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sky  作者: 朱夏
1/8

another sky

 例えば私が男の子だったら、父はあの日イスラエルへ連れて行ってくれただろうか・・・、戦闘の続く危険な街へ・・・。

 或いは、私が男の子だったら、祖母はもっと喜んでくれただろうか・・・。

こんな雨の日は憂鬱に拍車がかかる。


 朝から降り続く霧雨が、時折縁側の縁を濡らし、池の中で悠々と泳ぐ鯉の輪郭を暈して、雨が紗を掛けたような日本庭園は、祖母の性格同様足を踏み入れがたく、もうずっと昔から風が空気が、そこに停滞してるかのように沈黙を受け入れていた。

 祖母は上方の芝居を見に家政婦と連れ立って出掛け、元より三人暮らしの広すぎる家には蛙の鳴き声が響き渡って何だか侘しかった。

来年は大学受験だと言うのに、仮病を使って午後の授業を早退した私は、庭が見渡せる張り替えて間もない畳の藁が匂い立つ居間で、最も祖母が嫌うとする雨の日に障子を開け放し、寝転がりながらタバコを吸っていた。

銀の雨はさっきから勢い衰えず、天罰のように一層数を増やして、容赦なく池を叩く様子を私はぼんやりと眺めていた。

 大概、そんな風に平穏で退屈な毎日に、時間を持て余しながら、大体が自虐的思考の中で余計鬱の深みに嵌ってゆくのだった。

雨の音にかき消されながらも、微かに玄関の格子戸が開く音がして、それから、一拍の間の後、人の声がした。私はそのまま無視を決め込もうかと一瞬思ったが、声の主が変声期直前の若い男の子の声だと言うことに気づき、この家では終ぞ迎えたことの無い客だったので興味をそそられ、湿気に纏われて不快な身体を起こしたのだった。


そこに立っていたのは、ひとりの少年だった。

月日が経っていてもその少年が誰なのか、私にはひと目で分かった。

行き成りの不意打ちに息が止まりそうで、こめかみの辺りで脈がドクドクと波打ち始めたかと思うと、一瞬の内に過去の囚われ人となり目眩がしそうだった。白いシャツの襟には有名私立校中等部の紋章があり、錆納色した制服のボトムはきちんとプレスされて、その端整な顔立ちと共に身なりも整然としている。

「突然、・・・ごめんなさい・・」

何故か、彼は私を見るなり謝った。

彼をそういう卑屈な態度にさせている顔をしていたかと思うと、彼が不憫でならなかった。

思柚しゆう・・・久しぶりね」

彼は黙って頷いた。私はと言えば、思柚が気恥ずかしくなるほどに、しばし、目を離すことができなかった。

ただ、単に会いに来てくれただけではないという事は、翳った瞳が物語っていたし、母親譲りの透けたような白い肌は遠い記憶の中よりもずっと青ざめていて、そんな物憂い表情を昔何度か見た事があったのを思い出した。

「さ、上がって」

思柚は、一瞬躊躇ちゅうちょして私の後ろに目をやった。

「大丈夫よ、今は丁度誰も居ないの、居たとしても何も言わせないけどね」

私がそう言うと、思柚は少しはにかむように微笑んだ。

 そう、誰かに良く似た笑顔で・・・。


まるで脅えた小鳥のように、思柚は座布団の上、膝をきちんと揃えて座っていた。誰が教えたわけでも無いのに、そういった礼儀は彼の兄と共に天性の感で補っているのか偶発的なのか、生きてゆく知恵として彼らに備わっていて、そんな彼らのしたたかさを私は酷く軽蔑していた。そんな過去の葬りたい記憶が、今、鮮やかでいて秘めやかに蘇りかけている。

