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シギュン

 ロキが家に帰ってくるのはきまぐれだ。

 結婚してから、シギュンは毎日のように自分にそう言い聞かせていた。蔑ろにされているわけではない。顔を合わせれば言葉は交わすし、夜は肌も重ねる。心のない言葉を投げられたこともない。

 でも特別優しいかと言われたら違う。朝帰りはもちろん、数日帰ってこないことだってある。シギュンはその間ロキがどこにいるのかは知らないが、何をしているのかは想像がついている。美しい女神のところを渡り歩くか、面白そうなものに惹かれて好奇心のままにフラつくかしている。

 何故そんなことを知っているのかと言うと、基本的に家にいるシギュンが気分転換に森や湖を散歩していたところ、そういう現場を見かけたからだ。抱き合って体をまさぐり合う男女の片割れは、間違いなく自分の夫。文句を言いながら甘い響きの声の女性は、シギュンが普段会うこともない高位の女神なんだろう。そういう場所に出くわした時、シギュンは胸の痛みを抑えて静かにその場を去る。

 シギュンは不満を抱いてはいなかった。むしろ自分なんかでは不釣り合いのロキと同じ家で暮らせるのは幸せだとすら思う。けれど胸のつっかえも痛みも苦しさも、消えることはない。

 唯一その痛みから解放されるのは、ロキが「ただいま」と家の扉を開けた時だけだった。


 最も恐ろしい思いをした時は、最強の戦神であるトールが殴るように家の扉を開け「ロキッ! 貴様ぁ!!」と怒鳴り込んできた時だ。

 あまりに恐ろしい怒鳴り声に、シギュンは身を固くする他ない。真っ赤な髪と真っ赤な瞳を持つ雷神トールは、怒りで顔を真っ赤にしていた。それを順番に確認する間もなく、シギュンの細く白い腕はトールの大きなゴツゴツした手に掴まれた。捻りあげられるような痛みに思わず「うっ!」と声が漏れる。トールはそんなシギュンに気付かず、更に怒鳴る。


「おい、ロキはどこだ!!」

「っ申し訳ございませんトール様。ロキ様は昨日出かけたきり、帰って来ておりません」

「本当だろうな、隠し立てしたらただじゃすまさんぞ! あの野郎は俺の妻の、あの美しい髪を刈って行きやがったんだ!」

 

 トールの妻・シヴは髪は美しいと神々の間でも評判だった。それをロキが、シヴが()()()()間に刈り取っていった。起きて気付いたシヴは怒り狂っており、そんなシヴを見たトールも怒り、ロキを探しに来た、と聞いてシギュンはロキとシヴの関係に気付いてしまう。大きな痛みが、胸に残る。もしかしたら、トールもそれに気づいて余計にロキに怒っているのかもしれない。

 シギュンはトールの空気を震わせる怒鳴り声に耐え、ロキの行方は知らない旨を述べることしか出来なかった。

 怯えるシギュンに、トールはようやく帰って行った。怒りはちっとも治まらず、来た時と同じように扉が大きな音をたててシギュンの耳を刺激する。

 やっと恐怖から逃れられたと息を吐くシギュンは、ほんのり流れる冷たい風に気が付いた。どうやら、トールが爆音を立てて開けたり閉めたりした扉の金具の一部が取れたらしい。頼りなさげにキィキィ揺れる扉は、どこかシギュンに孤独を感じさせる。

 雷神・トールはアース神族の中で最強と名高い神だ。普段はおおよそ問題ないが、怒りで周囲が見えなくなると誰にも抑えられなくなるとは、もはや噂ではなく事実である。そんな彼を平然と怒らせるのがシギュンの夫なのだが。

 シギュンはもう一度息を吐くと、直せないかと扉に近づく。


「――痛っ」

 

 扉を動かそうと腕をあげた瞬間、痛みが走った。慌てて腕を見ると大きな鬱血ができている。どうやらさきほどトールに掴まれた部分で、よく見ると指の跡があり「腕を思い切り掴まれた」と分かってしまう跡だった。そっと鬱血の跡を撫でると、視界がぼやけ始める。

 ――いけない!

