編集部としても連載に期待を寄せております」

「それじゃ、俺も相原さんからよいお礼がもらえるように、スンバラシイ原作を考えねばなりませんなぁ」

「もう!」

 彼女が赤くなって階段を降りていくと、下でこちらを向いて礼をした。


 さて、飯を食おう。

 ちゃぶ台の前に座って、味噌汁を一口――薄味にしてくれたようだ。

 ありがたい。

 皿の上にはコロッケ――これも揚げたてなので美味いな。

 冷蔵庫がなく、毎回材料を買ってきて作らないとダメというのも中々大変だが、この時代はこれが普通だったんだろうなぁ。

 夜中にちょっと小腹が空いたといっても買うところもないし、食うものもない。

 そう考えると袋麺は便利であるが……。

 普通のラーメンが70円とか75円で食えるのに、袋麺に35円はなぁ。


 飯を食い終わったら、コーヒーをまた淹れて、デザートを食う。

 相原さんが買ってきたケーキだ。

 なぜか知らんが、ヒカルコにケーキを勧めても渋っている。

 それでもケーキを一口放り込んだら、バクバクと食べ始めた。


「出版社からの仕事をすれば、編集の人が持ってきてくれるぞ」

「……コクコク」

 彼女がうなずく。

 ケーキが食べたくて、やる仕事があってもいいじゃない。

 この時代の甘味はかなり高いからな。

 そうそう食べられるものじゃないし。


 飯を食ったら自分の部屋に帰るのかと思ったのだが、ヒカルコが帰らない。

 仕方なく一緒に寝ると、彼女が抱きついてきた。


「なんだ、もう金がなくなったのか? そんなに金もやれないぞ?」

「……ちがう……」

 まぁ、いいけどな。


 ------◇◇◇------


 ――数日過ぎて、日曜日。

 府中で行われる日本ダービーの1週間前だ。

 今日は八重樫君の引越をするらしい。

 全部荷物を運んで、最後の1週間は新しいアパートから通うらしい。


 俺は不動産屋の爺さんの所に行って、リアカーを借りてきた。

 昔は結構リアカーがあったんだよなぁ。

 農家や商店などには、リアカーが必ずあったような気がする。

 なにせ車がないと、それで運ぶしかないからだ。

 人力でかなり荷物を運べるから、ローテクなどとバカにしたもんでもない。


 平成令和でエコとかいうなら、輸送はリアカーにするべきじゃないか?

