悪意の爪牙 前編
『ひゃー、結構な大型個体ね。幹耶くん、生きてるー?』
幹耶の浮ついた意識を引き戻したのは、脳内に響く真斗の声だった。少しも気負わないその口調に、幹耶も少しだけ冷静さを取り戻す事ができた。
流石に正面に留まるのは得策では無いと考え、幹耶は感覚の怪しい足を引きずるように側面に回り込む。狼型のポリューションはそれを観察するように、ゆっくりと首を動かして幹耶を見つめていた。
『なんですか、この化物は!! 聞いていないですよこんなの!!』
『言っても信じないでしょう? 百聞は一見に如かずと言うじゃない』
幹耶は「ぐっ……」と喉を鳴らす。それは確かにそうだ。つい先ほど、自分もデミを見てそう考えていた。だが、実際に目の当たりにしても信じられないという事もある。到底納得できない。こんな化物が実在するなど、信じたくない。
やはりこの街は異常だ、と幹耶は改めて思う。この様な化物が日常的に出現するような都市に住まうなど、正気の沙汰では無い。事前にポリューションについて詳しく知らされなかった事にも得心がいった。こんなものと戦うのだと事前に知らされれば、殆どの人間はアイランドの地を踏む事無く逃げ出すだろう。
『……どうするんですか。こんなもの、どうすれば』呻くように幹耶が言う。
『もちろん除去するのよ。ビビっちゃ駄目よー? 迷いや恐怖は刃を鈍らせるわ』
『そうは言われましても――』
未だに幹耶を見下ろしている巨獣を見上げ、生唾を吞みこむ。巨獣の身体は水面が揺れるように波打ち、その輪郭は常に形を変えている。だがその中でも形の変わらない、明らかに硬質な部位がある。牙と爪だ。
牙は一つ一つが太い杭のようで、爪に至っては丸太のように太い。まともに受ければ、人間の身体など一溜まりも無い。たとえ牙や爪の直撃を避けられたとしても、その巨体から繰り出される攻撃はどれもが致命傷となるだろう。殴打されただけで全身の骨が粉々になるはずだ。
「ポリューションを除去する方法は主に三つ。コアを破壊するか、完全に引きずり出す。あるいは身体を再生不能なほどに吹き飛ばす。一撃でね」
声の方へ幹耶が顔を向けると、いつの間にか真斗が横に並んでいた。
「コア、ですか? っていうか、再生するんですか、アレ……」
「するわよ? 再生。当たり前じゃない」
真斗がさも当然のように言う。そんな当たり前があってたまるか、と幹耶は思うが、今更それを言っても詮無きことだ。
「狼型や犬型のポリューションは総じて〝ガルム〟と呼んでいるわ。このタイプのコアは……あった。ほら、胸の真ん中あたり。見える?」
真斗の指先から視線を伸ばしていくと、ガルムの身体の中に暗い輝きを放つ宝石のような物が見えた。拳大の大きさで、胸の中で輝くそのあり様は、まるでガルムの心臓だ。
「解りやすい解説をどうも。しかし位置が悪いですね。四メートル近い高さですよ」
「徹底して脚を狙いましょう。体勢を崩れた所を直接叩くわ」
「まさか、正面から行くつもりですか。二秒で挽肉ですよ」
くすり、と真斗が嗤う。
「二秒が永遠になるように、神様にでも祈りなさい!」
景気の良い声を上げながら、真斗が弾かれたように駆け出した。桃色の疾風は一瞬でガルムに肉薄し、すれ違いざまに湾曲した刃を太い前脚へ食い込ませる。黒い粘体が飛び散り、前脚は半分以上が抉られた形になった。
脚の一つを失いバランスを崩すと思われたガルムだが、傷口が泡立つように大きく膨らんだかと思うと、次の瞬間には元通りになってしまった。
「随分と優秀な再生能力ね」舌打ちをしながら、真斗がどこか嗤うように口端を歪める。「んじゃ、崩れるまで抉らせてもらうわよ!!」
柱のような脚の間を桃色の疾風が駆け巡る。真斗の刃は次々にガルムの脚を切り裂くが、その度に傷は一瞬で元通りになってしまう。そして、ガルムもただ黙って斬られている訳では無い。その巨大な爪をもって真斗を切り裂こうと、太い前脚を振り下ろし、振り払う。
ガルムが爪を振り下ろすたびに床が轟音をあげて砕け、地響きと共に破片が高く舞い上がる。野太い腕が振るわれるたびに烈風が荒れ狂う。真斗は踊るようにそれを避け、的確に攻撃を加えていく。対して幹耶は、小人対巨人のような戦いの前に、ただ茫然と立ち尽くすのみだった。
戦いたくない。こんなものを相手にするなんて、馬鹿げている。これほどの化物の相手など、それこそ軍隊にでも任せれば良いでは無いか。いくらアンジュが常人を遥かに凌駕する身体能力と得意な能力を持つとはいえ、たった数人でこんな物の相手をさせるなど、常軌を逸していると、幹耶はそう思った。正直に言えば、今すぐにでも逃げ出してしまいたい。自分の目的は、こんな物の相手では無い。
だが……逃げる? 本当に?