 ロキが家に帰ってくるのは夜とは限らない。だからうっかり泣くわけにはいかない。シギュンは高位の女神ではないし、周囲に誇れる美しさもない。それなのに涙を流している姿なんて見られたら、役に立たないどころか煩わしい存在になってしまう。ロキに冷たい目で見られることがあったら……そう考えると背筋がヒヤリとした。役に立てないのなら、せめて迷惑をかけないようにしたい。

 鼻をすすると、鬱血を隠すように包帯を腕に巻いた。扉は諦めてロキに頼るしかなかった。






「ただいま」

「――おかえりなさい、ロキ様」


 腕に包帯を巻いた日の数日後の昼にロキは帰ってきた。シギュンは顔が綻ぶのを隠せなかった。ロキも何故か上機嫌のようだ。


「シギュン」

「はい、何ですか?」


 差し出されたロキの手には、ネックレスが乗せられている。細めの金のチェーンに、ペンダントトップは黒い石。石は光を受けてきらきら反射している。


「…………」

「ロキ様?」

「……これ、やるよ」


 シギュンは、思わず息を大きく吸い込んだ。驚きの次の瞬間、喜びがあふれ出す。これまでロキに何かを貰ったことがあっただろうか。記憶を探してみても、興奮した脳は正常に機能しなかった。全く何も思い出せないし考えられない。とにかく嬉しい。

 ペンダントトップの黒い石は間近で見ると半透明だと分かり、ロキの瞳を連想させた。


「ありがとうございます、ロキ様! 大切にします」

「ああ……い、いや、せっかくやったんだから、大切にするんじゃなくて身に付けろ」

「はい、毎日付けます」

「誰も、そこまでは言ってないけど……」


 言葉通り、シギュンは毎日ネックレスを身に付けた。ほんの少しだけ、ロキの言動が変わるかもしれないと期待したが、変化はなかった。ネックレスを贈った次の日もその次の日も家には帰って来なかった。


 そんなロキが変わったのは、シギュンが妊娠してお腹が大きくなってから、出産後数ヶ月の間だ。その期間だけは、常にシギュンを視界に入れるようにしていた。シギュンにとってロキと過ごせる時間は幸せな時間だったが、ロキには退屈な時間だったに違いない。しかも()()ロキが家で大人しくしていることがもうすでに奇跡なのに、なんと気まで遣ってみせた。

 大きなお腹のシギュンが立ち上がる時は必ず自分自身も立ち上がり、不器用な手つきで支えてきた時は、喜びを通り過ぎて唖然としてしまい、「何を企んでいるのか」と考えた。出産直前に「ガキだけ生んで勝手に死ぬな」と言われた時には逆に死ぬかもしれないと思ったし、出産直後に無言で手を握られた時や双子の赤ん坊を抱いた瞬間を見た時は、彼は本物のロキなのかと疑った。

 そんな失礼なことを考えるに至るまでロキに気を遣われることがなかったシギュンだったが、彼女はそれに気付かなかった。そしてシギュンが失礼なことを思う度にロキそれに気付き拗ねたように彼女を睨んだが、完全に自業自得である。更に言えば、ある程度シギュンが双子の面倒をみられるようになった途端以前のように出歩き始めたロキに、文句を言う資格はない。




 *****




 双子の息子も、もう2人で遊びに出かけるまで成長した。ロキの帰宅はやはり気まぐれだが、息子たちとも話すなどコミュニケーションをとっている。こんな穏やかな生活が続くと思っていた矢先に、突きつけられたそれはシギュンの温度を奪った。


「ロキが大罪を犯した為、幽閉となった。オーディン様より、ロキの妻である貴方を身柄を確保するよう命が下りている」


 一瞬どこかへ行きかけた意識を必死に手繰り寄せる。

 足が震えているのが分かったが、気絶している場合ではない。


「あの、私の息子たちは……?」

「……すでにオーディン様の下だ。会いたければ大人しく付いて来るがいい」


 選択肢は一つしかなかった。


 オーディンの命令で動いているという男神に付いて行くと、確かにオーディンの元へと着いた。しかし、オーディンの住むヴァルハラ神殿ではなく、森の深くにある洞窟の前だった。

