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進化論

 薄暗い廊下を一人の男が歩いている。痩せぎすの身体を薄汚れた白衣で包み、べったりと撫でつけた頭を揺らしながら何事かを呟いている。アイランド・ワンにおけるアゾット結晶、およびアンジュに関する研究の主任研究員、磯島だ。


 磯島は思考の海に意識を沈み込ませたまま、足を進める。それでいて段差に躓いたり、人とぶつかるような事はない。それが彼にとっては普通の行為だからだ。いかなる時も思考を止めず、眠っている最中ですら思考を巡らせている。むしろ夢の中でこそ閃きを得られる、というのが彼の持論だ。それが冗談でないことは、彼の主任研究員という立場が物語っている。


 おもむろに磯島が壁に手のひらを押し付ける。すると掌紋を読み取る光が走り、ただの壁だったものがスライドし、道が開かれる。

 隠し扉の向こうには白い壁に囲まれた空間が広がっていた。様々な機材や書類に床は埋め尽くされ、白衣に身を包んだ数人の人間が忙しく動き回っている。


「どんな様子だぁ」

 磯島が虚空を見つめたまま、背中で液晶モニターと睨めっこしていた男に話しかける。男はちらりと磯島に目を向け、小さく会釈をする。

「お疲れ様です、主任。ガルム及びマンティスは安定して〝製造″できています。適正者の条件は未だ不明ですが、被験者は発症するか、発狂死の二択です」

「行動操作ぁ」

「そちらは成果が得られていません。まるでゾンビですよ。被験者は一度プログラムを開始すると自我が消失し、生きた屍のような状態になります。もちろん、言葉も通じません。完全に操作不能ですよ」

「ふむ。発症操作は、上手く行っているのかぁ?」

「そちらは上々です。先日のショッピングモールでの実地試験も成功しましたし、少々の個体差はありますが、プログラム開始後約八時間で、発症のタイミングをある程度、任意に操作できます」

 低く唸りながら、磯島が小さく何度も頷く。

「よし、発症操作を重点的に見直せ。可能な限り精度を高めろぉ。データを俺のバベルに纏めて送っておけよぉ」

 そう言って磯島は部屋の奥にある自室へと入る。文字が書けそうなほどに濃いコーヒーをサーバーから注ぎ、椅子に深く腰掛ける。

 液晶の電源を入れ、映し出された被験者の様子を確認する。被験者は強化ガラスの檻に押し込められ、その多くは無理矢理に植え付けられた〝悪夢〟に悶え苦しんでいた。


 大仰な隠し扉まで作り、磯島がここで研究をしていること――。それは、ポリューションの人工的な製造だった。

 無論、何の目的もなくこのような事を行っているわけではない。これは〝アゾット結晶の製造″に関わる、重要で重大な研究だ。人類の繁栄に大きく貢献する、崇高なる研究だ。

 しかしながら、堂々と行えるような代物でもない。ゆえにこうして、草むらの野ネズミのように隠れ忍んで研究を行っているのだ。


 磯島は漆黒のコーヒーを一口啜り、鼻を鳴らす。何が人道だ、何が道徳だ。馬鹿馬鹿しい。人が人を救えるか? 否だ。人を救えるのは、いつだって科学だ、新しい技術だ。無知で無能な人間が数十、数百死んだところで、人類全体救えるのであれば微々たる問題ではないか。そんな単純な計算すらできない夢想家が多すぎる。


 ミュータントプログラムは完成間近だ。アゾット結晶と近い特性を示すポリューションのコアを任意に製造できるようになれば、それを足掛かりにアゾット結晶の研究も飛躍的に進むだろう。ダストの謎も解明に近づくに違いない。人間がポリューションに変じる際の肉体的な変化は不可解過ぎて仮定すら立たないが、それも然るべき場所で繰り返し検証すれば、何かしらの答えを導き出せるだろう。

 そう、然るべき場所で。ここでは駄目だ。この国際社会の目で雁字搦めにされたアイランドでは。スピネルから押し付けられる、退屈で的外れな研究など、もう沢山だ。


 表向きのアンジュ研究と裏のポリューション研究の二足の草鞋(わらじ)は肉体的に堪えるが、それも今しばらくの辛抱だ。もうすぐ俺はこのアイランドという檻から解放される。

 懸念されるのは〝あいつ〟の反応だ。おそらくは、怒り狂うだろうな。だがどんなに小賢しくとも、あいつも所詮はただのモルモットだ。スピネルに所属している限り、俺を探し出すことなど出来はしないだろう。問題なく逃げおおせる事ができる。


 それにしても、気になるのはあの千寿幹耶とかいう小僧だ。

 考え過ぎであろうとは思う。しかし、計画が大詰めに入ったこの段階での不確定要素、無視はできない。だが、果たしてあの小僧は計画に対する脅威足りえるだろうか。

 ……否だ。現段階では。

 確かにガルム二体を相手にして生き残った実力は大したものだが、その程度でどうにかできるほど、俺の作り出す地獄は甘くない。容易に飲み込まれ、業火に焼かれることだろう。


 磯島はコーヒーを啜りながら、モニターの向こうでのたうち回る被験者を見遣る。性別は女性、アジア系、年齢は二十代半ばと言ったところか。プログラムを走らせてからすでに七時間半。データ通りであれば、ポリューション化は間近と思われた。


 ポリューション。公害獣。悪意の獣。

 結局の所、こいつらは〝何だ〟。何に分類すればいいのだ。


 生物? 違う。ポリューションは生命活動をしてない。肉体維持のための栄養を必要とせず、呼吸も必要としてない。脳も脊髄も内臓も存在せず、代謝もしていない。故に生物として定義することはできない。