「どうしたの急に、ちっとも会いに来てくれなかったくせに」

繊細な彫刻が施されている、漆塗りの重厚な円卓を挟んで、私と思柚は向き合っていた。

二年ぶりの再会は弟を心身共に成長させたようで、今年十二歳になり手足はより長く、遠い目はどこかよそよそしかった。

「姉さんこそ・・・」

「姉さんですって?笑っちゃう、あんたはれんの真似して私の名前を呼び捨てていたじゃない」

憐の名前が私の口から韻を含んで発せられると、私は勿論、思柚までも何故か動揺したかのように、視線が揺らいで静かな湖面に小石を投げ入れたかのような、心ざわめく波紋がふたりの間にじわじわと広がった。

「昔どうり千寿せんじゅでいいのよ」

私は優しく言った。

 それでも、思柚の緊張は解けた様子も無く、発条ぜんまいの切れたオートマタのように微動だしない。それにしても、二年前まではどちらかというと私に似ていたが、大きくなるにつれ彼は兄の憐に良く似てきた。上向きの睫や高い鼻骨、育ちは別にしても持って生まれたような品が備わっているのは、彼らの母親が西洋の血を引いているという分けでもないだろう・・・。

「一昨日、義母さんの葬式だったんだよ」

「なんですって?」

あまりの驚きに声が裏返った。思いもよらぬ継母の訃報は不吉な予感を伴っていた。

「お葬式、来てくれなかったね」

「知らなかったのよ」

「新聞にも出したし、電話も入れたんだよ。でも、姉さ・・・千寿は居なくて、家政婦さんに伝言頼んでおいたんだけど・・・」

 悲しげな表情は、祖母が父方の人間を嫌っているのを知ってるからに違いない、伝言はおろか新聞までとうに片付けてしまって、私の知る由がない。

「ごめんね思柚、お婆様は高野の人間を嫌っているのよ、昔も今もね」

「そうじゃないかとは思ったんだけど」

祖母は十七年前、母と駆け落ちした父を今でも恨んでいる。

「でも、どうして亡くなったの?」

到底、継母は殺しても死ぬようなタイプでは無く、シンデレラのように陰湿な虐めに私は果敢にも耐えたのだった。

「車の事故で・・・、憐も一緒だったんだ・・・」

俄かに胸が騒ぎ出し血の気が失せた指先が冷たくなる。そのとき、こらえ切れずに思柚は大粒の涙をはらはらと零した。真珠粒のような涙は泉のごとく次から次へと溢れ出るので、私は着ていたシャツの袖でそれを拭って話の先を急がせた。

「泣かないで思柚、憐はどうなったの?」

「命に別状は無いんだけど・・・」

少しだけ肩の力が抜ける。

「先週末の事だったんだ。僕は風邪をひいて寝込んでいた、それはいつものことなんだけど、憐が何か冷たい飲み物を買って来ようかかと尋ねるので僕はシーガルを頼んだんだ。そして無免許で運転しようとする憐を義母さんが咎めて、運転を代わり二人で出掛けたんだ。でも、何故か車はガードレールを突き破り、真っ逆さまに崖に落ちたんだ・・・・」

考えただけでも、吐き気がしそうな悪夢のような出来事だ。

「義母は大破した車の中で即死だったそうで、車は原型を止めないほど崖にぶつかって一部は海へ落ち、憐は車外に投げ出されて、木に引っかかり辛うじて命は助かったけど、頭を強く打っていて未だに目を覚まさない。お医者さんが言うのには、足の骨折だけで呼吸も血圧も脈拍も全て正常で、目覚めない理由は無いそうなんだけど・・・、」

それでも、その状況で命が助かるなんて、何て幸運な事だろう。

「刑事さんが事故について詳しいことを知りたいらしいんだけど、憐は全然目覚めなくて話も聞けないんだよ」

 私は昔読んだ本の中で、子供たちがその知恵で対処出来ないくらいのダメージを受けると、自らその忌まわしい記憶を消す話を思いだした。

憐はまだ、その夢の途中なのかも知れない・・・。

「詳しいことって?」

「ブレーキを踏んだ跡が無いんだって、変でしょう?義母は次の日展覧会に出品する作品を自分の車に積んであったし、その打ち合わせに朝一番で出掛ける約束してあったんだって、そんな人が自殺するはず無いだろうって・・・」

