ミュータントプログラム
幹耶と真斗はモノリスタワーの長い階段を駆け上がる。途中、真斗の求めで六十三階の自室に寄る事となった。真斗が準備を終えると、二人は再び黒い墓標のようなモノリスタワーを駆け上がる。いくら強化されたアンジュの身体能力といえど、最上階まで階段だけで昇るのは一苦労であった。
道中は敵部隊による妨害は無かった。あちらも人的余裕はないのだろう、それを埋めるための無人攻撃ヘリだ。幹耶と真斗が最上階に達する少し前、スピネルはモノリスタワーの周辺施設の警備に当たっていたガードの第三、第九、第二六番隊にマザーアゾットの防衛に向かうように命じた。しかしその試みもハヴォックの三十ミリ機関砲によって二十八人分の血肉を撒き散らされるだけの結果に終わり、攻めあぐねたスピネル司令本部は沈黙した。
『はーちゃん、生きてる?』
身を隠し、マザーアゾットへと通じる最後の大扉を睨みつけながら真斗が通信を繋げる。ややあって、いつも通りな萩村の声が返ってきた。
『状況は?』
『はいー。外周に向かっていたチェイサーやガードは、ハヴォックとポリューションのせいで完全に足止めを喰らっていますー。火蓮さんやハナさんも頑張っていますけれど、やや厳しいって所ですねぇ。まぁ、もう少し時間を頂ければ、お手伝いできるとおもいますよぉ』
手伝い? と真斗は少し眉根を寄せるが、それよりも気がかりな事があった。
『お雪は、その、大丈夫?』
『現在モノリスタワー内部に侵入したポリューション二体と交戦中ですー』
『侵入って……、しかも二体!? ちょっとそれ、大丈夫なの!?』
『頑張ってくれていますよぉ。おかげで地下避難区画への侵攻も喰い止められていますー。まぁ、ここはユキさんを信じるしかありませんねぇ』
それはそうだけれど……、と真斗が小さく呟く。
真斗はもちろん仲間を信じている。信じては、いる。だがそれと心配することは別物であろう。彼女らも異能の使い手ではあるが、死ねば普通に死する身体なのだ。真斗のような不死とは違う。
『それと、自衛隊にスクランブルが掛かりましたぁ。どうやらマザーアゾットを吊るしたヘイローを洋上で撃墜する構えのようですー』
『それですと、マザーアゾットも海に落ちるのでは?』
『まぁ、そういう事になりますねぇ』
声を挟んだのは幹耶だ。萩村はその疑問を肯定した。しかし、その計画は穴だらけだ。マザーアゾットを回収しようとするのは敵方も同じだろう。当然、洋上で戦闘状態になるはずだ。その危険をどこの国が負うのか、それを決定するだけで長い時間が掛かるのではないか?
そもそも、アイランドからマザーアゾットが奪われたという事実を作るだけで大問題だ。首尾よく回収に成功しても、スピネルに対する責任の追及は免れない。その基盤は大きく揺るぐことになるだろう。
とにもかくにも、マザーアゾットを奪わせるわけにはいかない。そして、それを防げるのは今や幹耶と真斗の二人だけだった。
通信を切り、幹耶と真斗が大扉の前に立つ。工場の入口を思わせるような鉄の大扉だ。
「真斗さん。本当にやるんですか、そんな作戦」
「ふふん。不死の使い方ってのを見せてやるだけよ」
真斗の耳には緑色の飾りがついたイヤリングが揺れていた。先程、わざわざ自室に立ち寄って持ち出したものだ。
バックアップはよろしくね、と言いながら真斗が扉をスライドさせる。電動補助の切れた扉は酷く重く、鉄の大扉はギリギリと唸り声を上げる。真斗は細く開いた扉の隙間に身体を捻じ込んだ。
一人扉をくぐった真斗は、鋭い日差しと吹き付ける高所特有の強風に目を細める。頭上を仰ぐと、覆い被さってくるような青空が広がっていた。本来あるはずのマザーアゾット保護外殻は崩れ、その破片が瓦礫となってあちこちに積み重なっている。
「おぉぉやぁ? これはこれはスイーパーの隊長殿。この様な場所に何の御用時ですかなぁ?」
耳に纏わりつくような声に視線を向けると、磯島がわざとらしく両腕を広げていた。徹底的に他人を見下した嗤い顔に浮かべ、喉を鳴らしている。
磯島の両脇に控えた男たちが真斗へ銃口を向ける。エントランスで見た様な服装の男たちだった。手にした銃もそれぞれが違う。
「スピネルの備品を勝手に持ち出そうとしている不届き者が居るって聞いてね。叱りに来たって訳よ」
「はっ! 叱りに、ねぇ?」ニヤニヤと嗤いながら、磯島が顎を上げる。「んで? 隊長様お一人ですかぁ? 寂しいもんだねぇ」
