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100話 カモメバス


 コノミが麻疹はしかで、ずっと寝込んでいる。

 合併症が出やすい病気だし、油断はできない。

 俺もガキの頃に麻疹になったが、こんなに学校休んだかなぁ……。


 体に発疹が出始めたので、これが治らないウチは外にも出られない。


 ――そんなある日、大家さんの娘さんが突然やって来た。

 それだけではない、矢沢さんのお母さんまで訪ねてきて、千客万来だ。

 矢沢さんによると、彼女の隣の部屋にしばらく滞在するらしい。

 大家さんの許可は取ってあるという。


 彼女が手紙に俺のことを書いたらしく、もしかしたらその確認をしにやって来たのではあるまいか。

 俺の部屋にヒカルコがいたので、「所帯持ちだ!」と言っていたようだし。

 もちろん、矢沢さんに手を出すつもりはまったくない。

 だって彼女は未成年者だし。


 東京にやってきた彼女のお母さんも、俺のことを実際に見て、がっかりしたんじゃね?

 だって、ただのオッサンだしな、ははは。


 相原さんは、俺の部屋で朝飯を食うと、矢沢さんの所に挨拶に行ってから出社したようだ。

 家に帰らなくても、実家からお手伝いさんがきているらしいしな。

 ガチでお嬢様だ。


 俺はコノミのために炊事場に向かうと、材料とミキサーを出して、スペシャル栄養ドリンクを作り始めた。

 モモにまたリンゴの皮を剥かせて、それをミキサーに入れて撹拌する。

 彼女にも手伝わせていたので、徐々に上達してきたようだ。

 家電がけたたましい音を出していると、廊下のドアが開く。

 やって来たのは矢沢さんのお母さんだ。


「どうも~おはようございます」

「なにをなさってるのですか?」

「ああ、ウチの娘が麻疹で学校を休んでいるんですよ。それで、精のつく栄養ドリンクを作ってます」

「まぁ、それは大変ね」

 お母さんが、興味深そうにミキサーを見ている。


「ミキサーも便利ですが、まずは三種の神器じゃないですか?」

 そこに矢沢さんもやって来た。


「お母さん、その冷蔵庫は篠原さんが買ったものを皆で使わせてもらってるんだよ」

「そうなの! ありがとうございます~」

「はは、矢沢さんは、入り切らない分は大家さんの冷蔵庫も借りてるだろ?」

「あはは、そうなんですけどぉ」

 女同士だから気兼ねないのだろうが、俺にはできない芸当だ。


 お母さんと話していると、大家さんもやって来た。


「大家さん、娘さんはどうしました?」

「帰りましたよ。ものを取りに来ただけらしいので――朝からお騒がせして、ごめんなさいねぇ」

「あまり連絡などはしてこない娘さんなんですか?」

「もう本当にねぇ、糸が切れた凧みたいな娘なので……」

 ウチの大家さんと、矢沢さんのお母さん。

 どちらも戦争で家族を亡くして、女手1つで娘さんを育てた女性同士。

 やっぱり、シンパシーを感じるのだろう。

 すぐに意気投合したようだ。


 とくに、矢沢さんのお母さんは、家族全員を空襲で亡くしたあと、親戚を頼って長野に疎開したらしいのだが――。

 その親戚との反りが合わずに、人づてでわずかな土地をもらい、1人で廃材を集めてバラックを建てて生活を始めたという。

 そのとき、今の矢沢さんと同じぐらいの歳で、そこで娘を育てたという話。


 矢沢さんの話では、今の実家はそのバラックがベースになっているらしい。

 そりゃ、儲けてものを買ったり家を建ててあげたいと、矢沢さんが言うわけだ。

 聞くも涙、語るも涙の物語――もうこれだけで、映画が一本できそうな勢い。


 もう、そんな話を聞いてしまったら、ますます矢沢さんには手は出せない――「可哀想なのは、抜けない」のである。

 彼女と向き合う度に、お母さんの顔が浮かんでしまうじゃないか。


「大変な苦労なさったのねぇ」

 大家さんも涙ぐんでいる。


「いやもう、生きるので必死でしたから……あはは」

 笑うしぐさが、矢沢さんそっくりである。


「その親戚の世話になるより、バラックに住んだほうがマシだったってことですか?」

「犬猫みたいに扱われるぐらいなら、自分で苦労したほうがいいじゃありませんか。すべて自分のせいですし」

 彼女はそう言うってことは、よほど腹に据えかねたことがあったに違いない。

 ファンタジーに出てくる奴隷のようなものか。

