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不吉の気配

 とある空港のフロアマップの前で、一人の少年が途方に暮れたように佇んでいた。


 空港はAからCまでの三つのエリアに区切られている。しかし、少年が指定された待ち合わせ場所はエリア〝D〟の三番出入り口。そこに迎えの車が来ているはず、なのだが……。

 少年は半ば祈るような気持ちで何度もマップを見直すが、やはりマップの中に目当てのアルファベットを見つけ出す事はできなかった。


 どうしたものか……と少年、千寿幹耶(せんじゅみきや)は黒い髪を乱暴にかき上げ、蒼い瞳を細める。

 (イン)内所(フィメーション)に問い合わせるのが正しい行動なのであろうが、マップに存在しない場所を尋ねるというのは勇気が必要だ。手の込んだナンパとでも勘違いされたら堪らない。


 厳しい予備訓練を終えてようやく海上実験都市〝アイランド・ワン〟の〝清掃(スイー)部隊(パー)〟こと、機動二課に新規入隊する運びになったと言うのに、いきなり壁にぶち当たってしまった。

 幹耶は携帯端末を取り出し、一つため息をつく。


 このまま頭を抱えていても仕方がない。初日から手間を掛けさせるのも気が引けるが、遅刻よりは随分ましだろう、と待ち合わせ場所を指定してきた(あま)白雪(しろせつ)(りん)に連絡を取ろうと指を動かす。

 その時、不意に背後から声を掛けられた。


「失礼、もしかして道に迷っているのかい? 良ければ案内させてもらうが」


 振り返ると、筋肉が服を着て歩いていると表現するしかないような大男が立っていた。良く日焼けした肌と禿頭も印象的だ。


「ええと……」

 幹耶は思わず身を引いた。どう見ても堅気の人間では無い、気がする。相手は一応日本語を話してはいるが、国籍も違うかも知れない。服装もはち切れそうなポロシャツにハーフパンツ、そしてサングラスという出で立ち。少なくとも空港関係者では絶対にない。


「ああ、そんなに警戒しないでくれ」禿頭の大男は困ったように頭を撫でる。「困っている人は見捨てておけない性質でね。それに、ここは地元みたいなものだ。道案内くらいはできるのさ」

「地元?」幹耶は大男の言葉を繰り返す。「アイランドにお住まいなのですか?」


 わざわざ空港に住む人が居るわけも無く、この空港はアイランドに用事がある人間しか利用しない。その上でここを地元というからには、可能性は一つだ。


「昨年まで、スピネルの治安(アイラ)維持(ンドガ)部隊(ード)に所属していてな。今は退役したが、そのままアイランドに居ついているという訳だ」

「アイランドガード? あなたもですか」

 幹耶は少し驚いて、声を上げる。

「ほぉ。君もなのか。しかし新規入隊にしても異動にしても、普通は直接アイランド入りすると思うんだが……。失礼ながら、所属を聞いても良いかい」


 幹耶が「機動二課です」と答えると、大男がサングラスの奥で目を見開く気配があった。


「……真斗の所か。これも何かの縁かな。ともかく、案内をしよう。どこに行くんだい」

「Dエリアの三番出入り口です」

 大男は納得したように頷き、「そういう事をするのは、あいつだろうな」と小さく呟いた。そして付いて来いとばかりに歩き出す。幹耶は一瞬戸惑ったが、結局はその分厚い背中を追いかける事にした。立ち止まったままで得られる解決に、ロクなものは無いという事を幹耶は知っていた。


