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今朝の目覚めも悪く無かった。
シトラは小さくあくびをしつつ、昨日と同じ様に朝食を済ませ、顔を洗おうとした……ところでノックの音が響いた。ビックリして思わずどうぞと反射的に叫んでしまったが、そういえば閂をかけたままだ。気慌てて駆け寄ろうとした時、異変に気づいて後退る。
おい待て、閂じゃなくなってる。いつからこんな立派な鍵付きのドアになった?
呆然としているうちに、次々と人が入ってくる。シトラは完全に包囲された。麗しき女性の方々が、ニコニコとシトラを囲っている。何事かと警戒するも、彼女達の笑みは崩れない。
そのうちの一人が、綺麗に纏まった髪にちょこんと乗るレースを揺らしつつ、一歩シトラに歩み寄る。
「おはよう御座います、シトラ様。早速ですが、湯あみをお手伝いさせていただきます」
「……えっ?」
思わずポカンとするシトラは、ハッと昨日のことを思い出した。黒いフードから見えたあの美しい笑み。監視と言っていたか? それが関係してるのだとしたら、とんでもないぞ。だってこのニコニコしてる方々は、明らかに王城の使用人だ。つまりシトラは、王宮から監視をされてしまっている。
嫌な汗がゾッと背中を流れる。笑顔の圧がすごい。レリン王国の王女たるシトラではあるが、こんな人数の使用人に囲まれるのは生まれて初めてだ。なんとか口を動かして、この状況から逃げようとするが……。
「こ、ここには浴室なんてありませんよ!」
「ご安心ください、昨日設置しました」
「…………は、はいぃい!?」
この人笑顔でサラッと何を言っているんだ。だがシトラはその時ようやく、気づいてはいけないことに気づいてしまった。
ギギ、と壊れかけのロボットのように首を動かす。
あれれ〜おっかしいなあ〜。玄関の横に……ドアなんて、あったっけ?
「では急ぎましょう、さあさあシトラ様」
「いっ、いやっ、ひ、ひとりで、ひとりでできますっ、ひええええ!?」
一斉に伸ばされた柔らかくてしなやかな手が、容赦なくシトラの服を奪い、浴室へ連れ込み、身体中を磨いていく。最初はシトラも抵抗したが、笑顔の圧に負け縮こまって固まった。しかし麗しき女性達はそれを「猫みたい」と言いつつ容赦なく洗い尽くす。湯浴みが終わった後は、持ち込んだ覚えのない服を着せられ髪を結われ、ようやく解放されたシトラだったが、そのライフは半分以上削れていた。
そんなシトラにニコニコしながら、仕上げにとベビーパウダーをポフポフしている女性達のうち数人が、ホームの外に声をかけに行った。
「終わりました〜」
「そちらはどうですか?」
「ああ、こちらも終わった」
聞き覚えのある声だ。ハッと我に返ったシトラが振り返ると、黒服の男性が爽やかなおはようを告げ歩いてくるのが見えた。おはようじゃないわよ、何をどうやったらこうなるのよ。そう言い返したいのは山々だったが、シトラは大人しく使用人の仕事が終わるまで我慢した。疲れていたからではない。これは彼女達の仕事を邪魔しないためだ。笑顔が怖いとかそういうわけではない。
やがてポフポフが終わり、やりきった感をだす使用人達に、シトラはありがとうございましたと頭を下げた。なんだかんだでまともに入浴してなかったので、サッパリできた事はありがたかったのだ。凄く疲れたが、それはシトラの不慣れが原因である。
最後まで美しく微笑んで、女性達は綺麗に並んで優雅に礼を返した。あまりにも完璧なそれに、シトラは最後まで度肝を抜かれたのであった。
「ではシトラ様、離宮に行きましょう」
「…は、はい…」
プロの仕事、すごい。
死んだ魚のような目で、けれどしっかり準備をして、シトラはホームを後にした。後悔先に立たずとはまさにこの事だ。
昨晩、黒服の人に監視する宣言をされたシトラは、ありとあらゆる言い訳をして逃れようとした。しかしそれが彼を逆に怒らせてしまったのだ。怒りのスイッチが入ってからは怒涛の流れであった。
ホームは王城の所有物だから好きにさせてもらう、というところから始まり、自分の部下にシトラの世話をさせる、もう一日中張り付いてる、着替え等も全部指定した物を着てもらう等々言いくるめられ、今に至るわけだ。
「貴方、本当に何者なんですか……」
「貴方ではなくクロと呼ぶよう言いましたよね?」
「……クロは何者なんですか」
「王子妃選定の関係者ですよ。それなりの立場にいるので、動かせる人員も多いんです」