「自殺なんてありえないわ」

「刑事さんもそう言ってたけど、もしかしたら居眠り運転かもって、時間が午前二時前後だったから、」

闇夜の海へダイビング・・・、そんな車の助手席に座っていた、憐の気持ちを思うと胸が締め付けられる。

「僕は一人ぼっちなんだ・・・、千寿が僕の事嫌ってることは分かってるんだけど・・・」

「嫌ってるだなんて・・・、」

「だって一度も会いに来てくれなかった」

「それは、そうね・・・思柚が憐を選んだから」

半分本音で茶化したつもりが、彼はずっと真剣だった。

「千寿はここに来ればお婆さんが居るけど、憐には誰も居ない、それに千寿とは半分だけ血の繋がった兄弟だけども、この家とは関係無いんだもの来れるわけ無いでしょう?」

確かに父方の祖母も祖父も、既に亡くなっていて叔父がひとりいるだけだった。

 亡くなった義母は父の三番目の妻にあたるが子供はいなかった。

私の両親は周囲の反対を押し切って駆け落ち同然に結婚した。

母はまだ学生だったので両親は激怒し勘当を言い渡したが、既に母のお腹には私がいて、父は母を世の中の全てから守ってあげたかったし、何より世界中の誰よりも愛していて、毎日が輝いていたと、後に語ってくれたが、そんな優しい父とまだ三歳になったばかりの私を捨てて、他の男の元へ去っていった母のことは今でも正直理解できないし恨んでもいる、でも今となっては年月が経ちすぎて色褪せた写真の中で微笑む母を、他人行儀に眺めやるもう一人の冷静な自分にも、たまに驚いたりする。

彼らの若すぎた結婚の自由への代償は、私の誕生だけでは補え切れるものではなく、日々口論罵倒の繰り返しに疲れ果てた父は、私を引き取ることで離婚を承諾した。磨り減ってゆく愛情は幼すぎた私の脅えた目にも焼きついていて、その後、父は彼なりに出来る限りの愛情を持って態度で示した。

裕福で我侭いっぱいに育った母と、質素な生活が身上の父とでは、のぼせ上がった当人を除いて、周りの冷静な目から見れば、破局は時間の問題だったのかも知れない。

しかし、父と離婚の原因になった男性との間には、ふたりの子供を儲けて意外にも幸せに暮らしていると、風の便りに聞いたことがある。と言うのも母と祖母の確執は根強く、祖父の葬式にちらりと顔を見せただけで母は直ぐに帰り、彼岸と盆の墓参りやって来ても家には立ち寄らず、祖母と一緒に幾度か墓前ですれ違ったことはあったが、母は私に優しく微笑むだけで言葉を交わす事も無く通り過ぎて行った。

勿論、私から言葉を掛けることなど出来ず、呆然とその後姿を見送っていると、祖母は私の背中を突っついて先を急がし、近頃自分がどんなに体調が悪いか訴えて、私の注意を逸らすのだった。

殆ど写真でしか知らない母は実際会って見ても、ただの見知らぬ他人でしか無かったが、時々私は考えた、母は私にとっていったい何者なのだろう・・・、子宮を貸してくれただけの、単なる代理母にすぎなかったんだろうか・・・、天使はそんな私にも祝福を与えてくれるのだろうか・・・。

父がかれんと言う二度目の妻を迎えた時、私は五歳になっていた。

彼女は亜麻色の髪に茶色い瞳をしたイギリスと日本人のハーフで、英語の教師をしていた。

その連れ子だった四歳の憐と、ふたりの間に生まれた思柚と楽しかった六年余りの生活は彼女がこれまた交通事故で亡くなるという突然の不幸に見舞われて、とたん暗雲が我々の頭上を覆い始めた。

それが、続く家庭崩壊の前兆だったと誰が思っただろうか・・・・。

「でも、家族ってそんなものじゃないの?あんたは小さすぎて覚えてないでしょうけど、かれんと暮らしたあの頃が、私もパパも多分憐も一番幸せだったと思うよ、かれんはやさしくて逞しく、パパはそんなかれんを思いっきり愛していた」

