求めるものは
報告書や始末書という物の存在は知ってはいたが、これほどまでに面倒な代物だとは思わなかった。ガルムとの戦闘報告書、時計塔破壊の始末書、戦闘で受けた傷の治療に関する申請書。そして、幹耶の行った参考人殺害に関する報告と始末書。時系列から現場の詳細も含めて、事細かに要求される。それらを頭を抱えながら仕上げ切った頃には、すっかり夜も更けていた。
孤児たちとひとしきり遊んだあと、真斗は雪鱗たちに合流し、幹耶は一人モノリスタワーへ戻った。初日からポリューションの発生事案に巻き込まれたせいで、事務的な手続きが後回しになっていた為だ。すぐに片付くだろうと幹耶は甘く考えていたが、書きなれない報告書と始末書にたっぷり数時間をかけてしまった。
幹耶は割り当てられた自室へ向かい、部屋の確認をする。1LDK程の、がらんとした部屋だった。ベットと照明、それと小さな冷蔵庫程度の、最低限の生活用品しか置かれていない。
幹耶は先立って運び込まれていた黒いケースへ歩み寄り、中身を検める。収まっていたのは一振りの片刃剣であった。刃は緩く反っており日本刀のそれに近い、だが柄や鍔の意匠は日本的なそれとはかけ離れており、どちらかといえばサーベルのような刀剣だった。
鞘を払い、一振りする。蒼色に淡く発光した刃を見つめ、幹耶は小さく頷く。
サードアーム。アンジュの血液を用いて造り上げる専用武器。どれほどの物かと思っていたが、なるほど、実に手に馴染む。
それにしても、幻影の魔女め。仕事道具を送るとは言っていたが……まさかサードアームとは。そんな伝手があるとは知らなかった。どこまでも喰えない奴だ。
ケースにはもう一つ、小さな紙切れが入っていた。記されていたのは〝剥離白虎〟という文字だった。どうやらこのサードアームの名であるらしい。幹耶は「悪くは無い……か?」と片眉を上げると、鞘と剣をベットへ放り投げてシャワールームへと向かう。
軽く湯を浴びると、特にする事も無いので早々にベットへ潜り込む。新しい相棒は鞘に納めて枕元に移動させた。
瞳を閉じ、眠りに付こうと呼吸を整える。しかし、そうすると様々な物が瞼の裏に浮かび上がり、かえって寝付く事ができない。
長大な橋から眺めたアイランド・ワンの遠景。そこに力強く生きる人々。ガルムの濁った黄色い瞳。逞しく生を謳歌する子供たち。桃髪の隊長様の眩しい笑顔。
次々に浮かび上がっては消え、幹耶の精神に纏わりつく。頭の中は泥を流し込まれたように酷く淀んで、部屋の隅に蟠った闇の中から、狼の姿をしたデミがこちらを睨みつけている幻想までが生み出される。
ぐるぐる、ぐるぐる。半分だけ覚醒したような意識が身体の中で渦巻いている。薄く開いた瞳には真っ暗な天井が映し出され、それが落ちて来て押しつぶされそうな気がした。
幹耶は大きくため息をつき、身体を跳ね上げた。心と身体は休息を求めているのに、これではどう足掻いても眠る事はできない。得体の知れない不安と苛立ちに精神が毛羽立っている。モノリスタワーの六十三階という高さと、無駄に柔らかいベットだけが原因ではあるまい。視界の端、バベルに表示された時計は夜中の二時を示していた。
「くそ……。少し歩くか」
一人呟き、幹耶は自室を後にする。鉛のように重い身体を引きずって、暗い廊下に光るナイトランプの灯りを頼りに真夜中の散歩へ出かける。
しばらく歩くと、右手側に開放された広い部屋が現れた。大きなソファーがいくつも並び、巨大な液晶画面が天井からぶら下がっている。明かりはついておらず、薄暗い。バベルに表示された情報によると、どうやらコミュニティルームであるらしい。部屋の壁の一面がガラスでできており、そこからアイランド・ワンの美しい夜景を見下ろす事ができた。
カウンターの上にドリンクサービスの機械を見つけ、水でも貰おうかと幹耶は歩み寄る。紙コップを置き、ボタンを押したところで、背後から「私はお茶ね。冷たいの」と声が飛んできた。幹耶が驚いて振り向くと、ガラス窓の前に置かれた長ソファーの背もたれから、ゆらゆらと揺れる手の甲が見えた。
「――雪鱗、さん……ですか?」