名も知らぬ他人を助けようとしておいて、目の前の少女を見捨てるというのか。
否。断じて否だ。それこそ馬鹿げている。
それに、と幹耶は周囲をぐるりと囲うデミの大軍に目を向ける。この分厚い壁を突破するなど不可能だ。どのみち、あのガルムとかいう化物を何とかしない限り活路は無い。なぜデミが追撃を止めたのか不思議だったが、なるほど。自ら狩場に飛び込んだ獲物にわざわざ襲い掛かる必要も無いという訳だ。
舐めやがって、と幹耶は口の中で小さく呟く。
神に祈れ。真斗はそう言った。冗談じゃない。祈ったくらいで神様が助けてくれるのならば、自分はここには居ない。道は自分の手で切り開くのだ。いつのいつだってそうだった。そしてこれからも。
「上等ですよ……。やってやる」
もうこれ以上あれこれ考えても仕方ない。これ以上、少女を一人で戦わせる無様を晒す訳にもいかない。戦って、勝って、生き残る。それしかない。人は自らの運命を選べないが、どう生きるのかを決めるのは、いつだって自分自身だ。
幹耶は焼けたゴムのような匂いのする空気を胸いっぱいに吸い込む。そのまま息を止め、眼を閉じる。手足の先に血のめぐりを感じ、ぼやけていた精神がその輪郭を取り戻す。
刀の柄を強く握りしめ、脚の指先に力を込める。大丈夫だ、戦える。息を鋭く吐き出し、幹耶は刃を後ろに引いて駆け出した。
離れていても相当な威圧感だったが、近づくにつれてガルムの放つ圧力が増していく。だがもう恐れる事は無い。幹耶は速度を落とさずにガルムに突撃し、その太い後ろ脚を切りつけた。
砂山に打ち込んだような鈍い感触が掌に伝わる。幹耶は予想以上に重い手ごたえに刀を持っていかれそうになるが、脇を絞め、腰と腹に力を込めて一息に振り切った。
『随分と待たせるじゃない。さ、やるわよ!!』
『はい!!』
二人はガルムの四肢を縫うように駆けまわり、攻撃を加えていく。人数が増えたことで攻撃の手数は増えたが、逆にガルムから狙われる割合は分散していた。隙を突く機会も増え、猛攻に拍車がかかる。
ガルムの様子に変化が起き始めていた。絶え間なく加えられる攻撃に再生速度が鈍り、ガルムは攻撃を嫌がるような素振りを見せ始めたのだ。
「せあっ!!」
幹耶の一撃が、ガルムの右後脚首を横一直線に両断した。再生は間に合わず、ガルムの姿勢が初めて大きく崩れる。二人の攻撃がついにガルムの再生能力を上回った。
「ナイス!!」
真斗が二本のネイルの銃口をガルムへ向け、同時に引き金を引いた。轟音と共に放たれたソニックショットの衝撃波がガルムの粘体を吹き飛ばし、暗く輝くコアが剥き出しになった。
ネイルをくるりと一回転させ、真斗が駆け出す。狙うは一点、半身を失って崩れ落ちるガルムのコアだ。
「はあぁぁぁぁっ!!」
螺旋状の刃を持つネイルが唸る。全身全霊を込めて放たれた一撃がガルムのコアを捉えた。鈍い衝撃音が響き、この惨劇に終止符が打たれる――はずだった。
「なっ――、はあっ!?」真斗が驚愕に顔を歪めて呻く。「くっ――、もう一撃!」
真斗は湾曲したネイルの刃を振り上げるが、追撃を放つことはできなかった。粘体が再びコアを包み込んでしまったからだ。再生したガルムに頭部に噛みつかれそうになり、真斗は舌打ちをしながら大きく後方へ跳躍する。
『真斗さん、コアは?』真斗のバベルへ幹耶の声が届く。
『ごめん、失敗したみたい』ぎり、と真斗が歯ぎしりをする。「妙に硬いわね……」
