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風薫る冬薔薇の宴  作者: 時田柚樹
5/9

Play Detective ー探偵ごっこー


 1階の受付奥。スタッフルームにまずは足を踏み入れた。そこには数人の受付係とベルボーイ、それからここを任されているいわば管理人がいた。決して広くはないスペースには、簡素な机と椅子が置かれていた。

従業員に並んで座ってもらい、啓司さんが対面に座った。私たちはその後ろに立って話を聞いた。

「こちらのオーナーと奥様は、パーティーの準備を手伝うために行ったり来たりしていたというのは本当ですか?」

「はい。隣の厨房や会場を見て回り、色々とご指示をなさっていました」

 啓司さんの問いかけに、白髪まじりのひげを生やした管理人は胸を張って答えた。

「それはパーティーが始まるまで、ずっとでしょうか?」

「私はそうだと思っておりますが。皆はどうだろう?」

 管理人は隣に声をかけた。黒いジャケットに白いシャツという、きちんとした身だしなみの従業員たちは、声をそろえて言う。

「確かに4時ごろから、お姿を拝見しておりました。オーナーは行ったり来たりしていました。奥様は会場の飾り付けを手伝ってらっしゃいました。赤羽先生から頂いた薔薇の花を飾ったりと」

啓司さんだけでなくまりんもただ頷くだけで、奥田夫妻のアリバイがより濃くなった以外は、なんの情報も得られなかった。そのことを啓司さんに問うと

「こんなもんだよ。そうそう事件解決の手がかりは落ちてないよ」と苦笑し、小声で言われてしまった。私は、もっと簡単に考えていた。

「あの酸素カプセルは、ここで用意したものですか?」

 小さな女の子からの問い掛けに、従業員たちは一瞬声を失ったが、気を取り直し微笑んで答えた。

「そうだよ。オーナーに用意しておけって言われたから、わざわざ購入したんだ」

「思ったより高額だったのだがね。どうしてもって……」

 顔を見合わせながらの返答にまりんは、ふーん、としか言わなかった。


 スタッフルームを後にした私たちは、お茶室の前方にある厨房へと場所を変えた。

滞在人数が限られているので全てがこぢんまりとしているが、厨房もそれにもれず、ささやかなスペースに冷蔵庫やら調理台やらが設置されていた。スタッフも喫茶の受け持ちを含め、3人しかいなかった。

「失礼します」

 猫はご遠慮ください、という食品を扱う場所では当たり前のことを忘れていて、まりんに抱かせたまま入ろうとしてしまった。あわてて止められたので、受付の横で待っているよう指示した。

 啓司さんを先頭に入って行った私たちは、早速話を聞いた。内容は、一点だけ違った。

「あのときはさすがに忙しかったですから、正直なところあまり見ていませんでした。ええ、ここに缶詰になっていましたから他の場所へは行っていません。料理の盛り付けは見た目が大事ですから、そちらの方にかなり気をとられていました」

 白い服の3人は頷きあって確認した。

 私たちは礼を言って厨房を出た。

「……つまり、ここに本当に来ていたかは微妙なところ、ね」

「そうだな」

まりんの呟きに、啓司さんが素直に答えた。2人が同じ感想を漏らしていたが、私にはついて行けそうもない。ため息混じりに「次はどちらへ?」と尋ねただけだ。

「庭へ出て、裏へ回って、散歩道を奥へ行ってみようか」

 啓司さんが玄関へ歩き出した。私は後ろからついて行った。その横にまりんが並び、前を向きながら口を開いた。

「つまりね。厨房にいるとされていた奥田先生が、こっそり目を盗んで事件現場となったあそこへ行っていた可能性があるかもってことよ」

 なるほど。ここに来ていなかったかも=殺害する時間があったかも、か。

まりんは私が何の疑問も持たなかったので、説明をしなければと考えたのだ。私はどうも頭が固いようだ。

「パーティーの客とは別に、スタッフたちの動機も調べさせているけど、必要なさそうだなぁ」

 啓司さんの部下Aがいないと思ったら、そういうことか。


「本当に華やかな庭園だわ。まるでイギリスにいるようね」

 ロデムを回収し、庭園に出るとすぐ、まりんが嬉しそうな声をあげた。表情が変わらないので、多分嬉しいのではないかという推測の範囲だが。

「……まりんちゃんは、イギリスに行ったことが?」

 啓司さんは驚いたように尋ねた。いつも兄貴のデレデレ話に付き合わされているのだから、まりんが『そこにいた』という事実は知っているが、そのときの記憶があるのかと驚いたのだろう。

