思念通信
桃髪の少女が楽しそうに、鼻歌を響かせながら歩いていく。
その姿だけを見れば、まるで暖かな日差しの降り注ぐ小春日の一場面だが、しかして現実はその正反対である。
真斗が軽やかに歩くのは、非常電源に切り替わった薄暗いショッピングモールだ。そこに華やかな雰囲気など欠片も無く、人々は怯えた表情で出口を目指して駆けていく。
それは灰色の濁流だ。恐怖に背中を押され、ひりつくような殺気を放ちながら人々は走る。行く手を塞ぐものは、それが幼い子供であっても容赦はしない。蹴り飛ばし、踏みつぶし、ただ光だけを求めてひた走る。
その中を、真斗はひらりひらりと衝突を避けながら流れをさかのぼる。目指すは混乱の根元だ。その少し後ろを、幹耶が人込みをかき分けながら必死に付いていく。両手の大荷物は先ほどの喫茶店に預けて来た。
「ちょ、すいませ――うあっ!?」
獣と化した人々に揉みくちゃにされながらも、幹耶は懸命に前へと進む。離されてはいないかと前を伺うと、真斗と目が合った。あちらも幹耶を気にしていたようだ。
真斗が身振りで脇道に逸れるように幹耶を促す。幹耶は苦労しながら流れを横切り、喫煙所や手洗いに続く通路に滑り込む。
「随分とお疲れじゃない。本番はこれからよ?」
壁に背を預けて真斗が言う。
「慣れていないんですよ、人混みなんて」表情を曇らせた幹耶が応える。「そんな事より、どこに行こうというのですか」
「もちろん、混乱の中心に向かって」当然と言わんばかりに、軽く腕を広げて真斗が言う。「その前に状況確認とか、幹耶君に〝思念通信〟についてレクチャーしておこうと思ってね」
聞きなれない言葉に、幹耶は「はぁ……」と曖昧に生返事をする。
「バベルを使用した音声通信……のような物ですか?」
「そうね、テレパシーを送る感じと言えば解りやすいかしら」真斗は額の真ん中に、人差し指と中指を乗せる「発声せずに、頭の中だけで相手に話しかけるイメージね」
「……やってみましょう」
視界の端に現れた、通信を求めるアイコンに意識を向ける。どうやら、これで真斗のバベルと接続された状態になったようだ。
幹耶のアーツは念話能力者ではないので、当然ながらこのような経験は無い。だが多感な時期には虚空に向かって〝隠れていないで、出て来いよ〟や〝俺の声、聞こえているんだろう?〟などと思念で語り掛けたりしたものだ。思い出せば赤面してしまうような行為だが、そのおかげで思念通信がどのような物かのイメージは比較的容易に掴むことができた。
ふと思う。この記憶が言葉となって真斗のバベルへ流れ込んではいやしないだろうか。もしそんな事になれば、配属初日から幹耶は恥ずかしさで悶え死ぬことになる。
『どう、ですか? 聞こえていますか、真斗さん』
思考を頭の外側へ、眼前の少女に向かって投げかける。微笑みながら指でOKサインを作る真斗を見て、幹耶はほっと息をつく。
『良い感じよ。初めてにしては上出来ね』真斗が嫌らしく口端を歪める。『もしかして、世界に向かって語り掛けたりしちゃうタイプなのかしらー?』
『な、何の事でしょう。解らない事を言いますね』
ニヤつく真斗の視線から逃れるように、幹耶は顔を背ける。雪鱗といい真斗といい、清掃部隊はこういう性格の人間が多いのだろうか。やりづらくて敵わない。
『ま、良いわ。練習はこれくらいにしておいて、早速本番と行きましょうか』
真斗が言い終わるのが早いか、幹耶のバベルへ複数同時通信の確認ダイアログが表示された。マニュアルによれば作戦行動中は強制通信らしいが、今は通常モードなので幹耶が自身で通信を許可する必要がある。少々不安を覚えるが、他に選択肢も無い。幹耶は通信を開始した。
『どもどもー。スイーパー、ピンキーの専属オペレーター兼アイドル、萩村雲雀ですー。ぶいっ!』
『…………は、はぁ』
誰だ。あ、萩村さんか。では何者だ。オペレーター……、アイドル? 見えてもいないのに〝ぶいっ!〟などと言われても困る。それとも、見えないからこそ、だろうか。
雲雀の間延びした、独特な声に引きずられて幹耶の思考も鈍る。視線は無意識に通信切断の方法を探していた。
『あれぇー? もしもーし』
『ん、あ、はい。ええと、初めまして、千寿幹耶と申します』
『はぁいー。よろしくですー』
のんびりとした声が脳内に反響して眩暈がする。幹耶は少し頭を振り、目頭を揉んだ。雪鱗とは違う意味で、話していると疲れるタイプだ。