 しばらく行くと、明らかに関係者専用と言った趣の扉の前に行き着いた。大男は傍らに控える警備員と二言三言言葉を交わし、幹耶を手招きする。

 幹耶は警備員の持つ端末に取り付けられたレンズを見つめる。ややあって、扉のロックが外れる音が鳴る。どうやら、先ほどのは網膜認証か何かであったらしい。

 扉をくぐり、幹耶は大男の後ろについて歩く。


「随分若いようだが、ピンキーへはどういった経緯で? 他部隊からの引き抜きか、誰かの紹介かな」

 不意に大男が声を上げる。


「ピンキー?」

「部隊名だよ。機動二課、またの名を清掃部隊。しかし隊長殿はその呼び名がお好きではないらしくてね、勝手にピンキーと名乗っているのさ」


 ふぅん、と幹耶は口の中で小さく呟く。隊長とやらがどんな人物かは知らないが、随分と無駄な事をするものだ、と思った。


「機動二課へは新規入隊になります。予備訓練を終えたばかりです」

「ほぉ」歩きながら首だけで振り返り、大男は目を細める。「珍しいな」

「そうなのですか?」

「ああ。そういう〝まとも〟なのは初めてかも知れん。あそこは少々特殊な経歴の持ち主が多いからな」


 そう言うと大男は前へ向き直り、以降は黙って足を進め続けた。特殊とはどういう意味だ?と幹耶は思ったが、口には出さないでいた。今気にしても仕方のない事だ。


 そうしているうちに、やや開けた場所へ出た。横に長いソファーとガラストップのテーブルが何組か並び、幹の捻じれた観葉植物が並んでいる。

 そこはエントランスのように見えたが、行き交う人影は一般人のそれではなかった。誰もが灰色の都市迷彩服に身を包み、カービン銃を担いでいる。その様子を見て、幹耶はこのエリアが一般用のフロアマップに記載されていない理由を理解した。


 張りつめた糸のような気配が張り巡らされている。都市迷彩の野戦服に身を包んだ男たちの絡みつくような視線を掻い潜り、幹耶は居心地の悪さを感じながら足を進める。

 野戦服を着た男の一人と幹耶の視線が絡む。男は訝しむように幹耶を睨め回し、先を行く禿頭の大男を見て納得したように、あるいは忌々しげに舌打をした。


 幹耶は絡みつく視線の〝成分〟が変化していることに気が付いていた。初めはどろどろとした警戒、それが重苦しい疑念に変わり、やがて理解を迎えて一瞬和らぎ、そして錆びたナイフのような嫌悪へと変じていく。幹耶にはなぜこのような視線を向けられるのは解らなかったが、ここに長居をすると神経が磨り減らされる事だけは確かだった。


「さて、あそこに見えるのが目的の三番出入口だ」

 そう言って、禿頭の大男が少し先を指で指し示す。あれほどの敵意をあちこちから浴びせられてもなお、この大男は平然としていた。慣れているのか、または神も頭を抱える程の鈍感であるのか。


「ありがとうございました。おかげで遅刻せずに済みそうです」

「そいつは良かった。ユキにあったら伝えておいてくれ。〝妙な新人いびりをしていると、オムライスにピクルスを刻んで入れてやる〟ってな」

「は、はぁ」


 戸惑う幹耶を置いて、大男は背中越しに手を振りながら立ち去って行く。


 不意の善意に感謝しながら、幹耶は無事に待ち合わせ場所に辿りついた。空港を出ると、ガラス板のような色の薄い青空が目に飛び込んできた。雲は一つも無く、見つめていると足元が浮ついてくる程に晴れ渡っている。


 澄んだ空を見ていると、スチールウールのように(わだかま)っていた胸のざわつきが解れていくのを感じた。幹耶は大きく息を吸い込み、同じように大きく吐き出す。


 すっかり晴れた胸の中に、未だ少しのざわつきが残されているのに気が付いた。それは例えるなら、昨日の夕食に何を食べたのかを思い出せない時の感覚と似ていた。忘れるような事ではない。ほんの少し、冷静に記憶を手繰れば思い出せるはずの情報。だがそれが浮かんでこない。そんな焦りと苛立ちと、少しの混乱と不安のような感情が胸の奥にこびり付いている。


 そうだ。思い出せないのだ。


 今、自分は目的の場所に立っている。ではどこから出発した? 決まっている。予備訓練を受けた福知山駐屯地だ。では、その前は? そもそも、なぜこんな事を、今この瞬間に疑問に思うのだ。

 何かがおかしい。噛みあっていないと言った方が正しいのか。どうにもしっくりとこない。


「あ、もう来てた。おーい」

 幹耶の思考を断ち切ったのは少女の声だった。大きく振る手に合わせて、少女の身を包む春色のカーティガンとレースをあしらった白いワンピースが揺れている。肩まで伸びた、薄氷の色をした髪が風に舞った。


 派手さは無いが、結構な美人だ。すらりとした身体に快活そうな少し吊り上り気味の瞳。纏う空気は人懐こい子犬のような、あるいは悪戯好きの子猫のような印象を同時に感じさせる不思議な雰囲気だった。

