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ツァラフ姫、そしてクロと一緒に過ごすようになって早五日。
シトラはヒューリック薬の調合にかなり慣れてきた。
医務室の薬士見習いになるまで残り一週間となったが、バルトリス医士長は数回ホームを訪ね、診察の手伝いや処置の講義、そして筆記試験の勉強のアドバイスをしてくれたので、シトラの実技、座学は完璧に仕上がってきている。
侍女達の診察にもかなり慣れた。避難していた薬草も無事に王城の方へと戻り、シトラは自分が持ってきた薬草を育て始めた。
ここまで余裕が出てきたのは、用意しないと言われていた侍女が、助手としてホームに来てくれたからだ。
世話役ではなく助手というのが大きく、処置の手際がとても良い。シトラが教えるとすぐに技術を習得する優秀さ。バルトリスの講義にも積極的に参加し、メキメキと腕を上げていくのを見て、こんなに頼りになる仲間がいてくれるのがどれほど幸せかを実感した。どうにかスカウトできないだろうかと、シトラは抜け道探しに必死である。
だが、患者の数は減らない。
それどころか離宮で怪我をする女性が増えている。主に侍女だが、婚約者候補の女性も数人訪ねて来るようになってきた。どうやら他国の、王族ではない姫が狙われているようだ。
一体何が起こっているのかわからないけれど、クロは我関せずのままだし、怪我をした本人に聞いても詳しいことは全く掴めていない。トラップのような仕掛けで怪我をしているのが大きな原因だろう。そのやり口はどことなく、暗殺者のそれに似ている。離宮を監視する女官が対応する事項なのだろうが、証拠がないから動けない、そういう話をイソラから聞いた。
だからシトラは、自分のなすべき事をなすだけだと、真っ直ぐに日々を駆け抜けていた。それしかできないのが歯痒いと思っているのも確かだが、先走って大切なことを見落とす方が最悪だと知っていたからだ。
そういうわけで今朝も元気に午前の診察をし、離宮とここを行き来する牛車に揺られて、婚約者候補の女性達の元へ訪問診療に向かった。
まさか本当に牛車の送迎が実現するとは思っていなかったのだが、これが想像以上に勝手が良い。侍女達の負担を減らすだけでなく、治療の物資も一緒に運べるのが大きかったのだ。
手配をしたのは隣で何かしらの資料を読みあさるクロ。共に行動をするのにも慣れ、今では良い相棒だと思うようになってきた。仕事が早いし、正確だし、何よりいざという時に王城の対応を取れるのが助かる。
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いつものように薬鞄を下げて、離宮に入る。未だに往診を必要とする姫は、クリシュラ姫のみだ。良いことなのか悪いことなのか。シトラはこれ以上大怪我を負うような事件が起こるのをとても恐れていた。
けれどそんな事は全て飲み込む。シトラの不安はクリシュラ姫のみならず、いろんな人に影響する事を自覚しているからだ。だからいつものように、微笑んで安心してくださいと言う。
「クリシュラ様、素晴らしい回復です。まだ歩くのは禁止ですが、固定具はかなり緩みますよ。車椅子でなら、外出も可能ですね」
「本当ですか!? 嬉しい……! ありがとうございます、シトラ様。そして……ミリーナ。ここまで頑張れたのは、貴女のおかげだわ。いつも本当にありがとう」
「そ、そんな……っ、ありがとうございます! クリシュラ様がお元気になられて私も嬉しいです。これで一緒にバラ園を見にいけますね!」
嬉しそうに言葉を交わす二人を見て、シトラも優しく微笑んだ。きっとこれからも、クリシュラ姫はミリーナを隣におくだろう。二人の間にある信頼と愛情の絆はきっと、なによりも彼女達を守るものとなる。
その後、シトラはクロに頼んで車椅子を用意してもらい、ミリーナにクリシュラ姫をベッドから車椅子へ移動する方法を教えた。ミリーナは力が強いのもあって、アッサリとその技術を取得した。同時に階段の降り方、坂になっているところでのブレーキ、負担にならない押し方もマスターし、早速二人はバラ園へと向かっていった。やはりというか、この城の侍女はレベルが高い。高すぎる。
「あんなに暗かったクリシュラ姫様が、今では本当に楽しそうに……シトラ様は一体どうやって治療をしたんですか?」
「クロ、治療したのは私ではなくミリーナです。クリシュラ様の心を暗くしていたのは、孤独感でした。そんな彼女の心を開き、太陽の元へと連れ出した。ミリーナのケアは完璧です」
二人を見送りながら、シトラは喜びで声を弾ませる。
クロはそんなシトラをチラリと見下ろし、そうですかと若干適当に返事をした。どうにも心理の問題は理解しがたい。
シトラは不思議な女性だ。自然と人を惹きつけて、その場を明るく暖かい場所へと変えてしまう。最近では一人でいるところを見つける方が難しいくらい、シトラは慕われている。
そして何よりも、シトラが「大丈夫」というと、患者が皆一様に安心して穏やかになるのが不思議で仕方なかった。
探るようなクロの瞳に、しかし気づく様子もなくシトラはさてと言って薬鞄を持ち直した。チラリとこちらを振り返り、笑う。