ガルムのコアには大きくヒビが走っていたが、まだ形は失われていなかった。どうやら、ガルムを倒すにはもう一撃を加える必要がありそうだ。
『もう一度、ですね。同じ調子で進めてよろしいですか』
『ええ。焦らず、確実に行きましょう。少しずつ削り――、つっ!?』
螺旋状の刃を持つネイルが地に落ち、鈍い音を上げる。震える右手を庇うように抱え込み、真斗が身体を折る。
『ま、真斗さん?』
『あーうん、ごめん。右手をやっちゃったみたい。まぁ、しばらくしたら治るわよ』
『いや無理でしょう!?』
どうやら攻撃の入りどころが悪かったらしい。真斗は右手を痛め、ネイルを持つ事も難しいようだった。だけれど、とネイルを指に引っ掛けて拾い上げながら真斗は言う。
『向こうも無傷ではないわ。片腕でも十分――』
その時、ガルムの身体に異変が起きた。ひび割れたコアが輝きだし、全身の粘体が激しく波打つ。ガルムの身体からいくつもの、先端に棘のような物がついた触手が伸びた。全身は赤黒く変色し、身体の形状も幾分か細身になっている。痩せたというよりは、洗練されたという表現のほうが似合うと幹耶は思った。
『じゃ、ないみたいね』真斗が困ったような笑みを浮かべる。
『なっ……!? 真斗さん、これは?』
予想だにしない事態に、幹耶が困惑した声を上げる。
『さぁ、ね……。本気モードって事かしら』
『それって、真斗さんも知らないって事ですか!?』
『さっきも言ったでしょう。ポリューションやデミについては、解明されていない事のほうが多いのよ』
変態したガルムが激しく咆哮する。押し出された衝撃波が二人を襲い、心と体を激しく揺さぶった。ガルムは無数の触手を翼のように広げ、悠然とした姿を晒している。とても瀕死の状態には見えない。間違いなく、先ほどよりも強敵だ。
『随分と元気そうね』真斗は細く溜息をつく。『幹耶くんのアーツ、アンサラーだっけ? 威力拡張型の斬撃系だったわよね』
『え、あ、はい』戸惑いながらも幹耶は答える。『切断をどれだけ明確にイメージできるかによって切断力が変わります。集中する時間が長いほど、威力と射程が増します』
『へぇ、射程も?』真斗が感心したような声を上げる。『で、どうかしら。ガルムのコア、斬れそう?』
幹耶はガルムを睨みつけながら回り込み、真斗と合流する。もはや狼にも見えなくなったガルムの異様を正面から見据え、胸に暗く輝くコアへ鋭い視線を向ける。
「……三十秒も頂ければ」
「昼寝でもするつもり? 十秒で練り上げなさい」幹耶へ視線も向けずに真斗が言う。「私も援護無しじゃ、そう長くは注意を引きつけられない。私がアート作品みたいにされる前に仕留めてね」
幹耶は一瞬迷い、そして頷いた。今更悩んでどうする。
アンジュの操る、奇跡ともいうべき様々な能力を総称して〝アーツ〟と呼ぶ。
現実を大きく捻じ曲げるアーツの発動には、大抵何かしらの条件や代償が必要となる。アンジュや保有するアーツの内容によって必要な物は様々だが、アーツが強力である程、条件や代償は厳しい物となっている場合が多い。
幹耶の保有するアーツ〝神剣〟は威力拡張型の斬撃系というように分類される、刀剣類を用いて相手に直接的、あるいは間接的に加害するという物だ。そしてその代償は〝時間〟だ。要するに〝力を溜めて攻撃力を数倍に高める〟という物だ。