 幹耶は軽く辺りを見渡すが、他に人影は無い。となれば、あの声は自分に向けられたものだろうと納得し、少女へ歩み寄る。


「やあやあ。千寿幹耶くん、だよね。待たせたかな」

「いえ、丁度ついた所です」幹耶が応える。「天白さん、でよろしいですか?」

「うん、晴天の天に色の白。冬の雪と鱗で天白雪鱗、だよ。気軽にお(ゆき)様って呼んでね!」


 効果音が響きそうな勢いで雪鱗がウィンクをする。流れに乗れず、幹耶は「そ、そうですね」と曖昧に返すので精一杯だった。


「ふぅむ、幹耶くんは真面目系の人なんだねぇ。そーかそーか」雪鱗はなぜか納得顔で、大仰に頷いて見せる。「ま、それは置いといて。よく辿り着けたね? 遅刻するか、泣きついてくるかだと思っていたのだけれど」

「ああ。それは、運良く道案内をしてくれる人に巡り合いましたので」

「へぇ、案内?」雪鱗が形の良い顎に指を当て、少し顎を引く。「そんな良識人がこの空港に居るとは驚きだね。機動二課という名前を聞いただけで、唾を吐きかけてきそうな連中ばかりのはずだけれど」


 そう言われて幹耶は先ほどの、絡みつくような数々の視線を思い出す。


「似た様な歓迎を受けましたよ。一体、どういう事です? Dエリアに居た彼らは、スピネルの施設(ウォ)警備隊(ール)ですよね」


 幹耶は雪鱗を非難するつもりでは無く、純粋な興味としてそう尋ねた。理由の無い好意などは存在せず、同時に理由の無い敵意もまた存在しない。つまらない話になるのだけは確実であったが、今夜の寝付きを良くするために、幹耶はそれを知りたがった。


「何というかな。ここにいる彼らは、アイランドに居る事に耐えられなかった落伍者だから」

「耐えられない?」

「一つの街で、私たちアンジュと暮らすのが耐えられないんだってさ。要するに、アンジュの事がだ――い嫌いらしいんだよね。人の皮をかぶった悪魔だとか言ってさ。同じ空気を吸うだけで魂が腐るらしいよ」

 雪鱗は笑みを含めた声でそう言うと、さぞ楽しそうに幹耶の胸を人差し指で突いた。


 いわゆる普通の人間である〝ノーマル〟と、とある事情から――正確な原因は判明していないが――特殊な能力を持つに至った人間、〝アンジュ〟の関係は険悪どころでは済まない。ノーマルはアンジュを蔑視し、恐れ、迫害した。時にはアンジュがその身体に宿す〝ある物〟を狙って狩る事もあった。それは紛れも無い人間狩りであったが、彼らはアンジュを人間扱いなどしてはいなかった。


 そして当然のように、アンジュはノーマルを恐れ、そして憎んだ。数で劣る彼らは小さなコミュニティを築き、隠れるようにして暮らした。一方で、そうした扱いに不満を持つ者も多かった。当たり前だ。ノーマルに反感を持つアンジュは徒党を組み、彼らを襲撃した。狩りに対する復讐だ。


 しかし、これもやはり当然であるが、ノーマルも黙ってはいない。反撃をする。それから先の顛末は考えるまでも無い。国内のあらゆる地域が内戦のような状態になり、そしてそれは一つの国に留まらず、世界中で同じような事態が起きていた。アンジュは世界中で生まれているのだ。


 人類は、大きく二つに分かたれた。


「これから、ずっとそんな視線と声に晒されて生きるんだよ。〝外〟でも、そりゃあ色眼鏡で見られただろうし、道を歩くだけで命の危機に晒されるのも変わらない」雪鱗は幹耶の胸に突き立てた指を捻る。その爪が心臓まで届くような気がして、幹耶は一歩後退った。「でも、アイランドはそれ以上だよ。ノーマルとの距離が近い分、謂れの無い誹謗中傷を受ける事も多いし、時にはバドワイザーの空き瓶や、幸運の女神さまが昼寝をしていれば弾丸が飛んでくることもある。おおっぴらには行われないけれど、外と同じように〝アンジュ狩り〟だって起きる」