「もしかしなくても、可愛くて美しくて常識人で、とっても優しい雪鱗さんですよー」
雪鱗がくつくつと喉を鳴らす。この人はいつも潜むように笑うな、と幹耶は思った。
両手に紙コップを持ち、ソファーへと歩み寄る。
「眼を悪くしますよ」
そう言いながら、幹耶は雪鱗の隣に腰掛ける。雪鱗はガラス窓から差し込む月明かりとダストの光を頼りに、本を読んでいた。紙に印刷された書籍は、今時では珍しい。
「月明かりで目が悪くなるのなら、アルテミスは盲目だね」
紙コップを受け取った雪鱗がまた、くつくつと喉を鳴らす。気の利いたジョークを言ったつもりらしいが、幹耶はそれを理解できず「は、はぁ」と気のない返事を返す。
「眠れないの?」
気を悪くした様子も無く、本に視線を落としたまま雪鱗が言う。幹耶は「はい」と頷き、水を一口飲んだ。冷たい水が食道を通って胃に落ち、何とも言えない清涼感が背中に抜ける。
「雪鱗さんはどうしてこんな夜中に読書を?」
「夜の読書は日課なのさ。色々と忙しくてね、こんな時間までずれ込んじゃった」
そうですか、と幹耶は息をつき、大きなガラス窓の向こうに広がるアイランド・ワンの夜景に視線を向ける。青白い月明かりはダストの翠色に透けて、街は翡翠に閉じ込められたようだった。
ダストが踊るように揺らめくたびに、街がその表情を変える。街には様々な色の灯りが煌めき、まるで宝石箱だ。そこへ翠色のダストの光と、蒼白い月光が降り注ぎ、この世の物とは思えないほどの美しさだった。
幹耶は言葉も忘れて、アイランド・ワンの夜景に見入っていた。その横顔へ雪鱗が「ねぇ」と声を掛ける。
「アイランドの事、幹耶くんはどう思う?」
「どう――、って……」
少し目を伏せ、考える。ややあって、幹耶は諦めるように首を振った。
「解らないです。……いや、解らなくなりました」足元に声を落とすように言う。「ここに来るまで、アイランドは悪魔の巣窟のように思っていました。だけれど、実際に訪れてみると、想像とは全く違っていました」
顔を手元の本に向けたまま、雪鱗がチラリと幹耶を見遣る。
「ま、そうだろうね。ここは地獄の一丁目だけれど、アイランドにはアイランドの、人の営みってのがあるのさ」
アイランドは〝外〟とは比べ物にならないほどに裕福だ。物に溢れ、望めば大抵の物は手に入る。だがそれと引き換えに、アイランドに住まう人々はアゾット結晶により生み出されるダストを周囲に撒き散らさないためのフィルターとして扱われ、人としての尊厳を差し出している。〝外〟に住まう人々の代わりに、ポリューションなどという超常の脅威を抑え込んでいる。
地を這いつくばり、泥水を啜って必死に生きる人々。
仮初の裕福さの中で、尊厳と引き換えに与えられた幸福を享受する人々。
どちらが人として正しいあり様であるのか、幹耶には解らない。
だが、答えは出さなければならない。幹耶はその為にアイランドまでやってきたのだ。
「ポリューションを根本からどうにかする事は、できないのでしょうか」
「……難しいだろうね。アレについては、解らない事が多すぎるから」
さらり、と紙の擦れる音が響く。雪鱗の瞳が文字を追って微かに動いている。夜の光に照らされてページを捲る姿は深窓の令嬢のようで、黙っていれば美しいのだけどな、と幹耶は思った。
「雪鱗さんは」幹耶が口を開く。「雪鱗さんは、アゾット結晶について、どう思いますか」
ぴくり、と雪鱗の瞳の動きが止まる。
「そういう幹耶くんは、どう思っているのさ」
「私は、ある種の呪いだと思っています」
「呪い?」くすり、と雪鱗が口端を歪める。「そうきたかぁ」
「アゾット結晶が現れてからという物、世界は荒廃し、人類は真っ二つです。富みは一部の富裕層に集中し、大半の人々は人間扱いすらされていない。このままでは、いずれ――」
いずれ、この世は窒息死するだろう。こんな世界が長続きするはずがない。こんな歪んだ世界で、人が生きて行けるわけが無い。仮にアゾット結晶の量産が叶ったとして、人の手に余る力は何をもたらすのだろう。明るい未来などありはしないのではないか?