だが、実際の戦場はテレビゲームでは無い。ターン制などという、甘いものは存在しない。一瞬の判断が制止を分ける戦場においては、一秒という時間ですら一掴みの黄金に等しい。敵と正面から相対している状況であればなおさらだ。
そんな貴重な戦場の時間を湯水のように消費する幹耶の能力は、酷く扱いが難しい。使いどころを間違えれば自身を窮地に追い込むだけだ。しかして、そのアーツは代償に見合う程の威力を秘めている。振るえば万物を両断する、言葉通りの〝神の剣〟であるのだ。
幹耶は刀を振るい、小さく息をつく。
「タイミングは任せます」
「そう? じゃあ早速。準備ができたら声を掛けてね。私ごと斬らないでよ?」真斗はそういうと、散歩でもしているかのような気軽な歩調で歩き出す。「3、2、1――」
最後の言葉を発する代わりに、弾かれたように真斗が駆け出す。対するガルムは短く唸り、真斗へ向けて杭のような棘を備えた触手を殺到させた。幹耶は刀を身体の後ろに引き、腰を落として意識を集中させる。見つめるはただ一点。暗く輝くガルムのコアだけだ。
次々と降り注ぐ死の雨を、真斗は踊るようなステップで避けている。時折死が彼女の肌に爪痕を残すが、その舞踏を止めさせるには至らない。
振り向きざまにネイルの銃口が吼える。いくつかの触手が千切れ飛ぶが、すぐさま再生を始め、真斗へ襲い掛かる。どうやら再生能力は健在のようだった。
真斗はあえてガルムの懐に飛び込むことはしなかった。中途半端な位置に留まり、全ての攻撃を正面から迎え撃っていた。全ては時間稼ぎの為に。
刀の柄を握る幹耶の手が、仄かな光を帯びる。蒼白い光は徐々に刀身へと伝い、やがて包み込んだ。きる、切る、斬る。コアが両断されるその様を何度も脳内にイメージし、幾重にも重ねてゆく。溢れ出した〝力のイメージ〟が、現実に現象を上書きしようとしていた。
アンジュがその身に宿すアゾット結晶が増幅するのは、身体能力ばかりでは無い。むしろ、それは付随的な代物だ。アンジュを異能の使い手たらしめる最大の要因は、アゾット結晶による力のイメージの増幅である。
斬る。潰す。貫く。爆破する。燃やす。弾く。貫く。溶かす。癒す。
アンジュが各々〝もっとも明確にイメージできる力のイメージ〟を極限まで増幅し、現実に現状を無理やりに上書きする。その無から有を生み出すが如き超常こそが、アンジュの操る奇跡、アーツの正体である。
触手の一本が遂に真斗を捉え、その脇腹を深く抉った。真斗は顔を歪め、しかし怯むことなく変態したガルムと相対し続ける。しかし限界は目に見えていた。
痛みで意識が飛びかけた。その一瞬の隙を突き、ガルムが真斗へ攻撃を集中させる。真斗は床を転がりながら何とか攻撃を避ける事には成功したが、散らばった床材の破片で足に傷を負ってしまう。脇腹の出血も止まる様子が無く、床には生々しい血の跡が描かれる。
真斗が小さく舌打ちをする。傷は浅くない。四肢の感覚も怪しくなってきた。だが、まだだ。せめて後、数秒は――。
『真斗さん!!』真斗のバベルに幹耶の声が響く。
『ったく、遅いのよ!!』
真斗は力を振り絞り、地面を蹴る。ガルムの胸下へ潜り込み、ソニックショット放った。ガルムは突然の戦闘距離の変化について行けず大きく身体を抉られる。コアが露出し、真斗はソニックショットの反動を利用して大きく距離を取る。
再生能力を取り戻したガルムの、コアの露出は一瞬だ。
だが、幹耶にはその一瞬で十分だった。
「せぇぇぇ、やぁぁぁぁ!!」
