大空の猛獣
鉄の塊が軽快に街を駆けていく。手綱を握る雪鱗は街行きの装いだが、鉄馬を駆る姿は意外と様になっていた。風防を開け放っているのに瞳を細める事が無いのは、彼女の操るアーツ故だ。
『ねぇお雪。マザーアゾットを持っていかれちゃったら、具体的にどうなるの?』
真斗は車体上部のハッチから顔を出し、幹耶と共に周囲を警戒している。風除けに手を目の上にかざしつつ、辺りを油断なく見回している。何せ撤退した敵部隊の行方は掴めていないのだ。待ち伏せも十分にありうる。
『そうだねぇ。解らない……と言いたい所だけれど、一つだけ確実な事がある。マザーアゾットを失えば、アイランド・ワンは終わりだよ』
『やっぱり、そうよね』
真斗は静かに奥歯を食いしばる。連中の目的が何にせよ、マザーアゾットを奪われればアイランド・ワンはその存在意義を失う。そうなれば街は放棄され、四十万を超える人々は再び路頭に迷うだろう。
当然、あの子供たちも。
『モノリスタワーの占領は現実的じゃない。一時的に制圧はできても、その維持は無理だろうね』雪鱗が言う。『となれば……そうか。わざわざヘイローなんて持ち出したのはその為か。重いもんねぇ、マザーアゾット』
『持ち去りが目的、という訳ですか』
幹耶の言葉に雪鱗が『そうだと思うよ』と同意を示す。
『そうであれば、まだ希望もある。マザーアゾットをワイヤーで吊るすのは、相当手間取るはずだからね』
『重量以外に何か仕掛けでも?』
『私が常に消耗し続けている、もう一つの理由だよ』
曖昧な答えに眉を顰める幹耶の視界の端で、地獄が舌を出していた。カマキリのような姿をした黒い粘体――恐らくはポリューションであるのだろうが――が、逃げ惑う人々へ無造作に大鎌を振り下ろす。その後の光景は言葉にするのもおぞましい、まさに地獄の底だった。
車内へ逃げ込んだ男性が、大鎌に車体ごと貫かれる。屋内へ駆け込んだ人々を追って、デミと思われる小さなカマキリのような影が殺到してゆく。次いで溢れ出したのは、喉から血を吹き出すような断末魔の嵐だった。
命乞いをする者、我が子を守ろうと膝を震わせながら立ちはだかる者、道の隅で膝を付いて神に救いを乞う者、その一切をポリューションは容赦しない。貫き、両断し、踏み潰す。そして死体へ集るデミがその内臓を撒き散らし、細切れにしてゆく。
きっとあの者たちは、自分がこのような最期を迎えるなど夢にも思っていなかったはずだ。明日を信じ、未来を夢見てこのアイランドで生きてきたはずだ。だが、実際はどうだ。生物ですらない、ただの公害風情に蹂躙され、あげく喰われてゆく。
しかも、今回はただの公害被害では無い。人為的に仕組まれた人災である可能性が高い。
「酷い……」
耳朶を殴りつけるような風音に混じって、真斗の呟き声が聞こえて来た。
『バルミダ機関、ですかね』
幹耶の言葉には応えず、真斗は噛み破らんばかりに唇に歯を立てていた。このタイミングでのポリューションの大量発生。これをただの偶然だと思うほど幹耶は阿呆では無いし、運命の女神が仕組んだ悪戯などと考えるほど、真斗も夢見る少女では無い。
『二人とも。気持ちは解るけど、今はどうしようもない。私たちは私たちの仕事をこなすだけだよ』
『……解ってるわ、お雪』
真斗の深い吐息が流れる。
そうだ、どうしようもない。このような手に余る状況はどうしようもない。全てのものは余りにも遠く、何かを掴もうにも指すら届かない。
――本当にそうか? と幹耶は思う。バルミダ機関などという狂気の使徒が居なければ、アイランドなどという魔境が無ければ、アゾット結晶などという歪んだ奇跡さえ現れなければ、このような悲劇は起こらなかったのではないか? このような悲しみに身を沈める事も無かったのではないか? そして、何度でも繰り返されてしまうのではないだろうか。
――やはり、そうだ。人は、人類は解放されるべきだ――。
鈍重そうな見た目に反して、装輪装甲車は矢のように街を突き進む。このまま一気にモノリスタワーまで……と思っていたが、やはりそう事は甘くなかった。大気を激しく叩くローター音が耳に届いてきた。幹耶が顔を上げると、頭上を通り過ぎた攻撃ヘリが捻り込むように旋回し、機首をこちらに向けて来た。
『来た! ハヴォック一機、後方に付かれました!』
『よっしゃー!! ここからが正念場だね!!』
雪鱗はアクセルを更に踏み込み、装輪装甲車が速度を増していく。同時にハヴォックの機首下部に取り付けられた三十ミリ機銃が火を噴いた。装輪装甲車が通り過ぎた後のアスファルトが爆発したように跳ね上がる。
『お雪! 撃って来た!』真斗が頭を隠しながら叫ぶ。
『そりゃそうだよね! うひゃー超怖い! あっははは!』
『何を笑っているんですか雪鱗さん!』
『いやぁ。昔映画で見てさ、憧れだったんだよね、攻撃ヘリとのカーチェイス!』