「それなら、私なんぞよりもっと心配されるべきお方の傍にいるべきでは? ……離宮の事、ご存知でしょうに」
「それは私の関する所ではありません」
昨日からこの調子だ。
シトラはもう説得するのは諦めることにした。大人しくしていればすぐに別の問題に移ってくれるだろう。それまでの辛抱だ。それに、やってしまったことは仕方ない。やるべき事に変化がないのなら、それに集中するべきだ。
気持ちを切り替えねば、と。深呼吸をして離宮へ足を踏み出した。クロも当然のようについてくるようである。男性は侵入禁止なのではと思ったが、顔を隠しているからか誰にも何も言われなかった。
離宮に入ったシトラは、真っ直ぐクリシュラ姫の部屋へと向かった。軽くノックをして、返事を待つ。すぐにミリーナの声と共に扉が開き、クリシュラ姫の微笑みが視界に入った。それを見てシトラも笑みを浮かべる。随分と顔色も良くなったようで、安心した。
そして部屋に入ろうとして……止まった。一応、クロのことを紹介するべきだろう。だって入ってくる気満々だし。
「ええと、クリシュラ様、ミリーナさん。こちらクロはです。私の監視をするそうで、今日一日傍にいるみたいですが、危険はありません。勿論肌を出す時は後ろを向いて貰いますので、ご安心ください」
「……は、はい……」
「お邪魔します」
クリシュラ姫とミリーナはクロを気にしたが、仕方ない事だと、シトラはすぐにクリシュラ姫の怪我に意識を集中させた。軽く様子を見て、いくつか質問をし、メモを取る。昨日はまだ起き上がるのも大変そうだったが、今朝はもう朝食を済ませたようだ。順調な回復である。
「食欲が戻ってきたんです。ミリーナとたくさん話をしたら、なんだか心がスッキリして」
「良かった、クリシュラ様を一番苦しめていたのはストレスだったので、上手く昇華できてなによりです。痛むところが出てきたりしませんでしたか?」
「はい。ちょっと身構えていたんですけど、本当に痛みはありませんでした」
「そうですか。これなら、秘密にしていた方がよかったかもしれませんね。身構えるのは疲れたでしょう?」
「確かに疲れは感じましたが、重みにはなりませんでした。だから大丈夫です。……それよりも、早く歩けるようになりたいです。ずっと寝ていると、外が恋しくなってしまって」
「……そうですね。でも焦りは禁物です。今はたくさん食べて、休んで、回復に集中しましょう。それでは、今日は頭の傷と背中、肩をみますね」
シトラは振り返り、クロに後ろを向くよう声をかける。
そしてミリーナに手伝って貰いつつ薬を塗り、頭の包帯を外す。こちらも回復は好調のようだ。新しいガーゼと包帯で処置をして、おわり。クロはちゃんと見ないようにしてくれていたので、もう気にしないことにした。
いつもの痛み止めに加え、今回は魔力の混じった薬、魔法薬をミリーナに渡し、二人にしっかりと説明をする。
「この薬は、体内の自然治癒力を増加する魔法薬です。一日一回、夜に飲んでください。この薬は眠たくなる副作用があるので、日中の使用は禁止です」
「わかりました」
「管理はお任せください! クリシュラ様、シトラ様」
「それからミリーナさん。貴女の働きは素晴らしいです。クリシュラ様の回復に必要なことを全て行ってくれています。急にすみません、でも伝えておきたくて。今後も……いえ、これは言うまでもなかったですね」
「い、いえ! 確かに元々クリシュラ様を支えるのが私の仕事です。でも、こうやって仕事を評価して貰えると、その……やっぱり嬉しいですね! 勿論これからも頑張ります、どうぞお任せください!」
「私からもお願いするわ、ミリーナ」
「はい、クリシュラ様!」
溌剌とした笑顔につられてシトラもクリシュラ姫も笑顔になった。うん、ミリーナは本当に頼もしい。このままクリシュラ姫を支えていってくれれば嬉しい。
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ホームに戻ったシトラは絶句した。
「どうですか? 見違えたでしょう」
「なっ……な……!?」
得意げなクロの様子から察するに、これも昨日から準備されていたのだろう。
元幽霊屋敷……そう呼んでいたホームは、綺麗になっていた。色の剥げた壁は清潔感のある白に塗装され、屋根は優しい雰囲気のクリーム色になっている。きっと屋根は今朝すでに塗り終えていたんだろう。
ひび割れていた窓に至っては、窓枠から生まれ変わっている……いや待て、つまりは、中からも手が出されている!?
