琥珀(三十と一夜の短篇第28回)
琥珀がこすると電気をおびやすく、軽い物体を引き寄せる性質があることは周知であろう。もともと太陽の別名 (エレクトール)であった琥珀 (エレクトロン)がいつしか電気の語源になったのは、そのためである。
引用は『澁澤龍彦全集21』(河出書房新社)の『私のプリニウス』の一章「琥珀」から。
「フェリシア、今日は天気が良いし、風も心地良い。加減が良いなら、庭に出てみないか」
フェリシアが返事を迷うのを、ベルンハルトは優しい眼差しで待つ。
すぐ上の兄のベルンハルトはリンデンバウム伯爵家の中で唯一人、病身のフェリシアを気遣ってくれる人間だ。両親はベルンハルトを跡取り息子として気に掛け、年を取ってから儲けた三女のマグタレナを可愛がっていた。長女のエレオノールは出来のよい娘として両親の自慢とも言えたが、二女のフェリシアは生まれつき心臓が弱く、発育が悪かった。その所為か、フェリシアは養育係に任せられたまま、両親から顧みられないで歳月を過してきた。親からの関心がないといっても、親身になって世話してくれる乳母や侍女がいて、必要とあれば医師の診察を受けさせるのを厭わぬ伯爵家の体面があり、フェリシアはこの家で生活していける。
フェリシアはベルンハルトの誘いに、窓の外を長い間見詰めた。
「ゆっくりとお散歩してみたい」
「じゃあ決まりだ。僕と一緒に行こう。フラウ・ゼーマンは付いて来てくれる?」
ベルンハルトはフェリシアの乳母に声を掛けて、フェリシアの手を取った。フェリシアは兄に手を引かれて、おずおずと歩き出した。歩けないのではない。彼の女は走れず、長時間の歩行にも疲労し易い。
成長期の少年である兄は背が高く、フェリシアにとっては眩しい存在だ。各々の部屋を持ち、それぞれに側仕えがいる貴族にとって家族はそうそう親しく顔を突き合わせる存在とは言えない。毎日の挨拶や食堂に集まるのさえ、習慣や儀礼の一つのようだ。それでも、この兄は病身の妹をいたわり、気分転換をしようと容態を案じてくれる。
フェリシアにとっては一番頼母しい。
庭に出て、木陰に二人座り、少し離れた所に乳母が控えた。
「ここにいると眺めもいいし、部屋にいるよりいいと思ったんだ」
ベルンハルトは両手の親指と人差し指で矩形を作り、ぐるりと周りを見回した。
「先刻ここでスケッチをしていたんだけれど、今日は上手く描けなくて止めた。それよりフェリシアを連れて来ようと思った」
「ベルンハルト、有難う」
「フェリシアは体が心配だけど外気に当たってみるのも必要だと思うよ。本は外でだって読める」
日差しが強くない日はそれでもいいかも知れないと、フェリシアは兄の言葉に肯いた。
ベルンハルトは面白いことがあったと、話を続けた。
「このカフスボタンを見て」
ベルンハルトはシャツの袖口を彩る琥珀の飾りを指差した。
「スケッチを終えて、袖を見たら、琥珀に埃が付いていたんだ。埃を取ろうと傷がつかないようにとハンカチではたいてから、拭いたんだが、また埃が吸い付いてきた。何回かやってみても埃が自然に付いてくる。
琥珀が埃を吸い寄せるって本当なんだと思って、ハンカチで何回も繰り返し拭いてみたら、今度はバチッて音がして、火花が見えた」
フェリシアはまあと口をOの字にした。
「驚いた。よく割れたり燃えたりしなかったわね」
「この石をベルンシュタインと呼ぶのは本当なんだと感心したよ」
「太陽神の娘たちが兄弟のパエトーンの死を嘆いて流した涙が琥珀になったとギリシャ神話にあるからかしら?」
「太陽の力が宿っているんだ」
二人は顔を見合わせて、笑った。ベルンハルトはフェリシアの頭に手を伸ばし、額に額を当てた。
「フェリシアが笑った。フェリシアは綺麗なんだから、難しい顔よりもそういった顔を見せて欲しい」
フェリシアは兄が大好きだった。父よりも母よりも、ずっと兄と一緒にいた。兄とともに多感な年頃を、自然を眺め、芸術を語りながら過した。