 シギュンが口を開く前に、大きく大地が揺れる。予想もしていなかった衝撃に震えたままの足をもつれさせたシギュンは尻をついて転んでしまい、すぐに慌てて立ち上がる。

 そんな彼女を一瞥することもなくオーディンは言い放つ。


「今の地震は、この洞窟の奥底に幽閉されたロキが毒蛇の毒を顔に浴び、激痛でもがき苦しむ振動だ」

「えっ」

「拘束されたロキは毒を避けられない。あいつには、この世の終わりまで激痛を味あわせることにした」

「そ、そんな……!」


 真っ青になったシギュンを、そこでようやくオーディンは目に映した。


「残酷だと思うか、シギュンよ。しかしロキは儂の息子・ヘズを誑かし、ヘズ自身の兄であるバルドルを殺害したのだ。これはバルドルはもちろん、ヘズや儂に対する侮辱だとは思わんか? 息子を殺された上に侮辱されたのだ……子どもがいるそなたには、この怒りが理解できるのではないか? しかもロキはそのことを宴の席で平然と言ってのけた」

「――っロキ様が、そのようなことを……!」

「これは当然の報いと、そう思うだろう」


 シギュンはかわいい双子の息子たち――ナリとナルヴィの顔を思い浮かべ、咄嗟に地面に膝をついた。頭は深々とさげ、手は祈るように頭上で組む。


「夫が大変なことをしてしまい、申し訳ございません……! オーディン様のお怒りはごもっとも……ですがどうか、ご慈悲を頂けないでしょうか」


 自分でも知らない間に、シギュンは涙を流していた。それはオーディンの怒りに対する恐怖なのか、ロキに対する悲しみなのか、彼女自身にも分からない。ただ、この現実に苦しめられているのは確かだった。

 今一度地面が揺れ、ロキの顔に毒液が垂らされたことを知らせる。


「慈悲とは?」

「せめて、毒を取り除いて頂きたいのです。地震が起こる度に夫が苦しんでいるのかと思うと、私は居ても立っても居られません」


 震えた声にオーディンは少しの間考えたような素振りを見せ、静かに告げる。


「――では、こうしようではないか」




 毒蛇の口から垂れる毒の液を器で受け止める為、シギュンは腕を伸ばし続ける。

 オーディンへ望んだ慈悲は「毒を取り除く」だった。しかしオーディンは簡単にそれを了承できないと言い、代わりに提案をした。冷静になれば最初からそのつもりだったのでは、という考えに至るが、至ったところでシギュンにできることはない。

 オーディンの提案とは、毒蛇を退けることはできないので自分もロキと共に地底へと籠り、毒液を防いでやればいいというものだった。ただし、ロキの拘束を解くことは許されない。変な真似をしたら、見張りをさせている狼に食い殺させる。後半をやけにはっきりと言い切ったので、きっとシギュンのことも幽閉したかったのだろう。

 オーディンの命令でロキの下まで案内をした男神は、オーディンは女性に優しいからだと言ったが、そうでないことは分かる。

 ――でもかまわない。私の幸せはロキ様と共に居ることだから。

 今ロキは、太い鎖で岩に四肢を拘束され、気を失っている。毒液による激痛のせいだ。シギュンが来る前は、気絶と激痛による覚醒を繰り返していたんだろう。長い時間それが続けば、世が終わる前にロキの精神は壊れていたかもしれない。毒液のせいで爛れた頬は、少しずつ回復しているが、器が毒液でいっぱいになったら捨てに行かなくてはならない。その時またロキの頬に傷ができるので、完治することはないだろう。


 目覚めたロキは目の前にいる妻が銀色の器で自分を庇っていることに気付き、言葉を失った。ロキが目を開けたことに気付いたシギュンは、自分がここにいる経緯を話す。「オーディン様のご慈悲です」と。

 オーディンの思惑が分かったロキは、苦々しく顔を歪める。地上にシギュン()()が残されたことが気がかりだったのは嘘ではない。しかし、ここにいても彼女を傷つける事実しかない。でもいつまでも黙っておくわけにはいかない。


