女神の陰影
死者七百四十九人という数字を記録したポリューション同時大量発生の陰に隠れ、モノリスタワー襲撃事件がひっそりと収束してから二週間後の早朝。モノリスタワー最上部、仮修復を終えたマザーアゾット保護外殻の上に立つ人影があった。
腕を広げれば身体が浮くのではと思えるほどの強風の中で、天白雪鱗は小動もせずに歩を進める。両手に抱えた大きな花束もまったく風の影響を受けていない。雪鱗を円形に包む防壁の輪郭が、風に撫でられて仄かに浮かび上がっている。
眼を細め、眼下に広がる街並みを眺める。建物の間を朝霧が漂い、燃えるような朝焼けに照らされて美しく輝いている。
アゾット結晶とは、果たして一体何なのか。地上に落とされた天使の涙か、はたまた悪魔の心臓か。一時はそんなことを真剣に考えたものだ。
雪鱗はくすり、と笑う。どっちでも良い。何でも良い。正体不明だからこそ、都合が良い。
解らないから、理解できないから。目の前にあるのに遠すぎて、だけれどそれに縋るしかなくて。だから人はそれを恐れ、あるいは畏れる。ある者は否定し、遠ざけ、またある者は独占しようとし、時に信仰し、崇拝する。それはまるで、神ではないか。
そうでなければならない。そうでなくては困る。マザーアゾットに抱かれしアイランドは、だからこそ象徴足りえる。始まりの舞台に相応しい。
雪鱗は少し屈み、ぐんっ、と身体を伸ばして手にした花束を空へと放り上げた。そして風に攫われる前にその中心を不可視の槍で突く。寝惚けた空に、色とりどりの花弁がまき散らされる。
花弁は風に混ざり、一筋となって空を流れていく。優雅な姿を見せつけるように舞い、ゆったりと流れるダストの帯と絡みあう。雪鱗はその様子を、悼むように眺めていた。
不意に背後に何者かの気配を感じた。正体は察しがついている。雪鱗は視線を空に向けたままで声を上げる。
「テロリスト組織、ナチュラルキラーのアンジュ〝断剣〟は単身でアイランドに潜入し、マザーアゾットの襲撃を計画。しかしその直前にスピネルの機動二課、スイーパー〝ピンキー〟の隊長、秋織真斗に阻まれて計画は頓挫。そして逃走中にポリューションの襲撃を受け死亡――」
くるり、と雪鱗が背後を振り向く。
「という事にしておいたけれど、これで良かったかな」
「え、なにー!? 風が凄くて聞こえないんだけれどー!? わ、ちょっ、危なっ!?」
秋織真斗は軽い身体が飛ばされないように身体を屈め、必死に踏ん張っている。生まれたての小鹿かい、と雪鱗は心中で突っ込みを入れた。
締まらないなぁ、と雪鱗が眉根を下げる。しかしまぁ、実に〝らしい〟とも言えるが。
『無茶をするねぇ。なに、どうしたの? こんな所まで』
バベルを介し、雪鱗が真斗へ声を掛ける。
『いやね、少し聞きたい事があってさ』どうにか立ち上がり、体勢を整えて真斗が言う。『お雪っていつも火蓮と一緒じゃん? なんだか聞きにくくって』
『何それ。最近、妙にそわそわしているなぁ、とは思っていたけれど』ふふ、と雪鱗が口元を綻ばせる。『聞きたい事がるなら、方法なんていくらでもあるでしょうに』
『うん、なんていうかさ、直接のほうが良いと思って』真斗はすっ、と目を細める。『今回の件、一枚噛んでいるでしょう』
レコードの針を上げたように、雪鱗の笑い声がすっ、と風に消える。そして、雪鱗は薄暗く口端を歪めた。
『だとしたら、何だっていうのかな』
静かに上る朝日に頬を照らされながら、二人は黙って睨みあっている。
どれほどの時をそうしていただろうか。生まれたての一日の上で、真斗はすっかり疲れ果てたようにため息をついた。
『やーっぱりねぇ。しばらく前から、なんだかコソコソと動き回ってるなぁと思っていたけれど』
ふぅん? と雪鱗が首を傾げる。
『良く気が付いたねぇ。極力目立たないようにしていたのに』
『ん。まぁね』呆れたように真斗が微笑む。『家族だし』
雪鱗は不思議な物を見た様に片眉を上げ、そして真斗と同じく呆れたように笑いながら、小さくため息をついた。
『そうだね。家族だもんね』
雪鱗はおどけるように肩を竦める。
『でもさ、少しやり過ぎよ』真斗が言う。
『好きにやらせて貰うって、言ったはずだよ』雪鱗の指に、微かに力が籠る。『あの日、あの時。二人で、そう約束したじゃない』
『そうね。それはそう。でもさ』真斗が手を腰のケースに置く。『やって良い事と、悪い事ってのがあるでしょう。悪い子は叱らなきゃ』
『それは正義として?』雪鱗が言う。
『今更そんな事を言うと思う?』
『いいや?』くすり、と雪鱗が嗤う。『互いの立ち位置を知りたくてね』
雪鱗を包む不可視の防壁がゆらり、と揺れる。攻防一体のアーツ、ホワイト・スケイルは臨戦態勢に入っていた。
望ましくない状況だ、と雪鱗は密かに歯噛みする。しかし、いざとなれば仕方が無い。計画は大きく後退するだろうが――。
