迫り来る凶行
ホムンクルス ~瓶の中の未来 Ⅵ
「きゃあ~」
隣の車両から悲鳴があがった。大勢の人が、こちらの車両に流れ込んでくる。
「通り魔だ。殺されるぞー」
隣の車両から逃げ込んできた人々は、恐怖に顔をひきつらかせていた。
通り魔……。逃げ場の少ない電車に、通り魔が出たというのか!?
脳裏に、度々、マスコミで報道される通り魔のイメージが浮かぶ。
“無職で借金にあえぐ男”“陰湿的なパラサイト人間”“社会からはじき出された敗残者”…………。
世の中を恨み続けている生きる気力が感じられない顔が脳内を駆け巡る。
やりきれない……。
様々な問題を抱えた現代社会。通り魔は、様々な問題を抱えた現代社会が、生み出してしまった必要悪なのだろうか。
逃げ惑う乗客の後ろから顔を見せた通り魔は、薄汚れたハンチング帽を被っていた。寒い季節は、もう過ぎ去ったはずなのに、黄土色のマフラーを首に巻き、開襟シャツをだらしなく着込み、しわだらけの作業用ズボンを無造作に穿いていた。
通り魔の手には、刃渡り三十センチにおよぶ刺身包丁があった。包丁に血糊がついている。通り魔は、すでに人を傷つけているのだ。
逃げ遅れた0Lが、通り魔の前で不様に転んだ。
通り魔にとって、人の命など、地を這う蟻を、指で押し殺すようなものなのだろう。通り魔は、逃げ遅れた0Lの背中に躊躇なく、包丁を突き立てた。
「血だ。血だ。あいつの血だ……」
通り魔が、0Lの背中から包丁を引き抜くと、背中から弾け出た鮮血が、通り魔の顔に飛び散った。返り血を浴びながら、血に染まった歯茎をむき出しにして、ぜえぜえとあえいでいた。
私と目があった。
「また、現れたか……」
通り魔は、唇を醜く歪ませながら言った。
「おまえは何者だ……。なぜ、俺の目の前に現れる……」
私は、目の前にいる通り魔など知らない。
「殺しても、殺しても……。おまえは、俺の目の前に現れる……」
通り魔は、勘違いしているようだった。私を別な誰かと思っている。
「何度、俺の前に現れても、俺はおまえを殺してやるっー。何度でも殺してやるっ― おまえが俺の目の前から消えるまで、何度でも殺してやるっ―」
通り魔は、私に刃をむけた。
殺されるのか!? この男に……。
膝がガクガクと震える。鼓動が早鐘のように大きな音をたてて鳴っている。一瞬にして、汗がひいてゆくのが分かった。
その時、後ろから、通り魔を羽交い絞めにした男がいた。JRの制服を着ているから、車掌かJRの関係者なのだろう。
通り魔と男は、烈しく揉みあい、通り魔の持っていた血糊のついた包丁が、床に落ちた。通り魔の手にあった凶器が無くなったのを見ると、男と、通り魔の争いを、遠巻きに見ていた乗客たちが、いっせいに通り魔に襲いかかっていった。
数分後、通り魔は、乗客たちによって袋叩きにされ、次の駅で、警察に突き出された。
私は、ホームに降りると、警官の手によって連れ去られた通り魔を、眼で追っていた。
私にとって、通り魔と出会った現実よりも、簡単に、人が死んでいったことが、ショックだった。
通り魔と、出遭う前の0Lは、明日が必ず来ると信じて生きてきたはずだ。悩みや将来に対する不安が、あったにせよ、今日、ここで殺されるなど、決して思っていなかったはずだ。
だが、見も知らぬ他人の手で、あっさりとその命を奪われてしまった。
命とは、こんなに脆いものなのだろうか?
こんなに脆いものなら、私にも他人の命を、花壇に咲く花を、むしりとるように簡単に奪えるかもしれない。
私を裏切った郁子の命を……。私を陥れた矢田の命を……。
私は、胸に手をやり、激しく動く鼓動を、むりやり抑え込もうとした。
〈おまえは……〉
あいつの言葉が、頭の中に甦ってくる。
〈おまえは、腕の次に眼を失う。視力をなくしたおまええは闇に怯える〉
あいつの言葉が、頭の中に響く。
〈闇の世界に怯えたおまえは、脚が腐り始めているのを知る〉
あいつの言葉が、頭の中に反芻する。
〈そして、おまえの体から腐臭が漂い始め、おまえは生きながら腐ってゆく〉
あいつの言葉が、私の中に浸食してくる。
〈おまえは……。おまえは……。おまえは……。おまえは……。おまえは……〉
あいつの言葉が、私を崩壊させる。あいつの言葉が、私から未来を奪ってゆく。あいつの言葉が……。
やめろ……。やめてくれっ……。私に何の恨みがある。
お願いだから、もう、やめてくれっー。
私は反吐を吐いた。反吐を吐き、反吐の中で、もがき続けた。