◆◆◆◆◆◆◆七
その後もいろいろ話したけれど、女の子にとってこれという答えは結局見つからず、お店は閉店の時間を迎えた。
席を立ったとき、彼女は大きめのリュックサックを足元から取り出した。
たぶん、隠していたのだろう。
何か思わせぶりだがあえて触れず、支払いを終えて店を出た。
すると、まるで狙ったかようなタイミングでぽつぽつ雨が降り出した。
「もう遅いし、タクシーを呼んだわ。お金は後でいいから、今日はそれで帰りなさい」
「……帰るのは嫌」
「え?」
彼女はいつものおすまし顔で、もう一度同じことを口にする。
「帰りたくない」
「帰りたくないって……そういうわけにもいかないでしょうに」
「両親のことなら、あたしのバイタルと位置情報さえあれば大丈夫。あたしよりも、あたしのなかのナノマシンのほうが信用できる人たちだから」
「……じゃあ、どうするの?」
「どうせアナタ、一人暮らしでしょ」
「……まあ、そうだけど」
どうやら最初から私の家に泊まるつもりだったらしい。リュックサックはそのためのものか。
何があったか知らないけれど、かといってもう放っておくわけにもいかない。
幸い人に見られて困るような状態でもないし、仕方なく私は彼女を泊めることにして、一緒にタクシーで帰宅するのだった。
昔ならこれは連れ去り事案になるんだろうなと思いながら。
「――へえ、こんなとこに住んでるんだ。もっと散らかってるかと思った」
「資料をなくして困ったことがあったから、ちゃんと整理するようにしているの」
さて、自宅に着いて彼女が玄関で靴を脱ぎ、床に足を踏み入れたところで、私はある抵抗を覚えた。
自分の家に自分以外の人間がいる――そのことに何とも言えない違和感が生じたのだ。
「ねえ、トイレどこ?」
そんな私をよそに、彼女は小さく足踏みしながら訊いてくる。
「……お手洗いはあそこ」
私は玄関近くの扉を指さした。
けれども彼女はその場から動かず、私をじっと見上げてきた。
「おしっこがしたいんですけど、使っていいですか?」
いつも博物館で質問に来るような、かしこまった調子で確認を求めてくる。
たぶん、彼女なりの踏み込んだ挨拶なのだろう。
彼女の足の指にはぎゅっと力が入っている。
今までは靴を履いていたから見えなかった。
「どうぞ」
そう答えると彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「アカウント作っていい?」
排泄物を分析して健康チェックをしてくれる機能のことだ。登録すれば同一人物のデータが継続して記録され、レポートを作ってくれる。
「もしかしてここに住む気?」
「さあ、どうしよっかな」
「……アカウントくらいなら、いいけど」
「じゃ、お言葉に甘えて」
そう言って彼女は機嫌よくお手洗いに入っていった。
いつものお人形みたいな態度はどこへやら、まるで自分の家に帰ってきた子どもみたいな様子だった。
やがて、ため息交じりでお手洗いから出てきた彼女は、ほんの少しの生々しいにおいを連れてきた。
やっぱり、自分の家に自分以外の人間がいるのは、何か違和感を覚える。
けれどそんな違和感を覚える自分自身にもどこか違和感があって、これはいったい何なのだろうと思った。
私だって昔は自分以外の人間と一緒に暮らしていたというのに。
思えば大人になってからというものの、自分以外の人間を家に上げたことがなかった。
年を重ねるごとに、時代の流れとともに、いつのまにか自分以外の人間との距離は遠くなっている。
いや、遠くても問題がないからこそ隣り合う必要がなくなったのだ。
必要がない、ただそれのこと。
私たちの世界はだれかと一緒に住まうということが、もう難しくなっている。
そういえば――今朝見た夢では、男二人がアパートの一室をシェアしていた。
夢だと言えばそれまでだが、あれは何かとても自然だった。
あの二人にとってちょうどいい在り方に感じられた。
「――ねえ、ここのバスマシン古いんだけど。いつの時代の使ってるのよ」
入浴を終え、パジャマに着替えた彼女が口を尖らせて文句を言ってくる。
「悪かったわね、でも使えたでしょ」
「自分で身体洗うの面倒だった……」