『〝はーちゃん〟はこんな感じだけど、超が付くほどの凄腕ハッカーよ』
『やだもー。やめてくださいよぉー』
真斗の言葉に、満更でもないと言った様子で雲雀が笑う。〝はーちゃん〟とは、恐らくこの萩村雲雀の愛称なのだろう。
『それは何とも、凄いですね』
素直に感心して幹耶が言う。
『凄腕過ぎて、懲役二百余年の重犯罪人でもあるけれどね。今は減刑の為にピンキーで社会奉仕活動中ってわけ』
真斗がさらり、と凄い事を口走る。
『やだもー……。やめてくださいよぉ……』
『……それは何とも、凄いですね……』
素直に感心して、幹耶が言う。やはり、人という物は第一印象では推し量れない。
『じゃあ挨拶も済んだところで、状況の説明をお願いできるかしら』
何事も無かったように真斗が言う。空気を読まないというか、引っ掻き回して押し通る、とでも表現したほうが正しいだろうか。隊長殿も結構な性格だ。
『うぅ……。えぇと、真斗さん達が居るモールの東館でポリューションが発生。推定規模ランクA。別件で東館に居た機動一課の一部隊が取り残されている、との情報もありますー』
『チェイサーが? なんでまた』真斗が眉根を寄せる。
『何かの通報があって駆け付けたらしいですが、そちらも詳細は不明ですー。東館にはポリューションより〝デミ〟が大量発生中との報告が西館のガードから上がっていますー。』
立ち直りの早い萩村がつらつらと語る。
『一般市民の避難状況は?』
『東館のチェイサーがどうなっているか解りませんけれど、進んではいない様子ですねぇー。ノイズが酷くて通信不能。カメラも殆どがダウンしていますが、東館は既に餌場と化していると思われますー。現在、ガードが連絡通路で防衛線を張っていますー』
バベルが通信不能になる程のノイズって……? と、真斗が小さく呟く。
『救助が絶望的であるならば、もう東館を閉鎖してしまえば良いのでは?』
幹耶が言う。いっその事、東館を放棄してしまえば何も悩むことは無い。幹耶としては当然の提案をしたつもりであったが、真斗からぎろり、と睨みつけられた。
『見捨てろっての? それも良いけれど、仕事はきっちりとするべきだわ』
小さく鼻息を鳴らし、真斗は幹耶から視線を外す。
『はーちゃん、作戦許可は?』
『オールグリーンですー。そちらの幹耶君も、今回は特別措置って事で作戦に参加してもらいますねー』真斗の言葉に、萩村が相変わらずの間延びした声で応える。『〝清掃道具〟はそちらで適当に確保してくださいー。領収書は忘れずにお願いしますねー』
『レジを打ってくれる人が居れば、ね』真斗が薄く嗤う。『幹耶君、得意な獲物は?』
『そ、そうですね。それならば刃物です。刃渡りは長い方が良いですね』
『そうなると、刀剣商店ですねー』バベルへ地図とガイドが表示された。『近くに一店舗ありますねぇ。では、そちらでどうぞ―』
会話の終わりを感じ取り、幹耶が慌てたように声を上げる。
『待ってください。〝デミ〟とは? ポリューションとは別物ですか?』
『そうですねぇ。デミとは、周囲に広がる汚染物質みたいなものですかね。ポリューションはその発生源と考えてくださいー』
『ああ、上手い例えね。ちなみに、ポリューションを除去すればデミも消えるわ』
『は、はぁ……』
幹耶は生返事を返す。もう何度目だろう、アイランドには現実離れした物が多すぎる。
本来公害とは、人間の経済活動によって引き起こされた、大気汚染や水質汚濁による健康被害の事を言う。それに照らして言えば、なるほど、ポリューションも確かに〝アゾット結晶によるエネルギー増幅〟という経済活動から引き起こされた現象ではある。
しかし、だ。この気が遠くなるような異常を〝公害〟の一言で済ましてしまうアイランドを、幹耶は改めて狂っていると感じた。
『とにかく、私たち清掃部隊のお仕事は〝クリーニング〟よ。行きましょうか』
言い終わるが早いか、真斗が歩き出す。
『お気を付けてー。追加情報があったら連絡しますねー』
萩村との通信が切られ、後には間延びした声の残響だけが残された。
幹耶は小さく深呼吸をする。これから立ち向かう事になる異常に対する、覚悟を決める。
何が起きているのか、全く理解できない。想像もできない。だが、自分はこれからそこへ飛び込まなければならない。
上等だ、と幹耶は目を細める。今更もう、後戻りなどはできないのだから。