「そんな気がしただけ」

 まりんの返事はそっけないものだった。

 大人2人は、お互いに顔を見合わせて首を傾けた。記憶があるのか知識があるのか、微妙なところと判断したから。

「誰かいる」

 生け垣に絡まっているたくさんの小さな花弁の薔薇を、ひとつずつチェックしている男が、しゃがんだ状態でこちらを見た。

 古ぼけた赤いタータンのシャツに、ジーンズというラフなスタイルの男は、立ち上がって会釈をした。

「こんにちは」

「あ、こんにちは」

 髪は黒々としているが、深いしわが表面に現れている。中肉中背だし、年齢不詳だ。挨拶をすると、にっこり笑った顔にえくぼが出来て、若い方に1票と言いたくなった。

「従業員の方ですか?」

 啓司さんが自分は刑事だと言うことを伝え、話を聞いていた。

「はい。こちらで庭師をさせていただいています。三上と申します」

「素晴らしい腕前だわ」

「……は?」

「い、いえっ……」

 まりんの口をあわてて塞ぎ、「なんでもありません」と続きを促した。

「えー、三上さん。昨日はこちらにいらっしゃいましたか?」

「はい」

「4時~5時ごろ、こちらで誰かとお会いになったりは……?」

 啓司さんの丁寧な物腰に、三上さんは腕を組んで脳を活動させた。

「奥様に勝手に薔薇を切られたことを発見しただけですし、ずっとここにいたわけではないので、ちょっと……」

「奥様はいつも勝手に花を持っていかれるんですか?」

「ええ、困ったことに」

 三上さんは苦笑した。

「せっかく丹精こめて育てられたのに、残念ですね」

「いえ、それは……。ここの庭は奥様のためのものですから、いいようになさるのが1番だと思います」

 そう告げた顔は寂しくもあり嬉しくもある、どちらとも取れる表情だった。

「ここの薔薇は、今の時期に咲くのが普通なのでしょうか?」

「あ、ええ。これから冬に眠って、5月ごろになるとまた綺麗に咲きます。その際においでになれば、今などより、はるかに強い薔薇特有の芳香を嗅ぐことが出来ますよ。それからまたひと休みで、この時期に再び咲きます」

「今の時期にしても結構な香りよ」

 まりんが感心して呟く。

「ありがとうございます。お嬢さんは薔薇にお詳しいのですね」

 三上さんが微笑んで、まりんを見る。薔薇だけに興味があるのならいいのだけどな。

 私たちはそのまま、庭園を奥へ進み、バックヤードを抜け、ブナ林を歩いて行った。

奥まで行くと、澄んだ水が流れる小さな沢に出た。が、特に変わった様子もないので、ここまでの労力を無駄にしただけだった。

また引き返し、私たちは図書館へ行くことにした。

「公共の建物には連れて行けないな」

ということで

「散歩にくらい行けよ」

 すねている黒猫を置き去りにした。


ーーーー◇ーーーー

 

啓司さんの車に乗り込んで、10分ほど離れた図書館を目指した。

 緑豊かな公園内の隅、こんな所で訪れる人があるのかと疑うような場所に建物はあった。

 薄汚れた外観は、当初は白いものだったのだろうと、かろうじてわかる程度。1階に素直に入り口を作ればいいものを、なぜか2階へと続く横幅の広い階段が目の前に立ちふさがっている。

私は、平らな道では感じなかった、昨日の運動による筋肉痛を感じながら進んだ。

「図書館なんて何年ぶりだろう」

 啓司さんは、キョロキョロ辺りを見回しながら受付へ進んだ。

「あの、すいません。私、こういうものですが……。昨日訪れた人なんて覚えていらっしゃる方、いらっしゃいますか?」

 本棚が天井付近まで埋め尽くす静かな部屋の中、日本語がおかしくなった啓司さんが手帳を見せると、受付にいる若草色のエプロンをした司書のおばさんは驚きつつ、笑いをこらえながら、とりあえず下の階に行ってくれと告げた。

 まりんはたくさんの本に後ろ髪を引かれつつも、私たちとともに階段を降りた。今度、家の近所で図書館を探すか。

それにしても帰りはまたここを上らなきゃいけないんだろうなと、ため息をつきながら思った。

 1階には書庫があるらしく、自分が読みたい本は設置してあるパソコンで調べ、詳細をプリントアウトして持って行くみたいだ。カウンターへそれを提出すると、司書が奥からもってくる。

