五
結局、 何処に恋する要素があるのかわからぬまま、 東雲は“家”になった場所へと帰ってきた。
「…………まだ帰ってないわよね?」
思えば一応妻になってから今日まで、 「おかえり」を言った事は無い。
いつも帰ってくるのは東雲で、 ついなが迎える側だったからだ。
家の周囲に張り巡らされた結界は、 許可無き者を阻む。 だからこそ一日中、 家を空けていられる。
そっと木戸を押しやり、 家の中へと入った。
誰も居ない家。 灯りも灯っていない家。
「人間はよくこんな所に住めるわね」
これならまだ外のほうがましだ。 そう呟くも、 ふと足を止めて振り返る。
今、 上がった玄関を見て東雲は森の緑を閉じ込めた瞳、 その眉根を寄せた。
こんな所。 誰も居ない場所。 気持ちの良いものではない。
けれど、
「ここに、 いつも帰っていたの」
自分がいつも後に帰る。 当然、 誰も居ない家についなは一人で帰ってきたのだろう。
帰って、 自分の手で暗く沈んだ闇に灯りを点して。
ずっと、 そうしていたのだろう。
「……………………時折なら、 別に、 出迎えてあげない事もないのよ」
誰も居ないのはわかっているけれど、 どこか言い訳するように呟き、 東雲は奥へと進む。
風の長に言われて帰ったが、 ようやくその意味がわかったような気がした。
『シルフィさんやぁ、 まずは”おかえり”って言ってあげるんだよぉ? 全部ぅそこからだよん』
”そんな事”が何故大事なのか。 そう聞いた時は思ったけれど、 寂しいこの家に帰ってみればストンと腑に落ちる。 たとえどう考えてもそれが寂しいと思うような可愛げがあるとは思えない者だとしても、 誰も居ない家に帰っているという事には変わらない。
「東雲?」
まず先に思ったのは、 珍しい、 だった。
風の精霊である妻はいつも自由で、 いつ帰るともわからない。 それを承知で妻にと願ったのだし、 ついなには妻にしたからと言って縛り付ける気は欠片もなかった。
実際、 いつもこの家にいるわけではなく、 気が向いたら顔を出していくだけだった妻が、 今日は帰ると玄関で腕組みしてついなを一段上がった所から見下ろしている。
何故か不機嫌そうな表情で。
「…………遅いわ」
「すみません。 いらしているとわかっていたら、 仕事も何もすっぽかして戻ってきましたが」
「ねぇ、 それって人間の社会で許されるの?」
「そんなものより君と過ごす時間の方が優先されるのは当たり前じゃないですか」
絶対間違ってる。 そうツッコミを入れる者はおらず、 やけにきりっとついなが言い切った所為で東雲は思わずそういうものなのかと思ってしまった。
後にこれを聞いた風の長はなんとも言えない顔(しかし口許だけしか見えない)で長く重い溜息を吐くことになる。
「あと、 ……”いらして”とか言うの、 やめなさい」
「え?」
そう言って東雲はきゅっと唇を横に引き結ぶ。 そのままくるりとついなに背を向けて歩き出す。
慌ててついなは沓を脱いで後を追おうとした。
「おかえりなさい」
「…………!」
一片の言葉が背を向けた妻から降ってきた。
舞い降りた一片に、 嬉しくて呼吸が止まりそうになったついなの事など振り返らずに東雲は歩く。
「はい! ただいま。 東雲」
振り返らないから、 もう蕩けて崩れそうなついなの嬉しさたっぷりの笑顔は見えないし、 同時についなも振り向かない東雲が泣きそうなくらい顔を赤くしているのを見ることは叶わない。 漆喰の壁には硝子戸なんてものもないから、 並ぶか追い越すかしない限りそれは叶わないし、 今それを東雲は絶対にさせないだろう。
―――― か、 可愛いっ……!
ふるふると震えながら、 ついなは前を歩く東雲を思いっきり抱き締めたいという衝動と闘っていた。
今やった間違いなく逃げられる。 そう思う程度の分別はあったらしい。
―――― なんですかこの可愛らしさ! ああ! 抱き締めたい!
どんな気まぐれでも構わない。 明日はまたいつものように自分が先に帰って待つことになってもいい。 ただただ嬉しく愛しい。
―――― どうしよう。 正直、 まずいです。 理性がもたない。
目の前で揺れる浅葱色の長い髪、 細く華奢なその身体を抱き締めたい。 そんな衝動を無理やり抑え込んでいる気配を感じてではないだろうが、 東雲が足を止めて振り返る。
「夕餉、 出来ているわ」
「―――― 東雲」
「何?」
「生殺しです」
「は?」
突然何言っちゃってるのこいつ? 口で言わずとも目が口ほどにものを言う。
東雲が割りと本気で引き気味になっている目の前で、 ついなは発作でも抑えるように片手を胸に当て、 さらにその手をもう一方の手で上から押さえているのだ。
「今すぐ逃げないって約束してくれないと、 私はどうにかなります」
「…………」
「…………」
「…………約束したら?」
「とりあえず、 この発作は治まると思います」
え。 何、 病気なの? そう東雲が胡乱げな目をついなに向ける。 が、 どうにかなられても困るし、 逃げなければいいのだと思えばとりあえず一言で済む事を避けても仕方ない。
「逃げないわ」
「抱き締めていいですか?」
「却下」
「……ですよね…………」
わかってたんです。 そう呟きつつ、 ついなは東雲の手をじっと見る。
「…………手、 握っちゃ駄目ですか?」
「…………」
すでに東雲の表情が完全に呆れ顔の体である事はついなとて重々承知だった。 それでも諦めきれないらしい。
睨み合いにはならない。 何故なら片方が哀願である。
拒絶するのも何だか馬鹿らしいし、 この程度の事で目くじら立てるのも同様だ。
東雲は何も言わず、 ついなの目の前に片手の甲を差し伸べた。
途端、 哀願だった潤んだ瞳が喜色に変わる。 現金なものだと思うと同時に、 何故かやっぱり手を引っ込めたくなった。
しかし、 自分から差し出した手前、 今更それは出来ない。 そうしたい理由もわからない。
ただ、 その喜ぶ顔を見たら、 何故か今すぐ回れ右をしてついなに顔を見られないようにしたくなったのだ。
それが出来ないから、 代わりに東雲は殊更無表情かつ半眼でついなを見た。
自分から触れてもいいかと聞いたくせに、 ついなは差し出された手を見て迷っているようだった。
恐る恐る、 まるで触ったらその瞬間に溶けて消えるとでも思っているかのように、 慎重すぎるくらいゆっくりと両手を差し出された手へ伸ばす。
白く細い指先に、 触れようと……。