 雪鱗は少しだけ前屈みになり、下から睨め上げるように幹耶の瞳を覗き込む。瞳孔の開き、震え。そういったもので幹耶の恐怖を推し量ろうとしているようだった。喉が震えないように意識しながら、幹耶は大きく息を吸い込む。雪鱗から立ち昇る、吹きかけたばかりのように鮮やかな香水の香りが飛び込んできた。瑞々しい花の香りの奥に、胸を締め付ける匂いを感じた。どういう訳か、幹耶にはそれが死臭にしか感じられなかった。


 あらゆる物には気配がある。それは感情も例外ではない。喜び、嘆き、恐怖。それらにも立ち昇る気配がある。匂いとして雪鱗から立ち昇る気配。それが体臭なのか香水のせいなのかは判断が付かなかったが、幹耶の心は一つの想いに支配されていた。一言で表すなら、それは〝不吉〟だ。避けられない不幸。静かに進行する病魔。目の前の少女から立ち昇る気配はそういった物の訪れを予感させる、暗い不吉そのものだった。


「ど、うして」幹耶はようやく、言葉を吐き出す事ができた。「どうしてそんな事に? アイランドではアンジュやノーマルの区別は無く、みな同じ人権の元に生活していると聞いていたのですが」


 雪鱗は嘲るように鼻を鳴らす。


「そりゃあ結局、怖いからだよ」

「……怖い、ですか」


「見た目は普通の人間と変わらない。アンジュ自身だって、自分は基本的には普通の人間と変わらないって思っている。けれど、その二つは決定的に違う。それが怖くて堪らないらしいのさ。幹耶くんが今、私に対してそういった感情を持っているようにね」


 胸から指を離し、全部冗談でしたと言うように雪鱗は両方の手のひらを開いて幹耶に向けて晒す。おどけた様なポーズと共に、それまでの不吉の気配も霧散していた。後に残るのは元の無邪気で悪戯好きな雰囲気だけだ。


「外では互いを無視する事もできた。けれどアイランドでは互いの距離が近すぎるのさ。だから軋轢も生まれるし、それに耐えられない者も出て来る。他人を嫌うという事は、好意を抱く以上にその相手に心を支配される。恐ろしくて、腹立たしくて、遠ざけたくて意識せずにはいられない。それは想像以上に神経をすり減らす」


 果たして雪鱗は、あれだけの気配を意識的に振りまいていたのだろうか。恐らくはそうなのであろうが、幹耶にはどうすればこんな事が可能なのか見当もつかなかった。とにかく、目の前の薄氷の少女は見た目通りの人間では無い、という事だけは確かだった。


「少し喋りすぎたかな。ま、細かい話はまたの機会にね。さしあたって、アイランドで私たちアンジュがどんな扱いを受けるかを知っておいて貰いたかったんだ」


 そういって、雪鱗はけらけらと笑う。幹耶はもう、その独特のペースに吞まれっぱなしだった。


「ああ、そうだ」幹耶は唐突に使命を思い出した。「天白さんは〝ユキ〟と呼ばれていたりしますか?」

「ん? うん。何人かにはね」

「なら良かった。道案内をしてくれた方から伝言を預かっています。新人いびりをしていると、オムライスにピクルスを混ぜるとか」

 うぐ、と喉を鳴らして雪鱗が呻く。

「なるほど、ダンナかぁ……。後で連絡入れておかないと」


 あの親切な大男はダンナという名前なのだろうか。いや、恐らくはユキと同じく愛称の類であるのだろう。幹耶がそんな事を考えていると、雪鱗が足を踏みだして幹耶の隣を通り過ぎた。あの不吉な匂いが再び鼻孔をくすぐる。


「どちらへ? そちらは空港ですが」幹耶は振り向き、華奢な背中に言葉を投げる。

「うん、出発前に飲み物でも買っておこうと思ってね。幹耶くんはハイオクとレギュラー、どっちが良い?」


 ノールックでキラーパスが飛んできた。ハイオクというからには、今はもう殆ど手に入らないガソリンを絡めたジョークであるのだろう。出会ったばかりではあるが、雪鱗がどのような返しを期待しているのかは、幹耶にもうっすらと予測できた。