 女性だから身体を強要されたのかもしれん。

 さすが戦中戦後の昭和だ。


「……」

 見れば、電話番をしていたモモが、もらい泣きをしている。


「モモ、お前がいかに恵まれていたかって理解できただろう?」

 まぁ――という俺も、実は戦争を知らないオッサンなんだけどな。


「……うん」

「エミコから聞いたのですが、そちらの人は電話番とお手伝いをしているんですって?」

「ええ、本当になにもできないので、手伝いをさせつつ社会勉強をさせてるんですよ」

「篠原さんが、色々とできすぎるのよぉ」

 大家さんがそんなこと言うが、昭和の男はそうだったのだろう。

 俺は、混迷の昭和38年に、未来からやって来た令和最新型のオッサンだし。


「ははは、なにせ1人暮らしが長かったですからねぇ……」

「連れ合いを亡くされてしまったとか?」

 お母さんが、心配そうな顔をしている。

 自分と同じ境遇なのではないかと思っているのかもしれない。


「いえいえ、そうではないのですが、戦中戦後のどさくさで樺太から引き上げてきてから、もうそれどころではなくなってしまって……」

 もちろん、大嘘だ。


「まぁ、男の方は1人でもなんとかなるんですけどねぇ……」

 平成令和なら女性お一人でもなんとかなるが、生き馬の目を抜く戦後じゃそうもいかない。

 お母さんも苦労したから、男手が欲しくてロクデナシを引いてしまったらしい。

 こういうことを言っちゃアカンのかもしれないが、男ガチャ失敗である。

 俺はモモの身の上を話した。


「こいつもロクデナシの男に捕まって金をたかられたり、犯罪の片棒を担がされたり……」

「まぁ、あなたも男で苦労したのね」

 こいつの場合は自業自得の部分も多々あるので、とてもじゃないが、お母さんやら大家さんと同レベルで語れない。


 俺が言う「可哀想なのは抜けない」であるが、同じ可哀想でもこいつは可哀想のベクトルが違う。

 この女の可哀想は、ザマァ成分を多分に含んでおり、逆に抜ける対象だ。

 いい子が不幸のどん底じゃ可哀想で抜けないが、ヤンキーが調子こいてウェ~イで自爆しても、ザマァとしかならんし。

 それゆえ俺は、モモとゴニョゴニョするのである。

 無論、異論は認める。


「矢沢さん、お母さんに東京観光は――あ、元々東京に住んでいたんでしたっけ……」

「住んでましたけど、戦時中でしたし……それに復興してからの東京は、初めてなんですよ」

 そうなのか。

 矢沢さんの上京と一緒に東京にやって来た――みたいな感じではなかったらしい。

 多分、娘さんの切符しか用意できなかったんだな。


「お母さんに東京観光させてあげたいんですけど、私もあまり詳しくないですし……チラッチラッ」

「矢沢さん、こっちを見られても困るよ。コノミが病気だし」

「そ、そうですよねぇ」

「エミコ! も、申し訳ございません!」

 お母さんが頭を下げた。


「だってお母さん、立っている者は親でも使えっていつも言ってたじゃない……」

「時と場合ってものがあるでしょ!」

「いや、いいんですよ――あ、そうだ!」

「なんですかぁ?」

「矢沢さん、カモメバスを使ったらどう?」

 この時代でも、すでにあるはず。


「カモメバスですか?」

 彼女が首をかしげている。


「あれ? 知らないか? 大家さんは知ってますよね?」

「ええ、利用したことはないですけどぉ」

 まぁ、東京にいる人がカモメバス乗ったりはしないよなぁ。

 俺も東京に住んでて、カモメバスに乗ったことがなかったし。

 矢沢さんのお母さんも、名前だけは知っているらしい。


 平成令和ならネットでググればいいのだが、ここにはそんなものはない。

 代わりになるのが――電話の下にある電話帳だ。

 電話台から分厚い印刷物を取り出して、薄~いページをペラペラとめくる。


「カモメバスカモメバス――あった!」

 黒枠の中に、ちゃんとバスの広告が載っていた。


「なんですか?」

 俺は矢沢さんに、カモメバスの広告を見せた。


「このバスに乗るとね――東京中の観光場所をぐるぐると回って案内してくれるんだよ。歩き回らなくても済むから楽ちんだぞ」

「へ~」

 矢沢さんが、広告を覗き込んでいる。


「これって予約が必要なのかね?」

 一応、バスの発車時刻が電話帳に書いてある。

 土日、祝日、東京駅から9時半発らしい。


「お値段ってどのぐらいなんですか?」