真斗が周囲を伺うと、眼に見える範囲ではこの空間には磯島以外に十人程度の敵部隊が居るようだった。磯島を守るように控えている男が二人。そこを中心に、扉を背にした真斗を扇状に囲うようにもう三人が銃を構えている。他の五人は部屋の奥、マザーアゾットの周囲で何やら忙しく立ち回っていた。その様子を、真斗は視線だけを向けて眺める。
マザーアゾット。アイランドの象徴たる、世界の要石。小型のビルくらいはあろうかという巨大さを誇る大アゾット結晶。アイランド・ワンのマザーアゾットは、降り注ぐ陽光を反射して淡い桃色に輝いていた。現在は電力増幅を行っていないので発光こそしてはいないが、その姿は人の心に感動を覚えさせるには十分に過ぎる美しさを備えていた。
《プロフェッサー。如何いたしますか》
不意に磯島の腰元から声が流れ、真斗が視線を戻す。どうやら無線機のようだった。そうか、この男たちはアイランドの部外者だからバベルが無いのだな、と真斗は思い至った。それにしても、こんな所でもわざわざ〝プロフェッサー〟などと呼ばせているのか。
「作業継続。他のお客様はパーティ会場でダンスの真っ最中だ。焦らず、確実にこなせぇ」
無線機を手に取り、磯島が言う。勝利を確信した笑みを浮かべながら。
「そんな悠長なことで良いのかしら?」
「俺の地獄はそう簡単には突破できんさ。〝演者〟はまだまだ沢山控えが居るしなぁ」
演者――。ポリューションの事か、と真斗は奥歯を鳴らす。いや、正確には〝ポリューションへと変えられた人々〟だ。全く信じがたい事だが、磯島の率いるバルミダ機関の残党たちは、どうやら人間を任意にポリューションへと変じさせる悪魔の技術を確立しているらしい。
まったく。心底。心から。
吐き気がする。
「何のためにこんな事を」絞り出すように真斗が言う。
「何の為ぇ? はん、まぁ話す義理も無いんだが……。良いだろう、暇だしなぁ」妙に遅れが出ている作業班を横目で見ながら、磯島が言う。「俺はなぁ。戦争が欲しいんだよ」
「戦争……、戦争ですって?」
「そうだぁ! 戦争は人を、科学を進化させる! 人々の豊かな暮らしは陰惨で、醜悪で、悲惨な戦争の犠牲者の上に積み重ねられているんだ! 人類は仲良く死体の上で踊っているんだよぉ!!」磯島は大きく両腕を掲げ、神の教えを説く聖職者のように謳う。「俺のミュータントプログラムはその為の力だぁ。世界はもう一度。いや、何度でも燃え上がる。激しく、狂おしく、あらゆる物を焼き尽くす程に! その度に人類は、化学は進化する! それが俺の〝救済〟だぁ!!」
こみ上げてくる吐き気を抑え込みながら、真斗が呻く。
やはり。やはりだ。
こいつは、狂っている。間違いなく、疑いようも無く、そして淀みなく。どこまでも狂いきっている。
今更だ、と真斗は小さく息をつく。それよりも気になる言葉があった。
「救済ですって? 良くも言えたものね。それに、何? ミュータントプログラム?」
「調律された平和に何の意味がある。いいか、人とは本来争う生き物だぁ。自然と争う事で人は人になり、人同士で争う事により発明を重ね、文明を築いてきた。争いこそが人類を救うのだぁ」
真斗は唇を引き結ぶ。磯島のいう事は、全く間違いでは無い。倫理や道徳的な問題を鑑みなければ概ね正しい。人は怠惰な生き物だ。もし人がこれほどまでに脆弱な生き物でなければ武器を生み出す事も無かっただろう。人間の欲望がもう少し弱ければ、これほどの文明を築き上げる事も無かっただろう。争いは確かに、人類を進化させる。
「あちこちの国々が互いの顔色を窺い合うばかりの今の状況は、〝クソ〟だぁ」磯島は言葉を続ける。「ちまちました研究を重ねて何になる? 一体いつになればアゾット結晶の量産を実現できるというのだ? 研究には犠牲がつきものだ。そしてその一線を越えさせるのは、いつだって戦争の狂気だ。俺は人類を前進させる、背中を押してやるのだ。もう誰にも邪魔はさせんぞぉ!」
「お為ごかしはそれくらいにする事ね」真斗は真っ直ぐに磯島を睨みつける。「結局はあんたが、思う存分アゾット結晶の研究をしたいってだけでしょう。こんな事をしなくたって、いずれ人の指は奇跡を掴む。せっかくの平和を崩させるわけには行かないわ」