『家族としてよ。決まっているじゃない』
何を当たり前の事を、と真斗が言う。
『――へっ? ……は、はぁ。そうっすか……』
すっかり毒気を抜かれ、雪鱗はきょとんとしている。
『ま、良いわ。次は絶対に阻止するから。邪魔をしない、って約束はしていなかったわね?』
『わぁ怖い。おねーちゃんにバレないように、もっと慎重にいたずらを仕掛けないとね』
二人の間に冷え冷えとした空気が流れる。因みに、スイーパーとしては真斗の方が半年ほど先輩ではあるが、二人は同い年だ。
『それにしても、真斗も人が悪いね。どう足掻いても幹耶くんにマザーアゾットは斬れなかっただろうに。やるだけやらせてあげれば良かったのにさ。あんな面倒な事をしなくても、案外さっぱりと吹っ切れたかもよ?』
マザーアゾットは常に雪鱗のホワイト・スケイルに守られている。つまり、たとえあらゆるセキュリティを越えてマザーアゾットの元へ辿り着こうとも、雪鱗の生み出す不可視にして不可侵の防壁をどうにかしなければ傷一つ付ける事は叶わないのだ。それが、雪鱗が常に大きく消耗している要因の一つでもある。
幹耶の操る絶対切断のアーツ〝神剣〟は切断のイメージを現実に上書きし、現象を生み出す能力だ。つまり、存在を認識できていない物は斬れないのである。たとえ剥離白虎を用いようとも、マザーアゾットがホワイト・スケイルに守られている事を知らない幹耶が傷をつける事は叶わなかっただろう。
『結果が問題なんじゃない。マザーアゾットに向かって刃を振るう。その行為そのものが重要なのよ』
『ま、それは解るけれどね』
吐き出した唾を元には戻せないように、流れ出た涙が還らないように、人は一度踏み外してしまえば、もう二度と戻れない。それは雪鱗自身も痛いほどに理解していた。
『ま、可愛い子だよね。世間を知らない分、純粋だし』
『変な事を教えないでよ? 私の大切な下僕なんだから』
『はいはい、解ってますよーっと』ひらひらと手を振りながら、雪鱗が真斗の横を通り過ぎる。『じゃあ、その下僕くんを迎えに行ってくるよ。どうせまた迷子になっているだろうし、早めに行ってあげないと』
『ねぇ』遠ざかる背中に、真斗が声を掛ける。『あの花束は』
覗き見とは感心しないなぁ、と雪鱗が低く嗤う。
『野暮だね。言わぬが花って奴だよ』
そう言って、雪鱗がカツカツと足場の階段を鳴らしながら去っていく。真斗はその音を風の向こうに聞きながら
「ねぇお雪。あなたのサイコロは、いい目が出たのかしら」
と、小さく呟いた。
■
とある空港、フロアマップの前でうんうんと唸る人物がいた。医療特化のアイランド・ツーでちぎれ飛んだ右腕の接合手術を受け、この度アイランド・ワンに帰還した千寿幹耶だ。例によって迷子になり、蒼い目を細め、墨を垂らしたような黒髪を掻いている。
待ち合わせ場所は前回と同じ。見ているフロアマップも同じものだ……と、思う。ダンナ――石花海さんに案内してもらった時はどちらの方へ進んだっけ、と幹耶は必死に脳内の棚を開けていくが、目ぼしい情報は出てこない。もう疑いようも無い。千寿幹耶は、重度の方向音痴だ。
「あらら。やっぱり迷ってたんだね」
不意にそんな言葉が幹耶の耳に届く。天白雪鱗が薄氷色の髪を揺らしながら通路の奥から姿を現した。
「迎えに来てくれたんですか」
「幹耶くんてば浮気者で、罪作りな男の子だからね。心配になっちゃって」
くすくすと笑う雪鱗に、幹耶は薄ら寒い物を感じていた。雪鱗がいう浮気、そして罪とは、幹耶がテロリスト組織〝ナチュラルキラー〟を抜け、ピンキー……正確には真斗の元へ降った事を指して言っているのだろうと思われた。
いくら仲間同士とはいえ、幹耶に相談も無しに真斗が言いふらすとも思えない。となれば、思い当たる可能性は一つだ。
「……聞いていたんですか? あの時の、真斗さんとの会話」
「眼と耳の良さには自信があるの」
悪戯っぽく雪鱗が言う。どの口が言うのだ、と幹耶は存分に顔を顰めた。恐らくは何かしらの手段を用いて、盗聴まがいの事をしたに違いない。バベルに何かしらの細工でも施したのか?
「ま、安心していいよ。誰に言う気もないし」
「雪鱗さんに貸しを作るのは、ぞっとしませんね」
「そういうんじゃなくてさ、経歴が黒い人間なんて、別に珍しくもないもん。メロンは爆弾魔として国際手配された事もあるし、ハナは同僚を射殺して逃亡した過去を持つ脱走兵だし、火蓮も私も、昔は〝外〟の治安維持部隊を相手に大暴れしていたしね」
そして萩村も超長期懲役を喰らっているサイバーテロリストだったはずだ。よくもまぁキワモノばかりが集まるものだ、と幹耶はげんなりした。自分も人の事は言えないのだが。というか、雪鱗は他人の秘密をべらべらと喋り過ぎでは? どこまで信用して良いのだ?