 ではただの現象か? 地震や雷の類か。それも違う。ポリューションには明らかな知性がある。人を襲い、肉を喰らう。明確な敵意と悪意を振りまく人類の敵だ。

 それと、ポリューションが体内に宿す〝コア〟だ。これについても解らないことが多い。コアは性能にこそ差はあれど、アゾット結晶に近い特性を示す。つまり、あらゆるエネルギーを単純増幅させる事ができるのだ。

 これはどういう事だ? ポリューションのコアはアゾット結晶と同一、あるいは同類の物であると考えてよいのだろうか。いや、そう思うしかない。他にエネルギーの単純増幅を成せる結晶体など存在しないのだ。無関係であるのならば、そちらのほうが大発見だ。ポリューションコア、別名〝粗製アゾット結晶〟の研究は、アゾット結晶研究に光をもたらすに違いない。


 そして、アゾット結晶を体内に宿す者がもう一種いる。〝アンジュ〟だ。

 粗製アゾット結晶よりずっと高品位な、本物のアゾット結晶をその身に宿し、現実に事象を上書きして奇跡を呼び起こす脅威の存在、アンジュ。

 ポリューションとアンジュ。この二つには共通点が多い。

 ポリューションに変じるのは人間だけだ。他の動物からでは、ポリューションへと変じた例がない。アンジュも形だけは人間だが、果たして人として扱ってよいものか。人の形をしたポリューション、あるいはポリューションの上位種、という事はないか? 


「飛躍しすぎ、かぁ……?」

 磯島は冷めたコーヒーを啜る。口内に灰のような苦みと、えぐい酸味が広がる。

 アンジュは進化した人類だ、という〝あいつ〟の言葉を思い出す。


 進化。進化……か。

 普段は意識される事はないが、人類進化の可能性は常にありうる。

 約六百万年前の太古に共通の先祖から枝分かれし、一方はチンパンジーに、そしてもう一方は更に枝分かれを繰り返しながら猿人、原人、旧人、新人という過程を経て、現代の〝人類〟へと進化を遂げた。

 果たして、進化は〝終了〟したのか? 否、生物進化に終焉などはありえない。そもそも生物とは様々な環境に適応するために、絶えず進化をしている物だ。たかだが二千年と少しの間に目立った変化が無かったからといって、今日この日に人類の劇的な進化は起こり得ないなどと、一体誰に言えるのだ? それどころか、既に起きているとしたら?


 突然の石油資源の枯渇。そして突如現れた未知のエネルギー増幅結晶体、アゾット結晶。それに伴う急激な環境変化。アゾット結晶により生み出されるダストの影響――。それらが一部の人類に、突然変異的な進化をもたらしたとは考えられないだろうか。過酷な環境を生き抜くために、牙や爪を持つ代わりに宿したのがアゾット結晶だとしたら? それがポリューションとアンジュという二通りに枝分かれしているのだとしたら?

 現在の所、アンジュとノーマル――所謂、普通の人間――の間には、遺伝子的な差異は確認できていない。つまり、個体群体内での遺伝子頻度の変化という、進化の定義からは外れていることになる。ポリューションに至っては生物ですらない。これまでの価値観では理解できないことが現実に起きている。新たな認識が必要だ。


 ポリューションとは、形を持った悪意だ。敵意、害意、悪意。つらい、苦しい、妬ましい。そういった負の感情が体内に蓄積されたダストにより増幅され、それが個々人の許容量を超えると、発狂死をするかポリューションへと変態する。その際に、ポリューションの体内には粗製アゾット結晶が生成される。

 一方、アンジュがどのような条件で生まれるのかは、不明な点が多い。性別、地域、国籍、人種。あらゆるものに共通点がない。共通の物といえば総じて身体能力が高い事と髪や瞳に現れる身体的特徴。そしてこちらは個体差があるが――、現実に現状を上書きする奇跡、アーツを扱えるという点だ。


 アンジュの操るアーツとは〝力のイメージ〟の増幅であると考えるのが解りやすい。何をもって〝力〟とするかはアンジュによって異なる。それは切断力であったり、あらゆる攻撃を弾く防御力であったり、全てを焼き尽くす炎であったり、途方もない不死性であったり――。


 仮にこいつらが〝進化した人類〟であるのならば、次に起こるのは生存競争だ。多くの生物がそうであるように、生存に有利な進化を遂げられなかった生物は死に絶えることになる。この場合の取り残された生物とは、現人類だ。いや、生存競争は既に起きている。アンジュに対する迫害は、人類の本能によって引き起こされている。止めろと言って収まるものでもないだろう。


 磯島は大きくため息をついた。オカルトには興味もないが、これだけ不可解なアゾット結晶を前にしては〝アゾット結晶は人類を滅ぼす悪性のウイルスである〟という、テロリスト集団〝ナチュラルキラー〟の馬鹿げた主張も、少しは真面目に聞いてみようかという気持ちになる。


 アゾット結晶、ダスト、ポリューション、アンジュ……。どれもが途方もなく、正体不明だ。

 ――正体不明。素晴らしいではないか。未知なる扉を叩き続けてこそ、人間というものだ。


「せいぜい、楽しませてくれよぉ……?」

 薄く嗤う磯島の視界の端に、新着メールを示すアイコンが光る。件名は『親愛なるプロフェッサーへ』。

 こういう言い回しをするのは、あいつか。と磯島は面倒そうに顔を歪める。だが無視をするわけにもいかない。メールを展開し、短い文面を目でなぞる。


 磯島の表情が、見る間に苦いものへと変じていった。


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