しかしそんな思いを、雪鱗は一笑に付すのだった。変な方向に考え過ぎだよ、と手首をぶらぶらさせて幹耶の言葉を夜空に掃った。
「アゾット結晶は、〝火〟だよ」
「――……、火?」
言葉の意味が解らず、幹耶はそのまま繰り返す。何を言っている?
「人と猿を分けるもの、それは火だよ。数多の獣の中で火の力を手にした一部の者達が進化を果たし、人類へと成った」
さらり、と再びページを捲る音が鳴る。雪鱗は会話と読書を同時にこなせるタイプの人間のようだ。あるいは、どちらかに気を向けていないかだ。
「多くの獣は火を恐れる。それはなぜか。手に余るからだよ。扱えない、手に負えない大きな力は災いでしかない。火は扱いを誤れば、自らの住処である森を焼き払ってしまう。それを獣たちは本能的に察している。だから、恐れる」
「ノーマルがアンジュを迫害しているのは、手に余るアゾット結晶の力を恐れているから、だと?」
しかしそれでは辻妻が合わない。人類は現にアイランドという街まで創り上げて、アゾット結晶の持つエネルギー増幅の力をもって、人々の生活を支えているでは無いか。それは恐れとは随分と遠い。
「少し違うかな。人はもう、獣じゃないからさ、恐れるよりは〝支配してしまおう〟としているんだと思うよ。アンジュもアゾット結晶も、遠ざけるよりは利用したい。だけどアーツもダストも手余るから、遠巻きに管理をできるようにしてしまいたい。アンジュはノーマルよりも、身体能力的に生物としては上位だからね。数の暴力と力の暴力で抑え込むしかないのさ」
そのための、アイランドか。
「しかし、それでも火というのは……。どうにも繋がりません」幹耶が言う。「アゾット結晶は正体不明です。原因不明の石油資源枯渇の後、入れ替わるように唐突に世界に現れたのは雪鱗さんも知っていますよね? そんな得体の知れない物とでは、火は程遠いのでは?」
ふぅん、と雪鱗は本から顔を上げ、遠くの月に視線を投げる。
「じゃあさ、幹耶くんは〝火〟がどういう物か、しっかり説明できるのかな」
「えっ」予想外の質問だ。そんな事、聞かれた事も無い。「ええと、赤くて、触ると熱くて、可燃性の物に燃え移って――」
「そうじゃなくてさ。どうしてこの世に〝火〟なんて物がある? 他のじゃ駄目だったの? 水も風も太陽も他の生物には必要不可欠なのに、どうしてそれらとは別に、私たちの手に届くところに火が存在する? 太陽だけで事足りるはずだよ。そして、どうして火を扱えるのは人間だけなの?」
「そんな、そんな事は――」
答えようがない。理由も原因も無く、〝それはそういう物として存在している〟だけに過ぎないのだ。森羅万象の起源を語ろうとすれば、神の名を机の上に並べなければならない。
「アゾット結晶も同じ事だよ。どうして突然現れたのか、どうして人にとって都合のよい物質なのか。どうして人に害を及ぼすのか、その正体は何なのか――。答えを探すだけ無駄な気がするね」
雪鱗の言わんとしている事は、幹耶にも理解できた。人は未知に対して、とにかく理由を付けたがる。そうしなければ安心できないのだ。しかし人の手に収まる事などは世界のほんの一部だけで、それ以外の物は神という名の暗い洞穴に投げ込むしかなかった。
「それに――、そうだなぁ。確かにノーマルはアンジュを恐れているかもね。でもそれは恐怖というよりは、焦りに近いと思うんだよね」
「焦り?」
何に対して?
