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「何故助けを呼ばないのです」
とても落ち着いた、しかし苛立ちを匂わせる声がシトラへ投げかけられた。ハッと顔を上げると、シトラへ手を伸ばしていた兵士が、クロに腕を掴まれ静止している。
戸惑って返答に窮するシトラへと、畳み掛けるようにクロが淡々と声を重ねていく。
「どうせ、クロは離宮に関することには無関係だから巻き込めないとか、そもそも助けを求めるって発想すらなかったんでしょう」
「そ、それは……」
「まあそれは分かってた事だから今は咎めませんよ。ですが」
言葉を切ったクロは、掴んでいた男の腕を捻り床へ叩き付けると、他二人へ手を翳し魔法で壁へと貼り付けた。
呆然とそれを見るアレなんたら姫と勇敢な侍女とやら、そしてなんとか姫。シトラはすぐに立ち上がろうとしたが、クロに遮られた。同時に、彼の魔法で離宮の中には強い圧がかけられた。立っていられずに座り込む姫や侍女達。魔法の対象外にされたらしいシトラは、倒れ込んだままここまでしなくてもと叫んだが、クロのあまりの怒気に言葉を失った。
「説教は終わっていません。貴女はそんな気がないと言いましたが、身分はまだ殿下の婚約者候補です。その身でありながら殿下より先に他の男へ肌を許すとは心構えがなっていません」
「く、クロ……」
「今一度ご自覚を。シトラ・リン・レリンス第一王女様」
「お、王女……!?」
「そんな、まさか!?」
動揺する女性の声。しかしクロは見向きもせず、シトラの乱れた髪へ手を伸ばした。無事だった髪紐をとり、軽く手櫛で整えた後、肩を掴んで起こし、座らせた。
シトラは困った表情のまま、何も言えなかった。クロの言葉が図星だったからだ。
彼女達の考えをある程度予測し、念の為自分が王女だと言うべきであろうと考えてはいたものの、それ以外にはたいして抵抗をする気もなかった。肌を許すことになると言われてようやく反省している。
けれど、シトラは王子との婚姻を望まない。望んでいない。薬士としてここにいたいと告げた言葉は変わらないから。
だからクロに謝れないのだ。顔も性格も知らない王子の、婚約者候補の自覚など出来ない。したくない。
それをどうやって言葉にすれば良いのだろう。シトラが困り果て、ジッとクロを見つめるうちに、とうとうクロは溜息をついた。そして思い切った様子でフードを捲り、顔を晒した。
──その場の空気が凍りついた。
姫達も、侍女も、皆、驚愕のあまり声も出なかったからだ。
そこに現れたのは、ユリア国の王子であり、多くの姫が焦がれる男であり、この騒動の根本的な原因と思われる、リオン・アストラ・ユリアスタード王子その人であった。
輝くような美貌、少々癖のある艶やかな黒髪、そして放たれる理知的で清純な魔力の波。
全てが塗り替えられ、視線はリオンへと集中した。
そしてその彼が、わざと手袋を外し、シトラの頬へ触れる。
いや、触れた。触れた途端に吹っ切れたのか、リオン王子はおもむろにシトラを抱き上げると、振り返ること無く離宮を走り出る。追手を防ぐためにドアを閉めて魔力で蓋をし、そのまま城へと走り出した。爆発するような叫び声が離宮から鳴り響くのもおかまいなしだ。
あまりにも突然過ぎて、シトラはうまく状況が飲み込めないでいる。逃げ出せたのはわかったが、クロは一体どこにいくつもりなのか?
「クロ!? えっ、ちょっと、ええっ!?」
「黙っててください、舌を噛みますよ!」
「ひぃっ!?」
言われて気づいた。なんという速さ。風のえげつない音が耳元でビュンビュン鳴っている。魔力を推進力にしているのだ。思わずシトラは縮こまって、リオンの黒いマントを掴む。
リオンは爆速で城の裏庭を駆け抜け、衛兵を離宮にと怒号を撒き散らした。仰天した衛兵がわらわらと離宮へ向かう。庭師の人々は目を丸くしてこの突然過ぎる出来事に唖然とした。
十分な人数が離宮へ向かったのを見届けたリオンは、そのままフワリと高く舞い上がり、ホームへと移動を始めた。しかしそこまで順調に進んでいた彼だったが、シトラが予定外の反応を見せた事で目を丸くした。
「ふぎゃあああああ高いいいいい死ぬ、死ぬうううううう!」
高所恐怖症なシトラは、もう何もかもを無視してリオンにギュウと抱き着いた。これを面白く思ったリオンは、わざと緩急をつけてシトラを怖がらせる。これでおあいこにしてあげますなどと爽やかに告げるも、絶叫するシトラは聞いてない。
無事ホームに帰り着いても、シトラはリオンから離してもらえなかったのだが、ガクブルしながら抱きついたままだったせいでそれに気づかなかった。流石にやり過ぎたかなと反省させられる程の怖がりようであった。
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さて、見事に格好良くシトラを救出したクロことリオン王子だったが、驚愕の事実に今は言葉を失っていた。
なんと、シトラはリオン王子の事を一切知らなかったのだ。
なんでフードを脱いだの? とシトラが問いかけなかったら絶対に気づかなかっただろう。それほどナチュラルに無知だった。本当にこいつ何しに来たんだ。
「……えっと、い、言い訳は……」