幹耶は雪鱗の背について歩いていく。今度こそは道順を覚えようと思っていたのだが、角を三回曲がったところでさっさと諦めた。
「街は、アイランド・ワンはどうなりましたか」
雪鱗は首だけで振り向き、質問の真意を計るように幹耶の目を見る。そして視線を前に戻し、うーん、と一つ唸った。
「そうだねぇ、色々あったけれど……。マザーアゾットと増電設備の損害は軽微でね、機能回復に時間は掛からなかったよ。それでも経済損失は気が遠くなる数字だったけれどね。で、事件の再発を防ぐって名目で各国が軍備強化を勝手に始めていてね、きな臭いもんだよ」
雪鱗は気軽に言うが、実に良くない情勢だ。人は力を持てば、必ずそれを振るいたがる。今後はアイランド内で一般人レベル以上のいざこざが起こるかもしれない。箍が外れないのを祈るばかりだ。
「スピネルの立場はどうなりますか」
「基本的には変わらないけれど、今回の件で戦力不足が浮き彫りになっちゃったからね。今後は国ごとに担当エリアを決めて、治安維持に協力してもらう方向で調整をしているよ」けれど、と雪鱗が言葉を続ける。「アレだけは私たちの担当だけどね」
「ポリューション、ですか」
雪鱗は応えず、ただ小さく頷いた。
「そっちの方でも色々と問題があってね。アイランド中に発生したせいで、都市伝説レベルだったポリューションが明確に〝恐怖のイメージ〟として人々の意識に定着しちゃってね。おかげで、あの事件以降に発生するポリューションの殆どがランクA以上の大物でさ、参っちゃうよね」
しばらくはポリューションの二次発生で大変だったよ、と雪鱗がけらけらと笑う。
それから二人は黙って歩き続け、ややあってエントランスに行き着いた。雪鱗がドリンクの自動販売機に寄り、カフェオレの缶コーヒーを購入する。
「幹耶くんは? 同じもので良い?」
「いや、私はブラックの方が好きです」
雪鱗はふぅん、と呟き、真っ黒に塗られた缶コーヒーを幹耶に投げ渡す。
「いつ頃から気が付いていましたか?」礼を言い、プルタブを爪で引っ掻きながら幹耶が言う。「その、私が、ナチュラルキラーの一員だと」
「いや、何処の誰かなんて事は最後まで解らなかったよ」甘さが足りない、と顔を顰めながら雪鱗が言う。「スピネルに敵意を持つ組織なんていくらでもあるしね。最初に渡した抹茶ラテを躊躇なく口にしたりするし、もうサッパリだよ。本当に普通の新人くんなのかな、とも思ったね」
「抹茶ラテ?」
はて、と幹耶が首を捻る。意味が良く解らない。
「もし幹耶くんが間者の類だったら、突然渡された飲食物に手を付けたりはしないもの。特に、何を入れられていても気が付けない程に味と匂いが強い代物なんてさ」
それはその通りだ、と幹耶が頷く。もし幹耶が〝その時点で〟スパイだったとしたら、きっと飲むふりすらしなかっただろう。
「ミストブルームのアーツでしょ?」事も無げに雪鱗が言う。「記憶に蓋をされていた幹耶くんは、初めて会った時には一般人だった。解除は……そうだね、バベルの起動時かな」
酷い酔い方だったものね、と笑う雪鱗に、幹耶は苦笑いしか返せなかった。何をどこまで見通されているのだ? 天白雪鱗の本当の恐ろしさはこういう所だ。本当に底が知れない。
「裏切り者といえば、磯島さんの遺体が見つかったそうですね」
「正確には、散らばった肉片と磯島のDNAが合致したって話だけれどね」
大型輸送ヘリ、ヘイローの墜落現場からは磯島と思われる遺体は見つからなかった。磯島は雪鱗のアーツを再現した〝イージス〟により生き残り、逃亡した物と思われていた。しかしその翌日、変わり果てた――というより、正体不明の肉片として発見された。全身をくまなくちぎられ、潰され、悪魔でもここまではしないだろうという程に凄惨な状況だったらしい。発見場所が港だったことから、逃亡を図る磯島を何者かが襲撃したのだろうと予想されている。だが、その襲撃者を特定するような証拠は何一つ見つかっていない。
「磯島さんは、なぜあのような殺され方をされたのだと思いますか?」
「さぁね、怨みじゃない?」
確かに磯島に恨みを持つ者は多いかも知れないが、理由の説明にはならない。それに、磯島にはアーマード・エレメントの護衛もついていたはずだ。
「私はこう考えています」幹耶は雪鱗の様子を伺うように目を細める。「犯人は、磯島さんから何かを奪ったのではないかと」
「何かって、何さ」
「例えば眼球、指紋。あるいは手のひらの静脈。もしかしたら脳髄なども。それを隠すために、原型を留めない程に遺体を損壊したのでは?」
「ふーん。何の為に?」
「ミュータントプログラムの起動キーの為に。違いますか?」
「違いますか、って言われてもねぇ」あははは、と雪鱗が笑い声を上げる。「私に言われても解らないなぁ」
「いや、あなたなら解るはずだ」意を決して幹耶が言う。「今回の一件、雪鱗さんも深く関係していますね?」
雪鱗は缶コーヒーに口を付けたままで動きを止める。そして横目で幹耶を見遣りながら、ゆっくりとその手を下げた。
「下手な誤魔化しは無意味かな」ふぅ、と雪鱗は小さくため息をついた。「どこまで把握している?」
背筋が震えた。ほんの僅かではあるが、雪鱗から流れて来るそれは、凍えるほどに冷たい殺気だった。
「正直、確証はありませんでしたが……。やはり、そうなのですか」
しばらく幹耶を見つめていた雪鱗だったが、唐突に殺気を引っ込めて困ったように眉根を寄せた。
「いや、参ったね。幹耶くんにも感づかれるなんて」親指でエントランスの隅にあるソファーを示しながら、雪鱗が言う。「後学の為に聞かせてよ。どうしてその答えに行き着いたのか」
幹耶は逡巡したが、口火を切ったのはこちらだ。「私からも色々教えてあげるからさ」という雪鱗の言葉に覚悟を決め、ソファーに腰掛ける。ここで逃げて、すっきりしない気持ちを抱えたままでピンキーの一員として生きていくのは、何か違うという思いもあった。
「病院のベットの上で、今回の事件の事をずっと考えていました」幹耶は二人の間にある、分厚いガラスのテーブルに缶コーヒーを置く。「スピネルに磯島さん……バルミダ機関の事をリークしたのは、本当にナチュラルキラーなのかと」