憧れるなよ、そんなもの。と幹耶は突っ込みたかったが、正直それどころでは無かった。雪鱗が銃弾を避ける為に車体を激しく蛇行させるので、その度に首が大変な事になるのだった。横転しないのが不思議なくらいだ。
雪鱗の操縦は実に巧みだった。速度に緩急を付け、蛇行の動きにもパターンを作らずに銃弾の嵐を掻い潜っていく。それでも数発の直撃弾はあったが、雪鱗のホワイト・スケイルに弾かれて、怒り狂った蜂のような音を上げながらあさっての方向へ飛んでいく。
『流石に三十ミリは重い……っ』
奥歯を食いしばりながらも、どこか楽しそうに雪鱗が唸る。
『距離を詰めて来た!』幹耶が声を上げる。
中々仕留めきれない子ネズミに痺れを切らしたのか、ハヴォックの機影がぐんぐんと近づいてきた。距離を詰めて一息に穴あきチーズを作り上げる算段らしい。
『牽制で良い、何か武器は無い!?』
雪鱗の言葉に『ちょっと待って!』と言いながら真斗が車内に消えていく。
『あった! バレットM95! 誰の趣味か解らないけれど、拝借しましょう。幹耶くん、よろしく』
そう言って真斗が幹耶へ対物ライフルを車内で手渡す。成すがままに受け取った幹耶は初めて手にする銃に戸惑った。何だ、この太い銃身は。
『私、狙撃とカラオケはちょっとね。だからお願い!』
『……期待しないで下さいよ!?』
幹耶はスコープを覗き込み、ハヴォックへ銃口を向ける。適当に撃っても牽制にもならない。狙うなら機首下部の機銃、あるいは左右に吊るされたロケットポットか。狙いやすいのはコックピットだが、おそらくは防弾装甲が施されているだろう――と視線を向けた幹耶の動きがぴたり、と止まる。操縦席には、人影が無かったのだ。
『雪鱗さん! あの攻撃ヘリ、無人機です!』
『へぇ、実用化していたんだ……』
既存兵器のドローン化は2030年頃から検討されていたが、先のオイルディストラクションによりそれどころではなくなり、開発が頓挫していたはずの技術だ。アーマード・エレメントが独自に開発したのだろうか? ともあれ――。
「それならっ!」
幹耶は引き金を引き、銃弾を放つ。予想以上の反動に狙いがブレてしまったが、大口径の重い銃弾は十分にハヴォックへ到達するだけの射程を有していた。脇を絞め、幹耶は再び銃弾を放つ。銃弾はコックピットの防弾装甲に弾かれてしまったが、それこそが狙いだった。〝反撃が来る〟という事実さえあれば、相手は警戒せざるを得ない。貫通こそしないものの、弾着の衝撃はどこかで遠隔操作をしているオペレーターの目と耳をアラートで埋め尽くすだろう。故に幹耶は最も狙いやすいコックピットを狙ったのだった。
果たして、幹耶の狙い通りにハヴォックとの距離がするすると開き始めた。効果あり、のようだ。真斗が『グッジョブ!』と親指を向けてくる。
『はーちゃん、話は聞いてた?』雪鱗が声を上げる。『たぶん、遠隔操作はヘイローの中からだと思う。インターセプト、いける?』
『はいー。任せてくださいー』萩村が心なしかウキウキとした声を上げる。『でも、少し時間がかかりますよぉ?』
『なるべく早くおねが……って、やばっ!?』
雪鱗の前方、装輪装甲車の行く手を遮るようにもう一機のハヴォックが姿を現した。遥か前方、モノリスタワーの入り口上空に陣取り、迎撃の姿勢を見せている。
『挟み撃ち!?』思わず幹耶が叫ぶ。
『あちらも決める気だね。真斗、こういう時はやっぱりあれかな?』
『だね! ピンキー伝統、作戦Gよ!』
『何ですかそれ!?』
『『Gは〝ごり押し〟のGだ――!!』』
真斗と雪鱗が声を合わせて叫ぶ。雪鱗は蛇行を止め、ホワイト・スケイルを前面に集中して押し出した。不可視の防壁は先端を槍のように尖らせ、空力を味方につけた装輪装甲車は空気を切り裂いて突き進む。そこへ前後のハヴォックから八十ミリロケットの斉射が降り注いだ。八百ミリの硬化コンクリートを貫徹することができる破壊力を有する砲弾は地面を激しく抉り、着弾した数発がホワイト・スケイルを纏った装輪装甲車を燃え盛る槍へと変えた。しかし装甲車は少しも速度を緩めることなく、まっすぐに突き進む。
『このまま突っ込むよ!!』
一つ掴みの金平糖を口に押し込みながら雪鱗が叫び、『ゴーゴーお雪―!!』と真斗がそれに応える。何なんだこのテンションは、と轟音と振動で脳をシェイクされながら幹耶は思った。まるで生きた心地がしない。
背後に着いていたハヴォックからも八十ミリロケットが降り注ぐ。前後からの猛攻に晒され、ついに一発の砲弾に防壁の貫通を許してしまう。
『うぉわ!? やっっっばい!!』
雪鱗が目を剥いて声を上げる。直撃こそ免れたものの、車体後部の一部を吹き飛ばされた装輪装甲車は大きくバランスを崩し、横転する。そのまま大回転をしながらモノリスタワーのエントランスに飛び込み――、人気のないエントランスは砕けた無数のガラス片と、大破して燃え盛る鋼鉄のスクラップで埋め尽くされた。