メメント・モリ
歓声が聞こえる。遠くで真斗が、子供たちと一緒になってボールを追いかけまわしている。
居住区のはずれ、薄汚れた廃ビルとゴミ置き場のような空き地が広がるばかりの場所。ボールは既にボロボロで、繊維のようなものがあちこちから飛び出している。足で蹴るにはサイズも少し大きい。だが子供たちはそんな事は少しも気にならないようで、ここが世界の中心だとでも言うかのように大はしゃぎしている。そして、真斗も一緒になって笑っている。
ぼんやりと視線を投げる幹耶へ、横合いからコップが差し出される。コップの中には、ほのかに色づいた液体が入っていた。
「こんな物でよろしければ」
コップを差し出してきたのは、好々爺然とした風貌の老人だった。そして、おそらくは見た目通りだろう。幹耶は礼を言い、それを受け取った。中身は薄いお茶だった。だが幹耶にとっては十分なもてなしだ。〝外〟では清潔な飲み水を確保する事も困難で、茶などの嗜好品は高級品である。たとえそれが四回目の出涸らしであっても。むしろ幹耶にとってはこちらのほうが安心できる。アイランドでの慣れぬ贅沢は喉が詰まるような、嫌な感覚がする。
「元気でしょう?」
子供たちを眺め、嬉しそうに目を細めて老人が言う。真斗と子供たちは二つのチームに分かれ、並べた空き缶の隙間をゴールに見立てたサッカー風味の遊びをしていた。空き地を所狭しと駆け回り、目を輝かせている。
真斗はアンジュの中でも身体能力が高いほうだが、子供たちも負けてはいなかった。真斗が手加減をしているという訳ではない。子供たちもまた、緑色の髪や黄色い瞳を持つ、アンジュだったからだ。そして、子供たちの中にはアゾット結晶を持たない普通の人間、ノーマルの姿もある。この子供たちにとっては〝人間の種類〟など何の問題でもないのだ。
「真斗さんが来てくれるようになってから、子供たちは毎日が楽しくて仕方がないといった様子でしてね。今日は真斗ねーちゃんは来ないの? と一日に五回は聞かれますよ」
さらさらと笑う老人に、幹耶は曖昧な相槌を返す。
「それに、色々と助けて貰っています。子供たちの洋服や食事、遊び道具や教科書に文房具まで。洋服などの目につく所は、子供たちが気を使わないようにと、古着などを用意してくださる程の気遣いをいただいています。本当に、感謝してもしきれません」
確かに、子供たちは幸せそうだった。子供たちは孤児だ。親から捨てられたり、自ら親元を逃げ出してきた子供もいるようだ。両親を殺されたという子供も少なくない。このような掃き溜めで、未来は苦労続きだろう。それでも子供たちは、そのような苦難など簡単にはじき返してしまいそうなエネルギーを纏っていた。
悪乗りした子供の一人が真斗へボールを投げつけ、サッカーはいつの間にかドッジボールに変わっていた。真斗が「ふべらっ!!」と奇声を発する。どこからか追加で持ち出したボールを四方向から投げつけられ、それら全てが顔面に命中したのだ。顔面セーフ×4。見た目はアウトだ。
その様子を笑って眺めていた老人が、ふと遠い目をする。そして「あなたも、血の匂いがしますね」といった。幹耶は思わず肩を強張らせるが、柔らかな気配の老人に警戒を緩めていく。
「スイーパーのお仕事は存じています。大変なお仕事でしょう。あなた方は、とにかく人の死と近すぎる」
そうですね、と小さく声を返す。幹耶はまだスイーパーの一員を名乗るようになってごく短い。それでも仕事に関連して目にした死体は軽く二十を超えている。幹耶一人でその数だ。しかも、そのうち一つは自分で拵えたものでもある。
名も知らぬあの男を殺したことに、罪悪感があるわけではなかった。必要なことだと思ったし、人殺しなど〝外〟にいたころからそこらに転がる路傍の石のようなものだった。
「命とは、一人に一つしかない、とても貴重なものです。それは誰もが知っているはずなのに、人は死に触れ過ぎると簡単にその事を忘れてしまう」不思議な物ですね、と老人は悲しそうに目を伏せる。「命の価値を見失うと、人は人を真っ直ぐに見られなくなります。人間を無価値な物と捉えるようになり、残虐な事も平気でするようになります。戦争で、捕虜や市民に対して非道な行為が繰り返されるように。そして――、やがて自分も見失う」
「自分を、見失う……」
真っ直ぐに自分を叱った真斗の瞳に、なぜ心が揺らいだのか。幹耶はその答えに指が掛かった気がした。
あの時、あの瞬間。真斗は間違いなく自分を見ていた。自分という一人の人間。命ある〝千寿幹耶〟という人間を、真っ直ぐに見据えていた。見失っていた自分という輪郭を、真斗が取り戻してくれたのだ。
「真斗さんは恐れていました。不死という最高の矛盾を抱えるが故に、死という物に対してどう向き合うべきかを見失っていました」老人が言う。「スイーパーには、それぞれの形で死に向き合う者たちがいると聞いています。あえて狂気に身を染め、理性の一定の平穏を保とうとする者。心を灰に落とし、精神の揺らぎを抑えようとする者――。しかし真斗さんにはどちらもできなかった。彼女は優し過ぎるのです。だから、目の前に横たわる一つ一つの死から、目を背ける事ができなかった」
「では、あれは贖罪――ですか?」
「いえ……。いや、多少はそういう気持ちもあるかも知れませんが、彼女は他人の死に対して責任を負えると思うほど、傲慢でもありません」
あるいは愚かでいられれば、彼女も救われるのでしょうが、と老人は祈るように瞳を閉じる。
「あれは彼女の〝答え〟なのです。どれだけ穢れていようが、どれだけ悪意と背徳に塗れていようが、この街には未来がある。この街でしか生きていけない人々がいる。この街でなら、救えるものもある。手を伸ばし、命を守り、未来を、明日を作る。それが彼女の〝死との向き合い方〟なのです」
死に身を染め、命を守り、明日を作る。死を想い、生を繋げる。
一体、どれほどの覚悟であるのだろう。途方もない矛盾を抱えたあの小さな身体には、どれだけの想いが詰まっているのだろう。どれだけの時間を苦しみ、その答えに行き着いたのだろう。
そして、と幹耶は目を伏せる。
自分は、何を想えば良いのだろう。
「焦る事はありません。元より明確な答えなどは無いのです。ゆっくり向き合い、考え、悩むべき問題です。それが、あなたという人間を作り上げる」
ゆっくりと瞳を開き、老人が霞を呑むように薄い茶を啜る。
不意にボールがうなりを上げて飛んできた。直撃すれば鼻が折れるのではないか、という勢いで飛来したそれを、幹耶は左手一つで辛うじて受け止める。
「ちょ――っ。危ないですよ、真斗さん」
危うくコップを落とす所だった。せっかくのお茶が無駄になるところだ。
「日向ぼっこなんてしてないで、少しは加勢しなさいよ!」
身体中に泥汚れをこさえ、涙目になった真斗が大きく声を上げる。どうやら子供たちに良いように遊ばれたようだ。真斗と子供たちの戦力差は一対十一、確かに分が悪い。幹耶が伺うように目を向けると、老人は小さく頷いた。
「行っておやりなさい。彼女には、共に歩む仲間が必要です」
「……進む方向が一緒とは、限りませんが」
「それで良いのです。人の数だけ道がある。それが人の世という物です」
幹耶は頷き、コップを老人に手渡す。そして孤軍奮闘する隊長のもとへと歩き出した。