「一応聞いてあげますよ」
「その……私、兄に頼まれて来ただけで、何もしないで帰るつもりでした。だから、王子に会う事になるとは思わなくて……それに、意識しないと人の事を覚えられないから……その……」
「肖像画は見たけれど、顔は記憶に残ってなかったと」
「……そうです……」
「ぷっ、ふふふふ! シトラったら本当に面白いんだから! うふふふっ」
「わ、笑わないでツァラフ! クロ、じゃなくてリオン様が怒るから」
「ふふふっ、変わらないわよそんなの」
「ツァラフ姫の言う通りですね」
自室でようやく解放されたシトラは、リオンの王子から懇々とズレた説教をされていた。最初は驚いて心配してくれたツァラフ姫も、事情を聞いた後は笑い声を上げている。
押さえつけられた手足も、髪も、特になんともなかった。それだけが救いだ。これでもし怪我をしていたら、きっとツァラフ姫からもお説教をくらっていたに違いない。いや、もしかしたら、泣かせてしまうかもしれなかったのだ。
シトラはツァラフ姫のベッドに腰掛けて、正面で椅子に座るリオン王子に視線を向けつつも、彼女の震える手をずっと握っていた。
「でも、そんな事になっていたなんて……私、ここに移れて本当に助かったわ」
「ええ、その通りですね。それに関してはシトラ様を評価します。主犯の二人は、国外の、王族ではない姫を狙って怪我を負わせていましたから。隣国の公爵令嬢であるツァラフ様は、一番襲われる危険性が高かったのです。まだ推測に過ぎませんが……傷つき帰る様子を見せ、他の姫を実力行使を武器に脅す計画だったのではないでしょうか」
「そしてそれを邪魔したシトラにターゲットが移ったのね。私より軽い怪我ばかりを負わせていたのは、シトラの自作自演だという筋書きに信憑性を持たせるためだったのかしら」
「その通りかと思われます。あのなりすましの兵士の一人には見覚えがありました。数年前に暴行罪で捕まった男ですよ。保釈金で雇われたと見て間違いないでしょう」
「けれど、それだと分からないことがあるわ……」
「クリシュラ姫のことですね」
「ええ。彼女は幼いけれど、立派なトルキア国の王女。私よりもずっと重い傷を負わされた……それが今回の犯人の手によるものだとは思えないわ」
「実のところ、私も情報が出てこないのが疑問でした。数度の訪問の間に部屋や廊下を調べましたが、残念ながら何も」
「まだ事件は終わっていない……そう思うべきよね。でもまさか、公の場でシトラに手を出すなんて」
ツァラフ姫は本当に頭が良い。そして非常に優しくて理性的だ。友であるシトラを貶めようとした者達への怒りを、その企みを暴くことで消化している。シトラが笑わせなかったら、きっと顔に出ていただろうが。
シトラが驚いたのは、リオン王子が事故について調べていたということだ。そんな素振りを見せなかったし、関係ないの一点ばりだったのに。見事に騙されたわけだ。自分は探偵に向かないなあと、ツァラフ姫をみて再認識した。
そしてリオン王子とツァラフ姫のツーカーなやりとりを聞き、ようやく事件を理解できたシトラも、悪質な手口に腹を立て始めた。
「窓を割ったのは合図だったんだわ。衛兵もどきは近くで待機していたんでしょうね。……アレなんたら姫ともう一人の姫の演技とは月とすっぽんだったわ。大根芝居ってああいうのを指す言葉なのね」
「そうなの? 不謹慎だけど、見てみたかったかも。そうだわ! リオン王子が行動したことで国賊として拘束されたでしょうから、事情聴取でその時のお芝居を忠実に再現させるのはどうかしら!」
「ツァラフ、とどめになっちゃうから……」
「そんなのいくら刺しても刺したりないわ。私の大事なお友達を害そうとしたのよ? シトラが私の立場だったらどう?」
「魂が地獄に行くのを見るまで刺すわ」
「お二人共、物騒過ぎます。……改めて」
リオンはスッと居住まいを正し、シトラに向かい合った。
「私はユリアスタード国第一王子、リオン・アストラ・ユリアスタードと申します。この度は大変なご迷惑をおかけしたこと、誠心誠意お詫び申し上げます」
綺麗に背を伸ばしたまま、頭を下げたリオンに、シトラは若干気圧されつつもこくんと頷いた。
和解成立である。ツァラフ姫が見届け人だ。
それにより緩んだ空気に、リオンの声が小気味よく響いた。
「さあ、午後の支度をしましょう。シトラ様、昼食はお肉にすると仰ってましたよね」
「え、ええ。リオン殿下もツァラフもお腹空いてますよね」
「……シトラ様、クロとお呼びください」
「えっなんで?」
「一応まだ隠れている身なので」
そうかと軽く頷き、シトラはツァラフ姫に急いで作ってくるわと声をかけて軽やかに部屋を出た。リオン……クロも、一礼の後シトラを追って部屋を出る。
それを見送りながら、ツァラフ姫はふつふつと胸で燃えたぎる怒りをぎゅうと握りしめた。
「……シトラは私を守ってくれた。なら、私だって大切な友達を守っても、いいわよね」
口端に悪戯っぽい笑みを乗せつつ、ツァラフ姫は紙とペンをどこからともなく取り出した。
お読みいただきありがとうございます。
ついにクロが誰だかわかったのですが、あまりシトラには影響がありません。でも頼もしい仲間の存在こそがシトラの今後に大きく関わる……のではないでしょうか。関わります、きっと。