六
「ついなー! 遊びに来たわよー……って、 あら?」
硝子戸はなく、 内壁は漆喰でも庭に面した方は天気が悪かったり冬でもない限り蔀戸や御簾である文化。 家の周りは築地塀に囲まれているものの、 それを越えれば覗き放題である。
そんな様式が都に住んでいると一般的であり(農民などはまた違っているが)、 この辺りは人気もない上についなが張った結界で悪意のあるものは入れないからと思っていたのが油断と言えばそう言える。
が、 賊でもないのに築地塀を乗り越えて先触れも無く客人が来るなどと予想できたかと言えば中々難しい。
東雲の差し出した手に触れようとする寸前で、 東雲もついなも固まって、 突然の来訪者の方を凝視している。
物凄く気まずい空気だった。
「もしかして……お邪魔しちゃったかしら?」
「花宵…………」
「は、 はぁい。 ついな……その、 ごめんなさいね? うふ」
「降りてきなさい」
「えーと、 物凄く怒ってる?」
「降りて来い」
ついなの声は、 同じ年頃の男子と比べてみれば高い方だ。 けれど、 この時ばかりはその声が唸るように低く響いた。
そこには有無を言わさない響きと、 極寒の冷たさがたっぷりと籠められている。
聞くだけで呪われそうだった、 とは後にこれを言われた花宵の言葉。
嫌だな逃げたいなと思うも、 それをやると後が怖い。
花宵は言われた通りにひらりと庭に降り立ち、 荒れ放題に近い小さな庭を横切り二人の下へと近づいていく。 何かされたら無駄かもしれないがとりあえず逃げられるように気を配りつつ。
「…………」
「ちょっと、 怖いわよ。 悪かったって言ってるじゃない」
「……ついな、 誰かしら?」
東雲は近寄ってきた人物を見て、 とりあえずついなへ差し伸べていた手は引っ込めてから、 改めてついなに問い掛けた。
唇に刷いた赤い紅、 艶やかな黒髪を頭の後ろで結い上げて飾り簪で飾り、 身に纏っているのは西域の大国”澪綾”の女性のもののように見える。 こちらの国の衣装よりも身体の線が出てひらひらしているが動きやすさで言うと恐らく格段に上だろう。
かく言う東雲も同じような装束だ。 違うのは、 東雲の方がより露出が少なくこちら寄りだという点だろうか。
「…………恋人か何かなのかしら?」
「東雲!? こんなのと私がそう見えるんですか!? いえ、 それ以前に君以外に興味なんかありません!!」
「いや、 私も流石に勘弁よ。 これでも可愛い婚約者がいるし」
「第一! これは男です!」
「……え。 男性……?」
「そうよー。 正真正銘、 お・と・こ」
「君がそんな風に言うからそう見えないんだ! 普通に喋りなさい、 普通に」
「…………男にまで手を出しているの?」
「違っ――――う!! 何でそうなるんですか!? あと、 何度も言いますが君以外に興味なんて無いんですから手を出した相手なんて居ません!!」
言い切ったついなは肩で息をしながらじろりと花宵を睨みつける。 その眼光が人を殺せそうな程だ。
「…………とりあえず、 上がってもらったらどうなの」
「……そうですね…………ええ、 少し、 話もありますから」
何の話で、 それは言葉で済む話なのか。 それが問題だと、 花宵は思った。
三人は居間へと移り、 東雲はついなと花宵の前に用意していた膳を出す。
「ねぇ、 これは貴女の分だったんじゃない?」
「良いのよ。 形だけだもの。 私は人間の食事は無ければ駄目なわけじゃないし」
「あの、 出来れば貴女が食べてくれない? 私がついなに殺されそう」
突き刺さらんばかりの視線を感じて花宵がそう言うと、 東雲は少し考えてから首を横に振る。
「客人に出さずに私が食べる方が人間の文化として有り得ないでしょう。 確か、 この場合は断る方が非礼になると思うのだけれど。 あとついな、 睨むの止めなさい。 食べて貰わないと私の恥じになるのがわからないの?」
「慎んで頂きます」
「残したら吊るしますから」
残すほど不味い出来ではないはず、 と東雲は思いつつも、 人の味覚は千差万別である事を思い出して少し心配になった。
けれど、 花宵は汁物に口をつけ、 ほっとしたような笑みを浮かべて全て空にする。
「美味しい。 やっぱり汁物は温かいうちが一番」
「温かいからじゃありません。 東雲が作ったからです。 まったく、 何で君に東雲の手料理を……私だって食べるまでに……」
「悪かったわよ」
ぶちぶちと文句を言うついなと、 うるさそうにしつつも応じている花宵を眺め、 東雲は首を傾げた。
どういった知り合いなのか見当がつかない。 ふと、 そこで別のことにも思い至った。
何も知らない。
いつもついなの方からやって来たから、 どんなものか知っているような気がしていたけれど、 実際には人間の生活もしきたりも、 好みも、 こんな人間同士の繋がりも、 何も知らないのだと。
知っていることなんて、 きっと一握りにも満たないのだと感じて、 東雲の胸に知らないものが渦巻いた。
「東雲?」
「あ。 ……何?」
不意についなから呼ばれて、 東雲は凝った何かから意識を引き戻す。
「先ほどのような誤解を早急に解消したいので紹介します」
そう言って、 ついなは視線で花宵に自己紹介するように促した。
「先ほどはごめんなさいね。 私は花宵。 ついなの友人。 ついでに言えば私が女だったとしてもこんな怖い物騒なのはお断りだから安心して。 むしろ貴女、 災難だったわね」
「花宵……もう黙っていいですよ」
「そういう所が物騒だって言うのよ。 あと今日、 来たわけなんだけど……はい、 これ」
小さな包みを花宵は東雲に手渡す。
不思議そうな顔で包みを見詰める東雲に、 花宵はそれを開けるようにと促した。
「気に入ってくれると良いのだけど」
言われるままに開いた包みの中には、 蝶と扇を象った飾りの簪があった。
「君は人の妻に飾りを贈るんですか」
「仕方ないでしょ、 それしか思い付かなかったんだから。 あんたへの贈り物は録で取らせられるけど、 個人的に贈れるものは少ないのよ」
「私にくれるの?」
東雲の言葉に、 花宵は笑顔で頷いた。
「勿論。 その為に用意したのよ。 改めて言うわね」
花宵は姿勢を正し、 流れるような優美な所作で東雲とついなに礼をする。
「ご結婚おめでとう。 まぁ、 貴女には良いか悪いかわからないけど」
「一言余計です」