今、世界はその形を保つだけで精一杯の状態だ。そんな状況であらゆるものを巻き込んだ大戦争などが起こってしまえば、今度こそ人類にとって致命傷になるかも知れない。後には何も残らないかも知れないのだ。そのような部の悪いギャンブルに、人類の全てをベットさせるわけには行かない。
「俺が何もしなくても、早晩同じような事になると思うがねぇ。見たんだろう? ここに来るまでに、街の惨状を」磯島はより一層の薄ら笑いを浮かべる。「人は常に他人を妬んでいる。簡単に絶望する。息をするように他人を害する。俺はそこに少しばかりの燃料を加えてやっただけさぁ」
何をいけしゃあしゃあと……っ、と真斗が奥歯を鳴らす。
「あんたがやった事でしょうが! 何なの、ミュータントプログラムって! 吐きなさい!」
黒い炎を宿した真斗の視線に揺るぎもせず、磯島は自分の頭を指で突く。
「バベルだよぉ。ポリューションには謎が多いが、人がそれに変じる原因は絞り込めている。絶望だぁ」
「絶、望……」
「なぁに。小猿の脳みそでも理解できるような、単純な話だよぉ。微粉砕した粗製アゾット結晶を直接被検体の体内に投与し、バベルを介して様々な絶望を一息に流しこむんだぁ。いや、苦労したよぉ、中々加減が難しくてねぇ。初期のころは発狂死した死体ばかりが積みあがって、臭いったらなかったなぁ」
真斗は脳髄が痺れるような感覚を味わった。最低だ。最悪だ。人をここまでモルモット扱いできる人間なぞ、そうはおるまい。
「最ッッッッ低の下衆野郎ね」
「はっは! 良いのかぁ? そんな事を言って。お前が大事に抱えている子供たちの脳にも、バベルは入っているんだぞぉ? まぁ、確率は三割といった所かぁ」
背筋に氷柱を差し込まれたような寒気を覚えた。ダストの許容量は個人差が大きく、限界量を測る技術はまだ存在しないが、子供や年配者の方が耐性は低いと考えられている。そして、問題のプログラムはバベルを介するという。つまりバベル開発に携わっていた磯島には、そのプログラムをアイランドに住まう全ての人々にばら撒く手段があったという訳だ。
「あんたまさか、バベルの更新プログラムに……!!」
「ああ、仕込ませてもらったぁ。いつでも、俺の好きな時にプログラムを開始できる」白衣の悪魔がニタリ、と歯を剝く。「どうせこの街ともおさらばだ。さて、全体の何割がポリューションに変態するのか……、試してみるかぁ?」
気が付いた時には駆け出していた。真斗は獣のような雄叫びを上げて磯島の喉笛を掻き切ろうと地面を蹴る。
磯島がゴミを掃うように手を振る。殺到した鉛の銃弾が真斗の足を次々に貫いた。それは一発や二発では終わらず、瞬く間に真斗の足を赤いぼろ雑巾に変えてしまう。
「がっっっ! あああぁぁっ!!」
真斗は鮮血を撒き散らしながら床を転げ、紅い軌跡を描く。その様子に満足したらしい磯島が高らかな笑い声を上げる。
「はぁ――はははは!! 良いザマだなぁ!? 不死とはいえ、所詮貴様はそれしか能のないモルモットに過ぎんのだぁ!!」
頬で床の冷たさを感じながらもがく真斗へ、小銃を二人の構えたままで二人の男が駆け寄る。
「こいつが不死のアンジュだって? マジにまだ餓鬼じゃねぇか」
「見た目は上々だな、金になりそうじゃねぇか。俺にくれねぇかなぁ」
そう言って男たちは嫌らしい笑い声を上げる。下衆の手駒は、主と同様に下衆であるらしい。
《腰のケースにそいつ専用の武器が入ってる。そいつを捨ててこっちまで引き摺ってこぉい》
無線からの声に従い、予想外に重さに驚きながら男たちは真斗の腰からネイル取り外す。そして髪を掴み、磯島の元へと引き摺って行く。乾きかけた刷毛で掃いたような紅い軌跡が床に伸びていく。
「お前は類似する者の居ない、貴重なモルモットだからなぁ。喜べ、存分に可愛がってやるからなぁ」
汚泥の笑みを浮かべて、磯島が真斗の瞳を覗き込む。しかし真斗は嫌がるどころか、花の蕾がほころぶように微笑んで見せた。
「素敵なプロポーズね。あんたならそう言ってくれると思っていたわ」予想外に返答に磯島の顔が歪む。「ありがとう、不用意に近づいてくれてとっても嬉しいわ。……くたばれ、下衆野郎」
真斗はそう吐き捨てると、右耳から緑色の丸い飾りのついたイヤリングをもぎ取った。すると緑の飾りは見る間に膨張し――、やがて果物のメロンを思わせる形になった。
「これは、爆弾野郎の――っ!?」
耳を劈く爆音を轟かせ、キャメロンのアーツによって作り出された爆弾が炸裂する。驚愕に目を見開く磯島の表情は、煌めく紅焔に飲み込まれたのだった――。