「貧乏人はなかなか新しいのを買えないの……って、ちょっと! 髪ひどいじゃない。ちゃんと洗ったの?」
彼女の髪はただ濡れているだけで、トリートメントも何もされていなかった。べったりとして、しかもほつれた糸のようにまとまりがない。
「だって、どうやって洗うのかわかんなかったし……」
なんと、今どきの子どもは機械に身体を洗ってもらうことにすっかり慣れきっているのか。
「……もう、ちょっと来なさい。よくしてあげるから」
私は彼女を鏡の前に座らせて、生乾きのその髪を手入れし始めた。
――妙な気分だ。いつも自分の髪を梳かしているブラシで自分以外の髪を梳いている。
酸っぱいような、甘いような、独特のにおいが立つ。不快なものではなく、どこかなつかしい。このにおいを何と言うのだったか。確か名前があった気がするのだけれど。
そうしていると、髪のあいだから覗く彼女の肩がとても小さくて細いこと、胸や腰があまりに薄っぺらで頼りないことなどが際立って感じられる。
どうしてか抱きしめてあげたくなる。そっと包むように。
けれど私にはそれができない。触れられない。抵抗がある。
「……やわらかい髪ね。さらさらしてる」
「そう? たぶんそう調整されてるから」
「何でもかんでも調整で決まるわけじゃないわ。ちゃんとあなたの髪よ」
「ふうん……」
鏡に映る彼女の顔を見ると、なんだか気持ちのよさそうな、安らいだ表情をしていた。
そして彼女のその様子を微笑ましく思う自分がいることにも気付いた。
じんわりと胸の奥が熱を帯びる。
ふと彼女と鏡のなかで目が合ってしまって、思わずどきりとする。
「――ねえ」
「何かしら」
「今日、お客さんの前でお仕事してたとき、恐竜のことを『絶対に出会えない他者』とか『イメージのなかに住まう他者』とか言ってたじゃない」
「……ちゃんと聞いていたのね。お恥ずかしいわ」
「あの後無理やり魚みたいな恐竜の話に持っていってたけど、あれって続きがあるんでしょ。それ聞かせて」
「単なる個人の見解よ。学問的な価値もないわ」
「アナタの話が聞きたいの」
「えー……」
いったいどうしたのだろう。
あれだけ無駄だのむなしいだの言っていた彼女が。
「そうね――恐竜が生きていた時代というのは、私たちには想像もつかないくらい原始的な野生の世界だった。ただ生きることだけをしていたの。危なくて、私たちのような人間の持つ力ではどうにもならない。でも確かに、私たちが生きるこの世界のルーツとしてある。そしてそこからやってきた化石は石油や天然ガスのような燃料になるし、合成樹脂の原料にもなる。日用品や機械の筐体、それから道路に至るまで、合成樹脂は私たちの身の回りにありふれている。だから……極端な話、私たちはいまも恐竜と生きてるの。野生を秘めつつ、姿を変えて、確かにそこにいる他者として」
「そこにいる他者……よくそんな妄想思い浮かぶね。それじゃなに、あたしたちの周りは恐竜の幽霊だらけってことになるじゃない」
「あなたの先生や、博物館にいたロボット、もしかしたら私たちの体内にいるナノマシンもそうね。だから、あなたにとって生きるとはどういうことか――先生が出したその課題には、何か含みがあると思わない?」
「……そういう理屈であんな宿題出したんだとしたら、それこそバグよ」
「そのバグに先生は答えてほしいんだと思うよ。ほかのだれでもない、あなたに」
「……」
彼女はうつむいて、何かをじっと考え出した。
考えているのか、何か思い出しているのか、それとも呆れているのか、ほんとうのところはわからないけれど。
「いいかしら?」
「まあ、うん……あ、それとさ――これ、何の鍵?」
彼女が掲げて見せたのは今朝届いたあの謎の鍵だった。
結局どう扱ったらいいのかわからなくて、鏡台の上に置いたままにしていたのだ。
「さあ、何の鍵なのかしらね。今朝起きたら封筒が届いてて、なかに入ってたのがこれだけだった。だれが送ってきたのかもわからない。全く身に覚えのないものだから、どうしようかと」
「へえ……」
彼女は鍵をしげしげと見つめる。
「これ、身に着けといたほうがいいよ」
しばらくして、そんな謎めいたことを言い出した。
「あら、どうして? もしかして心当たりある?」
「ううん、わかんないけど、なんとなく」
