◆◆◆◆四
タイムカードを押して退勤し、彼女の待つ店に足を運んだ。
扉を開けて、まず目に飛び込んできたのは大きな金魚鉢だった。両手を目一杯広げても抱えられそうにない。何匹もの金魚がその大きな尾をひらめかせ、舞うように――あるいは水に身を任せるように泳いでいる。
天井は暗いけれども、ぼんやりと光る灯篭がそこかしこに並んでいるおかげで最低限の明るさは保たれている。テーブル席は鮮やかな朱色。足元には石畳。どこかに川でもあるのか、せせらぎが耳に入る。さっきから鼻先を甘くかすめているのは白檀のお香だろうか。いや、チョコレートのようでもある。まるで異世界に迷い込んだみたいな、妙な空間だ。
テーブル席はどうやら金魚鉢を囲う配置らしく、見回していると、例の女の子が座っているのを見つけた。近付くと顔を上げて、じっと私を眼差す。その端正に整えられた顔立ちは、相変わらずよくできたお人形のようだ。
「お洒落なお店」
まずは月並みな感想を伝える。
「うん」
彼女は頷いて、軽く背もたれに身体を預ける。
「でもちょっとやりすぎかしら」
「まあ、座ってよ」
椅子に腰を落ち着けて、とりあえず何か頼もうと思ってメニューを眺める。
彼女は既にコーヒーを頼んだようだ。金魚鉢のような形のカップが置かれている。
私もそれにしよう。
「今日はどうしたのかしら」
「ん……」
彼女は少し言いづらそうに、もじもじと身体を小さく揺らす。
いつものおすまし顔はどこへやら、柄にもなく可愛らしい。
「ご両親と喧嘩でも?」
「……喧嘩なんかできない。知ってるでしょ」
「そうだったかしら」
何度か見かけた彼女のご両親を思い浮かべる。
まあ確かに親子喧嘩はしそうにないな。
「こんな遅い時間、心配されないの?」
「位置情報は把握してるから」
コーヒーが運ばれてきて、とりあえず啜る。
――ミルクを多めに入れるべきだ。
「宿題が、わからなくて」
「宿題?」
「うん」
懐かしい響きの言葉だ。
そう、確かに懐かしいけれど、恥ずかしながら私はそれほど勉強が好きな生徒ではなかったから、やはりどうしても苦みが残る。きっと何だかとてもあいまいな笑みを浮かべたに違いない。
「私にわかるかしら」
「大学院出てるでしょ」
「そりゃ出てるけども」
「研究者なんでしょ」
「まあ一応そうだけども」
「何でもいいから教えて」
「何を?」
「あたしどう生きればいいの」
「あらまあ――」
そのシリコン細工のような薄い唇から、生々しく湿り気を帯びた言葉が出てきたことに、私は意外というか何というか、少し弾むものを感じた。
「将来の夢を述べなさいってやつ?」
「ちょっと違うけど、そんな感じかも」
「何を問われているの?」
「あなたにとって生きるとはどういうことですか」
その言葉を聞いた瞬間、私は絶句した。
「それをその歳で訊かれるの?」
「……自由課題だから、やらなくてもいいんだけど」
「でもやるんでしょうね、あなたは」
「だって、気持ち悪い」
「そうね……あなたのその性格も見越した上での宿題ね」
ミルクを手に取り、コーヒーに垂らす。
暗い水面に落ちた乳白がゆっくりと渦を巻き、カップのなかの世界を土色のマーブルに染めていく。
「その宿題を出した先生は、何を答えてほしいのかしら」
「さあ。業者さんにプログラム確認してもらったけど、あんなデータ入れてないって。バグじゃないかって言ってたけど」
「訊こうと思わなかったの? なんでこんな宿題出すんですかって、先生に」
「あんな板切れに?」
「人間の先生よりは賢くて優しいわ」
「人間の先生なんて知らないし」
「そう……」
ミルクをもうひとつ入れる。
彼女の先生に思いを馳せると、どうしても同僚のことが浮かんでくる。