 少しだけ考え、それなりと思える答えを思いついた。スルーという手もあるが、幹耶は少しだけ頑張ってみる事にした。


「レギュラーでお願いします」少し声がぎこちない。「もちろん、コーヒーの事ですよ? 私は人間ですので」


 間。


 雪鱗が肩越しに振り返り、これ以上ないという程に〝きょとん〟としている。自分で振っておいてその反応はあんまりだろう、と幹耶は思ったが、何も言える事は無い。

 幹耶が居心地の悪さに身動ぎをしかけた頃、解けるように雪鱗が笑う。


「いやー、良いね幹耶くん。美味しい反応が久しぶり過ぎてびっくりしちゃった。愛しの団長様以外には、大抵は流されるからさ」雪鱗が嬉しそうに言う。「その道をまっすぐ行くとモスグリーンの車が止まっているから、中に入って待っていてね」


 そういって雪鱗は前に向き直り、歩き出す。しかし何かを思い出したように足を止め、幹耶の方へ振り返る。

「そうそう。ピンキーではお互いを愛称か、最低でも下の名前で呼び合う決まりになっているから、よろしくね」


 今度こそ雪鱗は歩き去っていく。その背中が空港内に消えるのを待って、幹耶は大きくため息をついた。身体に泥のような疲労感が()し掛かる。


 天白雪鱗。悪い人ではなさそうだが、一癖も二癖もある人物だ。人間として面白くはあるが、付き合いやすいかといえば、まったくそうは思わない。


 雪鱗の言伝通りに道を進むと、程なくして一台の自動車が見えて来た。聞いていた通りのモスグリーンだ。だがそれは幹耶が想像していたような自家用車などでは無く、軍用の高機動装甲車であった。しかも陸上自衛隊に正式採用されたばかりの最新型だ。


 高機動装甲車には物騒な火器の類は見受けられないが、それでも重厚で近寄りがたい雰囲気を存分に放っている。辺りを見回すが、他に目的の車両らしき影は無い。どうやら、この高機動装甲車で間違いないようだ。


 少し離れた所からガラス越しに車内の様子を伺うが、どうやら無人のようだ。まさか雪鱗がこれを運転していくのだろうか。幹耶はあの少女が重厚な装甲車を運転する姿を想像してみたが、それは違和感という言葉だけでは到底表しきれない代物だった。


 中で待って居ろという事は、鍵は開いているのだろう。幹耶は歩み寄り、ドアに手を掛ける。


「誰だ。何をしている」

 背後からの声に振り向くと、一人の女性が歩み寄ってくるのが見えた。年のころは二十歳を少し超えた辺りだろうか。細身の長身と絹糸のような灰色の長い髪とが相まって、ハイイロキツネのようだと幹耶は思った。


「ああ、あれか。噂のルーキーか」

 咥え煙草を不味そうに吹かし、灰髪の女性が言う。


「はい、千寿幹耶です。よろしくお願いします」

「ん。よろしく……と、ユキの奴はどうした? 迎えに出たはずだが、一緒じゃないのか」

「天白さ……」幹耶はピンキーのルールを思い出し、訂正する。「雪鱗さんなら、飲物を買いに行かれましたよ」

 灰髪の女性は片眉を上げる。

「なるほどな。ま、そういう事なら中で待って居ようか」


 そういうと、灰髪の女性はポケットの中からキーホルダーを取り出し、高機動装甲車に向ける。がちゃり、と開錠される音が聞こえた。

 高機動装甲車に乗り込む火蓮に続いて、幹耶も複合装甲板で固められたドアを開いた。ドアはずしりと重く、実に頼れそうだ。噂に聞くところでは、最新の装甲車は通常のHEAT弾頭であれば、RPGー7の攻撃にも易々と耐えるらしい。


 RPGー7とは、生み出されてから百年を迎えようとしている現在も携行対戦車兵器の代表格であり続ける傑作兵器、あるいは悪魔の指先の名だ。様々な派生型があり、対戦車から対人までを幅広くこなす。特にその弾頭は絶えず改良が加えられ、たとえ相手が最新鋭の戦車であっても、行動不能に追いやる事を可能にするだけの火力を有している。