工学専門の自分が言うのもなんだが、本を読むのに機械を使うのか。便利だろうが、自分なら2階にあったように一冊一冊を手に取って見たいと思う。

「すいません。お待たせしました」

 エプロンをした女性の司書が相手をしてくれた。連絡がすでにあったらしく、どういったご用件で? と、すぐに話に入れた。一応、啓司さんは手帳を見せた。

「実は昨日こちらに、この男の子が来たかどうかを知りたいのですが」

 手帳とともに、コウキの写真を見せた。

「ああ、ええ。確かにいらっしゃいましたよ」

「何時ごろでしょうか?」

「そうですねぇ。3時……ううん、4時前ですね」

「4時前!」

 3人が口をそろえて言ってしまったので、清閑な空間に響いてしまった。

「間違いないでしょうか?」

「見ての通りここはあまり人が多くなくて。それに綺麗な顔の男の子だったので印象に残っています」

 周りを見ると、確かに人は少ない。

横のほうに調べ物をするための机と椅子があったが、30近くあるそれらは、ほとんどが空席だった。

「その子は、ほらそこにある禁帯の本を手に調べ物をなさっていました。ここで氏名と使用する本の題名を書いてから、座席票と交換するんです。昨日の紙ならまだあると思います。少々お待ちください」

 司書はもう1人にカウンターを任せ、奥へと消えて行った。

「ケージさん、ユーキ君の写真ある?」

 まりんが啓司さんに尋ねた。

「ああ、あるけど?」

「それもあの人に見せてね。同じ顔に見えるようだから間違っているかもしれないわ」

 大人たちはハッとした。そうだ、双子だった。コウキのアリバイを検証しに来ていたので、ユウキのことは考えていなかった。

私はともかく、啓司さんはそれでいいのか?

「ありました」

 10センチ×15センチの館内利用票には、確かに『森原コウキ』とあった。一筆書きのコの字。だが、これがどちらかの字かは判断に悩む。

「これも見ていただきたいのですが」

 啓司さんがユウキの写真を取り出す。

「ええ、ですからその子です」

 司書はにっこり笑って証言する。まりんの言う通り、双子のどちらかはっきりしていない。

「これに時間は書いてないのですね」

 私は疑問に感じたことを素直に聞いてみた。

「はい。禁帯の本が無くならないようにという配慮だけのものですので」

 まりんと私は、コウキの名前が入っている紙に再び目をむけた。読んだ本は……。

「『アンティークコレクション』『貴金属の全容』『彫金の手順』『現代における装飾』か。なんだか、コウキというよりユウキ寄りの本のような気がするが」

「そうね」

 まりんは相変わらずそう言うだけで、詳しくは語らない。

「図書館というものは、この地域に住んでいなくても利用できるものなのでしょうか?」

「ええ、もちろんです。貸し出しは住民票のある方か、仕事場がある方でないと無理ですが、ご利用だけならどなたでも」

 啓司さんは考え深げに頷き、館内利用票に見入った。

「結局、どっちが来たのかハッキリしなかったな」

 図書館を後にし、私が残念さを口にすると、啓司さんは「いいや」と首を振った。

「間違いなく来たのはコウキ君のようだね」

「なんで、わかるんです?」

「筆圧、ね」

 まりんが答えた。

「そう。君たちが書いた参加者名簿で2人の字を比べるとすぐにわかるよ。まりんちゃんが言ってたけど、コウキ君、本来は左利きだろう? 無理矢理右手で文字を書かせているからどうしても力が入っちゃうんだよ。これのようにね」