シトラは素早く中に駆け込み、直後呆然と螺旋階段を見上げた。なんだこれ。入ってすぐのところにはガラガラの物置があった筈なのに…今やバスルームと螺旋階段に…いやまて、階段?
そこでようやく天井が低くなっている事に気づいたシトラは、恐る恐る階段を上り…二階が誕生した事を知った。
劇的ハッピーバースデーである。どうしてここまでやった。
最早立ち尽くすしかないシトラの肩に、ポンと手が置かれた。ギギ、と動きが悪いロボットの如くゆっくり振り返ると、そこには輝くドヤ顔のクロがいた。や、やりやがったぞこいつ。昨晩の己の言動を心から反省した。
「……く、クロ……ここまでする事はなかったでしょう。だいたいどうやって、いつの間に二階なんて作ったんです!?」
「本日4時より作業開始、完成は1時間前…午前9時ですね」
「た、たったの5時間で出来るわけ……!」
「出来ますよ、王城お抱えの職人を甘くみないでください。彼らは一日で城中の装飾を総入れ替えするんですよ? こんなの朝飯前だと言ってました」
「あ、あんなに大きな城を1日で!?」
シトラは己の浅慮を認めざるを得なかった。確かに一人でやろうとするのは無謀だった。でも、プロを引っ張り出されてそんなドヤ顔されるのはなんか違う気がする!
要は悔しいのだが、クロが助けてくれたことも事実。
複雑な心境をなんとか言葉にする。
「……ありがとうございます、クロ。貴方の言う通りです。私は己の力量を過信していました。それは認めます。ですが……やりすぎです!」
「はははっ、私の勝ちに変わりはないですから存分に。それより、良いのですか? そろそろ昨日の侍女がやって来るのでは?」
「あっ、そうだ、痛み止めの補充しなきゃ。あと塗り薬のストック……胃薬は大丈夫よね……」
ブツブツと唱えながら素早く部屋に戻るシトラを追いかけつつ、なんでそこまで頑張るんだろうとクロは複雑な表情を浮かべていた。
それからおよそ三十分後。
クロの言う通り、昨日もう一度来るよう伝えていた侍女達と、新しい患者だろうか、見覚えのない侍女もゾロゾロ団体でやって来た。
シトラは玄関前に走り出て、手を振って声をかける。
「おはようございまーす! お怪我の具合はいかがですか?」
「シトラ様ー! 痛みがずっとマシになりました!」
「頭痛が治まって、好調です!」
「シトラ様、昨日の苦いお薬をぜひもう一度……!」
「助けてください、寝違えましたぁあ!」
「皆さん、どうぞお入りください。昨日とかなり中が変わってますが気にしないでくださいね。一階で処置をしますので!」
幽霊屋敷じゃなくなった新・ホームの外観は侍女達に好評だった。いやたった一晩でこんなに変わったのに反応薄くないか? いや、今朝の女性達も平気そうだった。王城勤めだとこんなの慣れっこなのかもしれない。
考察はこの程度でやめて、すぐに薬士として気持ちを切り替える。今日も頑張らねば。
シトラは痛みが酷いと訴える人を優先しつつ、処置をしながら症状の経過を確認する。
患者の多くは、打ち身や打撲、擦り傷に切り傷、あとは疲労による体調不良をほぼ合わせて抱えており、治療には時間がかかるだろうと考えていた。そのため、なるべく効果を高くするために、薬の調合は一人一人合わせて行っている。
その作戦は概ね好調だが、やはり薬の効果が弱い人もいた。その場合は配合を変えて、薬を作り直す必要がある。しかしその時になって、シトラは初めて不便を感じた。
すぐに薬を作りたいが、その間他の人を待たせてしまうのは申し訳ない。調合はともかく、薬草等を取ってくるのが手間だ。どうしたものか。
そう悩んでいる時、ふと彼の存在を思い出した。
「……あの、クロ。お願いしたいことがあるのですが……」