「お一人様、980円と書いてあるね。ただ、昼飯つきだぞ。たぶん結構いい所で食べると思う」

「へぇ~」

「ちょっと高いが、東京タワーやら皇居やら、有名な所はほとんど回るから有意義だと思うが……」

「いいかも……」

「今日はもう間に合わないなぁ――ちょっと聞いてあげるよ」

 俺は、カモメバスに電話をかけた。


 話を聞くと――やはり予約が必要なようだ。

 ちょっと電話を待っててもらう。


「どうする? 矢沢さん」

「う、う~ん……」

「お金の心配をしているなら、俺が出してあげようか?」

「え?! そ、そんなわけには!」

 俺の提案にお母さんが驚いている。


「篠原さんに、そこまでお世話になるわけにはいかないですし……2000円ならなんとかなります」

 俺としては、使えない金が多いので、こういう所で使ってもいいのだが。


「まぁ、ピンチなら貸してあげるよ。矢沢さんの単行本が出れば、すぐに回収できそうだし」

「利率がトイチだったり?」

「ははは、そんなわけないだろ」

 黙って俺たちの話を聞いていた大家さんが叫んだ。


「篠原さん! 3人にして!」

「え? 予約をですか?」

「ええ! 私も行きたいわ!」

「わかりました、それじゃ3人予約ってことで――あの、もしもし、お待たせして申し訳ない……」

 まぁ、江戸っ子の大家さんが一緒に行ってくれるなら、心配はないだろう。

 すべて彼女にまかせてしまうことにした。

 今から3人でワイワイとやっている。


 話し込んでしまい、コノミの栄養ドリンクを持っていくのを忘れていた。

 でき上がっていたドリンクを持って部屋に戻ろうとすると、矢沢さんに話しかけられた。


「あの~」

「なんだい矢沢さん」

「それをちょっと、お母さんに飲ませてあげてくれませんか?」

「ちょっとエミコ!」

 さすがにお母さんは遠慮したいようだ。


「ああ、いいですよ」

 湯呑を出して、少し注いであげた。


「あら、美味しい……」

「栄養補給のために、高価な材料をたくさん使ってますからねぇ。特に麻疹はビタミンAをたくさん取らないと」

「そうなのぉ? 篠原さん」

「はい、卵などが効果的ですよ」

 この時代、まだ知られてないのかもしれない。

 ――とはいえ、戦中戦後の食糧難などならビタミンの問題が出てくるかもしれないが、普通の栄養状態なら平気なはず。

 コノミも毎日しっかりと食事を摂っていたし。

 まぁ、人参は嫌いだったが……。

 それでも栄養は取ったほうがいいので、1日1個は卵を食わせるけどな。


 部屋に戻る途中で、八重樫君にも栄養ドリンクを飲ませた。

 また仲間外れにしているとか、「僕が嫌いなんですか?」とか言い出すし。


「お、美味しいですね!」

「そりゃ、毎日飲んだら破産するような高価な材料をふんだんに使っているからなぁ」

「そこまで高くはないと思いますけど……」

「ははは、まぁな」

 それなりの金持ちなら飲めると思う。

 朝ごはんの代わりにするとかな。

 実際に、栄養素的には十分足りているはずだし。


 部屋に戻ると、コノミにもドリンクを飲ませた。

 美味しそうに飲んでいる。

 早く治るといいんだがなぁ。


「コノミ、耳が痛くなったり、お腹が痛くなったりしたら、すぐに言うんだぞ」

「うん」

 コノミに食事と薬を飲ませたら、俺は背嚢を背負って買い物に出かけた。

 矢沢さんにも、乳清のスイトンを食わせるという約束をしたし、彼女のお母さんがいれば一緒に食べるに違いない。

 それを見た大家さんも……多分な。


 そのために牛乳をたくさん買う。

 空になった瓶も背嚢に入れて持ってきた。

 いつも牛乳を買っている商店街の店で、背負ってきた瓶を出す。


「いつもお買い上げありがとうございます~」

 エプロンをしたおばさんが相手をしてくれる。


「今日は10本くれ。あるかな?」

「大丈夫ですよ」

 実は大瓶もあるらしいのだが、普通は200mlの小瓶しか売ってない。

 大雨の日に牛乳瓶を外に出して、1時間でいっぱいになったら20mmの降雨――だと、学校の先生に教えてもらったのを思い出した。

 本当かどうかは知らん。


 牛乳瓶を10本、背嚢に入れた。

 結構重たいが、瓶は1つ100gぐらいだろう。牛乳が200mlで200g――10本なら約3kgか。

 コノミの小学校も、牛乳はこの瓶タイプだ。

 給食には、木箱に40~45本――12kg~13.5kgの牛乳を運ぶのか。