「すみませんロキ様。毒液がいっぱいになってきてしまいました。捨てに行くので、少しの間辛抱を」

「――ああ」


 言うなりシギュンは駆け出して、少し離れた穴に毒を捨てに向かった。そして、少し間を空けて毒が顔に落とされる。構えていても痛みに暴れてしまう体。次の毒が滴る前にシギュンは再び器を抱えて戻ってきた。乱れる息が、彼女が急いでいたことを伝える。


「いいかシギュン。毒を捨てに行く時は走るな。転んだら本気でシャレにならない」

「あっ……次から気を付けます。ありがとうございます」


 うっかり器いっぱいの毒を浴びたら、「激痛」などでは済まないだろう。そんなことに気付かなかったシギュンは、少しだけ恥ずかしそうに俯いて口を噤む。しかし奇妙な間ができてしまい気まずくなった為、ずっと気になっていたことを尋ねた。


「ロキ様、ナリとナルヴィは無事でしょうか? オーディン様が、ロキ様に聞けば分かると仰っていましたが」


 ロキからの返事はない。

 不安に思ってロキを顔を覗くと、顔を顰めていた。胸がざわざわとし始める。


「今から話すことに、それ持ったまんま気ぃ失ったりすんなよ」


 無意識に喉を鳴らして慎重に頷くと、ロキは目線をシギュンから外した。

 何を見ているのかとそれを追えば、オーディンの命令でロキたちを見張っている狼に辿り着く。狼はこちらを気にしないで伏せている。


「あれが、ナルヴィだ」


 理解が、出来なかった。


「そして俺を縛るこの太い鎖が――ナリ、正確にはナリの()()()()だ」


 脳が考えるのを拒否しているとはこのことだろうか。

 反応できないシギュンに、ロキは畳み掛ける。

 バルドルの件と宴での侮辱で怒ったオーディンは、ロキの目の前でナルヴィを狼の姿に変えてしまい、狼にナリを襲わせる。腹を引き裂かせ、ナリの腸でロキを岩へと縛り上げた。毒蛇は、ロキに恨みのある巨人族の女・スカジが置いていった。

 これが今に至る経緯である、と。




 その後、シギュンは声を出さなくなった。毒を受け止め、器がいっぱいになったら捨てに行き、また毒を受け止める。機械的に動く彼女は虚ろな目をしていた。そんな彼女に、ロキも声をかけることをやめた。いや、声をかけられなくなった。


 今度こそ、ロキはシギュンに見捨てられた。


 数えられない程浮気をする自分に、くだらないことで自分や周囲の首を絞める行動に、シギュンは笑ってみせた。時には苦しそうに、時には楽しそうに、時には困ったように。普通ならいつ愛想を尽かしてもおかしくないのに、彼女はロキを見捨てなかった。

 だと言うのに、そんな妻と無邪気に成長する息子たちに対するこの仕打ち。全てロキが原因だ。今になって、彼女に見捨てられたことが怖くなった。だからこそ、ロキはシギュンに話しかけられないまま。

 時はただ過ぎていった。




 *****




 シギュンは決意した。

 この状況を打開する策を考え、それを実行する決意を。

 ロキから告げられた息子たちの運命を聞いた直後は、自分はどうしたらいいのか分からなくなってしまったが、考えに考え、今はロキを解放することしか考えていない。

 夫は抵抗する力を失い、もうずいぶんと長い間ぐったりしている。ロキが完全に動けなくなる前に、自分にできることをしなくては。


 シギュンはロキを見捨ててなどいなかった。


 まず気が付いたことは、毒のことだ。ロキは毒液が顔に当たると肌が溶けて激痛に苦しむ。一方シギュンが持つ銀色の器は鉄製で、毒で溶けない。

 試しに岩に毒を溢してみたところ、岩も溶けなかった。生き物を溶かす毒なら、腸でできた鎖を溶かすことができるかもしれない。

 しかし器から直接毒液をかけるとコントロールが難しく、鎖もろとも手足が溶けてしまう。その為、毒を塗る何かが必要。ここには岩や石しかない。


「ああっ」


 激痛でロキがもがくと、地震が起こる。同時に空になった器を投げ出し、派手に転んで見せた。

 ナルヴィ――狼はシギュンに目を向けたが、転んだだけと分かると興味を失う。オーディンからどのような命令が出ているのか分からないが、転んだ拍子に長細い大きめの石を拾うことに成功した。

