二十一
「東雲」
「わからないの。 何もしなくて良いのなら、 何故、 私なの」
人間の事なんかわからない。 興味なんてなかった。 風の精霊はただ風と共に世界を廻るだけ。
時折気まぐれ、 暇つぶしに人間の世へ目を向けても、 それはただそれだけで。
妻になるというのは、 どうすれば良いの?
考えて、 試してみるけど、 どうしてか失敗してばかり。 しなくて良いというのは、 失敗してばかりいるから?
「東雲、 東雲、 聞いて。 聞いてください」
苦しい。 苦しい。 心が軋む。 悲鳴を上げる。 不安が暗い手を伸ばす。 捕まってしまう。
「好きです」
目の前が暗くなりかけたその刹那、 引き戻したのは東雲の手よりもまだ一回り大きいかどうかの、 ついなの手。 東雲の両手を包むように、 けれど決して離さないというように強く握る。
暖かくも冷たくもない、 体温などない精霊の身体。 その手を、 暖かい手が包む。
それだけで、 何故か東雲は視界が滲んだ。
いつの間にか、 すぐそこに、 ついながいる。 東雲の手を握って、 祈るような願うような真摯な黒い瞳はどこまでも真っ直ぐで。 東雲を見つめている。
「好きです。 君の事が、 ずっと前から。 初めて君を見た時から、 いつか絶対に私の妻にすると決めていた。 私の妻は、 君だけだと決めていました」
黒い瞳が見たことのない光を宿していた。 真っ直ぐに、 けれどずっと見ていたら引き込まれてしまいそうなほど深く底の見えない、 そんなぞっとしない光。
怖くなって、 東雲は本能的に一歩下がろうとしたけれど、 しっかりと掴まれた両手にそれは叶わない。
「なん、 で?」
「一目惚れです」
「う……そ」
「嘘なんてつきません。 誰が信じなくても、 君が信じてくれなくても、 私は、 君に一目惚れしたんです」
滲む視界の中で、 ついなも滲む。 ただその眼差しだけが強く、 ただひたすらに東雲を捕えて放さない。
「ずっと、 触れたかった。 こうして、 触れる事が出来るだけで、 …………君が私を、 私だけを見てくれるだけで、 幸せで」
「…………!」
ついなが包むように握った両手の指へ唇を寄せた。 白く細い指に、 熱い温度が落ちる。
顔を上げたついなの瞳にあるのは、 唇よりも熱いもの。
「舞い上がっていて、 本当に、 幸せで。 だから、 他には何も……『今は』いらなかったんです。 でも、 それがちゃんと伝えられていなかったから、 君を傷つけた。 ごめんなさい」
人間の欲なんて際限を知らないものだから。 どこかで歯止めが必要で、 急激な感情で振り回したくなかった。 けれど、 それは自分の都合だったのだとついなは思い知った。
目の前で大きな瞳に涙を溜める最愛の人。 もっと早く、 ちゃんと伝えるべきだった。
「ごめんなさい。 何もしなくて良いなんて言って。 ちゃんと言えば良かった。 ……私の傍に居て下さい。 どんなに離れてもいいけど、 絶対に私の所へ帰ってきて。 私の名前を呼んで。 手を握りたい。 抱き締めたい。 これからずっと、 一日に一度は触れ合っていたい。 それから……」
「…………っ」
吐息の掛かるほど近い距離で、 ついなは東雲の瞳を見つめる。 熱に浮かされたような瞳と、 茜にも勝るほど染まった頬。 その全ての感情はただ東雲にだけ向けられていて。
「君の全てを私に下さい。 最期まで私の道連れになって」
錯覚なのに、 東雲の胸で鼓動が跳ねた。
そして理解する。
ずっとわからなかった、 恋のきっかけ。
そう。 私は、 と東雲は思う。 この言葉を聞くまで、 ついなを見ていなかった。
この、 言葉。
『最期まで道連れにして差し上げます――――』
人によっては狂気のような、 この言葉を聞いた時から、 恋に落ちた。
「好きです。 私の全てを差し上げる。 だから、 君の全てを私に下さい。 私は絶対に、 君を独りになんてしない。 君を他の誰にも渡してなんてやらない。 最期のその瞬間まで、 君を道連れにする。 ただ独り残す事なんて絶対にしない。 だから、 私の妻になって下さい」
両手を包んでいた手は、 今は指を絡めて。 逃がさないと言うかのように。
絡めた指は熱く、 心を絡めとって逃がさない。 狂気にも似た鮮烈な感情は震えるほどに妖しく甘い光りを瞳に宿す。
「…………私は」
「はい」
「人間のように、 数十年では死なないわ」
「はい」
「でも、 何事にも絶対はないの」
「そうですね」
「もし、 ついなよりも私が先に消える時が来たとして、 私は、 嫌なの」
東雲は、 自分でも我が儘だと自覚していた。 これは、 本当にただの我が儘。
「あなたに、 消えて欲しくない」
独り残されるのは嫌。 だけど、 ついなを自分の消滅に引きずり込むのも嫌だった。
「人間なんて、 生きても百年余りじゃない。 嫌なの。 それだけの時間なのに、 私が消えた時に、 あなたの命が消えるのは。 嫌なの」
こんな我が儘、 ふざけるなと言われても仕方ない。 けれど、 それが一番怖い事なのだ。
東雲は震える声でついなに言う。
「嫌なの。 失いたくないの。 ―――― 好きなの」
ぎゅっと目を瞑る。 どんな罵倒でも怒号でも仕方ないと、 東雲は覚悟を決めて。
そんな東雲を見つめ、 ついなはそっと囁いた。