10話 新居が見つかりそう
八重樫君は引っ越しの金がほしいらしいので、ちょいと金を増やす手伝いをしようと、競馬場にやって来た。
もちろん今回だけだ。
馬券は当たったので換金をしなければならないが、競馬場には大レースということで、沢山の人たちで溢れている。
身動きも取れないぐらいだ。
「八重樫君、これから一斉に客が帰り始めるから、少し待とう」
「はい、疲れました」
「最終レースが終わると、グッと少なくなるから、ははは」
「はい」
彼はストレスからか、ぐったりとしている。
そのあと最終レースが終わり、人もまばらになってきた。
もう4月なので、日はまだかなり高い。
夜の7時近くまで明るいからな。
払い戻しを確認してなかったが、シンシンザンの単勝は2.7倍だった。
「八重樫君、やったぞ2.7倍だ」
「――ということは、え~と」
「サンシチ21、2繰り上がって、サンニが6――8万1000円だ」
「ほ、本当ですか?」
「間違いないぞ」
元の時代なら81万円の大金だ。
これで部屋を借りて引っ越しもできて、今後の活動資金も残るだろう。
「やった!」
「ほら、あそこの窓口に、持っている馬券を突っ込めば払い戻しをしてくれる」
「篠原さんは?」
「当然、俺も払い戻すぞ」
またドアから呼ばれて、払い戻しを受けた。
35万円賭けて、2.7倍だったので、払い戻しは94万5000円。
940万円相当ってことになる。
そのほか、遊びで買ったシンシンザンとアスカの連勝も的中していた。
3万円が5.1倍、15万3000円である。
余裕の1000万円相当突破だ。
もっと賭けられればいいのだが、この混雑じゃ、これが精一杯のような気がする。
ダービーはどうしようかと迷うが、資金ができたら競馬にこだわる必要はない。
これだけあれば特許の出願などもできるしな。
競馬の稼ぎはおおっぴらに使えないが、それを元手に特許をとれば、正式な収入として色々とできる。
家を買ったり土地を買ったり、車を買ったりな。
前と同じように、警備員を呼んでもらってタクシー乗り場まで向かう。
残念ながら、前の警備員と違う人だ。
あの心優しき巨人みたいな彼が好きだったのだが。
「どこに行くんですか? 駅と違う方向ですけど……」
彼は不思議そうな顔をして、払い戻した金を抱きしめている。
「タクシー乗り場だよ。大金儲けたときには、タクシーで帰るのが常套」
「そうなんですか?」
「あとをつけられて襲われたりするぞ」
「え? ほ、本当ですか?」
「本当だぞ? なぁ、警備員のお兄さん」
「はい、本当にありますよ」
ビビっている彼と一緒にタクシーに乗り込んだ。
今日は2人なので、俺1人のときよりコスパがいい。
今回は、駅の近くからさらに道を指示して、アパートの近くまで行ってもらった。
あまりに八重樫君がぐったりとしていたからだ。
タクシーから降りてアパートの玄関に行くと、俺がいつも盗撮をしている女と鉢合わせをした。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
彼女が驚いている。
金がないはずの俺たちが、タクシーなんて贅沢なものを使ったせいだろう。
「ほら、八重樫君、大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
なんとか2階に上がると、彼はふらふらと自分の部屋に戻った。
今日で色々体験し過ぎたからなぁ。
どちらかというと精神的な疲れだろう。
彼のことはさておき、俺の貯金も大台を越えた。
まだダービーが残っているが、そろそろ真面目に部屋を探さないとな。
------◇◇◇------
――競馬場に2人で行った次の日。
一緒に仕事に向かうのだが、八重樫君の目の下にクマができている。
漫画の原稿を頑張ったときにも、クマなんて見たことがなかったが、彼にとってそのぐらいのストレスが襲いかかったのだろう。
少し悪いことをしてしまった感があるが、金のためである。
「八重樫君、簡単に金が増えたなんて考えないほうがいいぞ。単に運がよかっただけだからな」
「はい、倒れそうになりましたよ。もう二度とやりませんし」
「そのほうがいい。簡単に金が稼げると深みにハマり、破産するやつがごまんといるからな」
「あれなら、普通に働いたほうがマシだと思いましたけど」
「堅実だなぁ――まぁ、そのほうがいいぞ、ははは。それに、君が二度と競馬をやらなければ、永遠に大幅プラスだ」
「そうですねぇ」
「競馬で負けたことがないって自慢ができるぞ、はは」
「1回だけじゃないですか」
「そんなことないぞ。博打ってのは勝ち逃げが基本だからな」
ああ、それなのにそれなのに、また手をだすアホがなんと多いことか。