「なんとなくって……」
「野生の勘ってやつ?」
彼女の思いがけない言葉に私は笑う。
なかなか言うようになったものだ。
「まあ、警察かどこかには持っていくつもりだったし……」
一瞬彼女が私に送り付けてきたものかと思ったけれど、そもそも彼女は私の家を知らなかったはずだ。
実は鍵を作る夢を見て、その朝に鍵が届いていたのだと言うと鼻で笑われるだろうか。
やがて彼女の髪の手入れも終わった。
「――で、どこで寝るの? カプセルは一基しかないんだけど」
「じゃあそのカプセルでいい」
「ちょっと、それじゃ私はどこで寝るのよ」
「一緒に入って寝たらいいじゃない」
「えー……」
「あたし身体小さいから、余裕でしょ」
「でも……」
「ほら、ここに最大容量1・5人って書いてるじゃない」
そして彼女は図々しくも私のカプセルに入っていった。
「入ってきたら? それとも床で寝る?」
「……入るわよ」
どうして彼女がそこまで一緒に寝たがるのか理解できない。
カプセルに入ると、ただでさえ狭いのに彼女が身体をくっつけてきた。
「ちょっと、どうしたの」
「どうって?」
「菌が付くわよ」
「菌? そんなのどこにでもいるじゃない。それにさっきあたしの髪触ったでしょ」
「それは、まあ……」
人の身体に触れたのはいつ以来だろうか。
彼女の身体はあたたかく、湿り気を帯びていて、皮膚と皮膚とが擦れ合うと、ぴりりと何かが走る。こんなにも違和感のあるものだっただろうか。
けれども何と言うか、小さくて軽いから抱き心地がちょうどいいと思ってしまう自分もいる。
「――ねえ、知ってる?」
ふと、彼女が話し始めた。
「金魚ってね、ただ金魚鉢に水を入れるだけじゃ生きられないんだよ」
「いきなり何の話? そりゃ餌や酸素もないと生きられないわよ」
「細菌が必要なの」
「細菌……?」
「バクテリア。細菌っていうと皆嫌がるけど、なかには水を浄化してくれたり、金魚が出したフンを食べて分解してくれたりするのもいる。あたしたちの身体のなかにも、ほんとうはそういうのがすごくたくさんいるんだよ。今はほとんどナノマシンに制御されてるけど……目に見えないくらい小さい、そういう存在がいないとあたしたちは生きられない」
「……」
「――ちょっと、人には散々イメージのなかの他者がどうこう言っておいて、自分はどうなのよ。いまここにいる他者にもびくびくして」
「びくびくなんか……」
「してるじゃない。大人のくせに、子どもみたい」
言い返せないのが悔しいけれど、なんだか悪くない気持ちもある。
子どものくせに、彼女が少しだけ大人びて見える。
「――バクテリアはすべての生き物の祖先でもある。何十億年も昔の海にいたバクテリアが長い長い時間をかけて進化して、やがて植物と動物になるやつが現れて、絶滅と進化を繰り返して……それで、今この世界があるんだって。先生がそう言ってた」
「先生って……あの板切れって言ってたやつ?」
「うん。明日から新しいのに替わるの」
「……そう」
「あたしに何も言わずに、あの人たちは勝手に新しいのを買った」
「ご両親?」
それでようやく理解した。
「まさか、それで家出?」
「あの課題は、先生が出した最後の宿題。だからちゃんとやりたいの。先生は、もういなくなっちゃったけど……」
「……それであのお店だったのね。金魚だらけの」
「うん……料理もおいしかったでしょ」
「えっ……」
それからは他愛のない話に移っていった。
どうしてこんな話をしてるんだろう、と二人して馬鹿らしくなるような、そんな何にもならない話。どうしてかそれが楽しくて、安らかで、自然に眠気が誘われてくる。
そしていつのまにか、私たちはくっつきあって眠っていた。
人の身体がこんなにもやわらかな熱を帯びたものだったことを、私は今更ながら改めて知ったのだった。
何か妙な夢を見た気がする。けれど目覚めたときにはもう思い出せなかった。
なんだか、なつかしい夢だったような。
朝起きると、女の子はいなくなっていた。
ただ、鏡台の上に置手紙が残されていた。
手紙といっても手書きのメモ程度で、鍵を文鎮代わりにして押さえている。
「お寝坊さんへ
両親に呼ばれたので帰ります
お世話になりました」




