三
いつものようにお気に入りの大樹の古木、 その枝に腰を下ろして春は夢の如しと呼ばれる都とその景色を眺めようとしていた。
その視界が急に空から地に落ちたのと、 有り得ない重さというものが自分の身に降りかかってきたのはどちらが先だったか今でもわからない。
兎にも角にも気づけば空を駆けていた素足は森の土を踏んでいたし、 自分の両手はとっさに突き出し地面に接していた。
「何。 これ」
「嗚呼、 大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
自分の疑問と同時に掛けられた見知らぬ声に東雲は顔を上げる。 そこにはまだ年若い人間の男がいた。
「これは、 あなたがやったのかしら?」
我ながら、 不機嫌を隠そうともしない声だった筈なのに、 何故かその男、 否、 少年は嬉しそうに頬を上気させて恥ずかしそうに頷きつつこう言ったのだ。
「はい。 ですから、 私でしたらその術を解いて差し上げることが出来ます。 だから、 術を解く代わりに、 私とお友達になって下さいませんか?」
「寝言は寝て言いなさい。 大体、 お願いしているような口ぶりだけど、 どう聞いても脅迫じゃない」
むしろこの少年、 殺してもいいかしら? と一瞬だけ思った。 何で自分を罠にかけて捕えた相手にそんな対価を払って自由にしてもらわければならないのか。
そして、 確かに不意をつかれたとはいえ自分はこの地域を束ねる風の精霊。 この程度の人間が掛けた術を自力で破れないとでも思っているのか。 そこが一番気に触る。
随分と私も舐められたものね。 そう思い東雲の緑の瞳が剣呑に光った。
「私も馬鹿にされたものね。 このくらいの術、 解けないと思っているのかしら?」
「いいえ。 簡単に解けると思います。 ……はぁ、 やっぱり駄目ですか。 混乱に乗じればいけるかなって思ったんですが」
失敗しちゃいました。 とか、 ぺろっと小さく舌を出して見せたこの目の前の少年に、 何だか無言で風の塊をぶつけたくなったけれど、 東雲はそこは曲りなりにも人間より遥かな時間を経ている存在。
ギリギリの所で思いとどまって無言で宣言どおりに片手で術を破る。 パン! と何かが弾ける様な音をさせて術が解かれるのがわかった。
「私にこんな事をして、 勿論覚悟は出来ているわね? 人の子」
たとえ偶然であろうが、 すぐに謝罪して術を解けばそれで済ませたが、 こんな風に虚仮にされて黙っていては風の精霊として沽券に関わる。
「ええ。 十分覚悟していますよ」
「そう」
なるほど。 術者としてその程度の心構えはあるのかと、 東雲は少しだけ少年の評価を修正した。 ならば今回の事はちょっといきがった人間の子供のお仕置き程度で済ませてやろうかと、 そう思った矢先。
「これからずっと、 お友達になって下さるまで諦めずに、 あらゆるどんな手を使ってでも必ず追いかけます」
「…………は?」
何か、 変な発言が聞こえた気がする。 気のせいだろうか?
少年はとても嬉しそうに、 それはそれは楽しそうに、 笑顔で言った。
「好きです。 まずはお友達から。 そしてゆくゆくは私の妻になって下さい」
何言ってるのこいつ。
まず浮かんだのはそれ。 そして次に、 関わらない方が良いかも、 だった。
何で自分を罠に掛けた相手と友人に、 あまつさえ妻にとか無い。 なのに目の前の少年はきらきらした瞳を見るからに本気で言っているらしいのだ。
本能的に、 この子供は危険だと思った。 何かヤバい。
見ていると悪寒がする。
東雲は静かに、 まるで熊にするようにゆっくり背を見せないよう後退りした。
そのまま地を蹴り軽く浮き上がる。 一刻も早く離れようと宙で身を翻した東雲の耳に、 少年の楽しそうな、 それでいてどこか狂おしいような声が聞こえた。
「覚悟して下さいね。 絶対諦めませんし逃がしませんから」
「…………」
ビオルは今度こそ黙りこんだ。
どちらにも思うところはある。 大いにある。 ありすぎる。
現実逃避するように茶を啜ってみた。
「……それで、 それが何で今の事態になるのぉ?」
ただのストーカー誕生秘話にしか聞こえなかったが。
「それからというものどうやったのか不明だけど、 私の行く先々に待ち伏せの如く現れて」
「………………」
「いい加減頭に来て追い払ってやろうとしても、 逆に喜んでるし」
何その根性のあるストーカー列伝。
うっかり喉元まで上がってきたその言葉を飲み込み飲み下し、 ビオルはお替りのお茶を湯飲みに注ぐ。
お茶の温かさが身に染みた。