 小学校低学年には、かなりキツイかもな。


 コノミの友達である野村さんの話では、たまに落として割ったりすることがあるらしい。

 そうなると、給食で牛乳がなくなってしまう。

 可哀想だが……代わりはないだろうしな。


 俺が小学の頃にはもうテトラパックだったな。

 最近というか、平成令和にはあまり見かけなくなっていたが。

 ついでに桃缶を買う。


 買い物した帰りに、あちこちの店を見て回る。


「これはいいぞ」

 パスタを発見。

 どうやら輸入ものだ。

 この時代の人たちは、家庭であまりパスタとか食わないだろうが、食堂などではメニューにある。

 お子様ランチにもナポリタンがついてくるしな。

 そうだ、晩飯はナポリタンにするかぁ。

 久々に食いたくなったぜ。


 1束の値段が結構高いが、多めに買う。

 袋ラーメンが15円で買えるのに、この値段では普段は食えん。


 そうそう――ナポリタンといえばケチャップ。

 そういえば、この時代に来てからケチャップを見たことがなかったのだが、あちこちの店を探すと発見した。

 俺の見覚えがあるチューブタイプはまだ発売されておらず、広口の瓶に入ったものしか売っていないようだ。

 これでは使いづらいが仕方ない。

 ついでに、にんにくとたまねぎも買う。


「あとは肉か……」

 ここは、昔ながらのギョニソにするか。

 肉が高いときには、肉の代わりによく入っていた。

 プレスハムも赤いウインナーも高くて、50円とか60円ぐらいする。

 なにか祝い事があったり、行事があったときにお弁当に入れてもらう――そんな特別の日にしか食えん代物なのだ。

 その代わりによく食われているのが、ギョニソ。

 小腹が空いたときにもいいのでたくさん買う。


「なにか他に面白いものはないかねぇ」

 見ると、お茶屋がある。

 この時代は、お茶屋も専門の店で売っていた。

 店先を通ると、香ばしいほうじ茶のにおいが漂ってくる。


「おっと、こいつは――」

 俺はいいものを見つけた。

 棚に並んでいたのは、緑の缶に入ったこんぶ茶。

 こいつは、調味料に使える。

 化学調味料などよりも、自然な旨味を足すことができるって寸法だ。

 平成令和なら、粉末の昆布だしなどが売っていたが、この時代にはない。

 乾燥昆布を買っていき、そいつをすりつぶせば自作できるが、それならばこんぶ茶を使えばいい。

 十分に使える。


 俺はいいものを見つけたと――背嚢からカチャカチャと瓶の音を鳴らしながら、アパートに帰ってきた。

 まっすぐ炊事場に直行して、早速カッテージチーズを作る。

 鍋に牛乳と酢を入れて加熱――浮いてきたチーズをザルに掬って、水分を絞る。


 鍋に乳清が残ったので、そいつでまたスイトンを作った。

 まだ昼には早いが、そのまま置いて食うときに加熱すればいい。

 その頃にはスイトンにも味が染み込んでいるだろう。

 そっちのほうが美味いしな。

 俺の料理をする姿を、電話番のモモがじ~っと見ている。


 家事の指導は、その道のプロが教えてくれているので、俺は手を出さない。

 させるのは皮むきぐらいだ。

 それに、俺のやることには未来のテクや知識が含まれているからな。

 この時代には合わない可能性もあるし。


 台所を片付けていると、廊下の戸が開いた。


「なにをしているのですか?」

 顔を出したのは、矢沢さんのお母さん。


「料理ですよ。矢沢さんにスイトンをねだられてしまったので」

「まぁ、本当に申し訳ございません! あの娘ったら!」

 お母さんが慌てて頭を下げた。


「いいんですよ」

 俺はカッテージチーズと、乳清の話をお母さんにした。


「それじゃ、このスイトンは牛乳から作ったんですか?」

「そういうことになりますねぇ。本当は、チーズだけ欲しいのですが、これはこれですごく栄養があるのでもったいない――というわけでして」

 八重樫君に食わせて、矢沢さんに食わせないと恨まれるかもしれん。


「本当に、なんて申し上げたらいいか……」

「ははは、こっちの先生に食わせて、矢沢さんに食べさせないとなると――食い物の恨みは恐ろしいですからねぇ」

「そうですよぉ~、恐ろしいですよぉ~」

 矢沢さんが、戸の隙間から顔を出した――シャイニングのアレみたいな。


「おお、矢沢さん――昼にお母さんと一緒に食べたらいいよ。ああ、それから大家さんにも食べさせてあげてな」