全身全霊を込めた一撃が放たれる。蒼白く輝く刀身から放たれた斬撃は光の刃となり、ガルムへ向かって伸びていく。掬い上げるように放たれた斬撃は数十メートルの距離を越えてガルムを捉え、するりと抜けた。
唸りを上げていたガルムの動きが止まる。
数瞬の後、不意に甲高い金属音が響いた。温い水に氷を放り込んだ時のような音だ。
ざり、と音を立ててコアが斜めにずれる。次の瞬間にはガルムの全身は粘度を失い、砂のように崩れ落ちた。辺りは舞い上がる砂に飲み込まれ、灰色に染まる。
「――――お、終わった、のか……?」
力を使い果たした幹耶は膝を付きながら呟く。ガルムから放たれていた焼けたゴムのような悪臭は未だ消えないが、視界に映る限りではデミの姿も確認できない。本体であるポリューション・ガルムと共に消滅したのだろう。晴れた砂煙の向こうにある砂山には、二つに割れた黒い鉱石のようなガルムのコアがある。
「うぅ、巻き込まれた……」
ぺっぺっと砂を吐き出しながら真斗が歩いてくる。桃色の髪も砂にまみれ、捨てられた猫のようだ。真斗が身体を払うたびに、降り注ぐ陽光の中に輝きが生まれた。
「何とかなりましたね。全く、死ぬかと思いましたよ」
「本当にね。倒せてよかったわ。服は駄目になっちゃったけれど」
苦笑いを浮かべながら真斗が服を摘まむ。その赤黒さに幹耶は目を向いた。
「凄い出血じゃないですか!」
幹耶は疲労も忘れて駆け寄り、裂けた服の上から真斗の脇腹の傷を確かめる。放り出された刀がカラン、と抗議の声を上げる。
「ちょ、ま、大丈夫だって! もう塞がってるから!」
恥ずかしいじゃん、と仄かに頬を赤らめて真斗が言う。
「何を言っているんです! そんな訳……ない……、事もない、みたいですね……」
脇腹も服も赤黒く染まってはいるが、既にして出血は止まっているようだった。そんな馬鹿な、と幹耶は小さく呟く。抉られた服の範囲からして、内臓まで傷ついている可能性も考えたのだが。
その時ズルリ、と何かが這いずるような音が聞こえた。ガルムのいた方角からだ。二人は野生動物のような鋭い反応でそちらへ視線を向ける。
「「……へっ?」」
図らずも二人の声が重なった。視線の先には広場に備え付けられていた大型のカラクリ時計がある。いや、〝あった〟というべきか。
カラクリ時計は、斜めにずれていた。そして石臼をひくような音を立てて、ゆっくりとズレが大きくなっていく。
「「あぁ~~……」」
間抜けな声を揃える二人の目の前で、ついにカラクリ時計は倒壊した。巻き上げられた砂塵が幹耶と真斗へ覆いかぶさる。
やがて砂の暴力が収まるのをまって、幹耶がげんなりと口を開く。
「あれって、私の仕業、ですよね……」
「言い逃れはできないわね」神妙な面持ちで真斗が頷く。
「その、始末書とか」
「それで済めば良いけれど」
「まさか弁償ですか!?」
青ざめた表情で幹耶が声を上げる。大型のカラクリ時計のお値段とは、如何程であろうか。
「ま、お雪が巧く取り成してくれるわよ」
「雪鱗さんは交渉事がお得意なのですか?」
確かにあの掴み所のない性格は、交渉事には向いていそうだが。
「お雪の得意技はごまかし、揉み消し、お金で解決、よ」
「あー、そうですか……」
駄目っぽい、と幹耶は肩を落とす。全く、なんて日だろう。
すっかり気の抜けた二人の元へ萩村から緊急通信が入り、自動で接続された。戦闘は終わったはずだが、バベルはまだ通常モードには切り替わっていないようだ。
