第六百七十二話 果たされなかった約束
<視点 ニムエ>
あの若い雪豹獣人の話が続いている。
喋りかたは拙いけれど、必死に自分の言葉を選んでいるようだ。
「わ、私ばっかり、こんなに幸せでいいのかなって、ずっと思ってました。
仕事で粗相をしでかした時は叱られはしますけども、ちゃんとやり遂げたときは褒めてくれます。
毎朝毎朝、笑って挨拶してくれます。
どんな時でもオレの方を見て話しかけてくれます。
孤児院の先生だっていい人でしたけど、私たちを一纏めにして扱ってたくらいなのに。
あの屋敷に勤めてから、本当にオレ、いえ、私を屋敷の住人として扱ってくれて嬉しかったんです。」
「・・・・・・。」
一方、メリーさんはずっと彼の言葉を真剣に聞いている。
相変わらず何を考えているのか分からないけども、
いえ・・・
「だから、こんなこと言うと、また叱られるかもしれないけど、そんな人達のためならどんなことだってしてみせる、オレの命なんて惜しくない、なんて思ってしまったんです。」
「そんな事を言ったら私だって怒るわ。」
あ、ようやくメリーさんも反応したわね。
でも当然のことだと思う。
あんな若い子が命を粗末にしちゃいけないわ。
いくら身分の低い従者であろうとも。
この国でしばしば蔑まされることが多い獣人だとしても。
「そ、そうですよね、だからそんなことはもう言いません。
・・・でも、あの時、
オレの命が助かって、
その後、メリーさんに、別世界でのアスターナ様やオレの生き様を聞かされて、
なんか、納得したっていうか、すごく誇らしくなったっていうか、
オレってきっと、どこでもおんなじ生き方してるんだろうなって・・・
きっと、だからこそ、みんなオレに手を差し伸ばしてくれるのかなって・・・
だから、オレ、その事を教えてくれたメリーさんに、どうしてもお礼を言わなきゃなって思ったんです・・・。」
今、あの子、別世界って言った?
じゃ、じゃあ、あの子ってマルゴット女王のように、他の世界にもう一人の自分がいるの?
「ハギル・・・あなたって子は・・・。」
「だから言わせてください、
世界が変わってもきっとオレの言うことは一緒です!
生まれの卑しいオレを大切に思ってくれて・・・本当にありがとうございます!!」
やだ、どうしよう、
うちの弟よりよっぽど立派なんだけど?
どうにかして、弟とお取り替えなんて出来ないものだろうか?
「そうだわ・・・。」
おや?
メリーさんが何かに気付いたように・・・
というより何かを思い出したのかしら?
「え? は、はい?」
「・・・今頃思い出すなんて・・・
そうよ、私は確かに言ったのよ、
無事に帰って来たら・・・もう一度その言葉を聞かせてねって・・・
約束したのに、
いえ、最初からそんな約束出来っこないってわかっていたのに・・・
そう、そうだったわ、
その言葉を私は二度と聞くことができなかった・・・
私が彼を、
ザジルを死なせてしまったから・・・」
ザジルって名前が、あの男の子の異世界での名前なのだろうか。
メリーさんの人形の頭が獣人の男の子の胸元に沈む。
よく見ると体が上下に揺れているような・・・
まるで
いえ、突然───
「う、・・・うあ、うううううああああああああぁああ」
この広い空間に、
突然メリーさんの長く体を押しつぶすような声が響き渡る・・・。
泣いているのかもしれない。
けれど、
人形の身に涙なんか流れるわけなどないのだ・・・。
「なんなの・・・?
とても、とても抑えつけることの出来ない・・・この感情はなに?
私は悲しんでいるの?
それとも喜んでいるの?
分からない、わからない!
私の体の中をこんなにも力強いものが駆け巡っているのに!!
どうしてこの人形の瞳からは何も溢れてこないのっ!?」
メリーさんは元々感情を持たないお人形。
でもこの世界に転移した時に、人間として生きて来た時の感情を復活させてもらったのだっけ。
だからあの人の心は今、
普通の女の人と何も変わらない。
私たちと何も変わらないのだ。
でも、涙を流すことが出来ないというからには、
自分の感情が何なのか、正確に自覚できなくなってしまうのだろうか?
そして、事情は詳しく知らないけども、
前の世界で大事にしていた人を死なせてしまった。
以前、初めてメリーさんに会ったとき、
彼女には愛する人達がいると言っていたものね。
だから未来を変えられて、その人達の思い出や存在を失ったら耐えられないって。
・・・そして、あの少年はそのうちの中の一人ということ・・・。
メリーさんの嗚咽はいまも続いている。
それを見かねたのかしらね、
アスターナ様の体がゆっくりとメリーさんに寄り添う。
「ふふふ、これではこないだの時と立場が逆ですね?
ならあの時のお返しはここで済ませておきましょう。
メリーさんは、元の世界に戻ったらまた感情を失ってしまうのですものね、
なら・・・ここで全部吐き出しておしまいなさい。」
「あ、アスターナ、で、でもあなたも・・・」
「ああ、そうでした。
私もハギルを見倣わなくてはですね。」
アスターナ様が従者の少年の何を見倣うというのか。
その視線と口調は、今も変わらずとても優しい。
「でも、私は、あなたの娘も、
あの世界で」
「私の愛する娘を大好きになってくれてありがとうございます。」
「ヒッ・・・」
メリーさんの口から溢れたのは、
まるで怯えるかのような悲鳴だ。
お礼を言われた時にする反応じゃない。
まさに自分の犯した罪を暴かれたかのような・・・
「うわっ」
あれ?
リィナ様の方からヤバいものでも見てしまったかのような声が聞こえてきた。
リィナ様も何か事情を知っているのかしら?
視線を戻すと、
アスターナ様はそのまま獣人少年とで、メリーさんを挟み込むような形で肩を抱いていた。
「・・・私は、あなた達に、
そんな事を言われる資格なんて・・・」
「私の娘とケンカ別れでもしたのですか?
もしそのことがあなたの心にトゲとなって刺さっているのなら、
私が引き抜いてみせましょう。
だってあなたはこの世界のあの子を救ってくれたのです。
だから許します。
あの子を助けてくれてありがとう。
あの子を新しい世界に送ってくれてありがとう。
あの子の母親たる私が、あなたを許します。
だ、だから、メリーさんも・・・ううっ」
「アスターナ・・・っ」
メリーさんはアスターナ様の言葉を
否定しなかった。
拒否もしなかった。
反論すらしなかった。
けれど、俯いて、ずっと口を閉ざし、
必死に何かを抑えているようにも見えた。
アスターナ様の心情を思えば、
言葉を返すような野暮なマネなど出来なかったのだろう。
・・・それとももしかしたら、
メリーさんは、もっと恐ろしい、
何か重大な過ちを犯していて、
それを明るみにすることが出来なかったということなのかもしれない。
だとしたら、いったい何をしたのだろう?
口にも出せないことだろうか?
まさか、
「私はあなたの愛する娘を、とても残酷に、
絶望の淵まで追い詰めて、最後は処刑台で火炙りにして見せたのよ」
なんて、さすがにそれはないか。
いくら私の妄想とはいえ、そこまで酷いことは有り得ないと思う。
でも、最後はメリーさんも、
縋るかのように、
片腕をアスターナ様の方へと伸ばしたのだ。
それこそまるで、母親に縋りつく、小さな子供のように。
シリアスはここまでです。