「人類の進化に置いて行かれるかもしれない、といった焦りだね」
幹耶はもう一度きょとん、とする羽目になった。やはり、この人との会話は一筋縄では行かない。
しかし、と幹耶は考える。雪鱗は人が火を手にして進化したように、アゾット結晶を自らの身体に宿したアンジュは、既存の人類から進化した存在だ、と言いたいのではないだろうか。
確かに身体能力は、ノーマルのそれと比べて高い。自分や真斗のように、強力なアーツを持つ者もいる。だが、それは本当に進化か? もし進化であるとするならば、何のための進化だ?
――――だめだ。この思考は文字通り手に余る。
「貴方と会話をしていると、物凄く疲れます……」
幹耶は大きくため息をつき、ゆっくりと頭を振る。雪鱗はその様子に満足したように、あはははは、と彼女には珍しく普通に笑って見せた。
「ま、大半の人類がそんな感じなんだと思うよ。解らなくて、混乱して、イライラして仕方が無いから、周りに当たり散らすのさ。アンジュは割を食っている形だね」
で、と雪鱗がおもむろに幹耶とは反対方向に目を向ける。
「この娘はそんな状況を何とかしようと、日々を戦っている」
雪鱗の視線を追うと、そこには幸せそうに寝息を立てる真斗の姿があった。小さな身体にはタオルケットが掛けられている。誰がそれをしたのかは、おそらくは幹耶の想像通りだろう。
「ポリューションやテロリストを倒して、アイランドに住まうアンジュたちを守ろうと?」
それだけじゃないね、と桃色の髪を愛おしそうに指で梳きながら雪鱗が言う。
「アイランドを守り、アンジュはノーマルにとって有益な存在だと、決して敵ではないのだと証明するために戦っているんだよ。それを卑しい擦り寄りだって批判する声もあるけれど、真斗はそれでも、文字通りに命を懸けて、アンジュの地位向上の為に戦っている」
小さな身体を爪牙や弾雨に晒し、誹謗中傷を受けてもなお数多のアンジュの為に戦う。ノーマルとの、世界との共存を一途に目指す。それが真斗なのだと雪鱗が言う。
「いつかアゾット結晶の量産が叶って、アンジュが特別な存在ではなくなって、ノーマルと手を取りあって生きていけるような世の中になれば、どんなに素敵だろうね?」
それは確かに、夢のような世界だ。しかし、と幹耶は思う。一度根付いた恨みは、決して消えない。多くのノーマルとアンジュは互いを敵として認識している。切っ掛けさえあれば、今すぐにでも戦争状態に突入しそうな有様なのだ。真斗の目指す世界こそ、それこそ夢物語だ。
「雪鱗さんも……その、同じ思いなのでしょうか。ノーマルとアンジュの共存を目指しているのですか」
少し考えるように、雪鱗が視線を流す気配があった。やがて返って来たのは、いつも通りの密やかな笑い声だ。
「そうだね。そう。私も真斗と殆ど一緒だよ。そう言う幹耶くんは、どうなのさ」
自分は、どうだろう。何を目指しているのだろう。何を求めて生きて来たのだろう。
「……私も、全ての人々が平和に暮らしていける世の中になれば良いと、思っていますよ」
嘘はついていない。これは紛れもない本心だ。実現は不可能だと思っていても、何を求めているかと問われれば、こう答えるしかない。だがそれでも「ふぅん?」とニヤついてこちらを覗き込んでくる雪鱗の視線に、背中が透けるような思いがした。
「ま、お互い〝望み通りに〟なれば良いねぇ? さぁさぁ、明日も早いから、そろそろ休んだ方が良いよ」
今度、安眠のお香を用意してあげるよ、と雪鱗が手を振る。幹耶は何だか解放されたような気持で「そうですね、お願いします」と言ってソファーから腰を浮かせた。
コミュニティルームの出入り口をくぐり、遠ざかる幹耶の背中に雪鱗が視線を向ける。
「さて――幹耶くん。君の振るサイコロは、良い目が出そうかい?」
笑み含みの雪鱗の言葉は誰に聞かれる事も無く、透き通る夜空に吸い込まれたのだった。