『どもども、萩村ですー。お疲れ様ですー』
『はーちゃんおっつー。ガルムならもう方付いたわよ。代わりに大きいゴミが一つ出来上がっちゃったけれど』
そう言って真斗が幹耶へ悪戯な視線を向ける。
『大きいゴミ、ですかー?』首を傾げる萩村の姿が目に浮かぶようだ。幹耶は顔も知らないが。『ま、それは置いておいて、ノイズが弱まって判明したことがあるので、聞いてくださいー』
『んー? 何かしら』
のんびりとした萩村の声に、真斗もまたのんびりと返す。しかし続く言葉は、不穏その物であった。
『ポリューションなんですけれど、もう一体居るみたいなんですよねぇー』
『……はっ?』
思わず幹耶が声を漏らす。
『もっと言うと、すぐ近くに居るみたいなんで気を付けてくださいー』
それだけを言うと、萩村は通信を切ってしまった。忠告をくれるのはありがたいが、気を付けろとだけ言われても、と幹耶は唸る。
「ともかく、一旦体勢を整えましょう。悔しいけれど一時撤退よ」
そう言って真斗が一歩踏み出した瞬間、暗闇の中から飛び出した死が真斗の首を後ろから貫いた。
「が、ぼっ――!?」
真斗の喉が湿った叫びを上げる。真斗の喉を貫いた物。見間違えようもない。先端に棘を備えたガルムの触手だ。伸びった触手は随分と細いが、脆弱な人間に致命傷を与えるには十分な威力を備えていた。
「真斗さん!?」
駆け寄った幹耶は触手を引き抜こうと掴みかかるが、指が滑るばかりで上手く行かない。幹耶がまごついている間にも、真斗の喉からは悪い冗談のように血液が溢れ出している。その事が更に幹耶から冷静な判断力を奪っていく。触手を切り払うという選択肢はまるで浮かばなかった。
『しくったわ。これは無理、ね……』
幹耶のバベルに真斗の声が響く。真斗は湾曲したネイルの刃を一閃させ、触手を両断する。触手は砂に変わり、剥き出しになった傷口からは更に血液が溢れ出す。意識を保てている事すら奇跡だ。
『私が気を引いている間に逃げなさい。すぐに他のスイーパーが来るはずだから、骨は拾いに来てよね』
巨人が足踏みをする様な地響きと共に、闇の中からずるり、と巨獣が姿を現す。二体目のポリューションだ。触手を生やした狼のような姿。変態したガルムだ。足元には大量のデミが付き従っている。
「二体目……!!」
幹耶の顔に絶望の色が差す。幹耶は力を使い切って満身創痍。加えて真斗は瀕死の重傷。いや、もはや致命傷か。
ガルムから静かな殺気が、確かな圧力をもって伝わってくる。更には大量のデミも二人の喉と腹を食い破ろうと牙を剥き出しにしている。しかし真斗はそれに正面から立ち向かい、ネイルを構える。
『早く逃げなさい。一人なら切り抜けられるはずよ』
「何を言っているんですか! 真斗さんも――」
『言ったはずよね、何が最適かを、常に考えなさいと』
「そんな――」
幹耶の言葉の続きを真斗が聞くことは無かった。ガルムから伸びた触手が再び真斗を襲い、その細い首に突き刺さる。真斗は最早、まともに反応することもできなかった。
真斗の首から肉を引き千切る、耳障りな音が上がる。ぼこり、と触手が膨らんだかと思うと――ぶるりと震え、真斗の首を跳ねあげた。
鉄球が床に落ちるような鈍い音を立てて、何かが地に落ちる。しかしそれは当然、鉄の塊などでは無く――。
「う、うああぁぁぁぁぁあああぁぁ!!」
光を失った瞳と目が合った瞬間、幹耶の魂が叫び声を上げた。