「んん? どういう事かな」
「まず、テロリストの情報を元にスピネルが動くなんて事は考えにくい。第一、そのナチュラキラーの一員である私自身が、バルミダ機関の存在を知りませんでした」
「幹耶くんが知らされていなかっただけかもよ」雪鱗がせせら笑う。
「確かにその可能性もあります。状況からすれば、ナチュラルキラーがバルミダ機関を〝だし〟にしてアイランドガードを誘い出し、襲撃するのが目的だった……と考えるのが自然だとは思います。だけれど、それはおかしいのです」
「何がおかしいって? 敵を誘い出して各個撃破。戦力で劣るナチュラルキラーの取る戦術としては上策だと思うけれど」
「いえ、下策です。バルミダ機関の事を知っていたのならば、ミストブルーム……白楼雅なら静観という手段を取ったはずです」
そんな名前なんだ、と雪鱗が小さく呟く。
白楼雅。対象の認識と記憶を自在に操る幻惑のアーツ〝迷いの森〟を持つ、ナチュラルキラーの最高幹部だ。出身も年齢も不詳。解っているのは彼女の性別が女であるという事。特区とそれを支えるアイランドに対して強い怨みを抱いているという事。そして、目的の為ならどんな下劣な手段も用いる性格だという事だ。
「ナチュラルキラーの目的は特区とアイランドの壊滅。バルミダ機関の人工的なポリューション製造が成れば、労せずとも目的は達成される可能性があるわけです。それなのに、あの白楼雅がわざわざバルミダ機関の情報をスピネルにリークするはずがありません」
「遺体を調べた限りでは、襲撃者はナチュラルキラーの構成員らしいけれど?」
背もたれに身体を預けて雪鱗が言う。スピネルの調査の結果、それは間違いないだろうという事だった。
「踊らされただけです。バルミダ機関でもアーマード・エレメントでもなく、ナチュラルキラーでもない誰かに」
「それが、私だと?」
「事件の直後、スピネルの上層部から数名の辞職者が出ています。彼らは〝不確かな情報に踊らされて部隊を動かし、アイランドを危険にさらした〟事に対しての責任を取らされた形ですが、皆一様に〝あれは出所の確かな情報だった〟と主張しています。ではどこからの情報だったのかと問えば、不思議な事に誰もが違う証言をし、まるで一致しません。結局、スピネルが例の襲撃をナチュラルキラーが仕組んだ情報操作だと断定したのは、事件から十日後です」
雪鱗は口をつぐんだまま、目を伏せている。
「なぜあの時点で、その情報を掴んでいたのですか? 何の判断材料も無かったというのに。もしかしたら知っていたのではなく、〝そういう事にする予定だった〟からではありませんか?」
雪鱗は動かない。何かを考え込むように、視線をガラス越しに床へと投げている。
沈黙に耐えかねた幹耶が、再び口を開こうとした時――。
「――――ふっ、くっくくく。くっ、ふふふふ――――」
と、地の底から響くような笑い声が上がった。
「いやぁ、参ったね。あの時はさっさと話しを終わらせたくて口が滑っちゃったけれど、まさかそんな小さな嘘で感づかれるなんて。やっぱり、嘘なんてつくもんじゃないねぇ」
くつくつと喉を震わせる雪鱗から、ドロリとした気配が立ち昇る。幹耶は思わず身体を強張らせた。背中を冷たい汗が流れる。
「他にもあるんでしょう? 流石に、それだけでこんな事は言わないよね?」
雪鱗の言葉に、幹耶は怖々と頷く。
「ヘリ部隊が飛来した時、雪鱗さんは何の情報も無しにそれらを敵性だと判断しました。ハナさんたちは戸惑っていただけだったというのに、あなただけ。あまりにも不自然です。それにこうも言っていましたね、〝情報より動きが速い〟と。一体、どんな情報だったのですか」
あらあら、と雪鱗は苦笑いを浮かべる。
「おやまぁ、地獄耳ですこと」雪鱗は肩を竦めておどけて見せる。「落ち込むわぁ。私の失言が原因かぁ」
はぁ~……と、雪鱗が深いため息をつく。しかし口元には笑みが張り付いたままで、幹耶には雪鱗が落ち込んでいるようには少しも見えなかった。
「一つ、昔話をしようか」唐突に雪鱗がそんな事を言う。「ある所に、桃色の髪をしたとても可愛らしい女の子が居ました。その女の子は不老不死という、際立って異質な能力のせいで、毎日毎日、それはもう酷い目に遭わされていました」
真斗の事だな、と幹耶は思った。というか、それしかない。
「女の子はやがてアイランドに送り込まれ、化け物を掃除するという過酷な仕事を押し付けられました。女の子は何度も命を落としながら化け物と戦い続けます。そんな日々の中でふと思いました。〝自分は何の為に戦っているんだろう〟〝どうしてこんな辛い思いをしなければならないのだろう〟と」
幹耶は身動ぎする事も無く、雪鱗の話に耳を傾ける。口を挟むのは許されない雰囲気だった。
「やがて女の子は一つの答えを導き出します。アイランドを守ればアゾット結晶の研究が進む。いずれはアゾット結晶とアーツの謎が解明され、アンジュが特別な存在ではなくなるかもしれない。そうすれば、差別はぐっと減るだろう。そうすれば、一つでもこの世界に笑顔を生み出す事ができるだろう、と。その為に、尽きる事のないこの命を、アイランドに捧げようと」
雪鱗は一つ息をつき、缶コーヒーを煽る。
「その言葉を聞いた青い髪の女の子は、お腹を抱えて笑いました。実に馬鹿馬鹿しいと思いました。夢見る少女のお花畑のような妄想だ、とバッサリと切り捨てました。それから、二人はそれはもう酷い大喧嘩をしました。お互いの喉笛を噛み千切るような喧嘩勝敗は、結局付きませんでした。けれど、最終的には根負けする形で、青い髪の女の子は桃髪の女の子に従う事にしました。桃髪の女の子の理想実現に〝自分なりのやり方〟で協力することを約束したのです」
青い髪の女の子とは雪鱗の事だろう。