 図書館でもらった利用票をヒラヒラさせ説明してくれた。

「啓司さんは当然として、まりんはよくわかったな」

「やだ、ケーちゃん。落ち込まないでよ。誰にでも苦手分野ってあるものなんだから」

 吹き出す啓司さんを睨みつつ、がっくり肩を落とした。

「だが、そうすると……」

「ここへ来たのはコーキ君ってことになるから、あの部屋に4時に行くのは不可能ね」

「ああ。早くも、もう一度確かめないといけない事由が出てきたな」

 ……この2人、いいコンビかも。

「そういえば、念書ってケージさん持ってる?」

「何で知っているんだ?」

「やだ、自分が言ったんじゃない」

「そうだっけ。今、一応持ってるけど?」

 まりんのウソに簡単に引っかかっている。確かに啓司さん本人が言ったことだが、私たちは本人から聞いていない。

 改めて念書をじっと見ると、まりんじゃなくても気がつく事実がひとつ。

「これ、ユーキ君の字だ。サインもそう」

「なんでコウキのブローチが?」

 啓司さんは、唸っている2人を訝しげに見てくる。

「どうしてユウキ君とわかる? 筆圧は微妙なとこだぞ」

「ユの字よ。ささやかだけど、下の一角が横にはみ出てる」

 まりんがサインのカタカナ部分を指差して告げる。

「コーキ君のほうは、一画で書く決まりだって言ってた。これが、コーキ君が書いたものだとすれば、なぜ名前を偽ったのかってことになるけど……」

「コウキ君が書いたものであるなら、時間がずれる。4時には不可能。逆に、ユウキ君であるなら、蘭子さんが目撃したのはユウキ君ってことか。……では仮に、ここに来ていたのがユウキ君だとしたら?」