わざわざ最新型のスマート学芸員の話をする型落ちの彼。
どこか寂しげに感じられたのは、ただの気のせいだろうか。
「バクじゃないと思うけどなあ」
「え?」
「もうちょっと教えてくれる? どういうところが悩みどころなのか、どうして私が役に立つと思ったのか」
「一回、答えを提出したの」
「へえ」
「でも通らなくて、再提出って言われた」
「なんて書いたの?」
「充実した人生を送れるようプログラムを組み、実現に向けて努力すること」
まるで精密機械のように一息でそう言ってみせた。
「そりゃ通らないわ。人間はプログラムに則って生きられない」
「でもあたしたちはこれがスタンダードだから……そう調整されてるもの」
「調整されてる?」
フッ……と思わず笑いが込み上げてきた。誰にともなく、何にでもなく。
「その言い方、素敵ね」
「素敵って」
「調整……そう、調整には逆らえない。だから何にでも言い訳が立つわ」
「……アナタだってされてるでしょ」
「生まれつきではないわ。それにあなたほど強くかかってるわけじゃない」
女の子の左手首に目をやると、彼女はさっと右手で覆い隠した。
視線が痛そうな、ばつの悪い表情を浮かべて。
私はお店の真んなかで鎮座する大きな金魚鉢に目を逸らした。
調整――二〇年ほど前からすべての人を対象に実施されている、いわゆる予防接種のことだ。
ナノマシンという目に見えないくらい小さな医療用ロボットを血管に注射し、体内を循環させる。そうすることで人はスマートデバイスを通じて体内の状況を知ることができる。様々な病気の早期発見に役立つ他、ホルモンや脳内伝達物質の調節を行うことで体調や気分の調整さえも可能というわけだ。その気になれば性に関する機能をカットオフすることもできる。
そして今隠された彼女の左手首には、うっすらとバーコードが浮かんでいる。ありとあらゆる「病気」を予防するために、生まれつき遺伝子の調整を受けたことを示すものだ。
体外受精や人工子宮など最先端のテクノロジーが駆使され相当なお金がかかることもあって、バーコードはここ十数年の我々の社会において、そのポジションを示すステイタスだった。
しかし最近の追跡調査によって、調整を施すことがその後の成長過程で心身にあるステイシスをもたらすこと、それもバーコードを持つ者に顕著であることが明らかになった。
それは調整の失敗――つまり調整自体がひとつの「病気」であることを意味する。
今やバーコードを持って生まれてくる子どもは少なくないし、この件が報道された当時を思い返すとそれはもう謝罪と賠償がどうの人道的にどうのと連日連夜大騒ぎだった。なかには、調整が不完全なのはその後のアップデートによって収益を得ようとするビジネスだからだと主張する陰謀論者も現れた。
けれども修正パッチでの対応が決定して先週ようやく無償配布されたし、喉元過ぎれば熱さを忘れるというやつで、ひと月もすればその話題はほとんど出なくなった。というより、埋没していった。せいぜい諦めの悪いメディアや御用学者たちが日々のニュースの片隅で人類の進むべき未来について説教臭いコラムを書いているくらいだ。
人類――イデオロギーにまみれた、大きいくせしてどこにも実体のない言葉。
バーコードは優良性を示す太鼓判だったわけだが、それがあの日を境に失敗作の烙印と化したわけだ。いくら修正パッチを適用したところで、生まれついて調整された部分は変えられない。俗に「バーコード持ち」と言われた人間がこれからその人生をどう生きていくのか――だれも興味を持っていないようだ。
渦中にありながら取り残されている。
あなたもわたしもそんな感じ。
お店の真んなかで優雅に泳いでいる――あるいは泳がされている金魚たちを眺め、そう思う。




