移ろえる紫陽花
愛とは無限地獄だ。仕舞いがない。
その炎は己を焦がし、破滅へ導くであろう。
6月。鎌倉。某所。
売れない絵描きである私は、今の時期だけ大学時代からの友人の別荘に管理者という名目で住まわせて貰っている。
一階はアトリエになっていて、そこで絵の仕上げをしたりする事ができる。友人の絵も何枚か保管されている。
彼は7月に東京で個展を開く。
厚意にあずかり私の絵もそこに飾らせてもらえるそうだ。
彼には感謝してもしきれない。
「先生。またお会いしましたね。」
路地で個展に出す風景画を描いていると、ふと声を掛けられた。
顔を上げると、レースの日傘。長い黒髪。そして純白のワンピースに、少女のようなあどけなさの残る瞳。
目が合うと、彼女は花開くかのように可憐ににっこりとほほ笑んだ。
彼女は私がこうやっているのが珍しいのか、話し掛けてきては私が絵を描いているのをじーっと見学していく。
話によると若くしてビジネスを立ち上げ、莫大な富を手に入れた資産家の妻らしい。
前に話をする中で家を紹介されたが、お屋敷と言っても過言ではない大きさの家であった。
歳は20代前半だろうか。顔立ちと雰囲気からそれ以上に若く見えるがきっとそのくらいだろう。
彼女は私の顔に触れるのではないかと思うくらいに顔を近づけると、いつものように絵を眺める。
「先生は今日も絵を描いていらっしゃるのね。」
「友人の個展が近いですからね。
紫陽花も、今が一番綺麗な時期ですから。」
描いていたのは紫陽花。ちょうど今が見ごろだ。
しかし描いていたものの筆が進まず、個展に出すのは別の物にしようと考えていた。
「先生に描いて頂けるなんて、紫陽花も幸せ者ね。」
「ははは。それはそれは。お世辞でもうれしいですよ。」
彼女は私の事をなぜか先生と呼ぶ。
絵描きだからだろうか?私は先生でも偉くもないのだが、特段悪い気はしないので特に何も言ってはいない。
…先生と呼ばれるのが少し嬉しい。というのもあるが。
彼女はそのまま私が絵を描いている所を見ていたが、
スッと私と絵の間に割りいるような形で小首を傾げるように顔を覗きこんで来た。
…顔が近い。
「ねぇ先生。お願いがあるの。
私の絵を描いて下さらない?」
「参ったな…私はあまり人物画は描かないんだが…。」
椅子から立ち上がり、平常を装いつつも私は困っていた。
そんな私などいざ知らず、彼女は立った私の周りをくるくるうろうろと、まるで猫のように振る舞ってみせる。
「それでもいいの。ねぇ。ねぇ。描いて下さいな。」
そう言うと無邪気に私が描いていた紫陽花の前まで歩み寄り、澄まし顔をして見せた。
…どうやら意地でも描かせるつもりだな。困った人だ。
どれ仕方ない。ちょうど筆も進まなかったことだ。描いてみようか。
元々描いていた紫陽花を背景に、彼女の姿を描いていく。
普段のあどけない彼女とは打って変わって、大人の女性のような表情をする彼女。
白と紫のコントラストが美しい。見とれて仕舞うほどだ。
自然と筆も進む。
真面目な顔になり絵と向き合う私を見て、彼女が嬉しそうにほほ笑んだ気がした。
――――ついつい夢中になってしまった。
「まぁ…!素晴らしいわ…!」
気が付くと彼女が絵を覗き込み、キラキラとした眼差しでそれを見ている。
紫陽花を背に大人びた表情で立たずむ彼女。
自惚れではないが良い出来だ。モデルが良かったのだろう。
後は仕上げだけだ。帰って行うとしよう。
アトリエへ帰る準備をしている私に、彼女はまだ興奮が収まらないといった具合に私に話しかける。
「こんなに素敵に描いて頂けるだなんて…嬉しいわ…!」
「仕上げがまだですがね。
完成しましたら、一番最初にお見せしますよ。貴方の絵ですから。」
「えぇ!えぇ!約束ですよ!