「行きましょう、クロ。長居をしてしまいました。午後の診察に備えて、お昼ご飯はお肉を食べなくては」
「ええ、そうですね」
そうして二人が午後のことを話しながら離宮を出ようとした時、唐突に鋭い声が上階から降り注いだ。
「お待ちなさい! 貴女ね? 最近ここに出入りする不届き者は! 誰か、誰か衛兵をお呼びになって! この不審者を捕まえてくださいませ!」
「……????」
シトラがポカンとしていると、突然ガラスが砕ける音がし、甲高い悲鳴が空を切り裂いた。動揺し足が竦んだシトラへ、何処から現れた、全く見覚えのない女性達が数人襲いかかってきた。
咄嗟の判断が遅れたと自覚するも、シトラはクロを見、彼に危険はない事を確認すると、大人しく押しつぶされた。
手と足を踏まれ、うつ伏せに倒れたシトラの髪を鷲掴んだ女性が、金切り声を上げた。流石のシトラも痛みに喉が鳴る。
「やっぱりこの女が犯人だったのね! アレイシア様、素晴らしいご活躍です!」
「衛兵が来るまで抑えていなさい! 離宮の皆様、聞こえるかしら!? ここ数日に起こった、婚約者候補の女性達への嫌がらせや傷害事件は、全てこの女の仕業だったのですわ! 薬士を装ってリオン様の懐に入り込む為の自作自演! ああなんて恐ろしい、野蛮な女なんでしょう!」
「っ、ぅぐ……!」
「これまであたくし達を欺き、脅えさせ、傷を負わせた罪! 全てをここで償って貰いますわよ!」
シトラの髪がさらに引っ張られたせいで髪紐が切れ、ツインテールの片方が鮮血のように流れ落ちる。この大騒ぎに、何事かと人が集まってきた。顔見知りの侍女達が顔を青くしているのを見て、シトラは痛みを堪えてアレイシアと呼ばれた女性を見上げた。
白銀の髪、美しいブルーの瞳。ドレスは何処までも鮮やかな赤で、広げた扇の上からにやけた目を覗かせている。
やがて衛兵のものと思われる男性の声が、外から聴こえてきた。二人……いや、三人か? 随分少ないなと、シトラは眉を潜める。
そして同時に、見た事のない姫が侍女二人に支えられながら、泣きじゃくりつつ歩いてきた。その腕には引っ掻き傷があり、片方の頬が腫れている。それを見たアレなんとか姫は、扇で口元をしっかりと隠しつつ、一歩階段を降りた。
「まあ……!? なんてこと! どうなさったのです、ナタリー様!? 何があったのですか!?」
凄いな、と場違いにもシトラは感心した。この姫、表情と声色が正反対だ。演技が素晴らしい。本心が全く伴わない言葉なのに、臨場感はバッチリだ。
それはナタリーと呼ばれた女性も同じだった。
「わ、私っ、薬士の女性がいるって聞いて、相談をしようと話しかけて……そうしたら、突然……っ」
「まさか、その女に襲われたのですか!? な、なんてことを……ナタリー様を傷つけるだなんて、許されることじゃないわ……! 衛兵が来たら即座に首を落として貰わなくては!」
実に見事な震え声に、シトラは胸中で素晴らしいと叫んだ。手が自由だったら、拍手もしていたに違いない。
そして成る程、こういう流れにするのかと冷静に状況から台本を読み解いた。女性同士の確執、そして潰し合い。見たことはあれど経験したことがなかったシトラは、そういう場合じゃない筈が少し興奮してしまっていた。
しかし首を落とされては困る。まだ治療が終わってない患者がたくさんいるのだ。それに……彼女達が一連の事件の首謀者だとしたら、彼女達は致命的な間違いを犯している。
それを伝えようにも、この体勢では声が出ない。
シトラがどうしたものかと悩んでいると、ドタドタと威圧する様に足音を立てながら、兵士の服を着たガラの悪い男性が三人雪崩れ込んで来た。まさかこの離宮に男性が入るとは思っても見なかった姫達が揃って悲鳴を上げ、自室に逃げ戻ろうとする。最早収拾のつかないパニック状態。これぞ阿鼻叫喚……いや、これは地獄そのものだ。
こうなるとは流石に思っていなかったようで、アレなんたら姫となんとか姫、そしてシトラを押さえる侍女? も顔色を変えて慌てたり呆然としている。いやちょっと考えればわかるでしょう、なんのための離宮だと思ってるんだ。シトラは呆れてしまった。
そんなことをしている間に、男性がシトラを取り囲む。目が泳ぎまくっているのは、罪の意識によるものかだろうか? それともこの地獄絵図に怖気付いているだけ?
「殿下とアレイシア様が仰っていた女狐め、正義のてっ……さ、裁きを受ける時が来たようだ、ようだぞ、ようだな!」
「だがここを血で汚すことはでき、出来ない、ぞ。早く連れ出そ、連れ出さなくては。お怪我はありませんか、勇敢なメイ……じ、侍女? 殿」
おいお前ら演技頑張れよ、大根にも程があるぞ。
空気を粉砕する棒読みにシトラは白けた目で男達の手が迫るのを見ていた。このまま何もしないとどうなるか、予想は簡単につく。だがしかし、どうしても気になってしまう。
拘束の手が若干緩んだ今なら、声は出る。だったら言わずにいるのもどうかと思うのだ。どうしようと、シトラは眉尻を下げ、目を泳がせる。そしてその顔に、兵士の手が伸びてくる。
── その時であった。
お読みいただきありがとうございます。
やっとこう、泥沼な感じを書けました! いやなんというか、普通に事件でしかない気もしますが、気のせいですね。
今後とも私なりの泥沼をよろしくお願いします。