父のかれんを愛するパワーが、滲み漏れる笑顔となって幸福のオーラを発散し、それは大きな翼となって私たちを包み込み、安らいだ庇護を与えてくれた。

「いつか憐もそんな事を言っていた。憐にしろ千寿にしろそんな楽しい記憶があって僕は羨ましい」

卑屈とも取れる言葉を、思柚は羨望交じりでちょっと悲しげに呟いた。

確かにかれんの死後、一年余りで父が再婚した三番目の義母絵里は美しく聡明だったがそれだけで、子供嫌いで始終熱を出して寝込む思柚は厄介者でしかなかったし、そんな様子を物心ついた時から見ていた私は冷淡な義母に懐く術も無かった。

 父だけでなく私たちを含め、かれんを忘れようと彼女を迎えたことについて期待した分、落胆はそれ以上に大きく、彼女の専制君主たる立場に子供たちは一種ピリピリしていたのも事実だった。

その頃になると、報道カメラマンの父の仕事が忙しくなり、あちこち国外の戦場を取材して回る為、家を空けることが多くなっていた。

 やがて悲劇が訪れようとしていたのに、誰も予想すらしなかった。

「そろそろ帰らないと・・・」

思柚は唐突に静寂を破ってそう言った。

ふと我に返った私の耳に激しくなった雨音が聞こえて来た。深淵の暗い水面に銀の王冠が出来ては消えて行く、街の喧騒は遠く降り続く雨が辺りを煙らせていた。

「もう?」

「黙って来たから菊が心配している」

菊は四捨五入するとそろそろ七十歳を迎える父方の祖父の妹だ。

生涯独身で定年までは公務員として働きながら、不安定な生活の父と子供たちを不憫に思い、何かと家の世話をしてくれていた高野の家に欠かせない人である。

私がこの家を去るにあたって胸が痛んだのはこの菊と会えなくなることだった。

廊下を思柚と並んで歩くと、彼の背丈は私よりまだずっと低かった。

小顔が余計幼さを添え、華奢な肩の線がか弱くてぎゅっと抱きしめてあげたくなる。

「あなたこそ身体の具合はどうなの?」

「あんまり・・・かな、最近はいろいろあったでしょう」

「気をつけてね」

「僕は大丈夫だから、憐に会いに行ってくれる?港町の総合病院だから」

探るように私の顔を見る。

「そのうちにね」

思柚は深い溜息をついた。うな垂れた様子は胸に詰まる。

「また来てくれるでしょう?待ってるわ」

 濡れた敷石に踏み出た思柚に向かって言った。

開いた傘から雨粒が撥ねる。

「千寿はどうして会いに来てくれないの?」

振り向き様にそう言う瞳は私を責めている。

「あの家を出たときから私はあの家の人間じゃないのよ、」

「でも、血を分けた本当の姉さんじゃないか、それにあの家はパパが千寿と千寿のママの為に建てた家でしょう?義母さんも亡くなって帰って来れない理由は無いはずだよ」

そう、確かに私は昔、その家を出る時、思柚に聞かれてそう答えた『義母とは一緒に住めない!』、その後に『憐も大っ嫌い!』とも告げたハズ。

「今さら・・・何言うの」

吐き捨てた言葉は更に思柚を傷つけたようで、彼は淡々と別れを告げ帰って行った。

 思柚には天に向かって真っ直ぐ伸びるひまわりのようにすくすく育って欲しかった。

私はほんとうに義母と折り合いが悪く、私が家を出る最後の一ヶ月間はひとことも言葉を交わさなかったし、そこへ残ると言う思柚でさえ私は許せなくてさよならも告げずにあの家を出た。勿論、祖母が呼び寄せた分けではなく、ここに住んでいいかと尋ねたら意外にもあっさり承諾してくれたし、あっと言う間に苗字も変わった。しかし、母に姿形の似た私が愛されるはずも無く、増悪の対象或いは頑固たる意思の確信をもう一度立証すべく、あれこれと日常口を挟んできたが、すでに各個が確立していることに気づいたときから、祖母はあっさりと私を見限っていて、例えば、食卓に上る話題にしても天気の話や今日の予定など、差しさわりの無い退屈な会話化としていた。