「わかりましたぁ!」

 彼女はニコニコ顔だ。


「本当に、申し訳ございません」

「いいえ、いいんですってば、ははは――あ、そうだ」

 小鉢に桃缶を入れて、その上からカッテージチーズをかけたものを、お母さんに差し出した。


「これも食べてみてください。矢沢さんにも食べてもらったんですよ」

「お母さん、それも美味しいのよ!」

「桃缶なんて高価なものを――」

 この時代に生きている人なら、桃缶が高価なのは知っている。


「どうぞ」

 俺に勧められて、お母さんが桃缶を一口食べた。


「美味しい……」

「美味しいよねぇ」

 矢沢さんも食べたそうにしているのだが、駄目だ。

 残りはコノミの分だからな。

 セコいことを言うつもりはないが、それでも高価なものを毎日食われたんじゃ困る。


「こんな贅沢なものを覚えちゃ……」

「いやいや、贅沢は敵――欲しがりません勝つまではって言って、戦争に負けたんですから、たまにはいいものを食わないと」

「そうだよ、お母さん」

「明日の、カモメバスの予定は決まりました?」

「ええ、大家さんがタクシーを呼んでくれるそうで……なんて贅沢な……」

「大家さんは、お金持ちなんで、奢ってくれるというなら黙って奢ってもらったほうがいいですよ」

「そうでしょうか……」

 お母さんは少々気が引けるようだ。


「ええ、そのとおりよぉ。そのぐらいのお金は、篠原さんのお馬さんのおかげで稼がしてもらったしぃ」

 いつの間にか大家さんが階段を上がってきていた。


「あれは、ほら――色々と大家さんに便宜を図ってもらったお礼なので」

「そうねぇ」

「え~、篠原さ~ん、私にもぉ~」

 矢沢さんが、科を作るような仕草を見せたのだが、お母さんからいきなり頭を叩かれた。

 高い音が、暗い廊下にビーンと反響している。

 実の母らしい愛のムチであるが――まぁ、そんな仕草をされても、色っぽくもなんともない。

 彼女に色仕掛をされても、なにか間違えることはないだろう。


「なんです! みっともない!」

「え~? だってぇ……」

「だってじゃありません!」

 こうしてみると、矢沢さんはお母さんに甘えているように見える。

 まだ若いんだよなぁ。

 だって、高校生ぐらいだし。

 そんなに若いのに、社会に出て働いて、母親に仕送りまでしている。

 中卒が「金の卵」と言われてたくさん働いているわけで、そんな時代なのだ。


「大家さんには、それだけお世話になっているからねぇ。矢沢さんにもお世話になることがあれば、俺も考えるんだが、現状はお世話しているほうだし、はは」

「ぶ~」

「本当に、申し訳ございません!」

 お母さんがまた深々と礼をした。


「いいんですよ。それに前に言いましたが、彼女の単行本が出れば金が入ってくるじゃないですか」

「今はたまたま上手くいっているだけで、それを続けていくのは大変なんでしょう?」

「まぁ、そのとおりなんですけど――大丈夫、矢沢さんには才能がありますから」

「そうなんですか?」

「ええ、絵もものすごく上手いですしね」

 やはり、上手い絵というのは大きな魅力がある。

 多少、話がゲフンゲフンだろうが、絵でカバーできる場合もあるし。

 固定客もつくしな。

 たとえば絵で買うとか、キャラが素敵だから買うとかな。

 実際にそういうやつが、知り合いにもいた。


 そのまま昼になり、矢沢さん母娘と大家さんは、俺の作ったスイトンを食べたようだ。

 変わった味で美味いと言っていた。

 ただ同じものを作りたくても、牛乳を使う必要があるからな。

 少々ハードルが高いだろう。

 余り物で作ったスイトンだが、評判がいいみたいでよかったわ。


 ――午後に、矢沢さんと八重樫君が俺の所にやってきた。


「どうしたふたりで?」

「あの~これを」「買ってきました……」

 2人が差し出したのは、桃缶やパイン缶。

 どうやら、俺がコノミに作っていた料理をおねだりしたのを悪いと思っていたらしい。

 先生は大家さんに怒られて、矢沢さんはお母さんにお小言を言われたようだ。


「ははは、まぁ気にしなくてもいいよ」

「「すみませんでした」」

「ありがたく、コノミのためにいただくよ」


 まぁ、それだけ俺の作るものが珍しいんだろうなぁ……。



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