嬉しいわ!先生!約束ですからね!」
喜ぶ彼女を見て、私は誇らしい気持ちでいっぱいだった。
個展に間に合いそうだ。この絵は間違いなく、今までで一番の出来だ。
内心、年甲斐も無くはしゃいでしまっている。早く。早く仕上げよう。
この胸の高ぶりが治まってしまう前に――――――
先生。先生。私の先生。
紫陽花や絵だけでなく、私も見てくださいな。
私だけを、私だけを見てくださいな。
絵など見ずに。私だけを。私だけを―――――――
雨がしとしとと降るその日の夜、私が絵の仕上げに取り掛かっているとチャイムが鳴った。
こんな夜中に誰だろうか…。訝しげに思いながらも玄関を開けると…そこには傘を差した彼女が立っていた。
「どうしたんですか!こんな夜中に!雨も降っているというのに!」
驚いた私は彼女を部屋の中に入れ、急いで洗面所から持ってきたバスタオルを渡した。
「ごめんなさい…」
申し訳なさそうにそれを受け取り俯く彼女。
場所を教えていただろうか。いや、よく覚えていないが多分話している時に場所を言ったのだろう。
なんせここは丘の上。近くに目立った建物は無いのだから。
いや、それよりも気になる事がある。
「その顔は…!一体どうしたんですか!!」
つばの広い帽子を深々とかぶった彼女の顔に、傷を保護するように大きなガーゼが貼られていたのだ。
「…ぁ…心配なさらないで…ただ階段から…落ちたの…」
よく見ようとしても彼女は恥ずかしいのか目をそらし、帽子を深くかぶり隠してしまう。
彼女は嘘を付いている。なぜ雨の降る夜にわざわざこんな所まで来るというのか。
いうならば、何かから逃げてきたかのような。
「大丈夫です。正直に言って下さい。私はあなたの味方ですから。
その顔はどうなさったのですか。」
彼女に近づき優しく問い掛ける。
「お願いします…教えてください。」
「先生…先生!!」
そう言うと彼女は私に抱きついた。
突然の事に驚いたが、彼女の取り乱した様子を見て今はこうしてやるのが一番だろうと思い、
そのまま私も彼女を優しく抱擁した。
「先生…私怖いの!!先生…先生…」
「えぇ。えぇ。大丈夫です。
私はここに居ますから、落ち着いて…ね?」
まるでぐずる子供をあやすかのように背中をポンポンとたたき、落ち着くのを待つ。
震える彼女の姿は小さく、弱く。まるでガラス細工のようだ。すぐに壊れてしまうだろう。
しばらくすると彼女は多少落ち着いたようで、
今の状況に気づくとパッと離れ、少し照れた様子でごめんなさいと謝った。
そして、ぽつり、ぽつりとその傷の経緯を話し始めた。
「夫が…夫が私に対して暴力を…」
…多少想像はついていた。昼間から路地をうろうろとしているような方だ。
夫婦間でなにか問題があるのだろうとは勘ぐっていたがまさかその通りだとは。
「どうしてそんな事を…。」
「…分からないわ。けど、普段から、気に食わないと…」
するとまるで私に心配させまいと、そして夫の事を悪く言ってしまった罪悪感なのか、
少々焦ったような様子になる。
「でも…でも…あの方はね、とっても優しい方なのよ。
両親が亡くなって、身よりの無い私にも良くしてくれたの。
時々とっても怖くなる事もあるのだけど、優しい方なの…でも…。」
「女性に暴力を振るう男が優しいものか!!」
…つい、感情的になり声を荒げてしまった。
怖がらせてしまっただろうか。
「先生…」
彼女は驚いた顔をしたものの、再び泣きそうな顔になりつつも笑った。
「先生は…お優しいのね…。」
彼女は再度私に抱き着く。先ほどよりも、強く。強く。
「先生。私、家に戻りたくありませんの…。」
首元に顔を埋め、上目遣いで私を見る。
「先生、私、ダメだと分かっていても。
それでも、先生の存在が私の中で大きくなって行くわ…。
お願い…先生…先生…」
彼女は私の耳元で囁くように。呟くように。
「先生…ねぇ先生…」
「……お嬢さん。いけません。」
そう言って私は彼女を優しく引きはがした。
驚いたような顔をこちらに向ける。
おおかた、彼女の顔の傷も私との仲を疑っての事だろう。
あんなにも親しそうに話していれば、疑われてしまっても仕方ない。
それであれば私は彼女から離れるべきだ。迷惑を掛ける事は出来ない。
彼女が頼るべきは私ではない。
それは彼女にも、彼女の旦那様に対しても、あまりにも不誠実というものだ。
それに…彼女はまだ年も若い。一時の気の迷いもある事だろう。
「どうして!?どうしてなの先生…!私は先生の事が…!」
「ダメです。いけません。」
「いやっ、先生…!!わたし、わたし…!!」
取り乱す彼女。
「こんな夜中に出歩いては、また旦那様が心配する事でしょう。
大丈夫です。どうか、どうかお帰り下さい。
そして…そしてもう私とは会わない方が良いでしょう…。」
「いや、いやよ先生…そんな事おっしゃらないで…!」
私はそんな彼女を見ることが出来ない。
ただ、ただ言葉を続ける。
「もう…こうやって話す事も無いでしょう…。
会ったとしても…私と貴方は他人です。
今までも、そしてこれからも…」
「先生…先生嫌よ私…!
こんなにも…こんなにも先生の事を…!!」
「ダメです…お願いします…御嬢さん…どうかお引き取り下さい…お願いします…。」
私の必死な訴えに、彼女は一瞬何か言いたそうな顔をしたが、静かにうつむくと、そのままゆっくりと玄関まで歩いていった。
途中こちらをチラリと悲しそうな顔で見遣るが、
玄関の扉を開け、雨の中彼女は傘を差し出て行った。
鼓動が激しい、動悸がする。
正直私は危なかった。色々とだ。とにかく必死だった。
力が抜けてへたりと座り込む私。
あぁ、私はなんて事を…。
こんな雨の中、彼女を追いだしてしまった…。
一晩ぐらい匿ってやってもよかっただろうに…あぁ…。
もう会うこともないだろう…。さっさと帰ろう、東京に。
そう考えた途端に悲しくなってしまった。
可愛そうな彼女…。暴力を振るわれ…あぁ…可愛そうな彼女…。
しかし私が彼女の為に出来ることなどなにも無い…。
そうだ。仕方ない。これで良かった。これで良かったんだ―――――
どうして私を受け入れて下さらないの…?