「桃髪の女の子の理想自体は素晴らしい。けれど、まるで具体性も実現性も無い、と青い髪の女の子は思いました。仮にアンジュが特別な存在でなくなったとして、果たしてノーマルとアンジュは〝対等な存在〟になれるだろうか。答えは〝否〟です。呉越同舟という言葉もありますが、昨日の敵は今日の友なんて言葉もありますが、そんな事は絶対ない、と青い髪の女の子は考えていました」
そうだろうな、と幹耶は頷く。一度芽生えた敵意は、そう簡単に消えるものでは無い。表面上は平和でも決して差別は無くならず、事あるごとに対立意識が噴出するだろう。人間というのはどこまでも孤独で、とことん解り合えない生き物だ。
「そこで青い髪の女の子が考えたのは、アンジュの独立です」
「ど、独立?」思わず幹耶が聞き返す。
「そう、独立。青い髪の女の子はアイランドを支配し、アンジュの〝国〟にしてしまおうと考えたのです。どこまで行ってもアンジュとノーマルは解り合えません。桃髪の女の子は不死故に気長に構えられるのでしょうが、そんな事では何も変えられません。何かを変えるには、強烈な一撃が必要なのです」
季節はすっかり春になり、気温は日々上昇を続けている。だと言うのに、幹耶は背筋が凍るような思いをしていた。自分はパンドラの箱でも開けてしまったのか? 話の続きを聞く事に、得体のしれない恐怖を感じていた。しかし今更、雪鱗の口を閉ざさせる事はできない。
「ある冬の晩、今にも落ちてきそうな星空の下で、青い髪の女の子は理想実現の手段をあれこれと考えながら歩いていました、しかしこれというアイデアは思いつかず、疲れて空を見上げます。目に入ったのは、モノリスタワーの最上階に鎮座するマザーアゾットが放つ桃色の光でした。その時、一つの疑問が少女の脳裏を過ります。アンジュは身体に宿すアゾット結晶を失えば死に至る。つまり、アゾット結晶は第二の心臓と言える。だというのに、桃髪の女の子は全身を潰されようが溶かされようが、何事も無かったかのように再生して見せる。桃髪の女の子のアゾット結晶は、あの小さい身体のどこにある?」
言われてみれば、その通りだった。ポリューションが体内に宿すコア――粗製アゾット結晶――を失えば消滅するように、アンジュもまたアゾット結晶を失えばただでは済まない。その常識に照らせば、秋織真斗の不死性は、本来ならば非常に脆い代物のはずだった。
幹耶は、真斗の身体に光るアゾット結晶を一度も見たことが無かった。見えづらい場所にあるのだろう、と漠然と考えていたが、果たして本当にそうなのだろうか。
「青い髪の女の子は考えました。アンジュの髪か瞳には、宿したアゾット結晶の色が必ず現れる。そして桃髪の女の子とマザーアゾットの色は同じ。桃色のアゾット結晶自体は珍しくも無いが、これは偶然なのだろうか? そんな疑問を切っ掛けにして、青い髪の女の子は桃髪の女の子の経歴を徹底的に調べ上げ、やがて一つの事実に行き当たります。桃髪の少女がもつ〝秋織〟という苗字は、仮の物でした。本当の苗字は〝佳賀里〟聞き覚えがあるよね?」
「聞き覚えも何も……」
佳賀里。その名はアゾット結晶に関わった人間ならば誰でも知っている。七つのマザーアゾットを造り出したとされる、アゾット結晶の秘密を唯一知っていたとされる人物の名が〝佳賀里誠司〟。そう多くはない苗字のはずだ。
「そう。秋織真斗の本名は佳賀里真斗、アゾット結晶の生みの親である佳賀里誠司の七人の子供たち。その一人だよ」
佳賀里誠司は生涯未婚であったが、七人の子供を養子にしている。真斗はその一人なのだと、雪鱗が言う。
「桃髪の女の子――って、もう良いか」こほん、と雪鱗が小さく咳をする。「真斗は佳賀里誠司の娘。まぁ養子だけど。そしてアイランド・ワンのマザーアゾットと同じ髪色で、身体には何故かアゾット結晶が見当たらない……となれば、〝マザーアゾットは真斗のアゾット結晶なのではないか〟という推測が成り立つよね」
「成り立ちますかね? 突拍子も――」
言いかけて、幹耶は口ごもる。本当に突拍子も無いか? 少なくとも、この場で結論を出すのはためらわれる程度の説得力はある仮説に思えた。強固に否定するだけの確たる材料がないのだ。
「まぁ真実はどうでも良いんだよね。まさかマザーアゾットを砕いて確かめる訳にもいかないし」雪鱗がこつん、と爪でテーブルのガラスをつつく。「必要なのは、今幹耶くんが感じているような〝そうかも知れない〟と思わせるだけの真実味だよ。それさえあれば、真実は事実で造り出せる」
佳賀里誠司の娘。七つのマザーアゾットと七人の子供たち。そしてアゾット結晶を持たないアンジュ、真斗。なるほど、民衆が欲しがりそうなキーワードのオンパレードだ。
「……それで、それが今回の件とどう関係するのです?」
「そうだね、ここからが本題だよ」雪鱗は指を組み、静かに息を吐く。「私はアイランド・ワンが欲しかった。アンジュが安心して暮らしていける土地にしたかった。真斗を旗印に各地に隠れ暮らしているアンジュたちを呼び寄せ、アンジュの国を造り出したかった。真斗を〝女神〟に仕立てあげようと思ったんだ」
「め、女神……ですか?」
幹耶は困惑した表情で聞き返す。それこそ、突拍子も無い。
「そう。アイランドの要石たるマザーアゾットのアンジュとして、数多のアンジュを導く象徴になって貰おうと考えた」
アンジュの最大の弱点。それは〝数の少なさ〟だ。いくら個々が強烈な戦闘力を持とうとも、数の暴力には敵わない。互いの立場を逆転させるには、とにもかくにも数で勝らなければならなかった。雪鱗は各地で怯え隠れている同胞たちを呼び寄せる為に、真斗を旗印にしようとしたというのである。
「でも女神なんて、どうやって」
「世の中の構造なんて、実に単純なもんだよ。アイランドが未曽有の危機に見舞われ、その存亡が脅かされた時、見事敵を打ち倒し、アイランドを救う。それがマザーアゾットのアンジュ。しかもその能力が伝説の不老不死ともくれば、後は勝手に周りが盛り上がってくれる。能力が能力だからね、それこそ神聖視する輩も出てくると思うよ。あの可愛らしい外見も一役買うだろうね」
くつくつと雪鱗が喉を鳴らす。
「解りませんね。そんな事で何かが変わるとも思えませんが」