親子二代に渡り祖母の期待を裏切り続けて、そろそろ目が覚めたのかも知れない。



校内をぐるりと囲む高い錆色の鉄柵には、歴史ある高校らしく蔦が絡まっていて初夏の風に乗って退屈そうにゆらゆら揺れていた。学校が立ち並ぶ界隈には下校時刻となると、あちらこちらから軽やかな夏服に身を包んだ学生たちがどっと教室から吐き出される。

私は赤い煉瓦の校門に凭れて、思柚を待っていた。

彼が家に来てからと言うもの、この三週間ずっと思柚と憐のことばかり考えていて、憐の安否を確かめる為に直接病院に行くのは憚れ、容態を尋ねる為に何度も電話を掛け、今ではすっかり番号を覚えてしまった。

だけど、眠りの王子様はまだ目覚めない・・・・。

側を男子生徒がジロジロ眺めながら通り過ぎてゆくそんな好奇な眼差しに、怯まない勇気と向こう見ずな性格に時々後悔することはあっても大概プラス思考で、結果はどうあれ努力はする、そして失敗も山のようにあったが、とにかくは前に進んでる。私はそんな自分が好きだ。

そんなことを、うつらうつら考えていた。


 気が付くと、友達と連れ立って校舎を出て来る思柚と目が合った。遠目には最後に見た十五歳だった憐に、あまりにも似ていて胸がチクチクする。

「千寿、どうしたの?」

思柚は友達に別れを告げると、少し驚き混じりの顔をして私の側にやって来た。頬が上気してるのは暑さのせいかそれとも会えて嬉しいのか、区別は付かなかったがとにかく瞳は輝いていた。

「突然なんだね、」

「煙草持ってない?時間持て余しちゃった」

思柚はクスリと笑って持ってないと返事した。

「その、空色の制服が男子生徒羨望の的だってこと忘れちゃいないだろうね?煙草なんて吸ってもらっちゃ夢も希望も無いよ」

「知ったことじゃないわ」

どちらとも無く、私たちは石畳の坂道を並んで歩き始めていた。

「今日はどうしたの?」

「憐の病院に一緒に行かないかなと思って」

思柚は何気なく私の顔を覗いた。

「看護婦さんが言ってたけど、憐の容態を尋ねてよく電話くれる女の子がいるって・・・、それ、もしかして千寿のこと?」

「そう。やっぱ気になるじゃない」

思柚は嬉しそうに、にこりと笑った。

「一度くらいはお見舞いに行かなくちゃね、でも、起きたとしても寝た振りするかも」

小さな犬歯を見せて微笑む思柚の笑顔を久しぶりに見たような気がした。それはそれは懐かしい、遠い過去の記憶の中で・・・。


 そこは取り立てて代わり映えもしない普通の病院で、医大と隣接しているせいかキャンパスを挟んで北の森へと続く庭園には、白衣を着たインターンや学生の声がざわめき、何となく活気を帯びていたし、巨大な建物の中は放射状線にエスカレーターが伸びて迷路のように入り込んでいた。覚えたくも無いだろうが、思柚は病室へと続く廊下を的確に進み、すれ違う看護婦さんには律儀に会釈を交わす、数日前に零した涙の欠片ほども見当たらない笑顔に、私は少し肩透かしを食らわされた気分だった。

病室の扉は軽く手を添えると、半自動のようにすっと横滑りして開いた。と同時に微かな潮風が南の開いた窓から通り抜けて私の前髪を揺らし流れて行った。白い簡素な部屋の白緑色したリノリウムの床には、少し勢いの失せた太陽が鋭角の陽を落として、真新しい糊の効いたシーツの上を照らす光は純白に輝いてる。