 次の段階は、狼の目線が逸れている時に拾った長細い石に毒を付ける。石が溶けていないことを確認し、ロキの右手を固定する鎖に擦りつけた。

 目に見えた変化はないが、少量の毒なのでまだ分からない。

 それから鎖。腸というからには一繋ぎの鎖であると思いたいが、よく分からない。

 一繋ぎなら一ヶ所溶かしてしまえばいいが、違うなら四ヶ所も溶かさなくてはならない。それでは狼に気付かれてしまう。

 しかも狼をどうにかしなくてはいけない。いや、生き物を溶かす毒ならたくさん手に入る。それを使えばいいことは分かっているが、狼はシギュンとロキの息子・ナルヴィなのだ。あの狼を殺すことは、ナルヴィを殺すこと。息子を自分の手で――?





 悶々と考えて日々を過ごしていると、鎖が一部やや細くなっていることに気が付く。根気よく少しずつ毒を擦りつけていた箇所だった。シギュンは1つ目の賭けに勝ったのだ。自然と「これでナルヴィもロキも、解放してあげられる」と思っていることに気付く。

 狼になってしまった息子をどうするか、答えは決まった。




 長い時間毒を擦りつけていた成果が、ここにある。

 手を拘束する鎖の一部が、石で叩き壊せるところまで細くなった。

 器に半分ほど毒を溜めると、シギュンは小さく深呼吸をする。

 ここから、2つ目の賭けが始まる。出来ることはやった。あとは夫に託す。


 ――ガキィン!


 シギュンは、思い切り振り上げた石で鎖を壊した。砕け散る鎖にナリを思い浮かべる暇もなく、器を投げるモーションに入る。案の定、不審な動きをしたシギュンに狼が襲い掛かってきたので、顔面目がけて器を叩き付けた。

 器が狼に届いたと思った瞬間に、首元に狼が噛り付いた。喉からゴポリと音がし、鉄の味が口に広がる。喉から出る血と空気で、悲鳴もあげられない。

 狼に伸し掛かられたシギュンはバランスを崩し地面に頭と背中を打ちつけたが、痛みは感じなかった。首元に鋭い牙が刺さってから、感覚が鈍くなっている。もはや痛みなのか熱なのか分からない。

 狼は目の周囲と額や耳、背中からおびただしい血を流している。毒の器が直撃し、焼け爛れたようだ。きっとこの出血なら助からないだろう――お互いに。

 確信したシギュンはロキに目を向けた。ロキは起き上がって、両手で毒蛇を掴んでいた。

 賭けに勝った。鎖は、一繋ぎの腸だった。


 いつの間にか、狼が上からいなくなっている。どこへ行ったのか分からない。そんなことより、寒い。

 首から出る血は熱いが、体外に出た血はどんどん冷めシギュンの体を冷やしていく。

 顔の横に目をやると、黒い石が落ちている。ロキから貰ったネックレスに付いていた石だ。ロキの瞳のようで気に入っていたそれは、本当に毎日身に付けていた。噛まれた時にチェーンも噛み切られたようだが、幸運にもすぐ傍にある。

 動かせないと思っていた腕を動かし、必死になって拾う。血で汚れてしまったが、握り締めると何故か安心した。


「シギュン!!」


 ロキの切羽詰まった声は初めて聞いた。でも、前が真っ暗でロキの顔は見えない。目を閉じているつもりはないのに。


「シギュン、お前は……っ」


 黒い石を握った手を、冷たい何かに包まれた。声の近さと感触から、ロキの手だと分かる。

 夫は本当に解放された――シギュンは嬉しくて微笑んだ。


「初めて、お役に立てた……ロキ様、愛しています」


 かすれた自分の声。夫に伝わっただろうか。そういえば、本人を前に彼への想いを口にしたことがない気がする。


 最期に言えて良かった。


 思いがけない好機(チャンス)に弧を描こうとした口が、柔らかい熱で塞がれた。

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