「変わるさ。決定的に、絶対的に。全ての寄る辺なきアンジュに、集うべき旗を掲げる。それだけで何もかもが変わる。押さえつけられるだけだったアンジュたちに、自分は優れた存在なんだ、と気づかせてやるだけで良い。後は勝手に世界が転がる」
異常な理論を堂々と展開する雪鱗を見て、幹耶は真斗と雪鱗の間にある、奇妙な類似性の正体に気が付いた。
真斗と雪鱗は何もかもが異なるが、根の部分がとても良く似ているのだ。それは表と裏、陰と陽、あるいは太陽と月と言っても良い。
理想を語る二人の少女たち。同じくアンジュの平和を望みながら、しかし目指す先はまるで違う。真斗はノーマルとアンジュの共存を望み、雪鱗はノーマルの排除、もしくは支配を望んでいる。
とても近しく、そして正反対の存在。
それが秋織真斗と天白雪鱗という、二人の少女のあり方だった。
「あなたは」生唾を無理やりに吞みこんで、幹耶が言う。「雪鱗さんは、結局、何をしたのですか」
「それがさ、まぁ、なんというか……。物事って、漫画や小説のように、簡単には転ばないものだよねぇ」
とぼけたような雪鱗の態度に、幹耶は「はい?」と首を捻る。
「真斗を女神に仕立て上げるには、まず脅威がなくてはならない。と、いう訳で私は磯島にとある研究の依頼をした。思うような研究ができずに燻っていた磯島に、資金と研究の材料を与えて、ね」
「それが、ポリューションの製造、ですか」
「そういう事。簡単に食いついてくれたよ。資金はね、はーちゃんに協力してもらって用立てたんだ。大金をネットバンキングに預けるなんて、不用心な人が多いよねぇ」
その言葉だけで、雪鱗が萩村に何をさせたのかは大方の察しがついた。というか、二人は協力関係にあったのか。確かに萩村ならば情報操作などは朝飯前だろう、と幹耶は思った。
「資金集めに研究所の用意、そして被験者の確保に、〝失敗作〟の掃除。色々と大変だったよ。けれど研究のほうは中々進まなくてね。これは失敗したかなーと思っていたんだけれど……、いやー、ショッピングモールの一件は驚いたね。磯島め、知らない間に研究を完成させてるんだもん」
「……知らなかったのですか?」
「うん。ぜーんぜん。流石に戸惑ったよ、どういうつもりなんだって。んで、大慌てで探りを入れたらアーマード・エレメントの名前まで出て来るし、そのアーマード・エレメントがナチュラルキラーを支援してアイランドで暴れさせている張本人みたいだしで、もう混乱しまくりだよ」
やれやれ、と雪鱗が首を横に振る。
「要するに、磯島が暴走して勝手にアーマード・エレメントと取引をしていたんだよね。ネタは勿論ミュータントプログラム。で、アーマード・エレメントは磯島が研究を進めやすいように、そして私の気が逸れるようにナチュラルキラーを暴れさせていたって訳だね」
つまり、ナチュラルキラーは利用されていただけだ。だがそれは良い。珍しくも無い話だ。しかしミストブルームは、白楼雅はそれだけでは満足しなかったのだろう。幹耶の記憶を改竄して機動二課に潜り込ませ、マザーアゾットを直接攻撃する機会を作ろうとした。幹耶のサードアーム、剥離白虎もアーマード・エレメントに用意させたものだろうか?
「それから、どうしたのですか」
「まぁこうなったら仕方ないからさ、磯島に〝アイランドの敵〟になって貰おうと思った。計画はあっちが勝手に進めてくれるみたいだから、私は外から舵取りをしただけだね。けれど、その計画もかなりイカレた代物だったし、ナチュラルキラーが何かを企んでいる気配もあった。誰がどう動くかは読み切れなかったし、ギャンブルだったね」
雪鱗を利用しようとした磯島を、逆に利用し返したという訳か、と幹耶は唸る。
雪鱗は磯島へ〝脅威〟を造り出す為の研究を依頼し、磯島はその成果を材料にしてアーマード・エレメントと取引をしようとした。アーマード・エレメントはミュータントプログラムを利用してマザーアゾットの奪取を目論み、混乱を演出するためにナチュラルキラーも利用した。そしてナチュラルキラー、白楼雅は幹耶をアイランドに送り込み、そしてその全てを雪鱗が横から掻っ攫った、という事だ。
「因みにスピネルにバルミダ機関が暗躍している事を知らせたのも、ナチュラルキラーにアイランドガードを襲撃させたのも、私だよ」
予定通りに削り合ってくれたね、と雪鱗が笑う。悪魔め、と幹耶は小さく毒づいた。要するに、誰も彼もが天白雪鱗に踊らされたのだ。情報を小出しにし、計画を不自然に前倒しさせ、その主導権を奪った。事態をコントロールしてみせた。
深く関係している、などというレベルでは無い。
天白雪鱗は、この事件の首謀者だ。
恐ろしい人物だ、と幹耶は思う。想定外の事態すら乗りこなし、数多の勢力の思惑も絡めとって、見事に事を成し遂げた。
この人は、一体何者なのだ――。
「何百人もの人の命を踏み台にして、望む物は手に入りましたか」
苦虫を噛み潰した様な表情で幹耶が言う。雪鱗は冴えない表情で、大仰に肩を竦めて見せた。
「今一つと言った所だね。結局、ナチュラルキラーには殆ど逃げられちゃうし。まさかミストブルームまでがアイランドに入り込んでいるなんて、気が付かなかったよ」それに、と雪鱗が続ける。「ミュータントプログラムは確かに驚異的だけれど、結局は未完成品だし、もうネタのばれた手品みたいな物だからね。発想自体は単純な代物だから、どこかの国が真似をするかも知れないし。一応何とか回収したけれど、使う事はないかな」
少し勿体ないね、と雪鱗が笑う。
「んで、アイランド・ワンを危機から救ったのは狙い通りに真斗……なんだけれど、ポリューションによる混乱が大きすぎて、真斗の存在が目立たなくてね。こちらも失敗。一部にアンジュの有用性を認められたってだけだね。真斗の望みが少しだけ叶った形かな。あ、一つだけ良い事もあったよ」そう言って、雪鱗が人差し指を立てる。「スピネルが、有事に備えた戦力の増強という名目で、アンジュの保護と育成を始めるつもりらしくてね。どう転ぶかは解らないけれど、それだけは良かったかな」
――良かった、だと?