ベットに横たわる憐は、傷ついた瞳を伏せていて、でも、彼をそこに認めた瞬間私は目が離せなくなっていた。

ギブスに固められた左腕と右足は器具に固定されて窮屈そうだったし、額は包帯で幾重にも巻かれ、頬骨から顎にかけての擦過傷はまだ取れていない。端整な顔立ちの面影も無いくらい、あちこち痣だらけで痛々しいが、命があっただけでも奇跡的なことかも知れない・・・。

「いつ目覚めるのかなぁ・・・」

今にもその重たそうな睫を上げそうなのに、ピクリとも微動だしない姿は、命が宿っているのか不安にさせられる。私は思わず憐の頬にそっと触れてみた。

「あったかい・・・」

 憐と私は直接、血の繋がりは無かったが、兄弟はみんな仲良かった。

勿論、他愛無い喧嘩はくさるほどしたが、あの最後に交わした陰湿な会話こそ、私が生まれ育った海辺の家を出るきっかけとなった。

あの時の憐の悲し気な表情を思い出した今でも心が痛む。特殊な生活環境で、雛のように身を寄せながら守る術は、まるで嵐の海原を突き進むか小船のように脆く、誰も頼りにならないことを憐は身を持って知った。

うねり来る波は夢も希望も、意識さえも深海に飲み込んで行った。

「頭を強く打ってるから記憶障害が心配だって先生が言ってた」

例え永遠に仲直り出来なかったとしても、死ぬほど恨んでいたとしても、私のことを記憶の片隅に留めておいて欲しかった。

初秋の木漏れ日を受けたような淡い瞳で冷たい光を放たれても、形の良い唇から意地悪な言葉を発せられても今なら全て我慢できる。

 命と引き換えの物など何も無いのだから・・・。


結局、その日は思柚が懇願した岬の家には行かなかった。

何だかマネキンのようにベットで横たわる憐を見ていただけで、気が滅入ってしまったからだ。

私たちは湾岸線を走る電車を待つため、木のベンチに腰掛けて海を見るともなしに見ていた。辺りには闇が迫りつつあって、太陽は最後の残り陽で水平の先をゼラニウム色に染めていた。

「お葬式とか大変だったでしょう?」

「菊と叔父さんが全てやってくれた、僕らには菊が居るから何も心配は無いんだけど、憐も居ないあの家は広すぎて何だか恐いんだ」

そう、海辺に建つあの家は嵐が来ると雹のような雨粒がガラスに当たり、風の強い日は梢の先で戯れた精霊が、びゅうびゅうと口笛を吹いて幼い私たちを脅かした。思い出は、万華鏡の中のモチーフのように幾つも折り重なって胸の中でクロスする。

 線路と並行する国道を、波乗りたちの車が甲高い音楽を轟かせながら通り過ぎて行く、ロコらしい汚れたトラックの荷台にはサーフボードが無造作に積まれ、助手席には性格の良さそうな大型の犬が乗っていた。

「思柚そろそろ反対車線に行きなさい、電車が来るわよ」

誰もが家路を急ぐ時刻、私は西へ思柚は東の岬方面へ、どうしてこの世で唯一の姉弟が、別々の家に帰らなければならないのだろうかと私は悲しくなった。

「また会えるよね、会いに来てくれるよね?」

「いつかね」

「どうしてそんな曖昧なこと言うのさ」

「じゃぁ、どうして思柚は今まで私に会いに来てくれなかったの?」

「それは、憐が・・・憐が怒るかなと思って行けなかったんだ。でも千寿にとっても会いたかった」

「でも、来なかった。思柚はいつも憐、憐、ってあいつの味方なんだから」

実際、思柚は憐を慕っていた。思柚は男の子だから兄と一緒に居たがるのは当然だと理解しても、まるで離婚前の両親見たく『パパとママどっちが好き?』なんて尋ねられている子供のような、困惑した顔をして口を噤んでしまった。その胸の痛みが跳ね返ってきて私の心は重く沈む。

「これ私の携帯番号とメールアドレス、時々でいいから憐の様子を教えて」そう言ってメモを渡した。

夕日は、翳りがちな思柚の無垢な瞳を射していた。



憐が目覚めます。

でも、まだ千寿との会話は焦れったいくらい、よそよそしいです。

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