 俺は御免だが。

 俺と八重樫君で、荷物を部屋から運び出してリアカーに乗せる。

 大物は本棚、文机、布団ぐらいだ。

 軽いものはヒカルコも手伝ってくれた。

 本などは、あらかじめ八重樫君が縛ってくれていたので運びやすい。

 本棚も文机も合板じゃなくて無垢材なので重くて大変だ。


 中々大変だが、こういうのはやっぱり人数がものをいうな。

 3人ならあっという間に終わる。

 崩れないように布団を載せてロープで縛った。

 ここは南京結びの出番だ。


 俺がロープで固定していると、彼が覗き込んでいる。


「篠原さん、そういうこともできるんですね」

「南京結びか? 覚えたいなら教えてやるよ」

 平成令和なら動画サイトなどで解説している動画が沢山あるのだが、この時代なら仕事で就職したりしないと教えてもらえないだろう。


「はい」

 彼に結びかたを教えてやる。

 そんなに難しくはないし、彼ならすぐに理解できるだろう。


「まぁ、なん回かやれば覚えられると思うぞ」

「そうですね」

 リアカーに全部載ったので、1回で引っ越し完了だ。

 八重樫君は、大家さんに礼を言っている。

 俺も挨拶した。

 まぁ、布団を貸してもらったりと世話になったからな。


 彼が引っ張って、俺が押す形で出発した。

 さすが、この街に住んでいるのが俺より長いので、道順は解るらしい。

 ゆっくり運んでも、15分ぐらいで到着した。


 ここから階段を上がって、部屋まで運ばないとだめだ。

 このアパートの階段は、前の所より少々急で、しかも狭い。

 中々苦労するが、八重樫君と力を合わせてなんとか搬入した。


「はぁ~、こんなの1人じゃ絶対に無理でしたよ」

「人を頼むと、金もかかるしな」

「そうですねぇ」

「田舎から引っ越してきたときはどうしたんだ?」

「父の会社のトラックで運んでもらいました」

「建築会社じゃトラックとかダンプが沢山あるよなぁ」

「ええ」

 そこまでしてもらって、やっぱり大学行きませんでしたじゃ――そりゃ怒られるわ。

 まぁ、それは言わないでおこう。


「ふ~」

 彼が畳の上に寝転がった。


「八重樫君、引っ越し蕎麦でも食うか?」

「そうですねぇ」

「よし、ヒカルコ。また汁を作ってくれ」

「……コクコク」

 そっちは彼女にまかせていいだろう。


「俺は蕎麦を買ってくるわ。リアカーも返してこねぇといけねぇし」

「よろしくお願いします」

「君は大家さんに挨拶をしてな。礼品とか買ったかい?」

「はい、ありますよ」

「よっしゃ、それじゃ蕎麦だけだな」

 大家さんに蕎麦は渡さなくてもいいだろう。

 俺のときにも久々にもらったとか言ってたしな。


 ヒカルコに鍋を任せて、俺はリアカーを引っ張って不動産屋に向かった。

 そいつを返すと、駅前の蕎麦屋で蕎麦を買う。

 買い物を済ませて蕎麦屋から出ると、デカい音がして辺りが騒然となった。

 わいわいと野次馬も集まってくる。

 見れば荷物を満載したオート三輪がひっくり返っていた。

 重心が高くなってバランスを崩したのだろう。

 道交法? なにそれ? って時代だ。


「あ、そういえば……」

 ヒカルコが、自分の所から持ってきた小さなお盆を使っていたな。

 もっと大きなものを買っていくか。

 駅前で瀬戸物屋を探す。

 昔はこういう食器の専門の店があったのだ。

 それらの店が淘汰されて、ホムセンなどに集約されてしまった。

 沢山の茶碗や皿、お椀などが積まれた店で、取っ手のついたお盆を買う。


「引っ越し祝いにコーラも買っていくか」

 ついでにカレーを作る約束をしていたので、芋と玉ねぎを買う。

 芋はなくてもいいが、最低限カレーには玉ねぎが必要だと思っている。

 ついでに小麦粉か。

 小麦粉があれば、お好み焼きができるが――この時代は卵が高いからな。

 まぁ、ソースはあるし食えないこともないだろう。

 マヨネーズも売っているが、つけるものがないので買ってないのだ。

 この時代の生野菜は、農薬や寄生虫が心配でちょっと食えない。


 かといえば、普通に農薬塗れで真っ白になっている野菜が売ってたりする。

 野菜を買ってきても、洗ってからしばらく流水に浸けておかないと怖くて使えないし。

 まだDDTとかBHCみたいな、クソヤベー農薬がバンバン使われている時代だからな。

 最後に牛肉を買った――200gだ。


 買ったものをお盆に載せて、アパートまで帰る。

 ツユができあがっていて、麺を茹でるためのお湯も沸いていた。

 さっそく茹でて食う。


「美味いっすね!」

「蕎麦もいいけど、手間がかかるのがなぁ。やっぱり蕎麦屋で食うほうが簡単だな」

「それはそうですけど……」

「祝いのコーラもあるからな」

「ありがとうございます」

「晩飯はカレーを作るぞ」

「なんだか、ごちそうですね」

「若者が新しい第一歩を踏み出したんだ。多少のお祝いがあってもいいだろう」

 彼が蕎麦の入った丼を置くと、俺に向き直った。


「篠原さん! ありがとうございます」

 彼が頭を下げた。


「どうした急に改まって」

「篠原さんがいなかったら、漫画家どころか、あそこから抜け出すことすらできなかったかもしれません」

「まぁほら、俺も工場の仕事のこととか教えてもらったし、金も貸してもらったしな」

「いいえ、そんなの篠原さんにしてもらったことに比べたら全然釣り合いが取れませんよ」

「まぁ、君が大ヒット飛ばして大作家になったら分前をくれよ、ははは」

「はい、必ず!」

「前にも言ったけど、人間は金を持つと人が変わるからなぁ……どうだろうなぁ」

 ずっと素朴な彼のままでいてほしいものだが……。


「僕は大丈夫ですよ」

「だといいが……」

 そういうのをなん回も目撃しているからなぁ。

 仲のよかった兄弟が親の遺産で骨肉の争いになるとかな。

 こういう場合は、だいたいが兄弟の女房が悪かったりするんだが。


 夕方は予定どおりにカレーを作った。

 芋は皮を剥いて肉と一緒に煮て、玉ねぎはみじん切りにしてきつね色になるまで炒める。

 そいつも鍋に投入したら、塩と化調で味付け。

 八重樫君も食べるので、濃い目の味付けにしてみた。

 火を消したらカレー粉を投入。

 最後に、茶色に炒めた小麦粉でとろみをつけた。


 俺がカレーを作っている間に、ヒカルコが飯を炊いてくれている。

 鍋をかき混ぜていると、廊下の戸が開いた。


「あら~いいにおいねぇ」

 扉から顔を出したのは大家さんだ。

 廊下の右手に戸が3枚あって、1枚はトイレ、残りが2つなので2部屋あるのかと思っていた。

 実際はそうではなく、廊下の戸の1つは大家さんの家の2階と繋がっていて、戸を開けるとすぐに中階段が見える。

 そこからカレーのにおいが流れ込んだのだろう。


「大家さんもどうですか?」

「あら~いいのかしら?」

「どうぞ。今日は多めに作ってありますし」

「それじゃ、いただこうかしら」

 マジか――冗談で言ってみたのだが。

 もちろん構わないが。


「大家さん、旦那さんは?」

「ああ、ずいぶん昔に戦死しちゃったのよねぇ」

「も、申し訳ありません」

「いいのよぉ、もう20年前の話だしねぇ」

 この大家さん、他にもアパートを持っていて、家賃収入だけで余裕で暮らせるのだ。

 俺が変則的な借り方をしてもOKだったのは、余裕があるから。

 これにつきる。

 彼女の娘さんと結婚したマスオさんは、余裕の勝ち組だな。

 正直、羨ましい。


 そのあと、八重樫君の部屋で4人でカレーを食った。

 大家さんは、ヒカルコを完全に俺の女房扱いなのだが――。


 違うっちゅーの。


 今回は白い缶でカレーを作ったのだが、そのあとになってから家印のバーナントカカレーを商店街で見つけた。

 なんだ、もうチョコ型のカレーの素が売っているのか。

 1個60円――600円相当だからかなり高いが、次はこっちで作ってみよう。



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