八
占唐の都は碁盤の目のように路地が走っている。
中央に都を二分するかのように延びた大通りの道幅は、 通りと言うよりむしろ広場だ。
それがこの国を治める王族の住居兼仕事場街である内裏と大内裏まで一直線に延びる。
昼間はその大路が市場と化し、 様々な地から集まった品物と人で溢れ返る場所だが、 夜はただ星と月の明かりのみを頼りにする他ない。
街灯のないこの国では夜になれば全て闇に包まれる。
時折思い出したように現れては消える光りは、 宴か忍び向かう貴族のもつ灯り、 もしくは人ではない者の遊火。
満月でも無ければ周囲は闇に包まれ、 そこは真実、 人ならざる者の領分だ。
それを知っているからこそ、 夜に出歩く人は何かしらやむにやまれぬ事情持ち。
まして被衣姿の女人などその最たるものに違いない。
好奇心や好色はあれど、 厄介事には関わりたくない。 それが人の性だ。
月の明かりも満つには足りない夜、 人目を忍ぶように供も付けずに歩くその姿は、 だからこそ見咎められずにひっそりと歩いていた。
衣に隠れてはいても、 さらりと零れる艶やかな黒髪に被衣を押さえる手の白さ、 艶やかな紅の唇はえもいわれぬ色香を纏わせている。
ふと、 その姿は歩みを止めて辺りを見渡した。
周囲は静まり人の姿は見当たらない。
僅かに不思議そうに小首を傾げ、 不安からか胸元に手を添えた、 その時。
「あ」
「え……?」
満ちるには足らない月を背に、 それは築地塀を越えて飛び降りてきた。
片手を塀につき、 遠心力と反動を利用して、 恐らく路へと着地するつもりだったのだろう。
軽やかかつ流れるような動きで身体を斜めに傾け越えてきた事からもそれは明らかだったが、 路へと降りるはずだったその両足は、 そのまま路ではなく不運にも歩みを止めてしまったその被衣姿へと綺麗に突き刺さった。
げしっと音までさせて華麗な直撃である。 さらに、 蹴りつけた人物は被衣姿でさらに反動をつけて軽い足音と共に着地した。
一方、 ものの見事に飛び蹴りを受けてしまった被衣姿は受け身こそ取ったものの当然と言うか何と言うか、 地面に突っ伏して動かない、 否、 動けない。
そんな被衣姿を一瞥した突然の襲来者は、 元服したかどうかの、 十二才ほどの少年だった。
黒髪黒目のまだ幼さの残る顔立ちだが、 その瞳に浮かぶ色は顔と正反対の可愛いげなど皆無の冷めたもの。
「邪魔です。 避けられないならぼさっと突っ立ってないで下さい。 怪我したらどうするんですか」
「こっ……―――― こっちの台詞だ!」
被衣をかなぐり捨て、 花宵は身を起こす。
ズキズキと痛む受け身を取った方の腕を押さえながら、 花の顔を怒りに染めて無礼な襲撃者を睨みつける。
しかし、 その様子にも少年は怯まない。 どころか、 視線そのままの冷たい声音で言った。
「それだけ厚着していれば平気でしょう」
「ふざけるな」
「ふざけてませんよ」
「なお悪い! ……!」
はっとして花宵は胸元に手を当てる。 そして慌てて袷から取り出した小さな包みを開く。
絹の布切れから出てきたのは飴色の花細工を施した見るからに高価そうな櫛だったもの。
「…………」
全身から力が抜けた。 何の為に抜け出して来たのかと。
がっくりと項垂れていると、 いつの間にか俯いた視界に地面以外のものが映っていた。
沓先が映ればそれの主が誰かはすぐわかる。
「……贈り物ですか」
「だったら、 何」
自分より年下の子供に、 たとえほぼ元凶であろうと怒鳴っても責めても仕方ない。 それで櫛が元通りになるわけでも、 時間が巻き戻るわけでもないのだから。
しかし、 これは辛い。 しばらく立ち直れないかも……と打ちひしがれている花宵の側で、 少年は立ち去らずに立っている。
「……?」
不審に思って花宵は顔を上げた。
そこにあったのは、 どこか困ったようなそしてすまなそうな表情で、 ついさっきまでのあの一目で元凶と断じられる顔どこにやった!? と言いたくなった。
「…………すみません」
「う。 ……べ、 別に」
何か物凄くしゅんとしている。 こっちがいじめてるみたいじゃないか。
そう思って居心地の悪くなった花宵は、 壊れた櫛を包んで袷に仕舞い、 膝を叩いて砂を落とすと立ち上がった。
溜息をつくのも億劫でそのまま踵を返そうとした。 のだが。
「…………」
「…………」
はしっと袖を掴まれていた。 怪訝な顔で花宵がそちらを見ると、 少年は真っ直ぐに見詰め返し、 言う。
「お詫びに手伝います」
「は?」
「明日の昼に迎えに行きますから」
「え」
「とりあえず、 今日は送ります」
「いや、 ちょっと、 別に手伝ってもらうことなんて」
「あ、 今、 友達呼びますから」
「人の話聞きなさいよね!?」
花宵の言葉を聞いているのかいないのか。 恐らく後者なのだが、 少年が何やら口笛のような音をさせると、 辺りの空気がざわついた。
「ちょっと、 何やったの」
ざわざわと明らかに普通のざわめきじゃない気配がする。
「何って、 友達を呼んだだけですよ?」
「……その友達ってのは、 なんであんなに大きいの」
「そりゃ、 私達を乗せてくれるからです」
「ほう。 じゃあ、 そのお友達が、 何で耳とか尻尾とかひげとかあるの」
「そりゃ、 ちょっと大きい猫さんですから」
「どう見ても控えめでも化け猫としか言えないでしょ!」
実際に見た事はない。 が、 噂に聞く虎なみの体躯。 真っ白な毛並みに所々灰色の模様がある化け猫が目の前に現れて腰を抜かさなかっただけ上出来の部類のはずだ。
しかも恐怖体験はこれでは終わらなかった。
「じゃ、 行きますよ」
「ちょっと!」
「お願いします」
「いっやああああああああああああああああああああああああ」
無造作にそして意外に強い力で掴まれ化け猫の背に乗せられ、 塀の上を猛進され、 トドメは見事な月面宙返りを披露された事だろうか。
「じゃあ、 明日の昼に」
事も無げに去って行こうとする少年に、 迎え云々以前の事が頭に浮かび、 口を出た。
「あんた誰!?」
少年はその問い掛けにキョトンとして、 そう言えば言ってなかったか面倒臭いなという表情を一瞬浮かべてから、 口を開く。
「吉野ついな。 とりあえず、 君は東宮なんですから呼び捨てにしても良いですよ」
それが初めてついなに会った時だった。