二十代半ばに達する頃、長女エレオノールの侯爵家との縁談がやっと整いつつある中、父とベルンハルトが対立した。当主である父は所謂放蕩者だ。財産を守るどころか減らし続け、ようやくまとまろうとしている長女の結婚にも伯爵家に相応しい準備が難しい状態となっていた。そこに、伯爵家へ出入りしている商人が或る事を申し出てきた。
「三番目のお嬢様を妻にしたい。その為なら、お幾らでもリンデンバウム伯爵にお入用なお金をご用意します」
当主はその話に飛びついた。ところが三女のマグダレナはまだ十五歳。その商人は騎士爵を持っているが、伯爵家とは身分が違い過ぎ、そして年齢も三十後半だという。いくらなんでも、それは酷すぎる。奴隷の人身売買でもあるまいしと、ベルンハルトは父に噛みついたのだ。
父はベルンハルトに逆に言った。
「お前こそ、絵ばかり描いているではないか。職人の真似事をしている者が生意気な口を叩くな」
「父上と違って私には自尊心があります。父上がそのように仰言るのならその職人仕事で生きていきます。私は娘を売るような父の跡目を継ぐのを望みません」
「働くのを厭わぬ? お前にできるのか?」
「やってみせます!」
言い争いの果てに、ベルンハルトは家を出る決意をした。
「ベルンハルト、本気でこの家を出ていくの?」
「ああ、本当は、フェリシアもマグダレナも連れていきたいけれど、今は身一つで出ていく。絵の道具だけしかないようでは仕方ない。
画家でもし成功できたら呼ぶから、その時は来てくれるかい?」
「勿論よ」
フェリシアの返事にベルンハルトは妹を抱き締めた。
「マグダレナは結婚は嫌だけれど、家を出て働くなんてもっと嫌で怖いと言うんだ。まだ十五歳ではそんなものなのかも知れない」
「わたしは違うわ」
「ああ、判っている。でもフェリシアの体を思うと連れていけない。フェリシアはここに残って、私の連絡を待っていてくれ。そして、この家でのことを手紙で知らせて欲しい」
手放したくない、離れ難いとベルンハルトは何度も繰り返し、フェリシアと別れた。
ベルンハルトが本当に家から姿を消し、両親はそこで長男の本音を知って後悔したが、既に遅し。そして、長女と三女は線路に乗せられた客車が進むように、結婚して、家を出ていった。
家に残された父母はただ時間の経過を数えるだけになっていた。フェリシアは兄から届く秘密の手紙を心待ちにしながら、がらんどうの家で過した。
やがて、母が亡くなり、姉がふとした病から命を落とした。そんな知らせばかりを兄に送るのは辛かった。明るい話題をと、さしたる出来事が無くても、フェリシアは兄を励ます為に消息を続けた。
兄は手始めに維納に行き、次に羅馬へと現地の芸術に触れながら、やはり現地で絵を学ぶ若者たちと交じって、街頭で絵を描いては売り、また慣れないながらも賃仕事をしていると伝えてきてくれる。兄の苦労が手に取るように、フェリシアには理解できた。
母が亡くなってから、ある程度家計の管理に関わるようになった為、フェリシアは父の目を盗んで、家計に影響を与えぬ程度の送金をした。兄からは感謝とともに妹への負担を思い遣り、亡くなった母や長姉の弔いに帰宅しなかった辛い心情を綴った手紙を寄越した。また、マグダレナは婚家で満足して暮らしているかと質問してきた。フェリシアは、マグダレナが男児を出産したことを知らせていたが、マグダレナが夫の財産があるのをいいことに好きに散財しているとは教えられなかった。
ベルンハルトが巴里に居を移したと手紙で知らせてきた。また、新しい芸術に触れているのだと、フェリシアは満足して手紙を読んだ。
だが、その後届く手紙はフェリシアを嘆かせた。ある女性に恋をしたと、記されていた。仕事を通して知り合った洋裁店の女性が忘れられない、真剣に恋していると面々と綴られている内容に、どんなに心通じ合い、深い愛情があっても、やはり兄妹は兄妹で、恋愛の相手は別に現れるのかと、フェリシアは我知らず涙が流れた。
――わたしには誰もいない。わたしは一人のまま。
母が愛し、子どもたちの誰もが持った琥珀。わたしは琥珀に閉じ込められた虫のようだ。どこにも行けず、何も成せず、人が行動していくのをただ見守るしかできない。琥珀そのもののように、何かを引き寄せ、火花を散らせることもできない。