人のことは言えねぇが。
「皆がそれをやったら、競馬場が潰れますね」
「解っちゃいるけどナントカってやつだ。スィスィスィ~っと」
「篠原さん、植森等とか観るんですか? 意外ですね」
「そんなことはないぞ。あのストレスなくポンポンと展開する話は面白いだろ」
「やっぱり、主人公にはピンチがないと……」
「まぁ、無責任展開ばっかりだと、さすがに飽きるだろうけどな、ははは」
「そうですよねぇ」
「たまに毛色の違う変化球としてはいいと思うぞ。ちょっとギャグっぽくして」
「なるほど……」
彼は、ちょっと真面目すぎて困るな。
それがいいところであるのだが。
仕事から帰ってくると、暗い炊事場で飯を作る。
いつものようにキャベツ炒めだが、節約する必要もないので肉も入るようになった。
冷蔵庫がないので、肉屋で100グラムほど買ってきて使い切り。
発泡の容器などないので、紙で包んでくれる。
そんな時代。
飯も炊く――金ができたから本当に余裕ができた。
やっと人並みの生活ができる。
八重樫君は自室で漫画を描いているのだろう。
静かだ。
自分の部屋に持っていくのが面倒なので、炊事場で飯を食っていると、いつもの女がやってきた。
「こんばんは」
向こうから挨拶してくるのは珍しい。
それに、今日はスカートがいつもより短い。
上もTシャツ一枚で、ノーブラなのが解る。
「はい、こんばんは」
俺は飯を食いながら、そっけない返事をした。
また営業かと思ったのだ。
「あの、そこの部屋の人って、漫画描いているの?」
「まぁな」
「おじさんもそう?」
「俺は違うが、雑誌社の仕事をするために、ここを出て行くことになったから」
「そうなんだ……」
前と様子が違うな。
俺と八重樫君がタクシーで帰ってきたから、金を持っていると踏んだのかな?
「前に言ったとおり俺は酒を飲まないし、そこの彼も飲み屋とかいかないからな。誘っても無駄だと思うが」
「お店辞めちゃったし……」
彼女がつまらなそうにつぶやいた。
これはつまり失業して金がないのだろう。
「なんだそうか。金がないなら、やらせてくれれば2000円払うが。どうだ?」
女が少し考えてから返事をした。
「……本当?」
「やらせてくれるなら払うぞ」
「解った……お風呂に行ってくる……」
「くさくてもいいぞ」
「……いや」
彼女が自分の部屋に戻ってしまった。
マジか。
言ってみるもんだ。
要は金がなくて困っているのだろう。
あ、もしかして、枕探しの可能性もあるな。
俺は、畳を上げると手持ちの金をそこに隠した。
その上に布団を敷くから、金を取るためには畳を上げる必要がある。
これなら、もし寝てしまっても気がつくだろう。
しばらく待っていると、階段を登ってくる音がする。
俺の部屋の前で止まったので、戸を開けると彼女が立っていた。
湯上がりで頬を赤く染めて、石鹸のにおいを漂わせている。
今日日、素人で石鹸のにおいがする女なんていないよなぁ。
素朴すぎて逆に新鮮だ。
――そのあと、色々とやってゴニョゴニョが終わるころには、彼女は寝息を立てていた。
まぁ、一緒に寝るのもいいか。
それにしても、なんでこんな所に住んでいるんだろうなぁ――と、思うが、やっぱり色々とあるんだろう。
この昭和の時代じゃ女一人で生きていくのはつらそうだし……。
俺は、そんなことを考えながら、彼女の顔を眺めていた。
------◇◇◇------
――アパートの女と寝た次の日。
「篠原さん! 行かないんですか?!」
「んぁ?!」
俺は少年の声で起こされた。
身体を起こすと、彼女が隣に寝ている。
「いけね、寝坊だ。八重樫君、俺は寝坊だ! 先に行っててくれぇ。すぐに行く」
「解りました」
女を見られたら、なにを言われるやら。
そうは言っても、据え膳食わぬは男の恥。
男にはやらねばならぬときがある。
「おい、起きろ! 俺は仕事に行かにゃならん」
「……」
女が無言で、むっくりと起きた。
風呂に入ってそのままやったんで、彼女の髪は寝癖で酷いことになっている。
「ほらほら、起きろ!」
布団の端を持って、女を転がした。
そのまま窓を開けて、布団を干す。
昨日濡れてしまったシーツを彼女の身体に巻くと、廊下に押し出した。
「それから――」
俺は財布から伊藤博文2枚と旧札の千円を1枚を取り出した。
「いい子だったから、3枚やる」
「……」
彼女が黙ってうなずいた。
「ほらほら、出た出た。俺は仕事なんだよ」
慌てて服を着ると――シーツを巻いた身体を押して彼女の部屋の前まで連れていく。
そのまま中に押し込んだ。
「急がにゃ!」
俺は階段を駆け下り、走って八重樫君を追いかけた。
この時代にやって来て、とにかく歩くし、工場での労働で運動不足もなくなったな。