「こちらの自己紹介がまだだったな。あたしは穂積(ほづみ)()(れん)。堅苦しいのは苦手でね、まぁお互い気楽に行こう」


 席につくやいなや、火蓮がそう言った。男勝りというかなんというか、とにかくサッパリした人だった。女性が憧れる女性といえばこのような感じであろうか。


 高機動装甲車の後部座席は、外見の無骨さからは想像もできない程に快適だった。広い車内は居住性に優れ、シーツもうっとりするような柔らかさだ。これなら長時間の行軍を行う兵士の尻や腰が痛みに悩まされる事は無いであろうと思えた。


「何というか、良い車ですね」幹耶は素直に感想を口にする。「軍用車といえば、もっと堅苦しくて息が詰まる物だと思っていましたが」

「おぉ、解るか。ルーキーは良い奴だな」火蓮は声のトーンを一つ上げ、ルームミラー越しに幹耶を見る。「他の奴らはこんな車に金と時間を掛ける意味が解らないと抜かすんだ。車は人生のパートナー。重要なのは居住性と信頼性。そうだろう?」

「は、はぁ。そうですね……」


 途端に饒舌になった火蓮に、幹耶はにわかにたじろいだ。火蓮の口ぶりからすると、どうやらこの高機動装甲車は穂積火蓮個人の所有物と言う事になる。対戦車ロケットの攻撃にも耐えうる最新鋭装甲車を、だ。しかも、内装にもかなりの改造が施されていると見て間違いないだろう。個人の趣味と言えばそれまでだが、火蓮が命懸けである機動二課の業務で得た賃金の殆どをこの高機動装甲車に継ぎ込んでいるのは、ほぼ間違いないだろう。控え目に言っても、常軌を逸している。


「こーら。うぶな新人を虐めるんじゃないよ」いつの間にか戻って来た雪鱗が、ドアの防弾ガラスを肘で叩いている。「火蓮。ドアを開けるか飲み物を受け取ってくれない? 見ての通り手が塞がっていてね」


 火蓮が身体を伸ばして助手席側のドアを開けると、つま先でそれを広げながら雪鱗が車内に滑り込んできた。紛れ込んだ三月の涼風が幹耶の頬を撫でる。


 火蓮は雪鱗からカップの一つを受けとり、ストローから中の液体を吸い上げる。

「お? なんだこれ、美味いな。まだ肌寒いのにミント系とは、ある意味で洒落ているが」

「ミントジュレップだよ。じゃじゃ馬のドライブには最適でしょう?」

「カクテルかよ! いつからここはチャーチルダウンズになったんだ? サイドミラーにバラのレイでもぶら下げろってのか」


 火蓮が叩きつけるようにしてドリンクホルダーにカップを置く。飲酒運転をするつもりは無いらしい。火蓮の反応に、雪鱗は満足したようにくすくすと笑った。


「そっちの二つは何だ。えらく甘ったるい香りだが」眉を顰めて火蓮が言う。

「私のは黒糖ミルクハニーエスプレッソの生クリームトッピングだよ」

「なんだそりゃ。糖尿病を誘発する飲料兵器か? ルーキーのは?」


 聞かれて、幹耶は手渡されたカップのストローを吸い上げる。

 舌に広がるのは仄かな苦みと茶葉の香り。そして後からやってきたのは、それらを覆い尽くし、呑み込み、脳髄まで痺れさせるほどの強烈な甘味だった。


「……抹茶ラテ、ですかね。それも激甘の」

「それは結構な事だな。滋養たっぷりだ」

 同情するように火蓮が言う。

「駄目だよ? これは私と幹耶くんのなんだから」

「頼まれたって手をださねぇよ」


 火蓮がキーを回し、エンジンに火が入る。とは言っても、この高機動装甲車は電気自動車であるので、エンジン音は実に静かだった。


 せっかくの頂き物だ。幹耶はもう一度飲料兵器、もとい激甘抹茶ラテに挑戦し、早々に胃もたれを起した。食べ物を粗末にする気は無いが、これは飲みきれないかも知れないと幹耶は思った。レギュラーコーヒーはどこへ消えたのか。


 その様子をルームミラー越しに火蓮が見つめていた。そして「行っても良いな?」と雪鱗に向かって問いかける。

「そうだね。とりあえずは」

 笑いを噛み殺しながら雪鱗が応える。

 火蓮が頷き、深緑の高機動装甲車が滑るように走り出す。


 果てのない巨大迷路のようだった空港は見る間に小さくなっていき、やがて風景に溶けて消えた。


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