恐る恐る振り返る。そこには手持ち無沙汰な様子で腕を組み、壁に寄りかかりつつシトラを見る黒服の男性が立っていた。不機嫌そうな空気を纏っていたものの、わりと普通に反応してくれた。
「……いいですよ、何をすればいいですか?」
「塗り薬を作っていただきたいのです。奥の部屋の鞄に材料が入っています。すり鉢も台所にありますので、持って来ていただければ指示をしながら処置を続けられます」
「わかりました。必要な薬草は?」
「このメモに」
サッと差し出されたメモには、ずらりと薬草の種類と量が書いてあった。
クロことリオンはそれを受け取りつつ、いつ用意したのか……と考えかけて、やめた。こんなの昨日の処置中に決まってる。薬が合わない時のためにこうして準備していたのだろう。
呆れて彼女を見ると、既に次の処置に移っていた。涙を滲ませつつ薬に耐える侍女を、優しい声色で励まして、違う話題で気を紛らわせようとする。そして時折順番待ちをしている侍女に声をかけて、サラサラとメモを取ったりもしている。お前は一体何人いるんだ。
しかしまあ自分から声をかけてきただけマシか。何も言わないようなら、侍女を数人常時待機させるところだった。
「メッシテリカ、メッシテリカ…あ、これか」
やっと見つけたガラス瓶を開け、目分量で必要なだけいただいて戻る。ようやく後一つだ。
シトラには後で薬棚という概念を教えなければならない。これだけの量の薬材を荷車で持って来るなんて、本当になんなんだ。何と戦っているんだ。とにかく、薬棚の発注をしよう。
今朝、目の下に隈を作ったダイクから報告書を貰い、ようやくリオンはレリン王国の事とシトラ・リン・レリンス王女の事を知った。
ものすごくゆるい国、王族であろうと王にならぬ者は普通に独り立ちする、貴族という概念はない。カルチャーショックで紅茶を吹き出す事になるとは思ってもみなかった。
そしてレリン王国の土地は山の近くということもあり、霊脈と霊水が大地に刻まれている。その為珍しい魔力草などの栽培が盛んで、他国からの呼び名は『薬の国』だ。優秀な薬士も多く輩出している。その中には元王族の者も多数含まれていた。
つまり、シトラの言っていた「薬士になる」発言は流石に冗談……というよりイメージアップのための戯言と思っていたが全然違いましたという事だ。疑った自分の無知が情けない。
考えを巡らせつつも薬草を揃えたリオンは、シトラの元へと戻った……のだがおい待て、ほんの数分でさらに人が増えているぞ。信じられない事に婚約者候補の姫も数名いるようだ。
慌てて引っ込み、念入りに顔を隠し、無言のまま戻る。正体がバレたら面倒なことこの上ない。
「おかえりなさいクロ、ありがとうございます。すり鉢の使い方はご存知でしょうか?」
頷く。
「ではまず、キラの葉を細かくちぎって……」
リオンは説明を聞きつつ薬を作りはじめた。結構楽しい。
そして指示をしながらでもシトラの手は止まっていない。むしろ交代の合間にこちらも薬を調合しているようだ。マルチタスク絶対こなすマンかお前は。
再び呆れつつも、こうなったら仕方がない。滅多に経験することがないであろう薬の調合を楽しむことにした。
訪れていた姫は怪我をしたわけではなく、疲れが取れなかったり、ヒールで足を痛めた程度で、診察というより相談に来ているようだった。クリシュラ姫のような事件があったわけではないことにほっとして、侍女やシトラと和やかに談笑をする姫達を、リオンは調合を続けつつそれとなしに微笑ましく見守っていた。
しかしその団欒の時間も、突如訪れた少女により、簡単に壊されてしまうこととなる。
お読みいただきありがとうございます。
クロ……一体、何オン様なんだ。
劇的ハッピーバースデーについては、シトラ様の予想よりも大勢の人が働いています。いや、侍女達が驚いていない時点で既にバレバレですね!