腰の切れもかなりよくなっているし。
やっぱり机の前で座って仕事をしていると、運動不足なんだろうなぁ。
新しい部屋を借りても、なにか運動はしたほうがいいかもしれん。
仕事から帰ってくると、俺の部屋の前にシーツが折って置いてあった。
あの女が洗ったのを返してくれたらしい。
------◇◇◇------
――部屋を探しているうちに、4月も終わりに近づき、八重樫君の2本目の漫画が誌面に載った。
彼の部屋でコーラを飲んで祝杯を上げる。
もちろん俺の奢りだ。
小瓶のコーラが35円だが、物価からするとかなり高い。
瓶の保証代込みなので、店に瓶を持っていくと10円返してもらえる。
正味は25円ということになるが、それでも高いかな。
そう考えると、たいして美味くないインスタントラーメンが35円というのも高いな。
「おめでとう、順調だな先生」
「先生は止めてくださいよ」
「なにをおっしゃるウサギさん。正真正銘、本当に先生じゃないか」
「はぁ……」
彼はまだ実感が湧かないようだが。
「そのうち、読者がサインを求めてアパートに訪ねてくるぞ」
「本当ですか?」
「ああ、2本も載ったら――一発屋じゃなくて本格的な漫画家、やえがしはじめとして読者に認識されたはず」
この当時、恐ろしいことに雑誌に漫画家の住所が載っていた。
作品の感想や悪口も、直接漫画家の元に届いたのだ。
読者のページなどにも、住所や電話番号が載っていたりな。
それを使った事件などが起こるようになって、載らなくなったのだが。
悪意のある読者とかに晒されて、心が折れたりしないかね。
まぁ、そこら辺は俺じゃなくて担当さんがフォローすべきところだと思うのだが。
センシティブな作者は直接表に立たせずに、編集で管理するようにするとかな。
――そして4月29日、今日はやんごとなき方の誕生日である。
この時代には、すでにゴールデンウィークといっていたらしい。
街の至る所、住宅の玄関先に日の丸が掲げられている。
そういえば、玄関先には旗を挿すための金具が取り付けられているのが普通だった。
日の丸を掲げるから旗日というのだが、平成令和にはすっかりその風習も廃れていたな。
思うに、これをやっていたのは、戦中を過ごした年寄り連中なんだろうなぁ。
その方たちが亡くなったから、玄関先の日の丸も廃れたと……。
――そのまま5月になり、俺は工場を辞めた。
仕事をしなくてもいいので時間ができた――というわけで、本格的に部屋を探し始めた。
探すといっても近場の不動産屋は全部回ってしまったのだが……。
もうちょっと脚を伸ばすべきか?
そう思いつつ、よい物件がないか近くの不動産の窓に貼られた物件を見ていた。
「ちょっとちょっとお兄さん!」
呼ばれたほうを見ると、不動産屋の爺さんが呼んでいた。
頭が禿げていて、黒っぽいズボンと白いシャツを着ている。
この不動産にもなん回か足を運んで調べてもらっていたので、向こうも顔を覚えていたのだろう。
「なにか?」
「お兄さん、まだ部屋を探しているんだろ?」
「はい」
「連絡が来たばかりなんだけど、見に行ってみる?」
「え? それはありがたいんですが、私は保証人がいなくて」
「ああ、前に聞いたよ。2年分一括で払うってことだったよね」
「はい、できれば……」
「ここの大家さん、いい人だから大丈夫だと思うんだ」
マジか、そいつは渡りに船ってやつだ。
「それじゃ、お願いします」
「解った、すぐに行こう。おい! ちょっと出かけてくるからな!」
店の中に入った爺さんが怒鳴った。
「は~い」
奥から女の人の声が聞こえる。
鍵を持った爺さんと一緒に細い路地を歩いていくと、5分ほどでそこに到着した。
こんな近くにあったのか。
木製の塀に引き戸があって、そこを開けると木造の家。
その外壁に屋根がついた階段がある。
爺さんと一緒に階段を上がると扉が5つあるのだが、一番手前はトイレに見える。
部屋は4つだろう。
そして一番奥に共同の炊事場がある。
なぜ共同なのかといえば、都市ガスがないのでプロパンガスを使っているせいだ。
流しの下にプロパンのボンベが置いてあるというわけだ。
爺さんが一番手前の部屋を開けてくれた。
ここは鍵がついているらしい。
引き戸で、鍵は相変わらず南京錠を使わねばならないが。
ここは6畳で、押し入れもある――不動産で物件を探すと4畳半が多かった。
前のアパートは押し入れもなかったからな。
窓は木製、壁は漆喰で塗られている。
いいじゃないか。
この部屋を第2拠点にするか?
ここをパスすると部屋が見つかりそうにないから、俺としては即決したいところだ。
下に大家さんがいるようなので、会ってみなくては。