――苦しい、苦しい。
フェリシアは声も出せず、泣き濡れながら、胸を押さえた。このまま心臓が止まってしまえばいいとさえ、願った。
フェリシアの様子に侍女が気付いて、急いで休ませ、医者を呼ぼうとする。
構わないでと言う力さえなかった。
萎れ切ったフェリシアに、ベルンハルトから恋した女性への容姿や性格と仕事振り、自分の告白を受け入れてくれなかったが、諦め切れず求愛を続けていると手紙が途切れず届いた。
――読みたくないけれど、ベルンハルトの懐かしい手跡。
フェリシアはベルンハルトの言動を追体験するように、その女性を知っていく。反感よりも、会ってみたら、自分も親しみを感じるかも知れないと、想像さえした。
「やっと彼の女が私の愛情を受け入れてくれた」
そんな手紙が来て、しばらく便りが途絶えた。きっと仕合せな生活を送るが故に兄は妹への報告をするどころではないのだろう。秋に散りゆく木の葉を眺めつつ、冬の到来と新しい年を迎える準備の賑やかな興奮に想いを馳せた。
降誕祭を終え、新年を迎えてと季節を幾つか数えただろうか。やっと秘密の手紙が届いた。しかし、それはベルンハルトの手跡ではなかった。知らない者の字。
「フェリシア様へ。無学でドイツ語を嗜みませんが、フェリシア様はフランス語を解されると、フランス語で失礼します」
そう始められた手紙はベルンハルトの恋の相手からだった。ベルンハルトが巴里で事故に遭って亡くなったとの報せだった。
父宛てに別便で報せが送られており、フェリシアにはベルンハルトが巴里でどのように過していたか、どのように自分に対してくれていたかと事細かに書き綴られていた。フェリシアの知りたかった、便りが途絶えていた間の出来事が補完され、最後にカトリックで弔いをしたと結ばれていた。
悲しみの涙に染まりながら、不思議と喪失感はなかった。既に自分一人の存在では無くなっていたベルンハルト。兄の恋の相手の痛手に同情した。愛する対象に去られるのがどんなにか辛いか、フェリシアは知っている。
「信仰する宗派が違っていても、ベルンハルトを愛し、悼む心は変わらないはずです。共に祈りましょう。わたしたちは姉妹です」
フェリシアは巴里に返事を出した。巴里の義姉妹と文通は続いた。
商人の家に嫁いだマグダレナの気ままな生活が逸脱していると、遂に夫から厳しく監視されるようになった。子を生して、夫に遠慮が無くなり、愛人を持つようになったのが夫に露見したのだ。離婚も別居もせず、嫁ぎ先の館にマグダレナは閉じ込められた。
マグダレナは侮っていた配偶者の豹変に今更ながら心弱りし、食を断つようになった。マグダレナの訃報がリンデンバウム伯爵家に届いたのは間もなくだった。
葬儀を終えて、屋敷に戻ると、父はフェリシアに言った。
「マグダレナは一番器量の優れた、可愛い娘だった。
何故、健康な子どもたちが親に先だって死んでいき、病身のお前が一人生き残っているのだ?」
「それは父上が愛しているのは誰でもない、父上ご自身だからでしょう。鍾愛なさっていたのなら、何故マグダレナを格下の家の、親子ほど年齢の離れた人物の妻にしたのですか?
跡取り息子であったベルンハルトが反抗して家を出たのは、おやつをもらえず駄々をこねる幼児の拗ねに過ぎないとお考えだったのですか?」
父は予想しなかった娘の反撃に、何も言い返せなかった。逆縁に苦しむ鰥夫の父は、二女にとってもはや家族に対して生殺与奪の権限を持つ家父長ではなかった。
フェリシアは声に出さずに誓った。
――琥珀の中の虫なら琥珀の中の虫らしく、わたしは何もできないが、この家で起きることを全て見ていこう。父より長く生き、父を看取ってやる。そしてこの家を終わらせる。わたしは涙が凝った石になる。
『澁澤龍彦全集21』(河出書房新社)の『私のプリニウス』のほかに、琥珀の性質や名称について『琥珀誌』(田村栄一郎 くんのこほっぱ愛好会(久慈琥珀博物館内))を参考にしました。




