ここはどこ?
目覚めの鐘の音で、オードリーは目を覚ました。肌に感じる馴染みのない柔らかなベッドに、一瞬、ここはどこだろうと考えたが、すぐに研究所の宿舎にいることを思い出す。オードリーはゆっくりと上半身を起こすと、静かに寝室を見回した。
今座っているのは2人は寝られそうな程大きなベッドで、隣にはサイドテーブルが置かれている。壁には箪笥と本棚が備え付けられており、本棚にはオードリーが持参した数冊の薬学書が寂しげに立てかけられていた。ベッドの左手には今はカーテンが閉まっている大きな窓があり、その手前には小さな物書き机が置かれている。
オードリーは朝日を浴びようと、ベッドから立ち上がり窓に近寄った。
カーテンを開けると、目の前にはきちんと整備された青い芝生が広がっていた。その中に作られた石畳の道では、女中や兵士が足早に行き来している。
その奥には木々が茂る小さな森のようなものがあり、さらに奥には高い壁がそびえたっていた。壁はオードリーの部屋から見る限り左右に続いていて、研究所のある敷地をぐるりと囲っているように思えた。その壁は高く、オードリーの部屋からはその外側を見ることはできなかった。
高い壁ね。厳重な警備がされていそうだわ……ちょっと待って。研究所は王都にあるとレオンさんが言っていたけれど、もしかして、あれは城壁……?
そう思いついた時、オードリーは卒倒しそうになった。
自分の監視と薬の調査のために連れてこられたことはわかっているが、改めて大変なところに来てしまったのだと気づく。魔法使いは国に管理されており、非常に地位の高い役職にあるため、研究所が王城の敷地内にあっても何ら不思議なことではなかった。
その時、オードリーは自分がみすぼらしい寝間着を着ていることを思い出した。慌てて窓から離れる。とてもではないが、この様な場所にふさわしい服装ではない。
もし誰かに見られていたらと考え、オードリーはあまりの恥ずかしさに平静を保てなくなった。とりあえず持ってきた服の中から最も良い服を探すと、オードリーはバタバタと浴室へ飛び込んだ。
浴室も今までに見たことのないくらい豪華なものだった。しかしオードリーはそれ以上に、水を汲んでくる必要が全くないということに驚愕した。
扉を開けるとすぐに洗面台があり、さらにその奥は2つの扉にわかれている。1つはお手洗いに続いており、もう1つの扉の中には大きなバスタブが置かれている。
ここにあるもの全てがどこかに溜めてある魔力を使って作動させるものらしく、昨夜は使い方がわからずに困ったものだった。
平民には馴染みのないものばかりだが、使ってみると魔法とはなんと便利なものかとオードリーは感嘆した。しかし同時に、また魔法のない日常に戻ることを考えると、この状況に慣れてしまうことに恐怖を感じる。
オードリーはこれらの便利な道具を見てため息をつくと、洗面台から恐る恐る水を出した。
身だしなみを整えると、オードリーはやっとのことで落ち着きを取り戻した。8時までは特にすることもないため、いつものように薬学書を読んで時間をつぶすことにした。
ダイニングの窓もカーテンを開け、ついでに窓を開くと、気持ちの良い風が吹いてきた。オードリーは寝室から薬学書を持って来て、ダイニングの椅子に座る。新しい場所に、それも分不相応な場所に緊張していたが、薬学書を開くとそれも気にならなくなった。
コンコンコンっと軽いノックの音が聞こえ、オードリーは我に返った。鐘の音に気が付かなかったが、もう8時のようだ。オードリーは慌てて返事をすると薬学書を閉じて机の上に置き、開けっ放しの窓を閉めてから廊下に繋がる扉の鍵を開けた。
「おはよう。昨日はよく眠れたか?」
てっきりグレイスが来るものだと思っていたオードリーは、目の前に立っているレオンに驚いた。辺りを見回したが他には誰もいない。きょろきょろしているオードリーに、レオンはふっと笑いをこぼした。
「さっき、ミラー室長に迎えを変わってもらったんだ」
そうなんですねと返しながらレオンの方を向く。オードリーは何か違和感を感じた。何だろうと思いながら、オードリーは思わずレオンを見つめる。
レオンは昨日までと同じく、黒いローブを身に纏っている。しかしフードは被っておらず、陽の光が差し込む廊下でその綺麗な顔を晒していた。
その顔は、ヴォレンティーナの街で見たときと異なり、なんだかすっきりとして見える。
オードリーの様子を見て、レオンは不思議そうな顔をした。
「どうかしたか?」
オードリーは挨拶も返さずに不躾にレオンを見ていたことに気づき、あっと声を出して恥ずかしそうに微笑んだ。
「おはようございます、レオンさん。すみません。レオンさんが昨日となんだか違って見えて、なんでだろうって考えていました」
オードリーの答えに、レオンは不思議そうな顔のまま、そうか、とだけ返した。
「今までは、周りから隠れたところか、薄暗いところでしかレオンさんのお顔を見たことがありませんでしたけれど、今こうやって明るいところで見ているからかなと。ヴォレンティーナでは、お顔を隠されていましたし」
レオンは一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに微笑むとオードリーの頭にポンと手を乗せた。
「ここには、こうやって瞳を隠さなくても、俺を貶すような奴は殆どいない。研究馬鹿の集まりだからな。だから、オードリーも堂々としているといい。その、だな。今の翡翠のような瞳も勿論綺麗だが、蝋燭の灯りの元で見る赤い瞳も俺は綺麗だと思う。こう、なにか宝石で例えられたらいいのだが、なにぶん疎くてな。翡翠はよく例えに使われるものだからわかるんだが、自分の色はいつも血の色だと言われているから」
レオンは苦笑いをしながら反対の手でポリポリと頬をかいた。
堂々と、か……
オードリーはレオンに笑いかけると、頭の上に乗せられている手にそっと片手を重ねた。
「緘口令も出していただいているそうですし、堂々と、隠さずに生活してみます」
2人でしばらく微笑み合っていると、バタバタと駆け寄ってくる足音がした。そちらを向くと、ブラッドリーが勢いよく走ってきている。
「ご……ご飯っす……グレイス……室長が……2人はまだかって……」
2人の前で止まると、息絶え絶えといった様子で言葉を捻り出す。オードリーとレオンが話している間に、待たせてしまったようだった。
「ブラッドリー、すまないな。ではオードリー、行こうか」
レオンはブラッドリーの肩をポンと叩くと、オードリーの背中をそっと押して促した。オードリーは部屋から出て扉に鍵をかけると、2人について歩き始めた。
「レオンさん、1つ聞いてもいいですか?」
「ああ。何だ?」
「今いる研究所って、王都のどのあたりにあるんですか?」
「……言っていなかったか? 魔法使いは国に管理されているからな。王城の敷地内にある」
オードリーは言葉を失った。予想はしていたが、その現実を中々受け入れられそうになかった。絶句しているオードリーを見て、レオンはクスクスと笑うとポンっとオードリーの頭に手を乗せた。
「まあ、研究所内でしか生活しないんだから、そのうち気にならなくなるさ」
オードリーは、こくんと頷き笑みを返したが、どう頑張ってもその顔はひきつったままだった。




