小心者
元来小心者の私でした。
誰とも争いたくなくて、いつも教室の端の方で静かに本を読んでいるような少女を想像してもらえればよろしいでしょう。なぜそんな人間になったのかはわかりません。唯々、途方もなく暗く長い長いトンネルを駆けているような感じで、永久に抜け出せない道にいるような感覚に延々と陥っているようでした。
私には母親がおります。父親はおりません。いえ、厳密にいえば『本当』の両親はいました。しかし、私が3歳の時に、交通事故によって既に他界しています。私一人、その交通事故で生き残り、親戚一同は私を忌み子だと騒ぎました。
そんな渦中に私を引き取ってくれたのが現在の母親です。母は、
「子供に罪はない。もしこの子に罪があるとしたら、それは私が負ってやる」
といって、私を引き取ったそうです。弱冠20歳でそのようなことを宣った彼女は、私にとって聖母マザーのようであり、アルプスの少女ハイジにとってのクララのような、良き相談相手であり、友人のような存在でした。
彼女を愛していました。その愛は、きっと家族という垣根を越えたものであったと思います。禁断の愛。自覚はしていました。でも、止められない。燃えるような愛に、私の身が焦げてしまいそうな程でした
そんな彼女が自殺したのを目の当たりにしたのは、つい一か月ほど前。高校から帰宅した際のことでした。
玄関の扉を開いても彼女の声が聞こえない。いつもならリビングから飛び出してきて私の下に駆け寄ってくるはずなのに、それがないのです。
靴を脱ぎ棄て、何かに急かされる様にリビングの扉を殴るように開くと、彼女はいました。ロープに吊られて、宙に浮いた状態で。
「え、え、え?」
ひどく混乱しました。彼女の琥珀のような瞳は溝のように黒く濁っていて、なんだかこの世のものとは思えなくて、どうしようもなく気持ち悪くて、目を覆いたくて、考えたくなくて、目の前の現実から目を背けたくて、何度も何度も、嘔吐しました。
それから現在に至るまでの一か月間のことはほとんど覚えていません。
ただひとつ、明確に覚えているのは、憐憫なまなざしを向ける人達の中で一部、憎悪のまなざしを向ける人達がいたことでした。結局、私はどこまで行っても忌み子でした。この世に生まれてくるべきではなかったのです。
死ぬことにしました。
ロープを用意しました。彼女への慈悲と、憎悪を向けた人たちへの懺悔の思いがあったからです。
天井にロープを垂らして、いよいよ輪っか首にかける時になります。
手を首に触れます。わずかに震えているのがわかりました。滝のように涙があふれ出ました。止まらない。遂にはその場にうずくまってしまいました。
『ピンポーン』
どれほど時がたっていたのでしょうか。不意に家のチャイムが鳴りました。その音に気を取り戻し、もう一度ロープに手を掛けました。すると、もう一度チャイムが鳴ります。
私はすっかり興覚めてしまい、ロープから手を外し、涙を拭い、玄関に向かいました。おもむろに扉を開くと、そこには母と元来交友関係にあった黒髪の初老の女性がいました。
「はい、どうしましたか」
私が訪ねると、女性は私の様子を見て察したのか、ふぅ、と溜息を吐きました。
「あなたに一つ、伝えておきたいことがあるの。」
「なんですか?できるだけ手短がいいんですけど……」
「そうね。彼女、あなたの母親ね。あの子、あなたのこと本当に愛していたよ。あなたのことを話すときの彼女の顔、本当に生き生きとしていたの。こっちが幸せになっちゃうくらい、本当に幸せそうに話してたの。この世にこんな幸せな人って何人いるんだろうって、思わず妬いちゃうくらい」
私の中での何かが音を立ててゆっくり壊れました。思わず膝から崩れ落ちそうになるくらい、その衝撃は計り知れないものがありました。
「あなたね、愛されてたの。わかるでしょ」
涙が止まりませんでした。いくら泣いても枯れないのです。女性は次の言葉を出そうと私が泣き止むのを待っていました。
そして、私が落ち着いた時におもむろに口を開きました。
「あと、多分あの子が死んだのって職場のいじめが原因だと思うよ。あの子、相当悩んでたから……。じゃっ」
私はその場からしばらく動けないでいました。彼女が私を、家族としてでも愛してくれていたという安堵と、死んだ原因のへの怒りとの2つで、激しく混乱していたからです。
私はおもむろに立ち上がり、街に繰り出しました。特に行くアテもなかったのですが、このままじっとしているとどうにかなってしまいそうだったからです。
ネオン街の煌びやかな灯、若くて派手な見た目のお姉さんを連れてその街を闊歩するおじさんを見ると、どうしても今の自分と乖離しすぎていて、また苦しく、悲しくなりました。
そこから逃げるようにしてフラフラとよろけた挙句にたどり着いたのは、家からほど近い小さな公園でした。
幼いころ、彼女によく連れられてきた公園。その様相はほとんど変わっていませんでした。変わったのは私たちだけでした。
ベンチに腰を掛けました。ここでよく、ピクニックをしました。彼女の作ったサンドイッチは格別に美味でした。今はもう食べれません。隣に誰もいない虚無感がどうしようもなく私を襲ってきて、否応なしに苦しくなって涙が頬を伝いました。
「おい、どうしちまったんだ。兄ちゃんよお」
不意に横から声を掛けられました。声のした方向に振り向くと、顔が茹でタコのように赤くなった中年の男性がいました。異様に酒臭い。
彼はおぼつかない足取りを鉄パイプで支えながら私の下に寄ってきました。
「おい、なんで泣いてんだよ、兄ちゃん。つらいことでもあったのか?お?」
私が言葉を詰まらせて話せないでいると、彼は私の肩に手を置き、言葉をつづけました。
「まあよお、人生辛いこともたくさんあるぜ?むかつくことだってたくさんあるぜ?俺だってあるさ。今日も上司に怒られちまってよお。ほんとにむかついたんだぜ?でもよお、そういう時はこうしてやるんだ」
彼は持っていた鉄パイプを振り回しました。しかし、やはり足取りはおぼつかなく、彼はコケるとそのまま寝息を立てて寝てしまいました。
私は彼を介抱しながら、おもむろに、彼が持っていた鉄パイプを手に取りました。ひんやりとしています。
一振り、思い切り振ってみました。その刹那、私の中に、今までに感じたことがないような、何か新しい感情が芽生えた。
彼女を、母を死に追いやった否、殺したのは誰か。初老の女性の言葉を思い返す。
『多分あの子が死んだのって職場のいじめが原因だと思うよ。あの子、相当悩んでたから……。』
あいつらだ。そうだ。この感情は憎悪だ。彼女を殺したやつら。僕らを迫害した親戚その他大勢の奴らに対する憎悪の感情だ。許さない。絶対に。
復讐だ。
小心者の私はもういなかった。暗く長いトンネルをようやく抜けることができた。行きついた結果は復讐だったのだ。
いつの間にか鉄パイプは溶けそうなほどに暑くなっていた。