「全然、良くは、無いでしょう……。一体、何人死んだと」
絞り出すような声で、幹耶が呟く。流れる静かな怒気を、しかし雪鱗は少しも気にしていない様子で言い放つ。
「たかだか七百ちょいの命が何だっていうのさ。死ぬも生きるも自己責任だよ。吞みこまれる方が悪いのさ」
幹耶は思わず腰を浮かせかけるが、立ち上がる事はできなかった。見えない何かに押さえつけられているような感覚だった。
幹耶は直感した、ホワイト・スケイルだ。幹耶の身体の周りに不可視の防壁を展開し、その動きを制しているのだ。こんな使い方もできるのか――。
「正義? 悪? 誰がそれを決める? お綺麗ごとを並べた所で意味は無いよ」でもまぁ、と雪鱗が続ける。「そういう真っ直ぐな正義感も嫌いじゃないかな。元テロリストが正義の味方なんて、笑っちゃうけれどね」
幹耶はしばらく迷うような仕草を見せていたが、結局は雪鱗の言葉に反論できずに腰を下ろした。
そうだ。この世には正義も悪も無い。思惑と結果があるだけだ。
真斗も雪鱗も、そして幹耶も、等しく同じ物なのだ。
缶コーヒーを飲み干し、雪鱗が「そろそろ行きましょうか」と席を立つ。
まったく、驚きだ。
バルミダ機関も、アーマード・エレメントも、ナチュラルキラーも、白楼雅も、天白雪鱗も、秋織真斗も、そして、自分も。 誰も彼もが、驚くほど自分勝手だ。
世界は、無数の自分勝手で回っているのだ。
「一つ、聞いても良いですか」
背中に掛かる幹耶の声に「どうぞー」と雪鱗が応える。
「雪鱗さんの思惑通りに事が進んだとして、あなた自身は、一体何を得ると言うのですか」
真斗はノーマルとアンジュの共存を求める理由を〝寂しくなりたくないから〟だと言った。では、雪鱗は何を求めているというのか。幹耶にはそれが解らなかった。真斗の理想実現を手伝うというだけならば、わざわざこんなことをする必要はないはずだ。
「えー? それを言わせるの?」雪鱗は何故か照れくさそうに頬を掻く。「ええとね。あの子が寂しくないように、と思ってさ」
予想外の返答に、幹耶の表情が奇妙な形に歪んだ。
「ああ見えて、真斗って繊細でさ。楽しい事があるたびに、嬉しい事があるたびに、笑顔の後に必ず、一瞬だけ寂しそうな顔をするんだ。いつか一人残された時の事を考えずにはいられないんだろうね。思い出の一つ一つを胸に刻み込んでいるんだと思う。ちょっと――」雪鱗もまた、一瞬だけ寂しそうな表情を覗かせる。「ちょっと、見ていられないかな」
「雪鱗さん、あなたは――」
雪鱗はいつものチェシャ猫に戻り、誤魔化すように手を振る。
「勘違いしないでよ。私は真斗のやり方じゃ理想実現なんてできないと思ったから、好きにやらせてもらっているだけだよ」それにさ、と雪鱗が口端を歪める。「しかめっ面のヒーローより、ニヤついた悪役の方が、楽しそうじゃない?」
きっと雪鱗の中には最早、善や悪といった概念は存在しないのだろう。その胸の中にある物は、ただ一つ、真斗への歪んだ愛情だ。
雪鱗の行った行為は、紛れも無く悪だ。しかし、それを糾弾する事などできはしない。少なくとも自分にその資格は無いと幹耶は思った。できる事があるとすれば、また今後雪鱗が同じような謀を目論んだ際に、被害が拡大しないように立ち回る事くらいだろう。
それにしても、と思う。
同じ世界を生き、同じものを求め、それでも、人はどうしてこんなにも違ってしまうのだろう。
「やっと来たか。遅いぞ二人とも」
二人が深緑の高機動装甲車に乗り込むと同時に火蓮が言う。
「いやぁ、話が盛り上がっちゃってね」
ないない、と幹耶は心の中で突っ込みを入れるが、火蓮はそれだけで何かを察したようで「ふーん?」と目を細めた。
「取り込むのか?」
その一言で幹耶も察した。火蓮もまた、雪鱗の協力者だ。二人は常に行動を共にしているので、当然と言えばその通りではあるが――。
「いんや。幹耶くんはもう、真斗の物だからねぇ。手を出すなと釘も刺されているし」
火蓮は「そうか」とだけ声を発し、アクセルを踏み込んだ。まるで人身売買のようだ、と幹耶は眉根を寄せる。つくづく物騒な人たちだ。
運転席に火蓮、助手席には雪鱗。そして後部座席に幹耶という、いつかと同じ形になった。違いがあるとすれば、幹耶の隣にはどこかで見たピンク色をした大きな猫のぬいぐるみ、そして鞘が新調された剥離白虎が置かれていた事だ。
幹耶は剥離白虎を手に取ると、鞘に刻まれたある物に気が付いた。それは斜めに立てかけられた剣の上で三日月に手を伸ばす桃色の猫が意匠された、機動二課、スイーパー〝ピンキー〟の部隊章だった。
「それ、引っこ抜くの大変だったんだから。どんな切れ味してんのさ」
ルームミラー越しに幹耶を見遣り、雪鱗が言う。
「それにしても災難だったな。腕はもう良いのか」
ハンドルを握ったままで火蓮が言う。幹耶は「ええ」と頷いた。
「自分でも驚くくらい、なんともないです。現代医療は殆ど魔法ですね」
「そりゃ結構なことだが、次も無事とは思わないことだ。あたしたちはどこかの隊長様とは違うんだからな」
「肝に銘じます」
「というより、ルーキーはもっと実践慣れしたほうが良いな。今度暇があったら、みんなで稽古をつけてやるよ」
火蓮の言葉に幹耶は「お手柔らかに……」と返すので精一杯だった。真斗ですら敵わないという火蓮たちと模擬戦などをしたら、一体どんな目に遭わされるのだろう。想像するだけで胃が痛む。
やがて高機動装甲車はアイランド・ワンへと続く長い橋へと差し掛かる。窓の向こうに見える、大空をゆったりと流れるダストの光を見ると、少し懐かしみを感じてしまう。
そのダストの帯に、一片の桃色が重なった。
「……そうか、桜」