夫もそうよ、先生も、そして…あの人も。
どうして私の事を一人になさるの…?
どうして…どうして私を―――――――
私の父は酒を飲んでは母に暴力を振るっていた。
幼い妹と共に震えて耐える事しかできなかった。
…なぜ、今になってそんな事を思い出したのだろう。
彼女に母の姿を重ねてしまったのだろうか…。
それとも、共に怯える事しか出来なかった妹の姿にだろうか…。
…悲しい優しさは、必ず誰かを傷つけてしまう。
私は、私は一体どうすれば良かったのだろうか…。
先ほどから、仕上げの終わらない絵を眺めている。筆は持っているが一向に作業が進まない。
…電話が鳴る。
「…先生。先生。」
…彼女からだ。
「先生。私。私、あの人…殺しました。
だから死にます……さようなら…先生。」
こちらが言葉を発する前に、彼女からそれだけを告げられ、電話は切られた―――――。
それからの記憶はあやふやで、私は雨の中一心不乱に自転車を漕ぎ出していた。
彼女の家に着く。門に自転車を投げ出し敷地内を走る。
玄関は開かれており、不法侵入もお構いなしに突入する。
「お嬢さん!!!どこですか!!!お嬢さん!!!」
暗い部屋の中を呼びかけながら彼女を探す。
稲光が時折部屋を照らすが、電気を付ける余裕もなかった。
広いリビングに人影があった。しかし彼女ではない。
赤い歪なカーペットのような物に仰向けに倒れるそれは。今はどうでもよい。
少し冷静になり再び彼女を探す。
するとどこからか声が聞こえる。これは…歌っているのか?
声を頼りに聞こえる方へ向かう。
一か所だけ明かりが漏れている部屋があった。
水の音が聞こえる。雨ではない。
ここは…風呂場か。
脱衣所を抜け、扉を開けると彼女の姿があった。
真っ赤に染まったお湯が張られた浴槽に漬かり、鼻歌を歌いながら彼女は、私の顔を見ると、
「あら。先生。」
そう言い、心底ニッコリとほほ笑んだ。
「うふふ。殺しちゃったわ。だから私も死ぬの。」
ちゃぱちゃぱとお湯で遊び、私の事は見ずに言った。
「だめだ…だめだそんな事は!!」
私は叫んだ。
「先生ったら、だめだだめだって…否定しかして下さらないのね…」
彼女は困ったように。しかし意地悪そうに。まるで弱った小動物を弄ぶかのように。
「いやだ…置いて行かないでくれ…頼む…頼むよぉ…」
その場に力が抜けたかのように座り込み、まるで子供のように泣きじゃくる私。
「無理よ。ほらもう止まらないもの。」
彼女は左手首を顔の前まで上げた。
深い切れ込みからは、これでもう終わりなのだと、赤い液体が止めどなく流れ出ている。
後悔しかありません。後悔しかありません。
私が彼女を匿っていれば。
私が彼女と親しくならなければ。
私が彼女と出会わなければ。
私に母を守れる力があれば。
私に父を殺す力があれば。
「ねぇ。先生。お願いがあるの」
「先生にしか頼めない。お願い」
彼女は浴槽から立ち上がり、ひたひたと私に歩み寄る。
「私と先生が愛し合っている姿をね。見せつけてやりたいの。」
何を、一体何を。言っている?
目の前で歩みが止まり、
彼女のその艶めかしく濡れた裸体からは水が滴り落ちた。
「先生…先生…私の先生…」
私は…私は…!!!
彼女はそのまま震える私の体を優しく抱きしめ、
彼女の唇が私の唇に軽く触れた。
「好きよ先生。愛してる。」
あぁ ああぁ 私は !!!!!!
流れ落ちる滝が。何もかも赤く。赤く。
―――――どれだけの時間が経っただろうか。
彼女は既にこと切れていた。
もう私には何も分かりません。
何が正しかったのか、どうすれば良かったのか、私は一体どうしてこんな事に。
あぁ、お嬢さん。お嬢さん。どうしてそんな。やめてくれ。やめてくれ。
私もあの父と同じなのでしょうか。
私もやはりあの忌むべき父と同じ遺伝子を持つ人間なのでしょうか。
頭がぐるぐるする。吐き気が止まらない。
私は。私は。私は。
あぁ いやだ いやだいやだ いやだ いやだもういやだ
助けて。助けてください。助けて。助けて。
あぁ誰か。誰か。神様。
気が狂いそうです。
お救い下さい。母さん。母さん。
どうかお救い下さい。
どうか、どうか私を―――――――――
愛とは無限地獄だ。仕舞いがない。
そしてその炎は己のみならず――――――――