「あの場にいたのはコーキ君」

だんだんわからなくなってきた。

「結局どちらかわからないじゃないか」


ーーーー◇ーーーー


 えらくまた、立派な建物だ。奥田病院へと来たのだが。

 見上げると数え切れないほどの窓に、太陽光が反射している。右側は子供の病棟なのだろう。キャラクターの絵が描かれている。

 中へ足を踏み入れると、消毒液のいやーな匂いが鼻をつく。

 広く開かれた受付を横切り、奥へ進もうとしたところへ、500円玉が器用に転がってきた。私はそれを拾い上げると、首を向けた。

転がり始めの方向には売店があり、包帯で腕をつったご婦人が2人、こちらを見て何か話し込んでいる。

 この病院の評判を聞くのにちょうどいいかと思い、コインを手に近づいて行った。

「ありがとう。かっこいいお兄さん」

 40代後半に見える二人は、ニコニコと話し掛けてきた。

「いえ……」

 ……どう言い出せばいいのだろう。こういうことは慣れていない。

「あの、唐突で申し訳ありません。お聞きしたいことがあるのですが……。あ、ちなみに私、こう見えましてもお姉さんです」

「あらあら、ごめんなさいね。それで、聞きたいことって何かしら?」

「私たちのお部屋にいらっしゃる?」

 木村さんと田中さんという名のご婦人方は、答えを聞く前にすでに、自由に使えるほうの腕を絡めてきている。

 まりんに視線で密かに助けを求めたが「私がいないほうがケーちゃん可愛がられるわ」と、啓司さんと並んで奥へ消えて行った。

「男の人だったら部屋に招くのは躊躇するのよ?」

 訳のわからない恥じらいを見せ付けられたが、このチャンスをありがたく思うことにしよう。

 病室は3階にあった。6人用の大部屋にさらに2人、ご婦人方がいらっしゃった。宝塚ファンだと言う吉岡さんの目が、怖い。

「さぁ、ここに座って」

「それでお話は?」

 紙コップにコーヒーを注いでくれたのはいいが、気がつけば周りを囲まれていた。

「えっと、その……。実は、うちの妹が都心の病院に移るように言われまして、ここの病院の評判とかを、その……お聞きしたいなと……」

「まぁ、妹さんが。大変ねぇ」

 4人の同情を一気に集めてしまったことが、入院なさっている方に申し訳ない気がした。

「ここの食事は美味しいわよ。人間生きている限りは、おいしいものが食べられたほうが幸せでしょう?」

「ええ、そうですね」

「私はね、女医さんが他の病院より多いというのが利点だと思うわよ」

「そうなんですか」

「私は男の先生がいいわ。出来ればもう少し若い子がね」

「はぁ」

 あまり口を挟めず、相槌だけが精一杯。次から次へと会話が成立していく。

「でも、看護師さんがコロコロ変わるのはあまり好きじゃないわ」

 車椅子に座っている金子さんが呟いた。

「看護師さんは担当が決まっているんですか?」

「ええ。やっぱり慣れた方がいいじゃない? でもねぇ、最近の人は気が短いのかすぐ辞めちゃうのよ」

 ため息混じりに答える。「ねぇ?」と3人にも同意を求めると、やはりため息とともに「そうねぇ」と、シンクロ気味に返ってきた。

「どなたか今、住んでいる所をご存知の方とかいらっしゃいませんか?」

 私がやんわりと尋ねると「1人しか知らないけど」と、また全員が口をそろえて言った。

「彼女、割と長く勤めていたんだけど。1ヶ月前くらいに辞めたのよ」

『管野ますみ』という女性の情報を得て、お暇することになった。

 世間話を散々してから、また訪ねて来ることを条件に。


「啓司さんのほうは何か進展ありましたか?」

「いや」

 合流して尋ねたが、空振りに終ったようだ。

「しかし、まぁ。今日はこんなところかな。……まさか明日もついてくるんじゃないよな?」

 啓司さんの恐る恐る聞く質問に、あっさり、それはもう短的に声をそろえて答えた。

「もちろん」

 ついて行く。

「おや? 奥田先生だ。どこかへお出かけのようだね」

 自ら運転する車で病院を出て行く。啓司さんが「後をつけよう」と言いだしたので、あわてて車に乗り込んだ。

 尾行すること30分。誰時星が輝き始めたころ、車はやっと停止した。

 豪華なマンションの駐車場へと入っていくのを見てから、啓司さんが建物の様子を見に行った。

「最上階の14階でエレベーターが止まっている。ここは、先生の家ではないし」

 戻って来ると状況を説明した。

「俺はここで張り込むことにするよ。悪いけど慶君、送ってあげられそうもない」

「わかりました。私だけなら付き合うのですが……」

 まりんには無理をさせたくなかった。

「行こう、まりん」

 手を引き、大通りに面するまで歩いた。そこまでの道も十分広かったが、タクシーは通りかからなかった。

「うわっ!」

 突然後ろから体当たりされたのは、大通りに辿り着く直前だった。

「ケーちゃん! 大丈夫?」

 まりんが手を貸してくれる。

 ぶつかって来た奴はすでにいなくなっていたが、私が立ち上がったとき、カランと音がしてペンチが転がった。

「今日は工具箱持ってないぞ?」

 ボケたことを言ったつもりはなかったが、まりんに突っ込まれた。

「それ、ケーちゃんのじゃないでしょう」

 確かに、取っ手の部分がゴムで出来ていて、先がかなり細くなっているこれは、一度も見たことのないものだった。

「……ケーちゃん、さっきの建物に戻ってみよう」

 まりんはハンカチでペンチを包むと、私の手を引いて逆戻りした。

「どうした? 差し入れでも持ってきてくれたのか? 部下に連絡して合流するんだが、急いで食べないとうるさそうだなぁ。それにしても、ずいぶん早いな」

「冗談を言っている暇はないです」

「いや、別に冗談のつもりはなかったけど……。帰ったはずなのにいきなり顔を出すから」

 まりんは車のドアを開けて、啓司さんを引っ張り出す。

「急いで!」

 何のことかわからない啓司さんは、とりあえず言われるままに足を動かした。

「14階って2軒ね」

 啓司さんはまりんに頼まれ、そこに住んでいるだろう住人にインターフォン越しでエントランスのドアを開けてもらった。

「1401は在宅だから、隣か」

 啓司さんはまりんが何を感じているのか悟ったみたいだ。

 チャイムを押したが返事がないので、勝手に上がらせてもらった。

「礼状もないのに不法侵入だよ」

 と、啓司さんは呟きながらも真面目な顔で奥へ入った。

「先生!」

 そこには腹部をハンカチで抑え、うずくまっている院長先生がいた。

「先生! どうなされたんですか! すぐに救急車を呼びます」

 携帯電話を取り出し、慣れた口調で状況を伝える。

「なぜ……君たちがここに?」

 息も絶え絶えで口を開く奥田先生に向かって、「詳しくは後で。今はしゃべらないほうがいい」と啓司さんがなだめる。

「ここに来たら、いきなりそこから人が出て来て……」

 額から脂汗が滴り落ちていた。

「わかった。わかったから」

 そんな中、まりんは私のハンカチを手に、あちらこちらと歩き回っていた。

「『theft』? 『bitter feeling』? 『forbid to say anything』?」

盗みか、恨みか、口止めか? 

 救急車が到着と同時に、鑑識も到着した。いつの間に電話かけていたのか、さすがだ。

 先生が運ばれるのを横目に、鑑識に告げた。

「どう見ても刺されに違いないんだが、凶器がない。くまなく探してくれ」

「ケージさん、これ」

 まりんが先ほど拾ったペンチをハンカチごと渡す。

「さっきケーちゃんにぶつかった人がいたの。関係してるかどうかはわからないけど、念のため」

「いや、そのおかげで彼が発見されたのだから、きちんと調べてみるよ」

 啓司さんはそれを受け取ると、鑑識からもらったビニール袋に入れた。

「それから、もうひとつ」

 まりんは慎重に言った。

「彼が死んだということで、あの事件の関係者に伝えて欲しいの」

 啓司さんは了承した。

 私たちはこの事件に関する情報も後ほど、教えてもらう約束をしてローズ・ガーデンへと引き上げた。


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