幹耶は春だもんな、と小さく呟く。アイランド・ワンに桜の木でも植えられていて、その花びらが春風に乗って届いたのだろう。
「花見? 良いね良いね」
雪鱗の言葉に、火蓮も「面白いかもな」と同意する。幹耶はそういうつもりで言ったのでもなかったが、否定する必要もないので黙っている事にした。花見、か。言葉として聞いたことはあるが、果たしてどのような物なのだろう。少し楽しみだ。
高機動装甲車が橋のゲートを潜り抜けると、幹耶の視界が一瞬だけぐらり、揺れた。バベルが起動したのだろう。視界には様々なアイコンと、首を回してこちらの様子伺う火蓮の姿が見えた。
「……吐きませんよ?」
「そうか、安心したよ」
からからと火蓮が笑う。ゲートを通るたびにネタにされそうだな、と考えていたところで、幹耶のバベルへ通信が入る。
『あ、やっと繋がった。無事に戻ってこられたようね』
声の主は、我らが隊長様であった。ご主人様、と呼んだ方が良いのか? とてつもなく恥ずかしいが、真斗が望むなら仕方なしだな、と幹耶は思う。
『どう? 迷子にはならなかった?』
『大丈夫です。一時間で雪鱗さんに見つけて貰いました』
『いやそれアウトだから』
そうか? と幹耶は首を捻る。『単独行動をさせないようにしないとね……』とため息をつく真斗の声が聞こえてきた。
『ま、帰ってきてくれて良かったわ。そのままとんずらでもされたら、どうしようかと思っていたわよ』
『心外ですね、そんな事をするタイプに見えましたか?』
思わないけどさ、と嬉しそうな呟きが幹耶の脳内に流れる。
『あー、まぁ。とりあえずアレよ。その』
『うん? なんです?』
妙に真斗の歯切れが悪い。珍しいな、と思っていた幹耶のバベルへ、別の声が割り込んできた。
『はいはーい。イチャラブしているところをすみませんー』
それは萩村からの緊急通信だった。真斗が『い、イチャラブなんかじゃ!』と抗議の声を上げている。
『どうしたの、はーちゃん。野暮だよ?』
雪鱗までそんなことを言う。というか、聞かれていたのか。この二人の前にはプライバシーなどという言葉は意味を成さない。
『はいー。ハナさんとメロンさんがポリューションの除去を行っているのですが、これが厄介な代物らしくてですねー。皆さんに援護要請ですー』ああそれと、と萩村が言う。『お久しぶりですねぇ、幹耶さん。お元気でしたかー?』
『……ええ、お久しぶりです。病院のベッドの上で元気にしていましたよ』
それはそれは、と返す萩村の言葉の端に、雪鱗のそれと同じような薄暗いものを感じた気がした。考えすぎだろうか? ともあれ、この一見とぼけたようなオペレーターも、一筋縄ではいかない人物であることには変わりはない。
『ポリューションの詳細は?』火蓮が言う。
『すげぇ面倒な奴だぞ』華村の声が聞こえてきた。『大型で、ロバの身体から犬、猫、鳥の頭が生えたキマイラのような奴だ。スピネルはこのポリューションを〝ブレーメン〟と名付けた。とまぁ、それは良いんだが――』
華村の声に、キャメロンが言葉を被せる。
『対象は環状道路を高速で移動中。デミは無し。すれ違った車は全て無人になる。凄い早食いだよね』キャメロンが笑いながら笑えない事を言う。『今までに無かったタイプだ。対応が遅れて、被害が青天井で拡大中だよ』
『無人になった車が事故って、環状道路は火の海だ。ろくに追うこともできない。はっきり言って手に余る。手を貸してくれ』
切羽詰まったような華村の言葉に、雪鱗が「面白そうだね」などと呟く。
『丁度良いや、どうせ集まろうと思ってたんだ。終わったらお花見しよう』
『花見? 別に構わねぇけど』雪鱗の言葉に華村が応える。
『火蓮、悪いんだけれど拾ってくれない? モノリスタワーに居るから』
真斗の言葉に火蓮が『はいよ』と返事をする。
高機動装甲車はぐん、と速度を上げた。緊急車両の行く先にある信号は、自動的に全て青になる仕組みらしい。真斗の元へはすぐに到着するだろう。
それにしても、早速大騒ぎだ。これがピンキーの日常なのだろうな、と幹耶は思った。まぁ、嫌いじゃないが。退屈よりはよほど良い。
『そうだ、みーくん。言いそびれてたんだけれど』
思い出したように真斗が言う。どうやら、幹耶の新しいあだ名は〝みーくん〟で決まったようだ。
『えーっと、その。お……、おかえり』
――――――。
はっとした。おかえり。そうか、〝おかえり〟か。
幹耶はようやく理解した。あの夜から、全てを失ったあの日から、ただその一言が欲しくて、絶対に手に入らない、そのたった一言の言葉が欲しくて。でももう、家族と呼べるような人もいなくて。辛くて、苦しくて、拗ねて、暴れて。
真斗のその一言で胸がいっぱいになって、とても苦しい。鼻の奥がツン、と痛む。目頭が甘痒くて仕方が無い。
そうか、帰ってきたんだ。ようやく、人生の続きに、帰ってこられたんだ。
気が付くと、幹耶の頬には一筋の涙が流れていた。初めの一滴が零れてしまえば、もう抑えがきかない。凍り付いていた様々な思いが溶けて溢れ、涙となって流れ出す。
ようやく仲間の死を悲しむことができた。怒りも恨みもなく、ただ純粋に、悲しいと思えた。
滝のように流れ落ちるその一滴一滴を、噛み締める事ができた。
『あれ、みーくん? 大丈夫?』
そして、嬉しかった。帰る場所がある。ただそれだけの事が、こんなにも暖かいなんて。
生きていこうと思った。終わらせるためではなく、繋げるために歩いていこうと思えた。
今はもう、一人ではない。
ずっと言いたかった。この言葉からならば、全てを新しく始めていける気がした。
『ええ――。大丈夫。もう大丈夫です、真斗さん』
幹耶は涙を拭い、呼吸を整える。しっかりと、心を込めて伝えたかった。
――――ただいま。
『完』